人徳

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 使ったことも、言ったこともない「恫喝(どうかつ)」と言う行為や言葉があります。強迫より強烈なもので、威嚇のことでしょうか。反対語を「人徳」にしようと思うのです。

 この間、何か政治の世界の偉い人の派閥の誰かが、「恫喝」したと聞いて、驚き飛び上がってしまいました。昨今では、映画やお芝居でしか聞かなくなっていたので、なおのことでした。今時の政治家って、こわいなって思ったのです。

 百獣の王ライオンが、アメリカ映画のはじまりに、『ウワーオウ!』と叫び声をあげたのを聞いて、後ずさりした覚えがありますが、国会や政治の世界においでの方がやっちゃいけないと思ったのです。

 それで「大辞林」を引いてみたら、『おどしておびえさせること。「―を加える」「―して金品をまきあげる」』と出ていました。それが平屋に降りて来て欲しい方の派閥の幹部だったそうで、マスコミは特定を避けています。

 そんな恫喝力が働く世界なのですね。よその国でも、そんな感じなのでしょうか。昔、どこかの国のえらい指導者から、金の延べ棒をもらって帰って来て、選挙区の家に隠し持っていたのを、国税庁の査察で発見されてしまったと言うニュースを聞いたことがありました。

 その方も、『よーいドン!』の「ドン」と呼ばれていて、政界の寝業師(裏工作者と言えるでしょうか)と言われていたそうです。そう言った人物がいないと、政治が動かないのだとしたら、何かが間違っていて、変えられない仕組みになってしまっているのかも知れません。
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 北九州の若松港の沖仲仕の元締めを父に持っていた火野葦平が、お父さんを主人公に「花と龍」と言う小説を書いて、一世を風靡したそうです。明治三十年代、大陸からの鉱石や石炭の水揚げで、若松港は大賑わいでした。荒くれの沖仲仕を使うには、葦平のお父さんは、「脅し」で、背中に刺青を彫り込んでいたそうです。

 そんな監督に、睨まれると、二の句が告げないほどに、港湾で働く人たちは萎縮して、黙々と働いて仕事がはかどるのだそうです。それも「恫喝」、国会議員がするのも「恫喝」、全く同じ力の論理なのでしょうか。横浜や芝浦の港で、こわい手配師のおじさんに仕事をもらって、仕事をしていたことがありました。輸入品の船の荷の陸上げ作業でした。

 学生としては破格の日当がもらえたのです。一度も、その「恫喝」をされなかったのですが、一所懸命に働いたのです。あのおじさんたちも、人肌脱ぐと、脅せる代物を身に付けていたに違いありません。でも、国のお仕事をしているおじさんも、あの人たちと同じだと思うと、ガッカリなのです。

 人を黙らせるには、やはり「人徳」に違いありません。若い頃、長く住んだ街の「やっちゃ場(青果市場をそう呼んでいました)」で、朝のアルバイトをしていました。競りで落とした野菜や果物を、ネコとか大八車など呼ぶ手押し車に載せて、競り場から車に運ぶ仕事でした。その青果商の元締めが、父の友人でした。 

 戦後、戦地から帰って来た方たちに、リヤカーを買い与えて、蔬菜や果物を仕入れて挽き売りして、日銭を稼ぎ、やがて家屋を養い、店を出し、子を教育する様に助けていた方でした。あの世界の人ではなかったのですが、八百屋のおじさんたちは、慇懃に挨拶を、この方にしていたのです。『すごいな!』と思うほどでした。トラブルが多くあった世界で、いつも丸く収めていたのは、この方でした。「恫喝」などせずに、「人徳」だったのです。

 そんな「人徳」で、政治のトラブルが解決する様に、そんな思いの今年です。「恫喝」に尻尾を丸めて、言いなりにならない様な人が、指導者となったらいいのにと思う年初めです。

(やっちゃ場、港湾労務者の女性の沖仲仕です)

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ふたりっ切り

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 中国華南の街でのことです。決まって、日曜日に出掛けて、用を済ませた私は、家内と路線バスに乗って家に帰り、家の前のバス停の前にある、中国サイズの超大型ショッピングモールに寄ったのです。その二階にある、“ バーガー・キング"でハンバーガーを食べようとしてでした。家内を誘って何度行ったか知れません。街のマクドナルドでは食べれない、牛肉のハンバーグが食べれるのを知ったからです。そこで知り合いのアメリカ人の家族と二、三度ばったり会ったこともあります。" American taste “ だったからです。

 ここ栃木市にはないのですが、宇都宮のショッピングモールの中に、その“ バーガー・キング"があるのを見付けたのです。でもコロナ禍で、出掛けるのもままならず、華南の街にいた時に、食べたかった物だったので、今は懐かしさで、そんな思いにされています。この街の名物は、何たって「餃子」ですが、「宇都宮餃子」はもうすでに味わっております。

 次男が以前住んでいた家の最寄り駅前に、ハンバーガーショップがありました。アボガドがサンドされていて、値段も1000円以上で、小清水の舞台から飛び降りる様にして店に入って、注文して食べたのです。帰国間も無くでしたから、その美味しさは格別でした。『日本はうまい!』を感じて、頷いていたのです。

 こちらの大学を出て、日本の会社に就職していた華南の街の出身の方と、その駅で落ち合って、一緒に、このアボガドバーガーを食べたのです。もう彼は日本の味の通になっていて、美味しさに驚きませんでしたが、とても喜んでくれました。
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 訪問団の一員としてオレゴンに行った時にも、ポートランドの下街に、ホットサンドイッチの美味しい店を見付けて、ちょうど隣街にいた娘たちが来ていたので、誘って行ったのです。

 美味しさは、味だけではなく《懐かしさ》に違いありません。お嫁さんには気の毒ですが、《お袋の味》は、その最たるものです。故郷回帰や味覚回帰というのは《母親回帰》なのかも知れません。年の暮れから、この正月にかけて、これまでの二年は、できなかった「お節料理」を作れるようになり、もう少ししか来なくなった「賀状」の返事も書ける様に、家内が回復を見せているのです。
  
 みなさんの祈り、応援、激励によります。感謝で思いがいっぱいです。去年は子どもたちと孫たちが全員、「実家」に集まって、ワイワイできたのですが、ご時世柄、今年は《ふたりっ切り》の日本情緒満喫の正月です。
 
(孤高の光を放つ三日月と富士です)

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いのちの課題

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 「わたしを求めて生きよ。(アモス5章4節)」

 昨年来、私たちの世代では初めて、突如として世界を脅かす〈新型コロナウイルス症〉に見舞われました。そして右往左往し、意気沮喪した2020年を終え、今や2021年が始まり、人は否応なしに「死」の恐怖に直面されて、初めての様に、「いのち」の課題を考え始めているのではないでしょうか。

 百年を一区切りの様にして起こる伝染病が、この地上にたびたび繰り返され、科学万能時代の二十一世紀にもまた、人は翻弄されてしまっています。当然の様にして生きている、傲慢な人間に対して、『当然ではない!』と言う「いのち」に対して、意味や責任や答えを得なければならないとの迫りを感じてなりません。

 これこそ人類の歴史に繰り返されてきていますが、この時代の私たちにとっては、まさに「新しいこと」なのです。私たちは、この「新しいことをする」と仰る方からの迫りを、痛切に感じて、人の内に、「いのち」を考えようとする重大な課題が、突きつけられていることを認めたいのです。

 対細菌との闘いに世界が巻き込まれて、人は初めて、生死を真剣に考え始めているのかも知れません。「マスク」や「ソシアルディスタンス」や「ワクチン」以上の課題です。

 『明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは』

と親鸞が詠んだ様に、漫然と計画して生きていても、夜中に大嵐が吹いて、計画も命でさえも果ててしまうことだってある、と言った人の一生を、初めて熟考すべき時です。

 「いのち」は付与されたものであって、それを全うする様に、人は定められています。どう全うするかの責任を、私たちは例外なく負って、今を生きていると言えるのです。この「死」への恐れの中で、2021年を「いのちを考える年」としたいものです。哲学の課題ではなく、それよりもはるかに重要で根本的な課題だからです。どう「死」に向かって、残された日々を生きるかでもあります。それは老人への課題ではなく、若者も子どもも考えなければならない今年なのではないでしょうか。

 繰り返されることではなく、全く「新しいこと」が起こるのだと期待して生きたいのです。「新しさへの期待」、「いのち」の意味を知ることこそ、迎えた新年の課題であると言えます。

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ご馳走さま

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 「元旦昼食」に、信越本線の横川駅で、135年も売り続けている《名物駅弁》の「峠の釜めし」を戴きました。家内は、三度も『美味しい!』と言っていました。

 美味しいはずです、隣街の大型スーパーでの特売で、昨日は買えなかったそうですが、今朝、友人が2時間も並んで買ってきてくださったのです。

 大きな愛と犠牲に感謝していただいたのです。ご馳走さま!

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新しい事

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 「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(イザヤ書43章19節)」

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5章17)」

 2021年1月1日、新しい年の始まりです。いまだかつて見たことも、聞いたことも、触れたこともない「新しい事」が、今年、起ころうとしています。どんなことが起こっても、慌てたり、驚いたりしないと、心に決めました。「新しさ」へのあふれる期待で、今朝目覚めたのです。善き一年であります様に願っています。

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下仕事

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 「真の職人」のお話です。昔から、「飯炊き3年、握り8年」の修行があって、一人前の寿司職人になれると言われてきました。一つの道を極めるためには、それだけの年月を修行しなければならないと言うわけです。板場に立つために、朝早く掃除をし、板の間を水拭きしたり乾拭きし、店先の掃き掃除から、主人の下駄拭きなど、《下仕事》から始めるのです。コメ研ぎや水加減を覚える前に、釜洗い、火起こしをします。包丁を使える様になる前に研ぎ、研ぎの前に砥石の準備もしなければなりません。

 それは寿司職人世界だけではなく、どの様な職種でも同じでした。そう言った下働きがあっての現場なのです。それを励んだ後に「年季が入る」と言われます。長い、意味のない様な仕事、仕事と思えない様な雑務を、喜んでする気持ちがあって一人前の、年季の入った職人になれるわけです。私の若い頃に、一人の青年と出会いました。

 江戸の職人の流れを継いでいたお父さまから、その技術を学んで、「鍛金師(今流で金属造形家)」として、私の街の宝石加工会社で修行されていたのです。そこでは、なかなか自分の技術を評価されなかった様ですが、専門外の宝石加工の世界で、耐えて修行されていました。そして何年も経って、今では、海の見える綺麗な街に作業場を得て、お仕事をされています。この方は、小さい頃に、ご両親とブラジルに出掛け、サンパウロ大学芸術学部を卒業されていました。

 意を決して、ご両親や妹さんたちと帰国されて間もなく、単身で私たちに所に来られたのです。素敵な青年で、子どもたちは彼を慕っていました。次女などは、脚に纏(まと)わりついては離さない程だったのです。岡山県下で工房を開いていた頃、一度お訪ねしたことがありました。今は静岡県下に、アトリエを構え、あちこちで個展を開いてきておいでです。一つの作品の作成に、1000時間をかけるほどの昔ながらの職人、芸術家なのです。

 この人とは違って、華南の街にいた時、田舎から大学に通うために出て来ていた女子大生に、日本語を教えていました。わが家にも出入りして、よくカレーをご馳走したのです。その経験から、卒業したら田舎に帰って、「カレー屋」を始めると言って帰って行きました。

 また食堂で、二、三ヶ月働いて、もう専門職で独立してしまったり、絵を短期間習って、子どもを集めて教え始める様な人と、何人も出会ったのです。まさに無修行での独立でした。だから、すぐに閉店、廃業になってしまいます。けっこう「自信家」が多いのかも知れません。

 誰にでもできそうですが、そうはいきません。四十過ぎまで、毎朝、広い講堂の床の雑巾掛けを続け、文句一つ言わずに続けた人がいました。下働きを厭(いと)うことなく、しかも喜んで、自分のすべきこととして励んで、やがて、責任者になった人がいます。《いぶし銀》の様なお話を、謙遜に語って、人に感銘を与えたそうです。そんな人になりたかった私でした。

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動く愛

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 『見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。 (イザヤ書60章2節)』

 「面前に三尺の闇」と言います。人の一生に、予期せぬことが待ち受けているからです。ここには「闇」とありますから、好ましく思わない、願わない出来事が待っていると言うのでしょう。

 まだ長男、長女、次女、次男が学生の頃から、お世話頂き、いろいろ教え導き助けてくださった方のご主人とお嬢さんとが亡くなられて、その夜も、御主人の60回目の誕生パーティに招かれて、近くに住む次女家族が行こうとして準備してる矢先の悲報だったそうです。

 次女の二人の子どもたちも、お嬢さんを姉の様に慕い、一緒に育ったので、それは大きなショックを受けているのです。でもやっと数日が経って、現実を受け入れる様になって来ている様です。

 この方のご両親は、子育て中に、家内と私と子どもたちを、たびたび家に招いてくださって、数日泊めていただき、交わりを持たせてくださったのです。滞在中、お子さんたちは、自分の部屋を、六人の私たちに提供してくださって、どこかに潜り込んで眠られ、そんな犠牲で迎えてくれたのです。

 二階の食堂兼居間は、まるで木漏れ日が差し込む様に温かくて、アメリカの匂いがして、何よりも愛が溢れていました。「パン屋の娘」だと言う奥さまは料理上手で、美味しくもてなしてくれたのです。私たち六人家族にとってはまるで「避難所」でした。
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 その奥様は、ご主人を20数年の前に亡くされ、在米のお嬢さんの家に迎えられて、老後を長女や、次女の家で過ごされ、今年97歳だと言ってきています。このご家族に真似て、人々を迎えられる家族でありたいと願って、私たちも見倣いながら生きて来ました。

 とくに華南で住んだ家には、多くの人が入れ替わりでやって来られました。アメリカに留学されていて、今夏街に戻られた大家さんが、『家を綺麗に使っていただき、多くの人が、やって来られて、温かく迎えてくださって、好い交わりのために使っていただいたと聞いて、とても嬉しいです!』と、先日FaceTimeでおっしゃっていました。

 このご家族を亡くされたお嬢さんの弟さんが、静岡県下に住んでおられて、私たちが帰朝するたびに、彼のご両親がそうであった様に、私たちを招いてくださって、温かく迎えてくれました。そこに何度お邪魔したか知れません。中国に行こうとしていた時、実家のない私たちの子どもたちに、『私たちの家を実家だと思って帰って来る様に伝えてくださいね!』と、妹さんも言ってくれたのは嬉しかったのです。
 
 先週、悲しいニュースを聞き、どう慰めていいのか分かりませんが、お世話いただいた私の子どもたちのうち、次女の家族が近くにいますので、心理的にも地理的にも一緒にいて上げれる様です。

 “ GoFundMe “ を、次女の主人が立て上げて、この方を経済的に支えて行こうとされています。すでに多くの方たちが、それに賛同していらっしゃるようです。まさに優しい愛が動いています。

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