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松尾芭蕉、四十五歳の時に、故郷の伊賀上野に立ち帰ります。その時、故郷は桜が咲き誇っていた様です。

さまざまな事おもひ出す桜かな

と、芭蕉が詠んだのです。桜にまつわる様々な思い出が蘇ってきたようです。芭蕉の名は名声を博して、江戸から故郷にも伝えられていた事でしょう。旧藩主の藤堂禅吟公は、すでに召され、若い子息が領主を継いでいたのです。主君に仕えていた頃のこと、幼い日から故郷を出奔するまでの様々な出来事を、走馬灯の様に思い出したのかも知れません。

2年生から卒業まで、私が通った小学校の校庭にも桜が咲いていたのでしょう、満開の桜を愛でるほどの感性は、まだ持ち合わせていませんでしたので記憶がありません。ただ子どもたちが、入学したり進級したり、卒業した小学校の校庭の端にあった桜には見覚えがあります。

芭蕉ならずとも、私にも桜にまつわる様々な思い出があります。知人に誘われて、県北の村に観桜に行ったことも、県東の著名なお寺の境内に、何百年と言われる樹齢の桜のきに花をつけているのを観に連れて行ってもらったこともあります。また、南信の「高遠」の城内の満開の桜を見上げながら、ご馳走に預かったこともありました。

二、三年前になりますが、弟の家のすぐそばに、野球場のある公園の回りに、桜の老木、巨木があって、その満開の桜の下に、ビニールシートを敷いた上で、スーパーで買った弁当や惣菜で、《花見昼食》をしたことがありました。桜吹雪が舞い始めていましたから、かえって趣があって、実に綺麗で美味しかったのです。兄弟で、そんな事をしたのは初めてでした。三日前の弟からのメールで、そこは『七分咲き!』と知らせてくれました。

昨年4月19日に、手術をして、リハビリに励んでいた頃、「大通公園」や「丸山公園」が桜の見頃だと聞いたのですが、満開の桜を観るための外出などさせてもらえませんでした。まだ肩に痛みがありましたし、夜、寝返りのたびに目が開いてしまう頃でした。病院の隣の市営団地の空き地に、一本の桜の若木があって、遠慮がちに咲いているのを、二階の窓から眺めて済ませてしまいました。

<花より団子>で、桜餅の上に、塩漬けの桜の花が載せられていて、実に美味しかったのも思い出します。これまで色々な所で、桜を観て参りましたが、観て満ち足りた気持ちになるというには、やっぱり「日本人」だからなのでしょうか。四人の子の内、誰かの卒業式に、桜が満開だった事がありました。先週、<丁稚羊羹(でっちようかん)>を手に訪ねてくれた友人が、京都は満開だと、昨日知らせてくれました。
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春の花

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『神田川付近の桜は今が満開を迎えている 後ろは東京さくらトラム(都電荒川線)=2018年3月25日午前、東京都豊島区(納冨康撮影)』と産経新聞にあった「桜」です。この交配種の「染井吉野(ソメイヨシノ)」は一番人気ですね。でも、中央線を信州に向かう列車から、山肌にポツリポツリと点在する「山桜」が遠望できるのですが、これも、通るたびに趣がっていいものでした。

そして、「里山を歩こう」にある、広島県神石郡神石高原町・帝釈峡で咲いている「ケスハマソウ」と「セリバオウレン」という花だそうです。渓谷の中で、人知れず咲き出す花の美しさに圧倒されてしまいます。お仕事か、趣味か、里山を歩いて、折々に草花や小動物などの様子を、「里山を歩こう」で発信されているのです。実際に里山歩きをしてみたい思いが、ふつふつと湧き上がってまいります。
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憂慮

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私は、子どもの頃の病弱を跳ね返して、悪戯小僧で、運動を好んでする様になりました。足は鈍(のろ)かったのですが、結構運動神経が好かったのか、小学校の頃に、全校の体育委員長に選ばれて、朝礼のラジオ体操の時に、あの校庭の朝礼台の上にのって、やらされていました。その後は、バスケット、ハンド、テニスなど、ボール競技をして過ごしました。

そんな風に体を使う事が好きでしたので、アルバイトも「肉体労働」をよくしました。沖仲仕、倉庫作業、穴掘り、看板張り、ホテル業務、配送、電気溶接、警備など、ずいぶんいろんな事をしました。労働といえば、「頭脳労働」があって、手や足の代わりに、頭を使う仕事ですがあります。結局、今日に至るまで、「頭脳労働」を、私はしてきているのです。

最近聞いたのですが、「感情労働」と言うものがあるそうです。航空機の客室乗務員、ホテルの業務員、病院の看護師、電話のオペレーター、介護や保育や教育に携わる人たちの労働を、そう言うのです。神経を擦り減らし、サーヴィスを受ける人の横暴さを我慢し、『このー、何言ってやがるんだ!』なんて思っていても、言い返す事もできずに、我慢して、ニコニコしている仕事です。

肉体労働は、疲労の回復は容易なのですが、「感情労働」は回復が難しく、疲労を蓄積してしまう様です。それが嵩じてしまうと、病気になったりするそうです。最近、介護や障害者施設で働いている方が、突然暴力を働く様な事件が起こってしまう背景です。そう言えば、アジア系や欧米系の航空会社の客室乗務員はともかく、日系の航空会社の方は、過剰なサーヴィスや作業が、自他共に課せられているのを感じてなりません。

仕事と言って仕舞えば、それまでですが、子どもの頃に聞いた、「東京のバスガール」の歌詞に、

酔ったお客の意地悪さ
いやな言葉でどなられて
ほろり落としたひとしずく
それでも東京のバスガール
発車オーライ 明るく明るく走るのよ

とありました。怒鳴られ、罵倒されても、「それでも」仕事を続けなければならない「東京のバスガール」の重い責任を自認するの気持ちが、よく分かって、「ほろり」の塩っぱさが共感できます。以前は、忍耐とか我慢ができる人が多かったですし、また《プロ意識》が強かったかも知れません。でも、我慢を要求するだけでは、立ち行かない時代になっているのかも知れません。

"スマホ"ばかりを相手にしていたら、人と接触する機会がなくなってしまって、会話などのコミニケーションのできない人になってしまうのではないかと、古今東西、現代の若者を心配しています。この街でも、おじいちゃんもおばあちゃんも、おじさんもおばさんも、お父さんもお母さんも、最近では、人を見ないで画面に、目が釘付けにされています。それと同時に、感情が露わになり、爆発することも多くなっていませんか。どうも憂慮すべき事態の様です。
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花や小鳥

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アメリカの北西部に住む次女から、桜とマグノリア(木蓮)が咲いたと、孫娘の写真と一緒に送ってきました。北半球には、もう春がやってきているのですね。さしもの寒冬を追いやる力強い春の息吹が、どこにも溢れている様です。広島の呉からも、「アカゲラ」の便りがありました。好い季節の到来です。

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子ども

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北欧のスエーデンの中学では、こんな事を教科書に記載して、授業で教えているのですね。「社会」の中での《自分》を見つめさせ、どんな背景の中に自分がある事を知る必要があるからでしょうか。マイナスなことだけではなく、「しかし」と記したプラスのことも、人生の様々な経験の中にははあるのです。大切なのは欠けた事ごと、足りない事ごと、経験しなかった事ごとを、どう超えて行くかです。

人間は、ずいぶん《柔軟》にできていて、マイナスを跳ね返して生きていける《強かさ(したたかさ)》を、生まれながらに持ち合わせているのです。だから人間的に不幸に生まれても、幸せになれるのです。竹の様に、ゴムの様に《遡及力》があるからです。私の父や母は、結構厳しい現実の中に生まれてきたのですが、社会性も公共性も持ち合わせた大人として生きていました。

「人の所為(せい)にしない生き方」なのでしょう。3歳児は、『こんな所に置いとくから、ボク転んじゃったんだ!』と言うんだそうです。転んでしまったのは、もう取り返しがつかないのだから、しなければいけないのは、立ち上がって、ズボンのドロを払って、前を向いて歩き始める事です。
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春分

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今日は、「二十四節気」の「春分」です。厳冬だったのが、嘘の様に陽光が暖かくなってきています。北から吹いてくる風は、今日は、結構冷たいのですが、風がやむとポカポカな感じがしてまいります。でも、日本列島は、最後の雪に見舞われている様ですね。シベリヤから張り出す寒気や低気圧が、日本海側や中部山岳に雪を降らせるのでしょう。東京では、桜が開花したそうですが、まだ満開は待たねばなりませんね。

「夏至」になるまで、日一日と長くなって行くので、やはり活動的な季節に突入になります。季節の変わり目、健康を願っております。

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FaceTimeなどで、様々な映像を見る機会が、このところあります。美しい花が咲き始めたり、小動物との交流だったり、世の中の親切や善意ある行為があったり、人の誕生や死にゆく様子などまで、実に多彩です。"ほのぼの"とさせられたり、感動させられることもよくあります。そして、映像を作る技術も色彩も優れています。

そんな中に、「空手」の組手や型(形)の演舞などの動画があります。それを観るのは好きではありません。なぜかと言いますと、幼い<空手少女>の目が鋭過ぎ、気合いが激しいからです。そこには<殺気>や<殺意>が溢れていて、<ゾッ>とさせられてしまうのです。自分の娘や孫娘が、あんな目つきや叫び声をして欲しくないし、世の全ての子供どもたちにも、そんな目や気合いを願いません。

もっと穏やかで、愛くるしい方が、幼子には相応しいのです。妙齢の女性にしてもそうです。日本武道をされる人の多くには、スポーツではなく<戦(いくさ)>の様な、まるで関ヶ原の<戦場>を駆け巡る兵の如き目をしている方が多くいます。そう、天翔ける鷹や鷲が獲物に向ける、あの目です。

藤村が、『君がさやけき目の色も』と詩に詠んだ様に、乙女らには《さやけさ(清けさ/明けさ、と漢字で書きます。目が澄んでいて明るいとの意味です)》をたたえて欲しいのです。母親が、子を慈しんで見るあの眼差しに応答している、幼な子の目の様子です。若い頃に、「松濤館流」という流派の空手をしたことが、私にはありました。でもやめたのです。そこに、先ほど記した様に、<殺意>を感じ、自分の目もそんな風になりつつあったからです。喧嘩が強くなっても、どうってことないのが分かったのです

私の恩師のアメリカ人起業家の一人の方は、実に《優しい目》をされていました。十代の頃は、<街一の悪>で、警察署にマークされた"Teenager"だったそうです。太平洋戦争に、二十歳(はたち)で兵士として従軍し、死線を越えて帰還してから、全く変えられてしまったのだそうです。そして戦時の敵の日本人に、海の様に深い愛を示そうとやって来られ、多くの時間と心を、そのために費やされました。そして、日本で召されたのです。

『目は口ほどにものを言い。』と言われます。人間性や生き方や存在そのものが、目に現れるからです。若い頃は、生意気な目つきをしていたんだろうと思いますが、仕事や子育てで、自分の弱さを知らされていた頃に、街の銭湯に行った時のことです。入浴客が兄と私以外、もう一人のおじさんだけでした。湯船の中で珍しくジッと、私と兄を見て一言、『澄んだ綺麗な目していますね!』と言ってくれたのです。世辞を言う様な知人ではなく、見ず知らずのおじさんでした。その最高のほめ言葉を、今も忘れません。

誰もが、かつて持っていた、濁りを知らない、幼な子の眼差しと心を思い出して、鏡をそっと見ています。

(生まれて間もない頃、まだ歩く以前の初孫の足です)

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はしご

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育った家に、木製の「足つぎ」と言う家具(?)がありました。高い戸棚に置かれた物を取ったり載せたりするための「踏み台」でもありました。また前面には、丸く穴が開けられていて、そこにゴミを捨てられる「ゴミ箱」と兼用として使われていました。父が大工さんに作ってもらった物で、「椅子」にもなる、優れ物の《多目的小家具》と言ったら好いかも知れません。今の様なプラスチック製のものはない時代の定番の小家具でした。

その他に、「梯子(はしご)」が家の外の壁に架けられていました。もう少し高い所を掃除したり、作業するための木製の《道具》でした。こちらに来て、高所の作業をするために使われているのは、「竹製」で、二本の太い竹の節の所に、穴を開けて、より細い竹や木片wを渡して、踏み板代わりにした物で、日本では、あまり見掛けないので、竹の多い、こちらではよく見かけるのです。

実は、昨日、家内の若い友人と私たちで、「梯子した」のです。その竹製の梯子に乗ったのではありません。水餃子屋さんと抹茶甘味処と珈琲店に、次々と入ったと言うことなのです。"デジタル大辞泉"に、『「梯子酒」の略。転じて、いくつかの場所を続けてわたり歩くこと。「映画の―をする」』とある、その「梯子」でした。

私が昨年、腱板断裂で、札幌の病院に入院して、手術とリハビリを終えて、こちらに戻った時に、『《術後の回復》のために!』と、自分のためにお母様に買ってもらった、大事な《肝油ドロップス》を、私に下さった高校生のお母様とでした。もう大学進学を考え始めているとのことで、帰国子女として日本の大学に行くか、こちらの大学に入るか、考え中だそうです。

4人の私たちの子供の進学の時を思い出したことでした。こう言ったご両親の心配や配慮によって、子供は大人になって行くのですね。自分自身、親にしてもらったことを思い出させられたりもしました。こちらでは、空前の"受験ビジネス"が展開されていて、「教育費」は、目の玉が出るほどに高額だそうです。奨学金や推薦や、好い指針が、彼に与えられることを願っている所です。

家内とお母様は「抹茶アイス」、私は「ぜんざい」、美味しかったのです。家内のものを"横取り(ピンハネ)"して食べたのですが、「宇治茶」の本物の味でした。この日本の《微妙な味》が、こちらでも大人気なのだそうです。次は「抹茶アイス」にしましょう。
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狭間

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私が生まれたのは、山深い渓谷沿いの道を通って、昔かの信仰の対象となっていた神社に至る、参道沿いにあった、参拝客用の旅籠の離れでした。父が、その神社の氏子であったからではなく、そこからさらに奥まった場所に、旧日本軍部の軍需工場(戦闘機の防弾ガラス用の原石の採掘をしていました)があって、その場長を拝命した若き父が、家族の宿舎に借り受けていものでした。

山と山がせめぎ合った渓谷の"狭間(はざま)"で、山岳信仰の行われる、山深い神秘的な地でした。そこで生まれて以来、上下左右を部屋に囲まれた集合住宅に住む事が多く、ここ中国でも、九階建てのマンションの一部屋を所有者する方の留守に、依頼されて住み始めているのです。隣家の生活音が四方八方から、k漏れ聞こえてきます。こうなると大草原の一軒家には、"シーン"としてい過ぎて、そう言った所には住めないかも知れませんね。

今まで、結構長く生きてきたのですが、その日々を思い返しますと、三種類の人の《狭間》で生きてきた様に思えるのです。『渡る世間に鬼はなし!』と言われている《善人》、『人を見たら泥棒と思え!』の《良からぬ人》、そして《普通の人》です。もちろん70年もの間に出会った人々を、この三つの枠に押し込めてしまうのは、ちょっと乱暴かも知れませんが。

みなさんにも、おありでしょうか、木っ端や拳で殴り掛かられ、暴言を吐かれ、脅され、策略に遭わせられ、騙され、奪われ、意地悪され、石を投げられ、罵られ、唾を吐かれたこともありました。被害者であったばかりではなく、若くて未熟な頃には、自分が加害者であったのも忘れてはいけませんね。好くないことを受けたのも、そうさせてしまった落ち度が、多分に当方にあったかも知れません。

それに引き換え、助けられ、励まされ、慰められ、力づけられ、赦され、褒められ、与えられ、癒された事の方が、遥かに多かったのです。それがあって、今日の自分があるわけです。

先日、家内が出掛けようとして、余所行きに着替えて、用でベランダに出たら、普段着の時にしか会っていない右隣の家の奥さんが、『ハロー、 很漂亮henpiaoliang/とても綺麗ですね!』と、声を掛けてくれたそうで、喜んでいました。このご婦人と家内は、目を合わせると声を掛け合い、安否を問い合う間柄で、ご主人とお嬢さん夫婦、2人の幼いお孫さんを世話されておいでです。まだ、行き来することはありませんが、好い近所付き合いがあるのです。

過干渉にならないで、ちょうど好い距離を保って関われるのが、一番いいのでしょう。若い友人たちが、私たちにはあって、行き来は結構多く賑やかです。ところが家内はともかく、私の同世代の退職者の男性たちとの交流が少ないのです。娘が、FaceTimeで、『何でも話せる人が近くにいないの?』と言われて、そうだと思ったのです。男は退職すると、こちらでも誰もが篭りがちなのでしょうか。

そういえば、ここに引っ越したばかりの時に、日本語で声を掛けてくれた、日本で働いて、退職後に帰国された方が、この30棟もある小区の中にいますので、近いうちに訪ねてみる事にしましょう。

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手紙

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ロケ地のアフリカから母親に、『拝啓、おふくろさま。僕、元気。』と、毎日の様に手紙を出したのが渥美清でした。『無事だよ!』と、そう知らせたのです。「日本一短い手紙 」を、全国から募集して、それを公表している自治体があります。「丸岡町(福井県坂井市)」です。もう何年も何年もされていて、23年も続いています。"クスッ!"と笑ってしまったり、涙ぐんだり、同じ様な経験もありそうです。傑作ぞろいです。

『おかあさん、
雪の降る夜に私を産んで下さってありがとう。
もうすぐ雪ですね。』
(大阪府 51歳)

『お母さん、もういいよ。
病院から、お父さん連れて帰ろう。
二人とも死んだら、いや。』
(千葉県 44歳)

『あなたから もらった物は数多く、
返せる物は とても少ない。』
(北海道 21歳)

『セーター、編めたので送ります。
素敵なピンクでしょ。
車椅子でも颯爽としていてね。』
(京都府 62愛)

『母さん、米ぐらい自分で買うから、
送ってこなくていいよ。後タオルも。』
(千葉県 21歳)
 
『待ってました、宅急便。
出てくる、でてくる、こんなのここでも売ってるよ!』
(北海道 31歳)

『親父を15越し。貴女の年に後5つ。
妻・子供・孫と生き生き暮らし。
元気な身体を、有難う。』
(東京都 63歳)

『あんなに嫌いだった、せりの佃煮や、ふきの金平が、
食いたいです。』
(東京都 31歳)

『母へ  
秘密家出チケット、送くる。
ウサばらし、夫婦げんかにお役立てを。-東京見物ー 』      
(東京都 27歳)
 
『母さん  
毎日笑って暮らしていますか?
世話になるのは身近な人よ 解っている?』            
(東京都 59歳)
 
『父よりも一品多い弁当と、
「バスケがんばれ!!」の言葉と、
笑顔の迎えありがとう。
(福井県 13歳)

『喰べてもいい 徘徊してもいい 
私を忘れても構わない
母さん 長生きしてね』                     
(福井県 49歳)

『「私だと思って下のお世話をしてあげて」というお母さん
私、いい嫁やってるよ。』
(長野県 53歳)
 
『字、へた。料理、あかん。洋裁、できん。子供 一人。
ひとつも お母ちゃんを 超せなんだ。』
(京都府 43歳)

『知らないうちにかぶってたゆうべのふとんありがとう。』
(京都府 43歳)
 
『何度も同じ話をするお母さん、
嫁や孫は逃げても、私は何度でも聞きたい。』
(大阪府 41歳)

『今日バス停で母さんに似ている人をみた
その重そうな荷物を持ってやったよ。
(大阪府 29歳)

『母上の甘酒、呑みたいです。
シベリアは寒いが元気、必ず生きて還ります。』
(山口県 68歳)

こんな手紙を出してみたくなるのですが、もう父も母もいません。甘酒を作って上げたお母さんは、その手紙を手にして、嬉しかったでしょうね。ネットのメールでは、どうしても味わえない心の交流媒体なのです。

(早春の中国山地の天翔ける「クマタカ(「里山を歩こう」から)」です)
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