やさしさ

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先日、急に気温が低下した日のことでした。第一時限目の授業が終わりましたら、一人の男子学生が、ニコニコしながら私にメモを渡して、教室から出ていきました。そのメモには、『こちらの天気は、とても寒いので、風邪をひかないでくださいね。』と書いてありました。私に手渡そうと、そっと書いた走り書きでした。

こちらの男性の<やさしさ>には驚かされます。ギターを抱えてやって来て、自分が作曲した歌を、家内に歌ってくれたことがありました。ちょうど病気して、体が弱くなっていた時でした。彼の友人の日本人に聞いて、やって来てくれたのです。こんな青年に会ったのは、私たちとしては、初めてのことでした。どんなに家内は慰められたことでしょうか。海南島の出身の方で、故郷に帰られる前に来てくれたのです。

そうですね、度々、この欄で触れていますが、公共バスに乗ると、スッと立って席を譲ってくれるのは、男性が多いのです。よく日本人の礼儀正しさが、世界中で高く評価されていて、中国のみなさんは、そうではないと言われていますが、そんなことはありません。社会習慣の違いはありますが、<心根(こころね)>は素晴らしく優しいのです。私たちだけが経験しているのではなく、総じて、人に対して優しいのです。

私たちが長く、こちらに留まっている理由の一つは、そんな点にもあるかも知れません。ときどき、季節の変化の時期に、こちらでの生活に、不慣れな外国人だと思ってでしょう、『週末には、天気が変化しますので、お体に気をつけてください。』とのメールが届きます。『あっ、覚えてくれてるんだ!』と、その度に感謝と喜びの思いが湧き上がるのです。

今学期は、授業の合間に、干しぶどうや干し芋をもらったりしています。一緒に食べたいのでしょうか。それで、ほうばって、『美味い!』と言うと、大喜びしてくれます。今までの学年にはなかったことです。年々歳々、学生気質の変わってきていますが、基本的に、中国の青年たちは、素晴らしい資質を持っているのです。彼らの知的好奇心に応えることができる機会と、責任を感じながら、今学期の授業も余すところ数週になってまいりました。師走ですから。

(写真は"百度"による海南島の「三沙」です)

黙々と

 

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「孟母三遷の教え」というのを読んだことがあります。孟子のお母さんは、よく息子を見守っていたのでしょうか。ある時、墓場の近くに住んでいた時のことです。そこで行われる葬儀を真似ては、「葬式ごっこ」ばかりしていたのです。これでは良くないと言って、引越しをします。その引越し先は、市場の近くでしたので、今度は、「商売ごっこ」ばかりして遊ぶようになったのです。『これは教育上良くない!』と判断して、今度は学校の近くに越します。そうしますと、彼は「礼儀作法」を真似し始めたので、お母さんは安心して、そこに住み続けた、と言う話です。

その孟子は、お母さんの環境選びの甲斐あって、やがて著名な思想家、教育者となっていくのです。その孟子が、「人は以(もっ)て恥ずること無かる可(べ)からず」と言いました。その意味は、『人は恥の思いを持つべきで、反省せず慢心するようなことがあってはいけない!』というものです。それは人に言えないような、過去の日陰での体験とか、恥を被った経験なのかも知れません。

私の愛読書に中に、『人は若い時に、くびきを追うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙って座っているがよい。』とあります。この「くびき(軛)」と言うのは、むかし、ヨーロッパなどの農村で見られた、「粉挽き」で石臼で粉を挽くために、二頭の牛を、ひとつの首枷につなぎ、牛追いに引かれて、共に同じ方向に歩んで石臼を回すための「首枷」のことです。もし牛たちにも抗議の機会があったら、きっと、『こんな単調で、きつい作業をさせ、しかも軛に繋ぐとは!』と言いたいことでしょう。

自分の思い通りにならず、誰かの意思によって動き回される不自由さを覚える経験は、有益なのです。青年期には、年長者、人生経験の豊富な人に従って生きていくこと、さらには重荷を負って生きることを言ってるのでしょう。そう言った環境にいたら、文句を言ったり、自説を唱えたり、自分や環境を呪ったりしないで、「黙ること」なのです。「孤独」になると、心が澄み渡って、人は多くのことを学べるのだと言うわけです。

もしかしたら、「砂を噛むような経験」かも知れません。愚直な努力でしょうか。野球小僧なら、球拾いをさせられるような時期のことです。そういう時にこそ、基礎が培われ、やがて長足の進歩と成長が見られるのです。最近の若い人は、すぐにレギュラーになりたがります。初歩コースを、『時間の無駄!意味がない!』とスキップしてしまうのです。私は、こんなことをしました。スナップの効いたシュートを打てるように、毎晩、入浴時に、風呂の中で手首を使って水をかいたのです。コーチに勧められてでした。そんな単純なことをし続けた結果、手首が強くなったのです。そんなことをある人は、『風呂の中で、ばかなことし続けて!』と、思っても不思議ではないのですが。黙々としてやった高校時代が懐かしく思い出されます。

(絵は”百度”による「山茶花」です)

ボンタンや栗や柿

 

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29号棟の4階(一階が貸店舗ですから実際は5階になります)のベランダから、バス通りを挟んだ、左向こうに、テント作りの果物屋があります。最近は、この店で旬の果物を買うことにしてしていて、週に一、二度は行ってみます。秋から最近まで、必ず買うのが「柿」です。食べても、法隆寺の鐘の声は聞こえてきませんが、この「硬柿」が、11月末になっても、歯ごたえがあって美味しいのです。今年は、本当に、満喫させてもらいました。日本円で換算すると、大きめが一個が35円ほどになるでしょうか(目方売りですが)、家内と半分づつ食べています。

今は、葡萄、みかん(何種類もあります)、柚子(長崎特産のボンタンです)、苹果(りんご)、サトウキビ、キウイ(輸入品です)、ミニトマト(こちらでは果物コーナーで売っています)、バナナ、この他に、名前の分からない物が幾つもあります。総じて、こちらの果物は、糖度があって美味しいのです。果物生産者の腕は確かです。家の周りに五軒も果物屋が出店しています。越してきた当時は、一件でしたのに、五倍の増加というのは、すごい発展状況で、みなさんが果物を好んで食べるようになっていることが分かります。

水曜日の夕方に、毎週出掛ける家があるのですが、この家でも、毎週、変わった果物を出してくれます。秋になってからは、「栗」を茹でてくれるのです。どんぐりのような小振りな物ですが、これが美味しいのです。美味しそうに食べる私を見て、毎週用意してくれます。先日、学生さんが二人、遊びに来てくれたのですが、日本人と同じ義理堅く、お土産持参での来宅でした。南の方からやって来ている方たちで、「柚子」の特産地が近くの出身だからでしょうか、どれが美味しいのかを知っていて、とびきり美味しい物を頂きました。そのお返しにカレーライスを振舞いました。

しっかり、果物も食べ、食事も感謝して頂いて、こちらの生活に、すっかり慣れていますので、ご心配なく。明日からは、もう12月になります。二人の孫娘と私の誕生月です。また歳をとるのですが、弟曰(いわ)く、『兄上、来月はいよいよ古稀ですね!』と言うところです。<人生双六(すごろく)>の上がりに近づいているのですが、結構、楽しく生きていますのでご心配なく。

(写真は“百度”による「ボンタン(柚子)」の花です)

 

願い

 

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<240万人>、この数字を聞かれて、何の人数だと思うでしょうか。『新潟県の県民人口ですか?』、はい、そうでもありますが、実は「囚人」の数なのです。アメリカ合衆国の全州(総人口3億2千万人)の刑務所に収容されている受刑者の数です。こんなにいるのですね。1972年には30万人でしたから、今では8倍になっています。ちなみに日本では、65000人(総人口1億3千万人)とのこと、減る傾向にありますが、アメリカは逆に増え続けています。

世界で最も富んでいる国で、<アメリカン・ドリーム>を叶えさせてくれる、夢に満ちている国が、こういった<犯罪>を頻発させているのです。つまり<社会病理>が巣ぐっているというわけです。理想の国を求めて、イギリスの港を出港した開拓者が、作ろうとした国とは、真反対な一面を見せてしまっていることになります。

中学の歴史で、新大陸に向けて出港した「メイフラワー号」のことを学びました。66日の船旅の後、1620年11月21日に、100人ほどの人が上陸しているのです。この最初の人たちが、その信念と理想に萌えて作り上げた国です。もちろん先住民のインディアンたちの国でしたが、現在では、多くの移民たちの国でもあります。しかし建国の父たちの夢をつないで生きている者たちの国だと言えます。

私たちの国からも、多くの人々が、太平洋を渡って行きました。後に米州に併合されるハワイばかりではなく、大陸の西海岸に農業移民をしています。以前、オレゴン州に行きました時に、太平洋の海岸線の街に、嫁いだ次女の夫(婿)の両親の別荘があり、そこに泊めて頂いたことがありました。敷地から海岸線に出ることができたのです。夏でしたが、海水は氷のように冷たく、泳ぐことなどできないほどでした。西に目を向けた遥るか彼方に日本があるわけです。きっと、移民たちは、私と同じように海岸線に立って、日本に望郷の思いを馳せたのだろうと、思ってみたりしたのです。

今、二人の外孫が、この国で成長しています。先日、永久歯に生え替わるために、乳歯を抜いたのだそうです。「ワシントン伝」なども読んでいるそうで、建国の父たちの思いも知り、アメリカ国民、世界市民となるために学んでいるのです。孫たちが学び、生活している、この国が、夢や理想を取り戻し、その使命を果たせるようにと、願っている週末であります。

(写真は”wm”による「オレゴン・コースト」です)

ことば

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私たちのまわりに、フィリピン、マレーシア、アメリカなどから来ておられる中華系の方たちがいます。何代も前に、大陸から、それらの国々に渡って行った方たちの子孫で、「華僑」とか「華人」と呼ばれるみなさんです。公用語は英語ですが、出身地の方言で話し合う家庭で、育っているのです。漢字は読んだり書いたりできないのですが、「普通話」を学んで使っておいでです。

ブラジルに、家内の兄を訪ねたことがあります。サンパウロから一時間半ほどの所にある街です。そこも日本からの移民の社会でした。兄夫妻は、ポルトガル語を話しますが、夫婦の間は日本語を使っていました。義理の甥や姪は、片言の日本語ができるだけで、ことばや文化や習慣の上では、まさにブラジル人なのです。

滞在中に、何度か<青空市場>に買い物に行く義姉について、でかけたことがありました。野菜や果物や小麦粉や米、小道具や骨董品や絵画まで、様々なものが売られていました。その広場を、日系人の老婦人が、おぼつかない足取りで歩いておいででした。義姉の知り合いでした。ご主人を亡くした後、息子たちと暮らしているのです。このおばあちゃんが、実に悲しい表情をされていました。それは苦労を重ねてこられたシワのせいではありませんでした。日本語しか話せないので、孫やひ孫との交流ができない孤独が、身体中から溢れていたのです。

悲しんでいる人たちと、これまで多く出会ってきましたが、地球の裏側で見かけた、あのおばあちゃんの悲嘆に暮れた表情は忘れることができません。やはり、人間は「ことば」を用いて生きる必要があることを思い知らされたのです。また、このおばちゃんと同世代の年寄りが十数人、サンパウロ、リベルダージの地下鉄の駅頭の植え込みのコンクリートに腰掛けていました。話すでもなく、通り過ぎる人たちの中で、日柄過ごしていました。移民のみなさんの悲哀を感じて、『人生の最後を喜んで生きて!』と、思ったりしたのでした。

(”サンパウロの写真”からサンパウロの街中の風景です)

“Thanksgiving day"

 

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私の恩師の誕生日は、”Thanksgiving day"、日本の祭日では「勤労感謝の日 」でした。1935年、ジョージア州の片田舎で、手広く経営していた<GM>の電気店主の御曹司として生まれています。私は行ったことはありませんが、家内は、子どもたちを連れて、一度お邪魔したことがあります。この恩師の弟さんと家内の下の姉が結婚していた関係で、誘われての訪問でした。

ジョージア工科大学を出て、米空軍のパイロットをしておいででした。その後、企業家として来日され、出張所の開拓と立て直しのために、東京、熊本、甲府、海老名、大阪、京都、札幌、そして京都と移り住んで、2002年の9月に、東京で66年の生涯を終えられました。澄んだ青い目で、実に穏やかな方でした。

27歳から八年間、この方の助手をしながら、企業経営の原理からノウハウ、人間との関わり方や妻の愛し方まで教えてもらいました。奥様は日本人で、二人の男のお子さんがおいででした。今、どうされておいででしょうか。初めは日本の小学校に通っていましたが、後にホームスクールで学んで、お二人とも母国の大学を卒業されています。

あの街では、この方の助手席に乗せていただき、不自由をしなかったのですが、地方都市にいましたし、子どもたちが増えてきましたので、車が必要になり、運転免許証のなかった私は、隣町の教習所に通って取ったのです。免許を取って間もなく、東京に一緒に出張したことがありました。『マサ、君が運転しろよ!』と言われて、彼は助手席に座りました。高速道路に入ってからは、彼は隣りで本を読んでいました。と言うよりは、読んだふりをしていたのです。なぜならページを繰ることがなかったのです。未熟な私の運転に耐えながら、さぞ気がかりだったのでしょう。

40年も前のことになりますが、あの八年間、荒削りで短気でオッチョコチョイの私に忍耐して接してくださり、また教えてくれた、一番長く関わってくれた恩師だと言えます。生きおいでなら、今日は、79歳の誕生日になります。亡くなられる前に、お見舞いをしたのですが、その時、あの八年間の間に、彼と私の間にあった齟齬(そご)を、彼の方から詫びられたのです。私は、『こちらの方こそ、未熟でご迷惑をかけ続けて・・・』とお返したのを、昨日の日の様に覚えています。まだ三十代と二十代で、恩師も私も若かった日の出来事をでした。

あの最初に、車に彼を乗せた日の<忍耐>と<任せ>が、彼の私との八年間、その後、仕事を受け継ぎ、恩師が召されるまでの日々の全てでした。懐かしく思い出している朝であります。

(写真は”wm”によるジョージア州花の「チェロキー・ローズ」です)

印象

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日本を旅行した中国のみなさんの印象が、よく、ネットに載っています。「人少(人が少ない)」、「干浄(清掃が行き届いて環境が清潔)」、「好吃(食べ物が美味しい)」、「空气好(空気がきれい)」、「开得好(車の運転が丁寧でスマート)」などが多く記されてあります。これは比較論で、中国に比べて、そういう印象があるのでしょうか。

私たちの国でも、過去との比較で、今の時代が、欧米並み、いえ欧米以上に、近代的で文化的な生活が営まれるようになってきていると言えるでしょうか。子どもの頃、日本中の街中はゴミが散らかり、川がゴミ捨て場になっていました。おじさんたちも子どもも、立ち◯べんをし、手鼻をかんで、タ◯を吐いていました。<カミナリ(雷)とかカミカゼ(かみかぜ)運転>とか言われていました。幸いだったのは、当時は車が少なかったことです。道路の横断も、信号も横断歩道もありませんでしたから、どこでも自在に渡っていました。

当時、アメリカ映画を観ては、『綺麗だなあ!』と驚いたのも、比較論でした。領事館付きの将校だった若き山本五十六が、目にしたアメリカの風景は、驚きそのものだったようです。20年前にアメリカの西海岸から、ロッキー山脈の中にあったイエローストン(ワイオミング州)まで行き、往復したことがありました。畑が、どこまでも広がっていましたが、広さと綺麗さと整然さ、そして規模の大きさに驚かされてしまいました。ニューヨークやロサンゼルスやシカゴの大都市は、この国の一部で、その99%の農村の様子を目撃して、豊かさの土台の堅固さが、ここにあることを知らされたのです。

やはり、古い型の人間の私は、山本五十六が感じたように、『こんな凄い国と戦争したんだ!』と思ってしまったのです。だから、明日の中国は、日本のように、いえ日本以上に変わって行くと信じています。優しくて、思いやりがあり、表現が豊かなみなさんが、さらに素晴らしい国を築いて行くに違いありません。私の中国と中国のみなさんの印象は、「人多」、「広大(国土の広さです)」、「話多(健啖と言うのが好いでしょう)」、そして「勤勉」であります。

まんじゅうときんつば

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父の好物が、「きんつば」でした。この「きんつば」は、小麦粉を水でこねて薄く伸ばした生地で餡(あん)を包み、円盤形や長方体形に形を整え、油を引いた平鍋で上下面と側面を焼いたものです。江戸時代の中頃に、京都で考案され販売されたようです。父が、舌鼓を打つように、うまそうに食べていましたので、『そんなに美味しいなら!』と同じよう食べたら、うまくて、自分の好物にもなってしまいました。

この街に越して来て、学校の寮に住んだのですが、近くのパン屋に行きましたら、アンコを入れたパンのようでもあり、お菓子のようなものが売っていたのです。早速買って食べましたら、甘みも塩気も、日本のものと寸分変わりませんでした。それもそのはず、「まんじゅう」は、中国のものなのです。宋の時代に中国からやって来た、「聖一国」という僧侶が、製法を菓子職人に伝授したのが始まりだそうです。800年も前に伝えられたので、正式には<和菓子>ではないことになります。

九州の博多(福岡市)から全国に広がっていき、日本人が渋茶を飲みながら、長年、美味しく食べ続けて来た代物(しろもの)です。最近、日本人のパン職人が作っているパンを、目の前のモール内のパン&食堂で売り始めました。やはり、ありました、「アンパン」がです。ちょとアンコの量が少ないのですが、「木村屋」に劣らない味なのです。

礼儀も仁義も漢字も、中国伝来の優れものですが、餡菓子も中国伝来であるのですから、切っても切れない両国の関係を、アンパンをほうばりながら再確認している週日の夕方であります。もしかすると、あの博多名物の<明太子>も、大陸伝来なのでしょうか。そうだったら、この町の何処かで売っているかも知れません。

(写真は"中田屋”の「金鍔(きんつば)」です)

我が青春の譜

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今日の中国のネットサイトに、「高倉健去世(死去)!」というニュースがトップで載っていました。今月の十日に、東京都内の病院で病死されていたのだそうで、ここ中国で日本の出来事がトップで報じられるのは、珍しいことです。昭和を匂わす最後の大スターが消えてしまいました。

学校に行っていた時に、大分から来ていた同級生に誘われて、新宿だったと思いますが、健さんの主演映画を見たのが、スクリーン上での初めての出会いでした。当時、学生運動が盛んだったのですが、ノンポリの私たちは<蚊帳の外>にいました。男ばかりの鮨すし詰の観客が、昭和版のチャンバラ劇を、手に汗をしながら見入っていたのです。それをスクリーの中で、健さんが演じていました。観客の心を鷲掴みしていたのが若き日の健さんでした。

それは任侠映画でしたが、多くの若者たちの憧れのスターでした。その任侠映画のブームが終わって、1976年に、「君よ憤怒の川を渉れ」という映画に、高倉健が主演しました。この映画は日本では評価されませんでしたが、鄧小平氏の来日後に、中国で、外国映画が解禁されると、先ず、この「追捕」という題で公開されたのです。上映されるや、3億人が見たと言われるほどの大ブームを起こしたのです。

この映画の公開後、中国は未曾有の〈日本ブーム〉が巻き起こったのです。こちらに来て間もない頃、食事に招いてくださった家の主人が、『杜丘冬人 (高倉健が演じた主人公)や中野良子を知っているよ!』と言われて、『 杜丘冬人って、誰ですか?』と聞き返したほどでした。四十代の方でした。青年期に観たのでしょう。

私の青年期の思い出の中にも、この健さんの存在は大きいのです。ヤクザに憧れたわけではないのですが、軟派な時代の中で、「男気」を感じたからなのでしょうか。私のブログに、6回も高倉健の名が登場しているのは、そのせいでしょう。83年の生涯でした。筋肉質で豪気で男らしい主人公を演じても、病魔には勝てなかったのですね。昭和の最後のスクリーンが降りてしまったようです。健さんの<役者魂>に触れた、我が青春の譜の一頁が、とても懐かしく思い出されます。

(健さんが主演した「鉄道員」の映画スチールです)

ラブレター

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「三行ラブレター」というコンテストを、「日本語文章能力検定協会」が毎年行っています。両親や友人や先生、恋人や恩ある人にあてて、愛や感謝を、三行の短い文章で書き表すのです。少ない言葉で表すというのは、実は大変難しいのです。

私が読んだ「ラブレター」の中に、一行で三文字のものがありました。南極越冬隊に行った夫に当てて、その妻が書き送ったものです。

『あなた』

これを受け取った夫は、三文字に込められた、奥様の愛情、愛慕、会いたいとの切々たる思いを深く感じたことでしょう。結婚という契約の中で交わされる夫婦の感情が、これほど深くて、一万語を持って書かれた恋文に勝って、真実な愛が込められていることに、驚かされてしまいます。言葉を駆使して、意思の疎通ができるのは人間だけだということを、改めて思わされています。

ここで、先週、日本語科の三年生に書いてもらった「三行ラブレター」を、四編ご紹介しましょう。

父さんが作れる たった一つの料理
中国料理の特に卵焼き
どんな料理よりも優しい味 (お父さんへ)

もらった命、もらったやさしさ
きつく叱られた幼き日々も 贈り物だったんだ
本当にありがとう (お母さんへ)

お天気予報
最初にあなたの住む街を見ます
今日はあたたかくなりそうですね (友だちへ)

午前中ずっと私の歩く道路に沿って探していて
ただ、私の服から落ちたボタンのためだったと知って
涙が止まらなかった  おばちゃん ありがとう (おばあちゃんへ)

なかなかの秀作です。日本語を学んでいる学生たちがいて、今すべきことに懸命なのが嬉しいのです。

(写真は "WM”による目玉焼きです)