モミジアオイ

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これは「モミジアオイ」です。「松江の花図鑑」が送信してくださいました。こんなに綺麗な花が、母のふるさとの近くで咲いているにを知って、感動します。「ガーデニングの図鑑」に次のように解説されてあります。

「北アメリカ原産のフヨウ科ハイビスカス属に分類されている多年草です。自生地は、アラバマ州、ジョージア州、フロリダ州などの湿地や沼地で、原産地では沼ハイビスカス(swamp hibiscus)と呼ばれています。日本へは1863年(幕末)に渡来し、古くから親しまれてきた歴史がある植物です。

花期は7月~9月。真っ直ぐに伸びた茎に大きな赤い花を咲かせます。花は同属のハイビスカスによく似ていて、一日花ですが次々に蕾が付き開花します。花色は写真の赤のほか、白、ピンク。近年ではアメリカフヨウとの交配種で、花弁の幅の広い品種も流通しています。」とあります。

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華の東京

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明治の御維新で、京都から東京に遷都され、上り下りの旅が逆転しました。つまり京に上ったのが、東京に上る様になったのです。鉄道事業が進み、京都から東京へ列車で「上京」することになってしまいます。天皇も、京都から東京に住まいを替えたのです。幕末の江戸は、ほぼ「百万人都市」だったと推計され、当時、北京と同じほどの人口だったと言われています。「東京節」と言う歌がありました。大正8年(1918年)に歌われ始めた様です。

東京の中枢は丸の内
日比谷公園両議院
いきなかまえの帝劇に
いかめし館は警視庁
諸官省ズラリ馬場先門
海上ビルディング東京駅
ポッポと出る汽車どこへゆく
ラメチャンタラギッチョンチョンデ
パイノパイノパイ
パリコトパナナデフライフライフライ

東京で繁華な浅草は
雷門、仲見世、浅草寺
鳩ポッポ、豆売るお婆さん
活動、十二階、花屋敷
すし、おこし、牛、てんぷら
なんだとこん畜生でお巡りさん
スリに乞食にカッパライ
ラメチャンタラギッチョンチョンデ
パイノパイノパイ
パリコトパナナデフライフライフライ

東京の自慢はなんですか
三百万人うようよと
米も作らずにくらすこと
タジレた市長を仰ぐこと
それにみんなが感心に
市長のいうことをよくきいて
豆粕食うこと痩せること
シチョウサンタラケチンボで
パイノパイノパイ
洋服もツメエリでフルイフルイフルイ

東京の名物 満員電車
いつまで待ってても乗れしねぇ
乗るにゃ喧嘩腰 命がけ
ヤットコサと空いたのが来やがっても
ダメ ダメと 手をふって
またまた止めずに行きやがる
なんだ故障車か ボロ電車め
シチョウサンタラケチンボで
パイノパイノパイ
洋服もツメエリでフルイフルイフルイ .
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その後、中山晋平の詞に、西條八十が曲をつけた「東京行進曲」が歌い始められたのは、1929年でした。

1 昔恋しい 銀座の柳
仇な年増を 誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりゃダンサーの 涙雨

2 恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文書く 人もある
ラッシュアワーに 拾った薔薇を
せめてあの娘の 思い出に

3 ひろい東京 恋ゆえ狭い
粋な浅草 忍び逢い
あなた地下鉄 わたしはバスよ
恋のストップ ままならぬ

4 シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で 逃げましょか
かわる新宿 あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る
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さらに、昭和になって戦争後には1964年、東京オリンピックが行われました。そのlm年に、作詞が藤間哲郎、作曲が佐伯としの「東京の灯よいつまでも」が売り出されました。
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1 雨の外苑 夜霧の日比谷
今もこの目に やさしく浮かぶ
君はどうして いるだろか
ああ 東京の灯(ひ)よ いつまでも

2 すぐに忘れる 昨日(きのう)もあろう
あすを夢みる 昨日もあろう
若い心の アルバムに
ああ 東京の灯よ いつまでも

3 花の唇 涙の笑顔
淡い別れに ことさら泣けた
いとし羽田の あのロビー
ああ 東京の灯よ いつまでも

この「東京」は、度々歌で歌われた街で、「華の」と付くの相応しい街に違いありません。まだ走っていた都電に乗って、銀座通りをたどった遠い昔日々を思い出します。長安も、洛陽も、開封も、詩に詠まれることもあったのですが、曲をつけて歌われると言うのは、日本的な特徴でしょうか。パリも、ニューヨークも、ロンドンも、日本の歌にあります。昨日お会いした、これから日本の長崎に留学する若者は、一度訪ねた東京に魅了されていました。

((東京都の鳥のユリカモメ、木のイチョウ、花のソメイヨシノです)

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金農/ KANANO

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「一都一道二府四三県」にある高校の運動部、特に甲子園大会に出場する高校の野球部の出身高校、とくに何度も出場する名門高校は、ほとんどが野球留学の部員なのだそうです。第100回大会の決勝の両校のベンチ入りした、18名の選手の出身校を見ていましたら、大阪桐蔭高校は、大阪府からが5人で、他の13名は、府外の中学の出身でした。それに比べ、秋田県代表の金足農業高校は、全員が秋田県下の中学の出身でした。

この街から、高知県の野球の名門校の明徳義塾高校に留学した若き友人がいました。野球部の推薦ではなく一般の留学生だったのですが。彼の入学式に、保護者の代わりに出席して、高知竜馬空港からレンタカーで学校に着いて、野球場の脇の道を走っていましたら、ほとんど野球全員から、『チワー!」と声が掛かりました。

2018年度の明徳義塾高校野球部の18名中、高知県かの中学出身者は4名、他は県外からの出身でした。あの時の野球部員の多くは、県外者だったのでしょう。もちろん義務教育ではありませんし、出場校の多くが、私立高校なのですから、それで好いのかも知れません。ただ、公立高校の出場が、年々少なくなってきているのが寂しいのです。

決勝まで勝ち上がった、金足農業高校は、県立高校で、しかも農業高校です。斜陽の第一次産業の農業を学ぶのですから、すごいなーと思ったのです。日本の農業人口は、現時点で、180万人を切るのだそうです(因みに1960年代は1000万人もの農業人口があったそうです)。そういう中での今大会での金農高の健闘は、素晴らしく意味があるのだと思われます。

アメリカに行きました時に、オレゴン州、ワシントン州、ロッキー山脈を超えたアイダホ州、モンタナ州、ワイオミング州を車で旅をしました。これらの州は農業が盛んな州で、大規模農業をしていました。メキシコからの労働者と、その道筋のスーパーマーケッチで会いましたので、彼らが主要な農業従事者だったようです。

あの旅行で、アメリカは、広い国土で、農業も、堅実に行う国だということが分かったのです。それに引き換え、日本の農業生産は少なく、他国に農産物を頼らざるを得ない産業構造になっているのです。休耕地が多くあるのですから。それを利用して、農業をしたら楽しいのではないかと思うのです。難しい人間関係に縛られないで、自然派で生きられるのは、けっこう楽しいかも知れません。

この住んでいます街の北の高地が、清里や軽井沢に似ていて、高原野菜や果物の栽培に適している様に感じるのです。家庭菜園しかしたことのない者の印象ですが、大都市を控えて、けっこうやり甲斐がある様に思えるのです。先日訪ねた村では、"火龍果"を栽培していて、頂いて食べたら、とても美味しかったのです。

戦前、1931年に、台湾代表の嘉義農林が、甲子園に出場したことがあり、その学校の活躍が映画化され、観たことがありました。台湾人、山地族、日本人の混成チームでした。金農の若いみなさんは、農業の後継者になられるのでしょうか。ぜひ頑張って、食の自給のために励んで欲しいのです。農業は、国の基幹産業なのですから。

(金足農業高校のある秋田市の市花の「サツキ」です)

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内向きに咲く

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『外向きに咲く!』と言ったのが、聞こえたのでしょうか、今朝咲いた朝顔の一輪は、内向きに咲いてくれました。毎日咲いてくれるのを喜んでくれるのが分かるに違いありません。今日は、暑さの中にも、何とは無しに秋の色が、陽や影の中に見え始めてきていました。長崎県下は、台風の渦中にあるそうですね。長崎の大学院で学んでいる教え子が、福岡で"インターンシップ中"だと、写真を添付してメールを知らせてくれました。元気そうです。
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晩夏の夕陽を受けて、北側のベランダで咲く「名無花」です。もうずっと、咲き続けているのですが、花の名が分りません。暑くても寒くても、あんなに細く折れそうな枝で耐えて生き続けるのですから、生命力とは、驚くものです。『暑い!』とか、『寒い!』とか言ってしまう私よりも、はるかに強そうです。

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竹とんぼ

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実は、今だから告白することにします。<欲しかった物>が三つ、四つありました。一つは、<オートバイ>です。中学の時に、弟が友人のお母さんから、<ラビット・スクーター>を貰ってきた事がありました。それを、住んでいた家から高台にある畑に引いて行って、それに乗ったのが、エンジン付きの乗り物で、初めての乗車でした。本当に面白かったのです。こがないで動くのに魅せられてしまったのです。それで高校生の時に、“Harley-Davidson”の《750ccモーターバイク》が欲しかったのです。

もう一つは、<カメラ>でした。小さな機械が、目で見た、同じ光景を写すことができるのに、小さいん)頃に驚いたからです。もちろん日本製が優れているには重々知っていました。それでも、ドイツ製の《ライカ》が欲しかったのです。見るだけで、手にとって見たこともなかったのですが。多分手にとったら、脇目も触らず、後先を考えずに、月賦払いで買ってしまうのを恐れたからです。それだけ、魅せられていたのです。

三つ目は、ジープでした。アメリカ製のジープは、子どもの頃、米軍基地の近くの町で育ちましたから、甲州街道を走る姿を見ていました。それで、東京から、中部圏の街に、アメリカ人起業家について行くときに、休みに山の中を走り回りたくて、スズキ製で、しかも軽自動車の《ジムニー》を買うつもりでした。でも子どもが次々に与えられて、断念しました。

モーターバイクに跨るか、ジムニーに乗るかして、ライカを手に、あちこちと旅をしたかった、これが夢だったのです。何一つ叶えられずに、今春、帰国時に自動車運転免許の更新をせずに、失効してしまいました。アメリカの運転免許のライセンスを取得し、アメリカで車を運転したことがありましたが、もう叶いません。あれほど欲しかった《ライカ》だって、スマホやiPadの登場で、もう不必要になってしまいました。

我儘に育ってしまった私ですが、けっこう物欲は強くなかったのかも知れません。スーパーの通路の上に、仰向けになって、足と手をバタバタさせながら、わめき散らしながら、『買ってー!』とやってる子を、よく見掛けましたが、あんなことはしたことがありませんでした。ああする大人だって例外ではありません。『欲しい物は、どうしても手に入れる!』人がいるからです。

一度も、そういった振る舞いをやったことがないので、今更できません。今欲しいのは、《竹トンボ》です。事務所を、みんな素人で建てていた時に、近所の大工さんが、手伝ってくれ、その後、子どもたちに、手作りの《竹トンボ》を持ってきてくれたことがありました。エンジンもなく、ガソリンも要らず、排気ガスはないし、手もみで空中に飛び上げられるのです。この街は、竹製品の多い地方ですから、どこかに、同じような手工品がありそうです。秋空に、高く飛ばしてみたいものです。

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トンボ

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ほとんど"バックスタイル"の朝顔の写真ですが、向こうの棟のみなさんや通り抜けていく方には、表の綺麗な姿が眺められていることでしょう。今日も厳しい暑さの一日が始まっています。川辺の散歩道の上には、たくさんのトンボが舞っていました。求愛しているのでしょうか。強くて逞しく飛ぶ相手を見つけて、丈夫で頑丈な子を生みたいのでしょう。中国語の「丈夫zhangfu」は、「夫」のことを意味していますから、中国の女性も、「丈夫な男性」を好むのでしょうか。肉体だけではなく、精神的にも丈夫なことも大切な要点です。

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青春

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野球は“ヒマワリ”、ハンドボールは“イヌフグリの花”でしょうか。甲子園では、高校野球が熱射の中、たけなわの熱闘を繰り広げています。 マイナーなスポーツをやった者としては、日本中が大騒ぎするメジャーなスポーツは、羨ましい限りです。小さなボールではなく、野球よりも何倍もー大きいボールを追い、投げた私には、ちょっと悔しさがあります。

私のすぐ上の兄は、神宮球場の大会まで進んだのですが、当時、東京一区、一校だけの東京代表の時代、ベスト16で敗退して、涙を飲みました。数え上げれば、これまで何十万、何百万の野球小僧がいたことになります。「100回記念大会」とのことで、“レジェンド(伝説の高校球児)”たちの始球式が行われているそうですね。

そんな彼らの背後に、プロにもアマにもならずに、野球人生を終え、草野球に甘んじた野球小僧たちのことを思っています。大学の野球部にも推薦されたことのある兄ですが、会社の野球チームでプレーをしていた時期があった様です。でも、今年“77歳”、帯状疱疹がもたらす<悪さ>の痛みと闘って、この時期を迎えています。

何年か前に、上海から一人で乗船して、大阪港に着いて地下鉄に乗ったのです。その途端に、8月でしたから、『もしかしたら?』と、学生に聞きましたら、全国高校野球大会の最中とのことした。それで甲子園に方向を変えようとホームで、ご婦人の一団に、行く道を聞いたのです。そうしましたら、宗教団体のみなさんで、姉妹教団の学校が出場し、応援を幹部から要請されたので、これから行くと言うのです。

『ちょうどチケットが一枚残っているので、一緒に!』と言うことで、宗旨は違うのですが、渡りに船で、おばさんたちの後についって行ったのです。その高校は、母の出身県・島根県代表でした。それで大声を出して応援させていただき、初めての甲子園を経験したわけです。
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相手は、東北大震災で被災した、岩手県代表の盛岡工業だったと思います。本当は、向こうのスタンドで、応援して上げたかったのですが、依怙贔屓(えこひいき)なしで、双方の活躍を、三塁側のスタンドで願ったのです。結果は、盛岡工業が勝って、おばさんたちは、すごすごと帰って行かれました。

それでも“ヒマワリ”であり続ける人は、ほんのわずかですが、白球を追った青春とは好いものですね。同じグラウンドの向こうで野球を、こちらで、まだ“11人制”のグラウンドを駆けていたのも、もう一つの青春でした。今や、「白頭掻けば短し」で、ポケットに昔、入っていたクシも要らないほどの坊主頭の爺になってしまいました。

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三人組

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今朝のベランダの寒暖計は、28℃を示しています。二輪の朝顔が開き、日曜日の朝を輝かせてくれています。隣家のベランダが写っていて、花にはそぐわないのですが、そこにも生活があります。おばあちゃんと家内は、顔を合わせると挨拶を交わし、"ハロー!"と言われて、家内は、”早上好zaoshanghao”と応えています。この夏休み、小学1年生と1才半ほどの二人の女の子を連れて、ご家族で旅行をして来たとのことです。

次女の二人の子たちも、キャンプに出掛けていて、親だけが家に残っているそうです。下の孫娘は、初めてのキャンプへの参加で、”三人組" にグループ分けがなされるそうです。"二人”になろうとして、"一人”がはじかれる難しい関係の中で学ぶ様に、主催者側が考えたのでしょうか。そろそろ夏休みも終ろうとしています。それにしても暑い夏でした、いえまだ暑いのですが。お大事に!

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存在

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向陽性の朝顔は、決して内向きに花を咲かせません。その後ろ姿を見るのみですが、けっこう毎朝、忠実に花を開いて、向こう向きで、私たちを無視して咲いています。種を蒔いた者を喜ばせていないのです。忍耐が足りなくて、諦めていたのに、開花の時期が、造物主の意思で定められているにを忘れていました。葉だけで終わるのだろうと思っていたら、芽を付けてきたのです。遅咲きだったわけです。

それは、朝顔だけでなく、人間だって同じなのでしょう。同級のOくんは、跳び抜けて大きな小学生でした。血色も好いし、朗らかだし理想的な健康優良児でした。それに比べて、肺炎病みで、死線を何度も超えてきた自分は、ずいぶん貧相なやせっぽちでした。父が必死になって、バターとか肉とかケーキとか果物を食べさせてくれたのに、申し訳ないことに、大きくなりませんでした。

中学は、私立の学校で、裕福な家庭の子たち来ていましたから、多くの子は、戦後の食糧不足の中を、恵まれて育って大きく、それに比べて、自分は背の高さ順に並ばさせられると、前から三、四番目でした。産婦人科医の息子は、おじさんの様で、すでに発毛していました。ところがバスケットボールを、父に断って始めたら、背が伸びて、中学卒業時には、173cmにもなっていました。同世代ではマアマアの背の高さになったのです。背の高さだけは挽回することができました。

高校に入った頃には、喧嘩で、かなり大男を、ノックダウンさせるほど強くなっていました。その喧嘩相手が、N大の応援団の幹部候補生になっていて、仲間の団員に話した話が、自分の通った学校の同級生に伝わって、『準、お前は喧嘩が強いんだってな!』と評判になってしまったのです。喧嘩の強さなんか自慢になんかなりませんから、恥ずかしかったのを覚えています。

この国の法廷の様子を撮った写真に、被告を両方で裁判所の警官が囲んでるものがあって、見たことがあります。高身長で体格の良い被告には、その人よりも頭一つ高い警官が、決まって両方についているのです。決して被告が優秀さを誇れない様にしているんだなあ、と感心しているのです。でも、もう5cm高かったらと、自分は願ったこともありましたが、『人の価値は、体格や能力にあるのではなく、「存在」そのものに価値がある!』と教えられたのを、思い出します。

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夏水仙

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この花は、呉市灰ケ峰湿地に咲く、「夏水仙(ナツズイセン)」で、原産地は中国だそうです。帰化された方が球根を運ばれたか、留学生が持ち帰ったのでしょうか。“ウイキペディア”には、「日本では、本州から九州の人里近くの山野や道端などの木陰に生育する。古くに中国から渡来した帰化植物と考えられている。カラスノカミソリ(八戸市)やピーピーグサ(神奈川県)などの地方名がある。」とあります。

「水仙」の名がついていますが、「彼岸花」の一種なのだそうです。スクッと伸びていて、綺麗な咲き姿です。それは、撮影技術が優れているから、その様に見られるのでしょう。いつも素敵な花の写真を送ってくださる、「里山を歩こう」の“マルタン”さんには、大いに感謝しています。ありがとうございます。いつもの撮影地の写真ですが、大雨の被害は少なかった様で、嬉しいです。でも呉市の市街地では、被害を受けられておいでで、復旧が速やかになされます様に、心から願っております。

私も留学生の端くれで、そのまま居着いてしまい、仕事まで与えられたのは感謝なことです。ここ大陸の地で、はるか祖国の花々を楽しませていただいております。感謝!

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