闇と光

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オリエントの古典の中に、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」と記されてあります。

『子育てを東京で!』、『繁華街の近くでない街に家を!』と、父が考えて、父が戦後していた事業の関係で、東京の多摩地区の空家になっていた社宅だか、工場長宅だかを借りて、先ず、そこに住んだのです。その後、通勤に、もう少し便利だった都心から離れた遠い街に家を見つけて、4人の子を学校に行かせて、育ててくれたのです。

その空家は、けっこう大きな家だったからでしょうか、トイレが寝室から遠かったのです。 トイレと言うよりは便所、厠(かわや)と言った方が似合っていました。薄暗くて気味悪い場所だったのです。夜中に、その〈暗闇〉に入って行くことができずに、母親を起こしてついて行ってもらったのを思い出します。地震、雷、火事、親爺、〈四大怖いもの〉に、その「便所」を加えたかったほどです。

最近の世界は、豊富な電力のお陰で、どこへ行っても明るいのです。また物は有り余るほどあって豊かですし、便利さもこの上もないほどです。でも、〈人心が暗い時代〉になってしまっているのを、残念ながら感じて、心が沈んでしまうのです。

自分の抱えている〈心の闇〉を、どうすることもできずに、孤独で、孤立してしまっているのでしょうか。もしかしたら、何かに拘り過ぎているのか、また何かに憑(つ)かれてしまった様に、とても信じられない行動に走ってしまう人が多くなっている世情です。

バスや電車に乗り合わせた隣の人に、何かされないかと、疑心暗鬼になって、誰も信じて上げられない様な、警戒心ばかりが先行してしまう時代になった感じがするのです。都心から離れた北関東の街に住むので、都会の孤独はありませんが、かと言って、余所者だとわかる私たちは、ゴミ捨てで顔を合わす隣人に挨拶や会釈をしても、なかなか近い関係ができない現状です。

中国の華南の街では、家内は、隣人とも、倶楽部の友とは勿論のこと、小区の事務所の女性の係員の婦人とも、すぐに仲良くなって、特別な配慮をしてもらったりで、お礼に巻き寿司を巻いては届けたりして、近い関係がありました。それに比べると、日本の社会は、警戒心が強くなっていて、関係が疎遠になっている様に感じてなりません。

家族にも、隣人にも、友人にも理解してもらえず、相談のラインがない人が多くて、ついには追い込まれて奇怪な行動をとってしまうのでしょうか。《隣人愛》の欠如した時代と言ったらいいのでしょう。夫婦、親子、兄弟姉妹との関係も希薄になってしまった様です。

貧しかった時代には、こう言ったことは稀にしかなく、ほとんどなかったのかも知れません。富んで豊かになって、格差が社会に広がったのと同時に、人が孤立し始めたに違いありません。このままですと〈闇〉がもっと深くなってしまうに違いありません。心に〈闇〉を抱える現代人に、帰って行く大きく柔かな《懐(ふところ)》が、どうしても必要です。責めることもなく、無条件で抱え込んでくれる《大きな懐》がです。そうすれば〈心の闇〉に、光が差し込んで、温め、明るくしてくれるに違いありません。

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琥珀色

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1961年、まだ高校生の時に、マラカスの音で陽気なリズムの歌が流行りました。西田佐知子が歌った、日本語翻訳の「コーヒー・ルンバ」でした。

昔アラブの 偉いお坊さんが
恋を忘れた あわれな男に
しびれるような 香りいっぱいの
琥珀(こはく)色した 飲みものを
教えてあげました
やがて 心うきうき
とっても不思議 このムード
たちまち男は 若い娘に恋をした
コンガ マラカス
楽しいルンバのリズム
南の国の 情熱のアロマ
それは素敵な 飲みもの
コーヒー モカマタリ
みんな陽気に 飲んで踊ろう
愛のコーヒー・ルンバ
(2回繰り返す)

    (間奏)

コンガ マラカス
楽しいルンバのリズム
南の国の 情熱のアロマ
それは素敵な 飲みもの
コーヒー モカマタリ
みんな陽気に 飲んで踊ろう
愛のコーヒー・ルンバ
みんな陽気に 飲んで踊ろう
愛のコーヒー・ルンバ
みんな陽気に 飲んで踊ろう
愛のコーヒー・ルンバ
みんな陽気に 飲んで踊ろう
愛のコーヒー・ルンバ

このコーヒーは、エチオピアが原産だそうです。これが中東・イスラム地域からヨーロッパへ、さらに全世界に広まったものだそうです。イスラム世界では、初期には宗教的な秘薬として僧侶にだけ飲用が認められていましたそうで、それが今では、誰もが飲んで、ちょっといい気分を味わえる雰囲気を作り出しています。中国に若者たちが、スプーンで珈琲を飲んでいる荷を見て、一つの文化だと思いました。

今朝の朝食のメニューです。友人に勧められた「野菜スープ(今朝は冷蔵庫の中の玉葱、人参、ジャガイモ、アスパラガス、ズッキーニ、長芋、枸杞〈くこ〉の実と棗〈なつめこれは中国と栃木の友人がくださった物〉、トマト、生姜片、細切れ牛肉、コンソメ、ケチャップ、醤油で煮たもの)※野菜などを折々に差し入れして下さる友がいるのです」、卵焼き、食パン、バナナヨーグルト、飲み物でした。ちょっと豪勢ですが、なかなか多く食べられない家内のために奮発しています。
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家内は、白湯(友人が下さった電子ウオーターで作った水に、息子がくれた浄水器を通した水を沸かしたもの)を飲むのですが、今朝は忘れてしまい、これから出します。いっぽう、私は、「コーヒー」を、朝に限って、友人が送ってくださった雲南やキリマンジャロやウガンダ産のコーヒー豆を、次女の婿が置いて行ってくれたグラインダーで挽いて、紙で濾過して淹れたものを、一日一杯だけ飲むのです。以前、病む前は、家内も一緒にコーヒーを飲んだのですが、今は休止中です。

飲み比べして、味が分かるほどの通ではないのですが、どれを飲んでも美味しいのです。初めて飲んだのは、インスタントコーヒーだったと思います。思いっきり砂糖とミルクを入れたものだったと思います。でも、「コーヒー党」の私への《友愛》の温かな味はよく分かります。琥珀色をした珈琲から立ちのぼる湯気が、朝に似合って素敵なのです。今朝はヨーロピアン味でした。

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今昔

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一度行ってみたいのは、「ハウステンボス」で、浦安の「デズニー・リゾート」とどう違うかを知りたいのです。「デズニーランド」だって、子どもたちが小さい頃に行ったきりで、30数年ご無沙汰ですから、全くと言うほど変わっているに違いありません。

なぜ、「ハウステンボス」に行ってえみたいのかと言いますと、実は、コースターやメリー・ゴーランドに乗りたいわけではないのです。その敷地になっている場所が、かつて、海外在住者が、敗戦を期して引揚げて来た港であり、援護局のあった場所だからです。意気揚々と、海外雄飛で出て行かれたみなさんが、戦に敗れて、着の身着のままで帰国して、祖国の土を、再び踏んだ港、佐世保の浦頭港なのです。

両親や兄たちや自分だって、大陸や朝鮮半島からの帰国の時期が遅かったら、そう言う引揚者の家族であった可能性もあったのです。浦頭の港に、中国大陸やインドシナ半島から、139万1646人の帰国者があったそうです。あの頃、よくラジオから流れていたのは、作詞が増田幸治、作曲が吉田正の「異国の丘」でした。

今日も暮れゆく 異国の丘に
友よ辛かろ 切なかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
帰る日も来る 春が来る

今日も更けゆく 異国の丘に
夢も寒かろ 冷たかろ
泣いて笑うて 歌って耐えりゃ
望む日が来る 朝が来る

今日も昨日も 異国の丘に
おもい雪空 陽が薄い
倒れちゃならない 祖国の土に
辿りつくまで その日まで

『もう一度、祖国の土を踏みたい!』との切々たる願いを持っていながら、残念なことに、外地に捨て置かれ、異国で過ごしていた日本人が、その思いがかなって帰国した土地です。この他に、福岡の博多港、福井の舞鶴港も引き揚げの港でした。

さて、平和な平成の時代、帰国時に、上海から船に乗って、丸2日の船旅で、祖国の島影が最初に見えてくるのは五島列島なのです。長崎の平戸沖を通過し、しばらく行くと北九州が見えて来ます。門司から関門海峡を過ぎて、瀬戸内海を航行し、大阪南港に入するルートなのです。自分は、引揚者ではなく、大陸で教師をしながら、ビザの関係での帰国時に、船に乗ったのです。
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飛行機では感じられない祖国の風を、肌に感じられるので、船での帰国の感慨は一入(ひとしお)なのです。『浦頭港に降り立った人たちは、検疫を終えると7キロ離れた援護局まで歩いた。宿舎に数日滞在して衣服や日用品を受け取ると、最寄りの南風崎(はえのさき)駅から列車でそれぞれの古里へ向かった。援護局は5年後に閉局。跡地には今、ハウステンボスが立つ。』と、西日本新聞は伝えています。今昔(こんじゃく)の違いが、大き過ぎてしまいます。

(上は浦頭港、下は五島列島の様子です)
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秋桜

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玄関の左脇の窓の下で、“ 秋桜(コスモス) ” が咲きました。玄関の右側に、 “ ハイビスカス ” で、両手に花です。家内は声を挙げて喜んでいます。
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いのち

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今か今かと咲くのを待っていた、“ ハイビスカス ” が、今朝、一輪咲きました。ホームセンターで180円で買った鉢植えです。天候不順でなかなか咲かずにいたのです。雨が上がって、真紅の花びらが、鮮やかです。家内が、弟に贈った “ ハイビスカス ” が、咲き続けていると言ったのを聞いて久しく、『わが家でも!』と思いながら、やっと買ったものです。

葵、芙蓉の仲間で、南国の花です。華南の街は、この花で溢れかえる様に、どこででも咲いていますので、今朝この一輪を喜びながら、彼の地のことに思いを馳せております。いつも思うことですが、真っ黒な土の中から、こんなに鮮やかな紅色の花びらを見せるのが不思議でなりません。

人間だって、どこで生まれ、どこで育っても、誰から生まれ、誰に育てられても、最悪の環境の中に生まれ育っても、この花に勝るいのちを宿しているのですから、《美しい存在》と定められているのです。そう母が教えてくれたのを思い出しています。

(5時半、それから三十分後、60分後の花の様子です)
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四の五の

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時々、読んだり、聞いたりする言葉に、『四の五の言うな!』があります。落語で聞いたことがあり、最近では、中華圏のある方が言っていたそうですが、そんな表現が、中国語にあるのかどうか分かりませんが、新聞記者が、そう記したのでしょうか。

一度も使ったことがない言葉なのですが、言い訳をして、なかなかすべきことをしない人に、親方や上司が、『あれこれと、つべこべと言い訳を言ってないで、早く仕事に取りかかれ!』との意味なのだそうです。一説には、中国の古典の「四書五經(ししょごぎょう)」が、御託(ごたく)を並べていて、要領を得ない難解さがあるのを皮肉って言ったのではないかと言う人がおいでです。

中国語で、これを「不说四五bushousiwu」と訳せますが、何だか、「四書」の「論語」、「大學」、「中庸」、「孟子」、「五經」の「易經」、「詩經」、「礼記」、「春秋」は難解で、一般民衆にとっては、「四の五の言っている難解書」だったに違いありません。

武士の子たちは、老師の読むのに従って読み、素読を繰り返したのだそうです。明治初期に青年の内村鑑三も新島襄も新渡戸稲造も、アメリカに留学して英語を学ぶ前に、幼少の頃から、「四書五經」素読をし続けてきた、古い日本人の素養を持っていたのです。

けっこう、そう言ったものでは、彼らは満足していなかったので、欧米の文化や教養に触れた時に、西洋の《物の考え方》を受け入れることができ、真の国際人になれたのでしょう。と言うと、内村たちは、幼い日からの伝統的な漢籍の学びに、「四の五の言わなかった」に違いありません。より優れたものに触れた時、古きを捨てる《進取の精神》を、彼らが宿していたからなのでしょう。

父は、何か弁明したり、自己を正当化しようとした私に、『言い訳するな!』と言ったことを覚えています。どうも、〈言い訳〉は男のすることではないことを教えたかったのでしょう。〈言い訳〉をしないで、ここまで生きてくることができました。そう「四の五の言わなかった」ことになります。
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海体験

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中国にいる間に、新しい休日の「海の日」が制定してされていて、今年、家内の入院を機に、栃木県民となった私たちは、初めての「海の日」を迎えました。その日、関東に3つある「海なし県」の埼玉県に住む長男家族が、両親の住む、同じく海を持たない「栃木県」に、海に行かないで,家内の見舞いに来てくれました。もう一県は「群馬県」です。

この他に、山梨、長野、岐阜、滋賀、奈良の5県があります。海洋国家なのに、海と縁がない、これらの「内陸県」は、何か足りなさを覚えるのかも知リません。海なし県で生まれ、海なし県で老いを過ごしている今、海鮮料理の好きな私たちは、海への憧れが、ことさら強いのです。

小学校唱歌に「われは海の子」がありました。

我は海の子 白波の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ

生まれて潮にゆあみして
波を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の気を
吸ひてわらべとなりにけり

高く鼻つくいその香に
不断の花のかをりあり
なぎさの松に吹く風を
いみじき楽と我は聞く

父は中学校の時に、東京湾を遠泳したことがあると言って、海を見ながら育ったのです。母も山陰の荒波の砕ける音を聞きなが育ったのに、弟と私は、海のない山奥で生まれたのです。ですから人一倍、海に郷愁を感じてならないのです。

それで、長男家族が、私たちに「寿司」をご馳走してくれたのです。内陸で、新鮮なネタの寿司が食べられるというのは、実に嬉しいことなのです。茨城の海が近いので、江戸期には、塩漬けではない、新鮮な海産物が陸路で運ばれて、栃木人は、海産物を食べることができたのでしょうか。

長く住んできている華南の街は、海あり省で、海あり市でしたし、大きな川を下って東シナ海に接しています。友人に車で何度も海に連れて行ってもらい、海浜の料理屋で海鮮料理をご馳走になったこともしばしばでした。海の向こうに祖国があるという郷愁を覚える時でもあります。

肌寒い今夏ですが、海に跳んで行きたい思いに駆られてしまいました。きっと、車があって、免許証を失効させないでいたら、何やら理由づけして、近い茨城の海に跳んで行ってしまいそうです。でも、ここの寿司は美味しいのです。回転寿司のちっと奮発したテイクアウト寿司で、家内も私も喜ばせてもらった「海の日」の「海体験」でした。

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心理

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父がテレビを買ったのが、上の兄がテレビに出るという話が持ち上がった時でした。運動部の日本選手権に、スタメンとして登場した時です。父の長兄への思いは、高価なテレビを買わせるほどだったのです。

テレビと言えば、「プロレス中継(日本テレビ」、「月光仮面(KRテレビ)」、「日真名氏飛び出す(ラジオ東京テレビ/現TBS)」などが、初期の番組でした。わが家にテレビが入り込んでしまってから、その面白さの虜に、自分がなってしまいました。

長いテレビ観劇史の中で、最も印象的だったのが、1963年にアメリカで放映されたもので、日本語吹き替え版の放映だった、「逃亡者」でした。1964年5月16日から1967年9月2日まで、土曜日の午後8時の時間帯で、TBSで放映され、大変高い視聴率をあげた番組でした。その映画のあらすじは、次の様でした。

「インディアナ州スタッフォード(小説上の街)の小児科医リチャード・キンブルは、妻ヘレンと口論し家を飛び出すが、帰ってみると彼女は殺害されていた。その直前、彼は片腕の男が家から飛び出すのを目撃したが、警察はキンブルを犯人として逮捕する。彼は裁判で有罪となり、第一級殺人で死刑を宣告される。キンブルは、スタッフォード警察のジェラード警部に護送され、鉄道で州刑務所の死刑執行室に向かうが、列車が脱線事故を起こした際の混乱に紛れ、逃走に成功する。全国に指名手配されるが、キンブルは半白だった髪を黒く染め、名前を変え、場所を移動し、さまざまな労働に就きながら、真犯人と思われる片腕の男を探し求める。そんなキンブルを、ジェラード警部は執拗に追跡する。」

登場人物の中に、朝鮮戦争で、英勇的な武勲をあげたことで、勲章をもらった男がいました。街の英雄でした。そんな彼は、友人の妻の殺害現場にいながら、犯人を目撃しながらも、英雄的行動に出られず、尻込みして、友人の妻のヘレンを助けられなかったのです。

自分の卑怯な振る舞いを隠し通すために、真犯人の目撃証言が、法廷できず、医師キンブルが犯人とされ、死刑判決が決まってしまうのです。小心者なのに、恐怖の中で夢中になって戦闘をして武勲をあげたことが、英雄的行為となってしまったのです。親戚や街の人たちに、もてはやされた英雄なのに、友人の妻を助けられないほどの臆病者であったことが、暴露されたくないという、心理が描かれていました。

当時は、ベトナム戦争の渦中でした。ベトナムのデルタの密林でも、泥沼の様な戦闘が繰り広げられていたのです。同世代の若いアメリカ兵が、ゲリラ攻撃に怯えていました。 同じ様な悲劇が東南アジアで繰り広げられていましたから、共感するものがあったのです。

最後に、真犯人が、ジェラード警部に射殺され、5年前に証言できなかった男が、再審の法廷で、キンブルの無実を証言して、ハッピーエンドでした。スリリングで、逃亡者の心理が上手に演じられていて、主演のデビッド・ジャンセンは、当時、このテレビ映画によって人気俳優でした。なお追跡者のジェラード警部の共演が、輝いていたのです。

誰にも追われず、父の家から学校に、自分が通っていた時のテレビ番組でした。自分の境遇が、どんなに恵まれているかが、キンブル医師の逃亡生活を見ながら、分かったのです。

(インディアナ州の州の「牡丹」です)
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