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昼前になると、栗川さんと言う挽き売りおじさんが、リヤカーに魚を積んで、売りに来ると、母が刺身を買って、お昼に食べさせてくれたのです。肺炎を起こしかけて、学校に行かないで寝ている、息子に滋養のあるものを食べさせようとしてでした。兄たちは学校に、弟は幼稚園に行っていて、母と二人のお昼でした。
思い出すと、死なせまいとして、祈り、身体を強くしようとしてくれた母親には感謝が尽きません。床の中で、目が回り、天井板の節目がぐるぐる回っているうちに、私はウトウトとしたり起きたりで、ほとんど低学年の間は学校を休んで、寝ている日が多かったのです。
「ひるのいこい」のNHK放送が始まった年に、小学校に入学したのです。ところが街の国立病院に入院中で、入学式にも、一学期の学びもできず、その夏に、父が関係していた会社の社宅が、東京都下の街にあって、そこに越したのです。そこでもあまり学校に行った記憶のないまま、隣町に、父が家を買って引っ越したのです。
それで、学校に行かない代わりに、NHKのラジオ放送で、多くのことを学んだのです。「名演奏家の時間」でクラシック音楽に馴染み、「尋ね人の時間」で、戦時中に生き別れになった人の消息を尋ねる人のいることを知り、「復員の時間」もあったでしょうか、戦争で散り散りになった人が、帰国する喜びがあったことも知ったり、まさにラジオ社会科の学習だったでしょうか。
古関裕而のテーマ音楽から始まる、「ひるのいこい」で、地名を覚え、農林水産通信院の通信を聞いて、狭い日本に多くの山村漁村のあることを知らされたのです。今住んでいる栃木県下からの通信だってあったことでしょう。
今年、この番組が七十周年の記念の年になっているそうです。父の職場に、その街の放送局のアナウンサーが訪ねてきたことがあったそうで、お名前を覚えていたので、東京放送局に転勤になられて、ラジオやテレビでニュースを伝えているのを、見聞きして、親近感も覚えたことがあります。
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やがて「民放」のラジオ放送が始まりますが、わが家ではNHK一辺倒で、日本や世界の動きを、ここから知ったのです。とかく批判されることの多いNHKですが、ひどく道を外れたりしない報道をしつづけてきて、時の動きや展望を耳にしてきたわけです。
「新諸国物語」という題の、ラジオドラマが夕方に放送されていて、続き物でしたから、途中で終わった翌日の続きに、興味津々で、毎日ラジオの前に呼び寄せたれて、とりこにされていた時期が懐かしいのです。母の看病のおかげで体が恢復し、遊んでいたいし、ラジオは聞きたいし、そのジレンマはけっこう大きかったのです。
最近は、牧会から離れ、さらにコロナ禍で家にいて、ネットで礼拝を守るようになったおかげで、お昼のニュースを、ラジオで聞けるようになり、それに続いて「NHKのど自慢」も聞けるのです。演歌に関心のない家内が、最近それを歌う出場者が少なくなったこともあり、さまざまな分野の歌を、さまざまな年代の出場者が、日本の街々で歌っている様子に一喜一憂し、興味をそそられるようで、聞き耳を立てているのです。
まあ「日本の文化」なのでしょうか、和やかな日本の象徴のような番組は、殺伐としたニュースが飛び交う今の世で、緩衝材のような役割を果たしているのではないでしょうか。若きの日の美声が、もう出なくなってしまっている有名歌手が、ゲストで歌っていますが、ホノボノとして、まあいいかと感じてしまうのです。「ラジオっ子」の回想です。
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