見様見真似

 

 

『《最後の食事》に何を食べますか?』と問われて、どう答えるかを、今考えています。大体、どなたも答えは決まっている様です。《おふくろの味》と、ほとんどの人が答えるはずです。いえ、家内の料理が美味しくないのではなく、感情的な《郷愁》が、そう答えさせるのでしょう。

「かた焼きそば」かな。中華麺を油で揚げて、それに独自の「かけ餡」をかけてくれたものでした。「ハンバーグ」かな。肉屋さんで牛肉を挽いてもらって、人参と玉ねぎとニンニクをみじん切りにして、パン粉と卵で形を整えて、フライパンで丁寧に焼いてくれたものでした。

先日、「ちらし寿司(母のふるさとでは「バラ寿司」と呼んだでしょう)」を作ったのです。干し椎茸、高野豆腐を水に戻し、貝柱、小竹輪を細かく切る。それをアゴ入りだしと醤油とみりんに日高昆布で煮たもの。黒酢を日高昆布を入れて蜂蜜で煮て、寿司飯を作る。そこに煮た具材を入れて混ぜ、シラス、サヤエンドウ、錦糸卵、刻み海苔をかけたのです。

これって、団扇(うちわ)で寿司飯を冷ます手伝いを母にさせられて、何度も見ていた具材と手順と同じなので、昨日が二度目の料理でした。家内は、『紅しょうががないわ!』と注文するほどになっています。見様見真似で作ってるのですが、お袋の味には程遠いようです。

カレーも独特の味でした。石油コンロを使って、手際よく料理していたお袋は、割烹着を着ていたでしょうか。五人の子(親爺も入ってです)の三食の世話を、一言も文句を言わないで、喜んで世話をしてくれたのです。洗濯機のない頃は手洗いで、六人分を洗って、すすいで、干して、畳んで、仕舞ってくれていました。梅雨時はどうしてたんでしょうか

娘時代に、「今市小町」と言われるほどだったそうで、甲州街道沿いの時計屋のオジさんが、仕事をする手を休め、口をポカンと開けて、道行く母に見惚れていたほどです。様々な思い出の光景や味は、いまだに鮮明です。華南の街の最高級のホテルの名食飯店で、ご馳走になった料理も、アメリカの知人が接待してくださったディナーよりも、やっぱり《おふくろの味》に勝るものはなさそうです。

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安心

 

 

天野貞祐(ていゆう)、吉田内閣の文部大臣をした人で、「獨協大学」の初代学長を歴任された教育者で、政治家です。この大学は、学校法人の「獨協学園」に属しています。この他に、「獨協医科大学」を経営していて、家内は、この大学の病院に入院していたのです。

この学園の歴史は、「西欧の文明文化との積極的交流を図るために明治14(1881)年に設立された獨逸学協会を母体として、ドイツの文化と学問を学ぶ目的のもと、明治16(1883)年に獨逸学協会学校(旧制獨協中学校)が開校しました。これが本学園の源であります。」と、学園の案内にあります。

医科大学に開校については、「昭和48(1973)年、明治初期の学校設立の経緯、並びにその後医学界へ多くの人材を輩出してきた実績や伝統などから医学、医療の原点にかえり医学の進歩や社会の変化に対応し得る医学教育を念願して獨協医科大学を設立いたしました。その後、付属施設として獨協医科大学病院、附属看護専門学校、獨協医科大学越谷病院(現・埼玉医療センター)、更に附属看護専門学校三郷校を順次開設しております。」とあります。

この1月初めに、この病院の「総合診療科」で診察を受け、「呼吸器アレルギー内科」で検査や治療を受けている家内に付き添い、入院した家内を、毎日見舞いながら、受付、会計、投薬、病棟での治療の様子を、つぶさに見ながら感じたのは、患者の家族としての《安心感》と《満足感》でした。家内は、これまで順天堂大学病院、日赤広尾病院、朝霞台病院、板橋総合中央病院で診察を受けてきていますが、長期に関わって、治療を受けてきたのは、この獨協医科大学病院なのです。

 

 

『この病院は何かが違う!』と考えてみましたら、《ドイツの合理主義》なのではないかと思ったのです。営利だけでも、名誉のためだけでもない、置かれた地域の医療の《使命感》、治癒を願って、やって来る患者に施す医療の果たすべき《責任感》が明確なのではないかと感じるのです。徹底して、医師も看護師もリハビリの療法士も医療技師も、事務職も掃除をされる方から守衛さんに至るまで、患者に仕える姿勢が好いのです。

最先端の医療機材、ドクター・ヘリとともに、『心がある』のです。家内の主治医は、31歳でしたが、仕切りに《カンファレンス》の意見を聞きながら、治療判断をしていると言われていました。個々の患者さんの病状を、会議をしながら、経験豊かな医師陣の意見を求めているのです。『素人なんだから黙っていなさい!』なんて言いません。自分の母親への治療について、自分の意見や願いを熱く語る子どもたちの声に聞いてくれていました。

友人のお孫さんの早産、今に至るまでの未熟児のケアー、そのお母さんのお病気に、治療とケアーに当たってくれて、大きな感謝があって、家内の加療と入院を勧めてくれたのです。友人自身も、10年前の肩関節のボルトの除去と人工関節をつけるために、その治療と手術のために、先ごろ入院され、今は退院されておいでです。そのお孫さんは、健康で、幼稚園の年中さんなのです。何か、この病院の《ファン倶楽部》が、ここにある様です。

そんな病院で、今、外来の担当医に、家内は診て頂いているのです。家内が安心して受診しているのが、また、私の安心でもあります。多くの友人、家族、親族が支え、激励し、見舞ってくれています。人に恵まれた家内が、ここにいます。

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紫雲木

 

 

ロサンゼルスに咲く、紫の木花の写真を、長女が送信してくれました。春5月から6月に咲く、「ジャガランダ」と言う花でしょうか。南米のアルゼンチンが原産国で、和名を「紫雲木」と言います。高貴な紫色で、素敵な花ですね。

アルゼンチン渡航の夢を叶えようとしていた、17の頃を思い出します。アンデス山脈のブドウに産地の「メンドサ」に行きたかったのです。でも安易な道を選んだのですが、その選択は正しかったのかも知れません。開かない戸を無理にこじ開けなかったからです。

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群来

 

 

「群来」、これを読めるでしょか。〈ぐんらい〉とも読みますが、〈くき〉なのだそうです。“大辞林”によりますと、「(北海道南部や東北地方で)産卵のためにニシンが大挙して押し寄せること。鰊群来」とあります。北海道民謡に「ソーラン節」があります。p

ヤーレン ソーラン ソーラン ソーラン
ソーラン ソーラン ハイハイ

鰊来たかと かもめに問えば
私ゃ 立つ鳥 波に聞け チョイ

ヤサ エ~エン ヤーサーノ
ドッコイショ ハ~、ドッコイショドッコイショ

今宵一夜は 緞子の枕
明日は出船の 波枕 チョイ

男度胸なら 五尺の体
どんと乗り出せ 波の上 チョイ

波の瀬の瀬で どんと打つ波は
可愛い船頭衆の 度胸試し チョイ

踊る銀鱗 かもめの唄に
お浜大漁の 陽が昇る チョイ

漁場の姉コは お白粉いらぬ
銀の鱗で 肌光る チョイ

姉コどこ行く 鰊場通い
髪の乱れが 気にかかる チョイ

「やん衆」と呼ばれた人たちが、〈ニシン漁〉に従事しながら歌った歌が、この「ソーラン節」でした。この「ニシン漁」について、p『近世後期から近代における北海道の基幹産業は漁業であり,その中心をなしたのがニシン漁であった.ニシンの粕は北前船により,西日本を中心とした日本各地に運ばれ,魚肥として綿や菜種などの商品作物へ利用された.太平洋戦争中,及び戦後における食料難の時代には,重要な食料として求められるなど,ニシンの漁獲量が皆無になる1960年ごろまで,需要は高かった.さらに,技術の発展や漁場の拡大により,大量の労働力が求められた.近世にはアイヌ民族を使役し,アイヌ民族が減少すると,本州からの出稼ぎ者を雇うことで成り立っていた.ニシン漁を介して多くの人々が移動し,その影響力は大きかった』と解説されています(「ニシン漁の盛衰と漁民の活動」から)。

小田急新宿駅の中央改札の近くに、「立ち食い蕎麦」の店があって、そこを通るたび、いえわざわざ、そこを通って、そこで、「ニシン蕎麦」をよく食べました。「身欠きニシン」を煮付けしたものを、蕎麦にのせて、フウフウ言いながら、真冬に食べるのが特に美味しかったのです。

子どもの頃に、母がよく、このニシンを調理して食べさせてくれたのです。ニシンが大漁だった頃は、庶民の味だったからでしょうか。その北海道の漁場(りょうば)には、「鰊御殿」が幾棟も建つほどの好景気な時代があったそうです。近年、またこの「群来」が見られるそうです。小田急新宿駅では、今も、あの「にしん蕎麦」が食べられるのでしょうか。

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私の父と同世代の多くの方たちが、〈シベリヤ抑留体験〉をされておいでです。その体験記を、戦後、日本に復員されて、詩で表現したのが、石原吉郎でした。この方の詩に、「麦」があります。

重労働をした帰りに、シベリヤの大地に、麦畑が延々と広がっていたのを眺めたのでしょう。この方にとって、忘れたくも忘れることのできない記憶に残る風景に違いありません。その麦畑の一本の麦が、詩人の目に触れたのです。それを平和になった時に、思い返して、石原吉郎は詩にしたのです。

いっぽんのその麦を
すべて苛酷な日のための
その証としなさい
植物であるまえに

炎であったから
穀物であるまえに
勇気であったから
上昇であるまえに
決意であったから
そうしてなによりも
収穫であるまえに
祈りであったから
天のほか ついに
指すものをもたぬ
無数の矢を
つがえたままで
ひきとめている
信じられないほどの
しずかな茎を
風が耐える位置で
記憶しなさい

このことを“ウイキペディア”は、次の様に記しています。『シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソビエット連邦(ソ連)によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称である。ソ連によって戦後に抑留された日本人は約575千人に上る。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約55千人が死亡した。』

その抑留体験を、石原吉郎は、次の様に回顧しています。

『(シベリア抑留中)作業現場への行き帰り、囚人は必ず五列に隊伍を組まされ、その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進する。行進中、もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなしてその場で射殺していい規則になっている。(行進中つまずくか、足を滑らせて、列外へよろめいた者が何人も射殺された)。中でも、実戦の経験が少ないことに強い劣等感を持っている十七、八歳の少年兵に後ろに回られるくらい、囚人にとっていやなものはない。彼らはきっかけさえあれば、ほとんど犬を撃つ程度の衝動で発砲する。』

私たちが住んでいた中部圏の街の家の隣に、同じ様に、シベリヤの抑留をされた方が、住んでいました。戦時中の話になって、パンを多く食べるために、ロシア軍に協力して過ごしたことを、自慢していました。仲間を売ることもした、その人を、若かった私は蔑(さげす)みました。生きるため、生き残るためには、手段を選ばない生き方ほど、頂けないものはないからです。

昭和の時代に、そんな歴史的事実があって、今日の平和な時代を迎えていることも、やはり知っておく必要があるのかも知れません。私の父は、満州の奉天(現在の瀋陽)で、青年期を過ごしています。きっと「ソ満国境」にも出かけたことがあったことでしょう。ここ北関東の麦畑でも、青々と麦が天に向かって、真直ぐに、屈託なく伸びていていました。今や麦穂が、黄金色に変わり、収穫の時期を迎えようとしています。

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黄花

 

 

5月の陽を浴びて、鹿沼に咲く花を、友人が撮影され、ロサンゼルスの郊外で、娘が撮りました。二つとも花が 輝いてますね。最近、黄色い花がお気に入りなのです。先日、長男が置いていったバラも黄色でした。それで思い出したのが、「テキサスの黄色いバラ」という歌でした。1960年代に流行っていました。何と18の時でした。

この歌について、『日本では、1963年4月から放送されたNHK総合テレビ「ミッチと歌おう(Sing Along with Mitch)」で有名になった。この番組は、ミッチ・ミラーが男声合唱団「Mitch Miller and The Gang」を指揮して名曲を歌っていくもので、日曜お昼の音楽バラエティ番組として人気を博した。ミッチ・ミラーの最大のヒット曲としては、この〈The Yellow Rose of Texas テキサスの黄色いバラ〉・・・』と解説されてあります。

テキサスに実在したエミリー・モルガン(Emily Morgan)を、「テキサスの黄色いバラ」と呼んだのでしょうか。彼女はテキサスをメキシコから独立させた人物です。

There’s a yellow rose of Texas
That I am going to see
No other fellow knows her
No other, only me.
She cried so when I left her
It like to break my heart
And if I ever find her
We never more will part.

テキサスの黄色いバラ 会いに行くんだ
仲間は誰も彼女を知らない 僕だけの秘密
別れのとき 彼女は泣いた
胸が痛んだ
もう一度会えたときは
僕は二度と彼女を放さない

 

 

She’s the sweetest rose of color
A fellow ever knew
Her eyes are bright as diamonds
They sparkle like the dew.
You may talk about your dearest May
And sing of Rosa Lee
But the Yellow Rose of Texas
Beats the belles of Tennessee.

彼女は甘美なバラ 仲間も一番と認める
瞳はダイヤモンドのように輝き
朝露の如くきらめく
君の親愛なるメイとローザ・リーの歌も
テネシーの鐘も彼女には敵わない

Oh, now I’m going to find her
For my heart is full of woe
And we’ll sing the song together
That we sung long ago
We’ll play the banjo gaily
And we’ll sing the songs of yore
And the Yellow Rose of Texas
Shall be mine forevermore

彼女を探す僕の心は悲しみに満ちる
昔歌った歌を一緒に歌おう
楽しくバンジョーを鳴らして 懐かしい歌を歌おう
テキサスの黄色いバラ
彼女は永遠に僕のもの

これは、青年期の歌の一つです。

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日本に帰って来て、北関東の一劃で生活を始めて、感謝することが多いのに気付かされます。その感謝の一つは《水》です。水道の栓を開くと、ふんだんに水が流れ出てくるからです。華南の街の上水道も、豊富な水が出て来ますが、硬水ですから、そのまま飲むことができません。浄水器を使って、沸かして飲む様にしているのです。

しかも、時々断水するのです。2日ほど出ないこともあるのです。ある時、〈断水〉との掲示を見落としたことがあって、水の貯め置きをしないで困っていましたら、隣家のご主人が、大きなペットボトルに入った水を、三本も下さったことがありました。自分の家でも必要なのに、断水の予告を見落としていたわが家のために、わざわざ下さったのです。

大きなショッピングモールの近くに、しばらく住んでいた頃、上の家も下の家も、その下の家も、事あるごとに、物のやり取りがありました。季節季節に食べる団子や饅頭や果物、旅行帰りのお土産、家で焼いた餅(bing)などです。今の日本では、なかなか隣近所と、そんな物のやり取りする風習が少なくなって来ているのに、外国人の私たちを、隣人扱いの交流をして、親切の助け舟を示してくれるのです。

中国のみなさんの家に招かれた時、驚いたことがありました。食器を洗った洗い水を、大き目のバケツに溜め置いて、石製の床の掃除や、トイレの流し水に再利用していたのです。日本の様に、水に恵まれた国では考えられないことで、水が、それほど貴重なのだということを知らされたのです。どこの家でもそうなのかは分かりませんが、一般的にそうらしいのです。

先々週、お見舞いに来てくれた留学生の青年が、食後、夕食から次の日の朝、昼の皿洗いをしてくれました。蛇口をひねって、細く水を出しながら、無駄なく水道水を使っていました。私が、そう言ったわけではないのですが、こんな気を使った客人、24歳の若者は珍しかったのです。お母様は漁村の出身で、殊の外、真水は貴重だったのでしょう。

それにつけても、ある学習会の折、食後に皿洗いを当番でしていました。その食後の当番の方が、水を勢いよく出しながら、横を向いて、手を止めて話をしていました。その家のアメリカ人の主人が、そっと後ろから手を回して、蛇口の栓を閉めて、流れ出ている水道水を止めたのです。水道代の問題というよりは、これも水の貴重な国で育った方の限りある資源への思いやりなのでしょう。

ことばで叱ったり、注意しないで、そっと知らぬ間にとった行動が素晴らしかったのです。その学習会で学んだことの内容は、みんな忘れてしまったのですが、そうされた方の人柄と配慮と行いは、何十年経っても、いまだに鮮明なのです。

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願い

 

 

世界の平和を願って

                                                                  敬宮 愛子

 卒業をひかえた冬の朝、急ぎ足で学校の門をくぐり、ふと空を見上げた。雲一つない澄み渡った空がそこにあった。家族に見守られ、毎日学校で学べること、友達が待っていてくれることなんて幸せなのだろう。なんて平和なのだろう。

 青い空を見て、そんなことを心の中でつぶやいた。このように私の意識が大きく変わったのは、中三の五月に修学旅行で広島を訪れてからである。

 原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。まるで、七十一年前の八月六日、その日その場に自分がいるように思えた。ドーム型の鉄骨と外壁の一部だけが今も残っている原爆ドーム。

 写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。これが実際に起きたことなのか、と私は目を疑った。平常心で見ることはできなかった。

 そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。

 最初に七十一年前の八月六日に自分がいるように思えたのは、被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった。

 その二週間後、アメリカのオバマ大統領も広島を訪問され、「共に、平和を広め、核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と説いた。オバマ大統領は、自らの手で折った二羽の折り鶴に、その思いを込めて、平和記念資料館にそっと置いていかれたそうだ。

 私たちも皆で折ってつなげた千羽鶴を手向けた。私たちの千羽鶴の他、この地を訪れた多くの人々が捧げた千羽鶴、世界中から届けられた千羽鶴、沢山の折り鶴を見たときに、皆の思いは一つであることに改めて気づかされた。

 平和記念公園の中で、ずっと燃え続けている「平和の灯」。これには、核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けようという願いが込められている。この灯は、平和のシンボルとして様々な行事で採火されている。

 原爆死没者慰霊碑の前に立ったとき、平和の灯の向こうに原爆ドームが見えた。間近で見た悲惨な原爆ドームとは違って、皆の深い願いや思いがアーチの中に包まれ、原爆ドームが守られているように思われた。「平和とは何か」ということを考える原点がここにあった。

 平和を願わない人はいない。だから、私たちは度々「平和」「平和」と口に出して言う。しかし、世界の平和の実現は容易ではない。今でも世界の各地で紛争に苦しむ人々が大勢いる。では、どうやって平和を実現したらよいのだろうか。

 何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の世界の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。

 そして、唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。

 「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。きっと答えの手がかりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」の灯が消されることを心から願っている。」

Source: 毎日新聞

http://mainich.jp/articles/20170322/mog/00m/040/003000c…

(被爆後の原爆ドームです)

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日々

 

 

「落ちこぼれ」茨木のり子

落ちこぼれ
和菓子の名につけたいようなやさしさ
落ちこぼれ
いまは自嘲や出来そこないの謂(いい)
落ちこぼれないための
ばかばかしくも切ない修業
落ちこぼれにこそ
魅力も風合いも薫るのに
落ちこぼれの実
いっぱい包容できるのが豊かな大地
それならお前が落ちこぼれろ
はい 女としてはとっくに落ちこぼれ
落ちこぼれずに旨げに成って
むざむざ食われてなるものか
落ちこぼれ
結果ではなく
落ちこぼれ
華々しい意志であれ

女性の強さ、いえ、『女であるからこそ、強く生きなければならない!』、そう言った決意を感じさせる詩ではないでしょうか。行くのが好きな学校に〈行けない〉、みんなが学んでいるのに〈学べない〉、日柄、敷かれた布団の上で、天井を見つめて、節穴に吸い込まれそうに、眩暈(めまい)を感じながら過ごしてたのを思い出します。

母につけてもらったラジオから、「名演奏家の時間」のクラシック音楽の曲が流れていました。「昼の憩い」の地方の知らない街や村の通信員の報告、「尋ね人の時間」の消息を問う案内、三遊亭金馬の「落語」、広沢虎造の「次郎長伝」、そんな番組を、微熱でウトウトしながら聞いていた日々がありました。

まさに「落ちこぼれ」の小学校の前半期でした。元気になって学校に行くと、体力もないのに、じっと座っていられなくて、級友たちにちょっかいを出すのです。それで教室の後ろや廊下や校長室に立たされたりしていて、『ちっとも落ち着きがない!』というのが、学期ごとの通信簿の所見でした。

たった一度、褒めてくれたのが、おばあちゃんの内山先生でした。祖母を知らない私にとっての初めての老人でした。退職前だったのか、子どもの目に老人に見えたのでしょう。病欠児で、学習遅延児で、落ちこぼれの私の最高に輝かしい唯一の記憶なのです。小四の何時頃からでしょうか、健康が回復し、父や兄ゆづりの運動神経で、跳び箱なんかで、『おい、広田、跳んでみせろ!』と担任に言われて、試技をするほどになっていったのです。

生きていれば、誰にも可能性にあることが証明されたのです。自信も湧き上がってくるし、『生きていていいんだ!』と思えるのです。それって「華々しい意思」なのでしょうか、ね。

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