♭もういくつ寝るとお正月♯

image

子どもの頃、今頃になると、普段と違って、人が慌ただしく急ぎ足で歩いていたり、店でも、普段店頭に置かない物が売られ、店主の呼び込みの声が一段と高くなっていたのです(まだ「X’mas」が騒がれる前のこと)。そして歌い始める「歌」がありました。滝廉太郎の作曲で、文部省唱歌の「お正月」です。

もういくつ寝ると お正月
お正月には凧あげて
独楽を回して遊びましょう
早く来い来い お正月

もういくつ寝ると お正月
お正月には毬ついて
追羽根ついて遊びましょう
早く来い来い お正月

「正月」が、一年の節目の時であり、『新しい気持ちで迎えたい!』との思いが強かったのです。「お年玉」が貰えるし、普段食べない「おせち料理」も食べられました。母は年の瀬になると、障子を張り替えたり、正月料理の食材を買いに行き、料理をしていました。醤油が足りなくて、空き瓶を持っては、買いに行かされたこともありました。父は、「お雑煮」の餅を、米屋さんに注文し、規格通りに切っては「もち箱」に収めていました。

正月に関わる物や事には、「お」が付けられ呼ばれて、<大事>にされていたのです。兄たちと凧揚げや駒回しをしたり、双六(すごろく)やカルタ取りなどをやったことがありました。目や鼻や眉毛や口などの顔の部分を、目隠しで置いていく「おたふく(福笑い)」という遊びもしたでしょうか。

ここ中国でも同じで、「春節」を、そのような気分で迎えるのです。「春節」は、旧暦(農暦)で行われますので、日本とは時期のズレがあります。来年は、2月19日が、「元旦」で、「元宵節(日本の<小正月>」は、3月6日です。「節目」を大切にし、待望の「春」を喜び迎えるのです。都市化が進み、西欧の生活様式が入ってきても、昔ながらに喜び迎えるお気持ちは、まだまだ強いものがあるようです。

子どもの頃に感じた、あの独特な高揚感、待望感が懐かしくて仕方がありません。『お醤油買ってきて!』の母の声が聞こえてきそうです。

(イラストは”yahoo”の「呼び込み風景」です)

『本を読みます!』

image

『本を読みます!』、これは、『今後何をなさいますか?』の問に、ノーベル物理学賞を贈られた赤﨑勇さんのノルウエーからの帰国の弁でした。85歳の赤﨑さんが、『まだまだ学ぶことがあるのです!』と思っているからなのでしょう。その向学心、研究心、探究心には驚かされますが、驚くだけではなく、<挑戦>として受け止めなければならないと思うのです。

このブログの上に掲載した写真を、見てください。髭も髪も真っ白な三人のお年寄りが、図書館ででしょうか、集会所でしょうか、机の前に本を開いて、見入っているではありませんか。これを見た時、衝撃を受けたのです。私よりも年上のみなさんが、仕事のための読書ではないのです。もう仕事を退職して、社会的な責任から解放されて、悠々自適な時を送っていられる年代ですから。それなのに、実に真剣に<書>を読んで、学んでいるのです。

この三人の方は、イスラエル人で、民族伝来の書を読んでいるのです。辞書も参考書も、脇に置いてありませんから、読み慣れた本を、繰り返し読んでいるに違いありません。またノートもありませんから、宿題を課されているのでも、原稿を書こうとしてるのでもなさそうです。ただ只管(ひたすら)読んでいます。

でも、この「書を読むお年寄り」が、とてもよく充実した時を過ごしているのではないでしょうか。この方々と同じように、赤﨑さんも、書を読むと言っているわけです。『近頃の大学生は、本を読まないんです!』と言われています。ぜひ、このお年寄りたちから、挑戦を受けて欲しいのです。かく勧める私も、時間をあがなって、この挑戦を受けたいと思っております。

初雪起こし

 

image

 

先週、東京に「初雪」があったと聞きました。朝起きて、カーテンを引いて、曇りガラスを開けると、一面が雪景色でした。寝間着のまま、下駄を履いて庭に出て、降った雪を手ですくい、その冷たい感触を楽しんで喜んだ日々がありました。明け方の薄く積もった雪に、下駄の二の字二の字を、嬉々として踏んでいくのは、楽しかったのを思い出します。

初雪や二の字二の字の下駄の跡            田捨女

今日日、子どもたちは、初雪を喜ぶよりも、登校のことを考えて、心配を、先に感じてしまうのでしょうか。大人のように考えて、明治の子、大正の子、昭和の子のように喜ばないのだそうです。『雪だるまを作ろう!』、『雪合戦ができるぞ!』、『橇で坂道を滑ろう!』とか、あの頃の子どもたちは思ったのです。今年の冬は、日本海側では、雪を楽しむなどと言えないほどの積雪量があるそうです。雪かき、雪下ろしなどで大変なことでしょう。

みんなゆめ雪割草が咲いたのね              三橋鷹女

花の中に、「雪割草」とか「初雪起こし」という名を持ったものがあります。こう言った名がつけられる趣きや情緒が、漢字文化のなんとも言えないよさではないでしょうか。ヨーロッパでは、雪割草を「ヘパチカノビリス」、初雪起こしを「クリスマスローズ」と呼ぶのだそうです。これにも、それぞれの思い入れがあるのでしょう。でも、本当に雪を割ったり、初雪を起こしたりして咲き始める花々に、そう命名した生活感や詩心には驚かされます。「雪割草」は、中国語でも同じ漢字で表記しています。

「初雪起こし」は、日本では<一月に花>とありますから、来春、年が改まってから咲くことでしょう。一度、その咲き始める姿を見たいものです。

(写真は「初雪起こし」です)

地産地消は当てはまらない

image
「東男に京女」と言ったそうです。中国版ですと、「北京男に上海女」とか、アメリカ版なら、「ワシントン男にロサンゼルス女」と言いたいのですが、少々無理がありそうで、そういうわけにはいきそうもありません。

日本では、「箱根」を越すか越さないかで、違いがあったのだそうです。そこには「関所」があったからでしょうか、江戸への一大関門を上りでも下りでも過ぎると、人の気質が違っていたのでしょう。それとも、幕府のお膝元を離れると、気分が楽になり、江戸に近づくと、緊張したりと言った違いだったのかも知れません。

今、私たちが住んでいる街の男性は働き者で、『婿にするなら、これに過ぎる者はいない!』と言われるほど、高い男性評価があるのだそうです。逆に、こちらの女性は評判があまり、芳しくないようです。かく言うのは、隣町の友人の女性です。東日本で有名なのは、『かかあ天下と空っ風』という言い方があります。上州女や甲州女を、そう呼んできたそうです。<しっかり者の女性>がいて、男性は少々頼りないとされていると言うのでしょうか。

今では、流通が良くなって、この広い中国でも、一律に、同じ物を食べたり飲んだり着たりするので、地域的な違いが少なくなってきています。これも、また世界中の傾向です。「地産地消」が、人の体には一番だと言われているのですが、その土地で湧き出す水、その街の植物から発生する空気、その地域の土地が産する食べ物は、天の配剤であるのですから。

わが家の食生活をみますと、北欧産のサーモン、タイ産のドリアン、イギリス産の紅茶、アメリカ産のチョコレート、日本産の海苔茶漬け、こちらのお米で作ってくださったお餅や和菓子などが、時には食卓に載ります。それを、日常的に、または時々、飲み食べている私たちの体は、もしかしたら悲鳴を上げているかも知れません。でも、<感謝>をもって食しているので、体は納得かも知れません。ちなみに、私たちの両親は、「相模男に出雲女」でしたが、二人は仲が好かったのです。結婚生活には、「地産地消」は当てはまらないようです。

(絵は“wm”による鎌倉時代にあった「流鏑馬(やぶさめ)」の装束です)

来客

image

 

月曜日の夕方、下の階の小学校2年のシャオルンが、わが家の玄関を叩きました。『今晩、ママが出かけるので、いない間、爺爺(イエイエ、おじいちゃん)の家に来ていい?』と言うのです。家内は、留守で、まだ帰っていなかったのですが、『可以可以(できる、好い)!』と返事をしたら、安心して帰って行きました。しばらくたって、お母さんと一緒に、お絵描きの道具を入れた袋と水筒を持って、シャオルンがやって来ました。『何時に帰りますか?』と聞いたら、お母さんは、『八時頃になります。』とのことでした。

『夕飯は食べたの?』と聞いたら、『うん、食べた。』とのことで、安心してテーブルの上で、お絵描きを始めようとしたのです。『イエイエ、動物で何が好き?』と聞いたので、しばらく考えて、『獅子が好き!』と答えたら、獅子を描き始めたのです。上手に書いてくれたので、壁の額の下に、セロテープで貼ったら、得意満面の顔でした。『奶奶(ナイナイ/おばあちゃん)は何が好き?』と言うので、『猫!』と言ったら、今度は、それを描き始めたのです。描いていたら、家内が友人を連れて帰って来ました。

シャオルンの相手をしながら、夕食の準備をしていたので、彼女にも、『一緒に食べよう!』と誘ったのですが、出して上げたバナナとみかんとクッキーで、お腹がくちくなっていたので、『要らない!』とのことで、家内と友人と三人で食べた始めたのです。8時10分頃に、汗を吹きながらお母さんが帰って来たら、嬉しそうに笑ったシャイルンは、袋に道具をしまって、安心して帰っていきました。その晩、小学校の「保護者会」があったようです。

このお母さんは、家内が何度か差し上げた「巻き寿司」に挑戦しているのですが、なかなか上手にできなくて、何度も家内を呼びによこすので、階下の家に行ったりしています。ベランダで咲かせたバラや観葉植物を鉢分けしてくれたりと、物のやり取りのある子育て中の家族です。ご自分の一人っ子の「宝宝(バオバオ)」を預けるほど、私たちを信用しているのです。そばに孫のいない私たちには、好い機会でもあります。そんな近所付き合いのある、年の暮れであります。

(写真は”百度”から「バラ」です)

佳人薄命

image

「佳人薄命(美人薄命とも言います)」、美しい人は、とかく苦労や不幸に見舞われて、若くして亡くなるのだという、中国の故事からの言葉のようです。でも美人でも長生きをしている方も大勢おいでですから、きっと、『もっと長生きしていて欲しかった!』という願いを込めての言葉だったのでしょうか。そんなに美人ではなかったとしても、惜しまれる人は、みなさんが、『美人だった!』と言われるのでしょうか。

明治の文壇に彗星のように現れて、二十四歳で亡くなった樋口一葉がいました。彼女の作品の「にごりえ」や「たけくらべ」の作品は高い評価を受けております。一葉が好きだった横山源之助は、彼女を一目見たくて、江戸以来の貧民街に足繁く通っている内に、下町の労働者や職人などの生活を調べて(調べてる間に出会って好意を持ったのかも知れません)、「日本の下層社会」という報告書を書き上げています。この横山源之助は、<ルポライター>の走りだったようです。

一葉の祖父は、甲斐の国の萩原村(現在の塩山、甲州市です)の農民でしたが、学問を好んだ人で、知的な好奇心が旺盛でした。ですから漢詩を読み、和歌を詠んだりした人だったようです。父親も、祖父の影響を受け、江戸時代の末期に江戸に出てきて、ついには「士族」の株を手にした人だったのだそうです。そんな血を受け継いだ一葉もまた、文学を好みました。しかし、その生活は貧しくて、遊郭のある吉原の近くで雑貨屋を営んでいたのです。その頃に見聞きした下町風情を書き上げたわけです。

その一葉が、2004年に、五千円札の肖像に選ばれました。女性として明治の文学界に、大きく貢献したことが高く評価されたからです。明治文壇の雄、島崎藤村や夏目漱石とも出会いや関わりがあったのだそうです。手元に五千円紙幣がありますが、やはり美人、佳人であり、薄明だったのです。一葉縁故の地に、「糸桜(枝垂れ桜)」があって、友人に誘われて観桜に行ったことがありました。淡い色の桜の花びらが印象的でした。

(写真は”wm”から塩山萩原の「糸桜」です)

変化

image

 

これまで街中を歩いたり、バスやタクシーに乗っていたりして、『こわい!』と思わせられたことが、何度もあります。一つは、携帯を右手で耳に当てて、左手で運転する運転手でした。かつて、日本でも、よく見られた風景です。二つは、むやみに追い越しをすることです。路線を守ってほしいのに、急ハンドルで路線を変更をするのです。公共バスの様な大型車が、軽自動車の様なハンドルさばきをするのですから驚いてしまいます。どうも先に立ちたいとの心理が働く様です。毎回、ヒヤッとさせられています。

三つは、車の「右折」です。どこの交差点でも、「車譲人」と路面に書かれた歩行者優先なのに、警笛を鳴らして走り抜けて行きます。四つは、電動自転車が、脇をすり抜けていくことです。エンジン音がないので、接近しているとは思っていないのに、真横を走り抜けて行くことです。日本の電動車はゆっくりですが、こちらはバイク並みに加速できるのです。五つは、電動自動車が、赤信号を無視して、直進や右折をすることです。よく交差点で、衝突しているのを見掛けます。

六つは、歩行者が信号を、まだ守らない人がいることです。最近では、道路の中央に、分離の柵が置かれる様になって、横断歩道まで歩いて渡らなければならなくなっています。その横断歩道の信号を無視している人は、交通事故の怖さがまだ分かっていないにかも知れません。

先週、知人から聞いたところによると、「道路交通法」で、罰則が厳しく、変化しているのだそうです。運転中に携帯使用は禁止されているので、違反すると高額の罰金が課される様になったそうです。<罰金>を払わなければならないので、守るようになるというのは、どこの国でも同じです。この何年か、日本では、飲酒運転と飲酒による事故死の件数が激減しているのも、高額の罰金、免許停止などの厳しい罰則のお陰です。そのことを聞いて、ちょっと安心、と言った年末です。

(写真は”百度”による、邯鄲市の交通警察官による交通安全キャンペーンです)

あるもの、ないもの

image

こちらで生活をし続けていて、日本にあって、こちらにないものを数え始めてみました。そう言えば、暮れの商戦の『らっしゃい、らっしゃい!』の呼び込みの声はありません。上野・御徒町駅の改札を出たところから、店が立ち並んでいる「アメ横」は、そろそろ、その声が聞こえてきているでしょうか。こちらのスーパーに入ると、『ないだろう!』と思っている、「ジングルベル」が気ぜわしくBGMで聞こえてくるではありませんか。

先週末の朝、行きつけのスーパーに行ってきました。家内の開いている教室に、日本語を学びに来ている学生さんたちに、昼食をご馳走しようと買い出しに行ったのです。送迎バスから降りて、店に入ると、BGMが流れていました。耳をすますと、『・・・すずがなる・・・』と聞こえてくるではありませんか。日本語です!ジングルベルが日本語で鳴っていたのです。台湾系のスーパーですから、日本の店作りに真似たチェーン店の一つで、『きっと台湾の店で流している、日本製のCDを使っているのだろう!』、と想像してみました。聞こえないと思っていた、クリスマスソングが聞こえてきて、瞬間、日本かと勘違いしてしまいました。また家にいる日の朝、私たちのアパート群の正門の脇の幼稚園からも、「ドラえもん」が聞こえてきます。翻訳された歌ではなく、日本語そのものなのです。

今頃、日本では、選挙カーが、路地から路地へと、『✖️✖️でございます。国会へ送ってください。✖️✖️を男にしてください!』と、国会で<男になりたい人たち>の選挙運動の声が聞こえてきていることでしょう。この声や音は、こちらではありません。いつか聞こえてくる日が来るのでしょうか。夕方になってから聞こえて来るのは、カラオケで、振り絞って歌う善男善女の歌声です。時々、「北国の春」が、中国語バージョンで聞こえてきます。最近増えてきたのは、車のクラクションの音です。車が、あふれるほどに、日に日に増えてきているからなのです。

それで、最近の交差点は、どこも「堵车ducheヅウチョウ⇨渋滞」で大変です。駐車場所がないので、それを確保するのが、自家用車族には問題のようで、どうも頭痛がありそうです。

(写真は”百度”から街中の「菜市場」の外庭です)

遊び仲間の声

 

image

 

子どもの頃の遊び道具の中に、飛び道具として、「紙鉄砲」がありました。実に他愛のない遊びをしたものです。口の中で、紙(新聞紙だったでしょうか。紙はまだ貴重でしたから。)を噛んで、唾液で柔らかくして丸めた物を「弾(たま)」にして、篠竹の筒の先と元に入れて、竹筒より細い棒(割り箸のような)で押して、空気を圧縮して飛ばすのです。『スポン!』といういい音がして、標的を撃つのです。押した弾は、次に飛ばす弾になるのです。

それと同じ原理で、「杉鉄砲」もありました。杉の「芽」を弾にして飛ばすのです。紙製よりも、鋭い音がして、飛んで行く速度も早かったのです。当たった痛みも強さを覚えています。春の芽吹く時だけしかできなかったのですが、夏には、同じ竹製の筒で作った「水鉄砲」もありました。大きい子から作り方を伝授され、それをまた、下の子たちに教えて行く、そう言った繰り返しがなされた、好きじだいでした。

遊び道具が市販されていないので、自家製の遊び道具を工夫して、自分たちで作り、作り方が伝承されてきたわけです。「創意工夫」とか「改良」とか言ったことが行われ、きっと「物作り」の基礎になったのだと思われます。自ら「物作り国」と呼ぶ背景には、江戸の昔からの「遊び」がある様です。

雪の便りが聞こえ、先週は、四国や島根で大雪だったようです。雪が降ると、「橇(そり)」を、兄たちが作っていました。こちらの東北地方でも、積雪があるようですから、子どもたちは外で遊んだりするのでしょうか。自分たちで橇を作ったりしてそうですが。そう言えば、雀などを捕まえる、「バッサリ」とう仕掛けも、すぐ上の兄が作っていました。ワイヤーと言う鋼線が必要でしたが。あの嬉々と遊び暮れていた遊び仲間の声が聞こえてきそうです。

(図は、”大末畳店HP”から「杉鉄砲」です)

心が痛むこと

 

image

子どもの頃の遊びですが、ほとんどの時、<集団遊び>をしていたのです。就学前は、金魚の糞のように、兄たちの後を追いかけては、兄たちの邪魔をしていました。小学生の頃に過ごした街では、近所にいた、上の兄の同級生が番長で、この人の指示で、様々な遊びをしていたのです。鬼ごっこ、宝取り、隠れんぼ、馬跳び、馬乗りなどなどでした。夢中になって暗くなってまでやり続けていたのです。この番長が、後になって、私の通学で乗っていた電車の車掌をしていました。

ですから、宿題をやった記憶がありません。多分、宿題だってあったのでしょうけど、ほとんどやった記憶がないのです。やらないで学校に行って、立たされたりもしたのです。そんな遊びの他に、「チャンバラ」をしました。雑木林の中に入って木を切っては、自分好みの刀を、自分で作っていました。この「チャンバラ」の遊びには、時代的な背景がありました。当時の映画は、いわゆる「時代劇」が全盛期でした。悪人が刀を振り回すと<殺人>になり、正義の人が用いると<懲らしめ>になる、勧善懲悪の物語が流行っていたのです。切り役、斬られ役があって、みんな映画俳優気取りでした。

ところが、アメリカの社会では、刀の代わりに拳銃を使うのです。戦争が終わって、アメリカ映画が、日本で上映されるようになると、いわゆる「西部劇」が、日本で観られるようになり、とても人気がありました。アメリカ版の「時代劇/チャンバラ」でした。それで、私たちが刀を使うのとは違って、アメリカの子どもたちは、「おもちゃの拳銃」を持って遊ぶのです。アメリカは、「銃社会」だからです。

『自分と家族は自分で守る!』と言う自衛意識が強いために、子どもたちが、家の中で、簡単に本物の拳銃を手にする機会があり、それで今日日、無差別乱射のような事件が起こるのでしょう。今の子どもたちは、「戦争ごっこ」をしなくなっているようですね。一対一の喧嘩や集団での喧嘩などもしません。小競り合いや、小さな喧嘩をしていないので、いったん争いが起こると、喧嘩の力加減が分からないので、怒りの感情を制御できなくて、銃で問題解決をしてしまうのでしょうか。

最近、アメリカでの残念なニュースを、また聞きました。心が痛むのですが、日本でも「包丁」を振り回して、切りつける事件が、よく起きています。叩かれたり、切られたり、打たれたりする<痛さ>を知らないからでしょうか。心の感情の抑制が聞かない時代の只中で、如何したら好いのか考えてしまいます。

(写真は”スポーツチャンバラ公式HP”より「スポチャン」の演舞です)