独り静か

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この花の名は、「ヒトリシズカ」と言うそうです。今朝配信して頂いた、「里山を歩こう(広島県庄原市東城町・帝釈峡にて) 」にアップされていたものです。どなたが命名されたのでしょうか。じっと見つめていたら、そんな雰囲気を感じて、それが 「名」になったのでしょう。

父が、生まれたばかりの私を見て、「準」と名付けてくれた時も、何かの雰囲気を感じたのか、インスピレーションがあって、『こんな人であって欲しい!』と期待を込めて、呼んでくれた事でしょう。

若い頃に奥多摩の山歩きを、時々しました。南信州の高遠出身の上司が、よく誘ってくれたのです。この方も、木や草や花の名をよく知っておられました。季節季節の植物があって、あの山道の自然の匂いが懐かしく思い出されてきます。今ごろは、いいでしょうね。雨の中を歩かれたそうです。

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ゴミ

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私たちの子どもの頃は、三角ベースで、しかもゴムボール(軟式テニスボールの様で品質の悪い硬いゴム製でした)を手打ちでする野球に興じていました。しかし、正式の野球は、本塁から、一塁方面から右翼ポールまで、三塁方面から左翼ポールまで、一直線に伸びた石灰で引いた白色のライン内で、試合が行われます。そのラインの内側に、打ったボールが落ちればヒット、外だとファールになるのです。

今日、大谷翔平についての記事を、ネットの中で読みました。四球を選んだ大谷選手が、一塁に向かいますと、そのファールラインの内側に「ゴミ」が落ちていたのだそうです。そのゴミを、彼が見付けて、拾って、ラインの外に放ったのです。そのままでも、試合進行に支障はないのに、見つけた責任上、そうしたのでしょうか。

"キリキリ"した緊張の時に、そんな心の「ゆとり」が感じられる行為を、てらわずにしたのに驚かされてしまいます。『放っておけ!』で好いのに、放っておけなかったのでしょう。大観衆の目が、その一挙手一投足に注目を浴びる"スター選手"なのに、その観衆の視線を気にしない振る舞いを、自然にできるのには驚かされるわけです。

自慢話にならない様に願っていますが、7年間、こちらの学校で、「日本語」を教えたのですが、私も心掛けた事がありました。中国の学校の教室は、綺麗ではないのです。各教室の棟に、家族や夫婦で住んでいるのか、出勤してくるのか、管理人がいるのですが、手が行き届かないでいるのです。

前日の最終講義の後、机で食べた食事だか、おやつの残飯やゴミや空ボトルが、引き出しや床に、そのままなのです。どうも自分で始末ができない学生が多いのです。また、掃除人がいるんだから、捨てなくても好いのだ、とも考えている様です。私のクラスは、ほとんどが第一時限目で、そんな教室に、30分前に入ると、そのままにできなくて、ゴミ掃除をしてしまったのです。

机も拭いたでしょうか。気持ち好く教えたいし、みんなが気持ち好く学べる様に願ったからです。授業が終わると、板書した黒板を拭き、ゴミが落ちていたら拾い、机の中に忘れ物がないかを点検して、ドアーを締めて終えたのです。そんな年月を、中国の最高学府で過ごすことができたのです。それって、私には苦にならないのです。父親が几帳面でしたから、その感化かも知れませんし、仕事をしながら、大きなスーパーマーケットの清掃を請け負って、長くサイドビジネスをしていましたから、掃除は、お手のものでした。

23歳の卓越した、一人の人としての大谷選手の仕草に、驚かされます。肝っ玉が据わっているのでしょうか、大谷選手には、とても好感を持ってしまいました。これからの野球人生には、スランプ、低迷、迷いの時がある事が予測されます。しのぎを削るプロの競争の世界で、彼の魂が、さらに強靭にされ、技量が磨かれ、ごく自然体で、自分に「定められた時」を、精進しながら活躍して欲しいと願う開幕当初の4月です。

(大谷選手も高校時代に戦った「甲子園球場」です)

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耳をつんざくほどの雷鳴が、大陸の大空で響き渡っています。まるで大空を「鼓」の様にして、メタ・セコイアの巨木を打棒で、叩いている様な、凄まじい大音響です。それは人類の怒りの棒かもしれません。いいえ、造物主が人類を警告しているかの様でもあります。

この数日、ものすごい音響で、天だけではなく、私の五臓六腑に鳴り響いています。「春雷」、 「雷雲」も「雷鳴」も「雷光」も「雷雨」も、夏の到来を告げているのかも知れません。『雷がなったら、ヘソ隠せ!』と言われて、布団の中に頭を隠して、耳を塞ぐ様な事はしまでした。

この日本人が二番目に恐ろしがっている「雷」が大好きな私は、雷鳴が聞こえてくると、背筋がまっすぐになってしまいます。そして外に走り出て、その豪雨に当たりたい衝動に駆られてしまうのです。夕方5時前、先ほどから雨が降ったかと思っていたら、突然の雷鳴でした。今は遠くの方で鳴っています。朝な夕なの「雷」なのです。

私たちが子育てをした街も、気流のせいでしょうか、結構「雷」が多かったのです。こちらの「雷」と比べたら、赤子の様です。こちらは、筋骨粒々の親父がいきり立っている様な「雷」なのです。子どもの頃に、ラジオで聞いた、

『♭雷さんは粋なもんだ・・・・・・・・♯』

あの頃には、意味の分らなかった文句が、口をついて出てきてしまいます。世の中が、遠慮がちになってきて、みんなが縮こまっていて、小声になってきている日本の社会とは違って、ここ中国では、赤ちゃんまでが、裂けるのではないかと心配な大きく開いた口、その口に火がついた様に泣くのです。幼稚園児だって、もう一つ向こうのバス停で話す声が、こちらのバス停でも聞こえる様な大声なのです。

雷鳴に ガバと起き出す 昼寝かな

春雷に 夏が来たよと 妻に告げ

だから「雷」も負けずに、大音響なのでしょう。大陸が広いので、そうでもしないと存在感を表せないのでしょうか。スッキリ、サッパリすることが少なくなってきた今日日、この「雷鳴」は、私を爽快にしてくれます。ものすごい勢いの「雷雨」も、ありとあらゆる汚れを打ち叩いて流してしまうのです。「雷」が通り過ぎた後は、どこもかしこも綺麗サッパリなのです。

『雷さんよ、次は、いつ来るんだい?』と、もう首を長くしている私です。

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エドヒガン

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このところ、朝4時半頃になると、鳥のさえずりが聞こえてきています。朝告鳥の様です。『起きなさい!』と言っている様に聞こえるからです。夕方の4時過ぎにも、また木の上でさえずりの声がしています。人も、こんな声で話せたら、和やかに、平安になれそうですね。

染井吉野の桜の咲いている頃に、京都や東京や川越に旅行して来た方が、午前中に、訪ねて来ました。『桜が綺麗だった、!』と感動をもらしていました。確かに、大仰で、どこもかしこも桜だらけの日本です。しかし、人の訪れない山の中には、こんなに綺麗な「エドヒガン」も咲いているのです( 「里山を歩こう」で呉市の灰ケ峰の中腹に咲いていたそうです)。

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ノボタン

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私が撮った写真の花が、「ノボタン(野牡丹)」という花だと、教えていただいた花です。2014年の6月に、掲載した記事に添付した写真でした。植物学の専門家は、花の名を即答できるのに、驚きました。先日、野道を歩いていた時、『この花何と言うんですか?』と、友人に聞きましたら、花にスマホをかざすと、スマホが名前を教えてくれたのです。そんなソフトが、今ではあるのですね。驚きました。

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春の背筋

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「春の背筋と歩幅」と、ある新聞が、昨年の今頃、記していました。とても素晴らしい表現だと感心してしまったのです。と言うのは、真冬に、道行く人の背筋は丸く縮まり、歩幅は小さいのですが、どんなに寒さがぶり返してきても、春の声を聞くと、道行く人の背筋はピンと伸び、歩幅も大きくなるのでしょうか。『春だ!』との思いが、冬の防御的な生き方を終わらせ、期待感や喜びをもたらす生き方に変わっていくからでしょうか。

これを書いた新聞記者の方が、「米原駅」での経験を添えて記していました。この駅は、在来の東海道本線と東海道新幹線、そして北陸本線の乗り継ぎ駅で、太平洋側に出掛けた方が、北陸の街に帰って行くために乗り換える駅なのです。人生の<交差点>とも言えるでしょうか。この方は、金沢に帰ろうとして、北陸本線に乗り込む前に、駅弁を買ったのです。その様子を見ていた、ある人が、『北陸の人だね。』と声をかけたのだそうです。雪国の人は、雪が少ない米原の駅でも、背筋を丸め、狭い歩幅で歩くといった特徴を見破られたのです。

私の最初の職場に、九州の熊本から出て来て、東京の警視庁で警察官をしながら、夜間の大学で法学を学んだ方がいました。警察学校で、警察官の基礎を学んだ事を、話してくれた事がありました。例えば、「犯罪者の特徴」についてですが、挙動、立ち居振る舞い、目の動きなどによって、犯罪性や疚(やま)しさを見破るのだそうです。

熟練した刑事が、東京や大阪の繁華街で、道行く人を、そんな眼で眺めているのです。時々、指名手配中の容疑者を、群衆の中に見つけたりすると聞いた事があります。また職務質問をして、返ってくる言葉の訛りなどから、どこの出身かが分かったりもするのです。もしかしたら、防犯カメラの映像よりも、人の目や耳での感じ方の方が、研ぎ澄まされているかも知れません。

長く人を見続けてきた人や、ある電気製品や音響製品を作り続けた技術者は、長い経験の中で培った、目や耳の感覚で検査したり、識別できるのだそうです。『コンピューターよりも正確なのです!』と聞いた事があります。人の長い経験で培われた能力とは、それほど凄いもので、熟練の域に達している職人の持っているものには、驚くべきものがある様です。

長く、数多くの学生を教えてきた教師には、新しく出会う子どもたちの過去、現在、未来の姿が、何となく見えてきて、その経験から、新入生を一瞥しただけで、何かが分かるのだそうです。これも教育熟練者の特殊能力なのでしょう。よく思うのですが、そう言った大人が、自分の未来について不安を覚えている子どもたちに、その適性などを見抜いて、適切にアドバイスできたら、大きな助けになると思うのです。

でも、人生というのは、過ぎ去ってしまった日々を、今の時点から思い返す事で、ある理解や納得がやってきたり、神秘的な導きがあったことを知るのも、意味がありそうですね。人や思想や機会など、様々な出会いや別れがあったのを、私も思い返して、それが人生なのだと、今になって承知するのでしょうか。人生とは不思議なもので、また楽しいものでもあり、また冒険に満ちたものであります。

(「里山を歩こう」から、呉市灰ケ峰に咲く「やまざくら」です)

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浄さ

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私は、青年期に、「浄(きよ)い生活」に憧れていたのです。自分が、随分汚れていると感じていたからです。でも、実現できずに、悶々としていました。そんな私に、衝撃を与える人物を知ったのです。よく"アッシジのフランチェスコ"と呼ばれている、中世のイタリア人です。青年期に放蕩三昧に生きていた彼は、ある時、劇的な《回心》を経験して、在り方や生き方を全く変えてしまうのです。そして同じ様に変えられた若者たちと、女に触れない独身者の集団生活(「小さき兄弟団」です)を結成します。人々を助け、世の中の必要に届こうとして、生きていくのです。しかし独身生活をする事で物欲、性欲、名誉欲を抑え込む事など、誰もができるものではなかった様です。

このフランチェスコを主人公にした、映画ありました。その中に、次の様な場面があったのです。きっと事実に基づいた出来事だったのでしょう。ある時、「小さき兄弟団」が、道を歩いていました。その内の一人が、洗濯をしていた女性を、凝視していたのです。乳房を露わにした胸に見惚(みと)れていたのです。"フランチェスコ"は、その様子を見て、彼を咎めませんでした。

この青年に、集団から離れ、「聖なる結婚」をする様に、彼に勧めたのです。<禁欲>と言う戒律で、人を縛り付けずに、一人一人の心の動きが違う事を認め、生まれ持った欲望を、健全に正しく消化する方法を勧めたわけです。この様に、独身主義に、耐えられない人の情動を許容し、《結婚の健全性》を勧めた"フランチェスコ"に、私は親近感を覚え、感動したのです。

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生まれつきの人がどういう者で、どうあるべきかを教えられた私は、ありのままで自分を認め、受け入れ、これで生きて行こうと決心したのです。そして"フランチェスコ"の様な《回心》を経験したのです。自分の内側には、マグマの様に湧き上がる誘惑に、抵抗し勝てる力がなく、全くの敗北者である事が分かった私は、《私を強くしてくださる聖なる方》と内面的に出会って、解放と安心を得たのです。

もちろん今もなお、老いた者には、老いた者への誘惑があり、戦いの渦中で、マゴマゴしています。人として、男として、老人としての内的な葛藤があるのです。生きとし生ける者が持つ葛藤です。でも自分を責めなくなったのは、よかったと思っています。<弱い自分>のままですが、《内なるお方》は、強いので、助けてくれ、励ましてくれ、また叱ってくれるのす。この方は、様々な誘惑を通られても、虚偽や偽善のない《勝利者》なのです。そう言うお方なら、付き従えそうです。

それにしても、女性が上がるだけで、「土俵」が汚れるという事が、取り沙汰されています。そうなら、相撲をとる力士は、誰もが女性のお母さんから生まれています。また、土俵が「聖域」なら、その上で、殺意を込めて相手を打ち倒そうと、禁じ手を使ったり、「八百長」を演じたり、さらには、土俵下の生活では、愛人を隠し持っている人が、その上に上がるのは大丈夫なのでしょうか。風呂に入ったり、塩を体に擦り付けたら、「浄く」なれるのでしょうか。塩をふんだんに撒くだけで、汚れた者が上がっている「聖域」が、即、浄くなるのでしょうか。矢張り、<形式主義>に過ぎないのではないでしょうか。

(イタリアのアッシジの街の風景、清楚な「むくげ」です)

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紫背菫

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野山に咲く花は、人の手が加えられていないだけに、ただ健気に、天に向かって咲くだけです。春が来る度に花開き、小声で賛美しているのでしょう。こんなキレイな「シハイスミレ(呉市倉橋島にて☜「里山を歩こう」漢字で<紫背菫>と書くそうです)」に出会えるなら、山歩きをして見たくなってしまいます。

何時でしたか、この街から車で出かけ、船に乗って、連れて行ってもらった小島に、名を知らない花を見つけて、写真を撮りました。そして、このブログに載せましたら、それをご覧になられた、植物の専門家が、名前を教えてくださった事がありました。名を知らない花ばかりです。

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BigBen

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義兄は、18歳で、横浜から船に乗って、ブラジルのサントス港に上陸し、ブラジルの大地を開拓する農業移民として出掛けました。一度も帰る事なく、ブラジルの地に没したのです。日本での契約時に交わした約束とは違った、現地の受け入れで、大変な苦労をしたそうです。同時期に一緒に移民した仲間が、寂しさに耐え切れずに自死し、その遺体を、泣きながら掘った墓に葬ったと聞きました。悲しい「移民物語」の一コマです。

結局、その農場を、義兄は秘かに脱出してしまいます。何も目当てがなかったのですが、時計の修理技術を教えてくれる人がいて、本人も手先が器用だったので、その技術を身に付けたのです。結婚し、店を経営し、広大な土地を買い、家を建てる事ができたのです。その自分の店に、"Big Ben"と名付けました。自分の修理した時計が、ロンドンのウエストミンスター宮殿の時計と同じ様に、時を刻み続けるのを願ったからでしょうか。

本場の"Big Ben"は、ロンドン中に、その時刻を知らせる時計が鳴り響いたのだそうです。私は、その時計の音が、"キーンコーンカーンコーン"の繰り返しシハイスミレであるのを知らなかったのです。これって、日本の学校の中で聞いた、授業の開始と終了を告げる、あのチャイムと同じだそうです。午前中の授業の終わりを告げるチャイムを聞いた途端、唾液腺の活動を激しくされた音です。

用務員のおじさんが、手で振って、"カラーン、カラーン”と鳴らした鐘に代わって登場したものでした。もう随分聴いてない懐かしい音です。"ウーウーウー"の空襲警報を告げる音でも、火事を知らせる半鐘の音でもない、ロンドンで鳴り響いた音を使ったのは、当時の学校が、素晴らしい選択をした事になります。

木造校舎で、廊下も教室も、”ギィーギィー"と鳴る音が懐かしく思い出されます。弁当がなかった時は、甲州街道沿いの肉屋さんに跳んで行って、コッペパンに馬鈴薯のコロッケを挟んで、ソースをかけてもらったり、コッペパンにピーナッツバターやマーガリンを塗ってもらって、昼御飯にした事がありました。美味しかったのです。そう言えば、あのコロッケを、ずいぶん食べていないのです。

豚カツとかメンチカツとかハンバーグ以上に、このコロッケの味が懐かしいのです。美味しかったのは、目の前で揚げたてだったからでしょうね。あの肉屋さんは、まだやってるのでしょうか。どこの学校の近くにも、こう言った店が、日本中にあった時代です。スーパーの透明容器に入ったものでは、代用になりそうにありません。

今度帰ったら、そう言った店を見つけて、子どもたちの後に並んで、『おばちゃん、コロッケいっこちょうだい!』と、もう一度言ってみたいなと思っています。今では、どこも綺麗にまとまり過ぎて、ああ言った食文化や情緒が失われてしまったのは、残念至極です。あれって"Big Ben"の義兄も知っている味ではないかな、そう懐かしく思い出しています。

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昼寝

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広島県呉市の上浦刈島(芸予諸島)から眺めた、温暖で、穏やかな瀬戸内能見と島かげです。かつて「河野水軍」が、この水域を中心活躍したと、「里山を歩こう」が、伝えてくれました。こんな素敵な風景を眺めながら、《昼寝》ができたら、「春の夢」が見られるそうですね。政治醜聞、国際紛争、地震、猛烈な夏の天気予報、世の中の騒々しさや心配から離れて、国や地球の将来を、まどろみながら思いやれたらいいですね。

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