ラジオっ子の回想

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 昼前になると、栗川さんと言う挽き売りおじさんが、リヤカーに魚を積んで、売りに来ると、母が刺身を買って、お昼に食べさせてくれたのです。肺炎を起こしかけて、学校に行かないで寝ている、息子に滋養のあるものを食べさせようとしてでした。兄たちは学校に、弟は幼稚園に行っていて、母と二人のお昼でした。

 思い出すと、死なせまいとして、祈り、身体を強くしようとしてくれた母親には感謝が尽きません。床の中で、目が回り、天井板の節目がぐるぐる回っているうちに、私はウトウトとしたり起きたりで、ほとんど低学年の間は学校を休んで、寝ている日が多かったのです。

 「ひるのいこい」のNHK放送が始まった年に、小学校に入学したのです。ところが街の国立病院に入院中で、入学式にも、一学期の学びもできず、その夏に、父が関係していた会社の社宅が、東京都下の街にあって、そこに越したのです。そこでもあまり学校に行った記憶のないまま、隣町に、父が家を買って引っ越したのです。

 それで、学校に行かない代わりに、NHKのラジオ放送で、多くのことを学んだのです。「名演奏家の時間」でクラシック音楽に馴染み、「尋ね人の時間」で、戦時中に生き別れになった人の消息を尋ねる人のいることを知り、「復員の時間」もあったでしょうか、戦争で散り散りになった人が、帰国する喜びがあったことも知ったり、まさにラジオ社会科の学習だったでしょうか。

 古関裕而のテーマ音楽から始まる、「ひるのいこい」で、地名を覚え、農林水産通信院の通信を聞いて、狭い日本に多くの山村漁村のあることを知らされたのです。今住んでいる栃木県下からの通信だってあったことでしょう。

 今年、この番組が七十周年の記念の年になっているそうです。父の職場に、その街の放送局のアナウンサーが訪ねてきたことがあったそうで、お名前を覚えていたので、東京放送局に転勤になられて、ラジオやテレビでニュースを伝えているのを、見聞きして、親近感も覚えたことがあります。

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 やがて「民放」のラジオ放送が始まりますが、わが家ではNHK一辺倒で、日本や世界の動きを、ここから知ったのです。とかく批判されることの多いNHKですが、ひどく道を外れたりしない報道をしつづけてきて、時の動きや展望を耳にしてきたわけです。

 「新諸国物語」という題の、ラジオドラマが夕方に放送されていて、続き物でしたから、途中で終わった翌日の続きに、興味津々で、毎日ラジオの前に呼び寄せたれて、とりこにされていた時期が懐かしいのです。母の看病のおかげで体が恢復し、遊んでいたいし、ラジオは聞きたいし、そのジレンマはけっこう大きかったのです。

 最近は、牧会から離れ、さらにコロナ禍で家にいて、ネットで礼拝を守るようになったおかげで、お昼のニュースを、ラジオで聞けるようになり、それに続いて「NHKのど自慢」も聞けるのです。演歌に関心のない家内が、最近それを歌う出場者が少なくなったこともあり、さまざまな分野の歌を、さまざまな年代の出場者が、日本の街々で歌っている様子に一喜一憂し、興味をそそられるようで、聞き耳を立てているのです。

 まあ「日本の文化」なのでしょうか、和やかな日本の象徴のような番組は、殺伐としたニュースが飛び交う今の世で、緩衝材のような役割を果たしているのではないでしょうか。若きの日の美声が、もう出なくなってしまっている有名歌手が、ゲストで歌っていますが、ホノボノとして、まあいいかと感じてしまうのです。「ラジオっ子」の回想です。

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佐賀県

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 娘婿が、長野県の南信にある高校で、英語の補助教師をしていた時に、『近くの村で、村歌舞伎があるので、今すぐに来ない!』と誘われて、家内と一緒に車に乗って、大鹿村に出かけました。ちょうど休みの月曜日だったでしょうか。務めていた頃と違って、日曜日は、説教をする日で、その準備と責務に縛られ、月曜日が長らくい休養日だったのです。

 江戸時代に始まり、ご禁制の中を続けられてきた村歌舞伎で、小屋掛けですが、しっかりした演目を、本家本元の歌舞伎座に負けず劣らずに上演していました。『こんな辺境なアルプスの麓の村の農民が、《藤原伝授手習鑑〜手小屋〜》の演目を見て、武士の生き方に喝采をあげ、投げ銭をして楽しんできたのだ!』と、驚きを感じたのが第一印象でした。私も投げ銭をしたのですが、舞台に届きませんでした。

 主君のために息子・小太郎の首を身代わりに差し出すような侍の物語が、農民たちに大喝采されていたと言うことは、士農工商の「農」にあたる民が、そう言った武士の生き方に共鳴し、感化されていたと言うわけです。田を起こすために鍬を振るうだけではなく、「読み書き算盤」を学ぶ機会が、村の中にもあったわけです。

 日本人の識字率の高さは、庶民への教育の結果でした。それに驚かされたのが、幕末期から明治期に、日本を訪れた欧米人でした。書を読み、文字を書き、釣り銭を間違えない日本人にでした。しかも正直さも兼ね備えていたのです。辺境な地で、歌舞伎が上演されて、それを観劇し、そこには、「武士道」の影響を受けた者たちの子孫が、日本人なのに違いありません。

 甲斐武田氏の「甲陽軍鑑」に、「武士道」と言う語が三十回ほど出て来ていて、戦場での武勇が中心になって記されています。徳川幕府のもと、p佐賀の鍋島藩には、「葉隠(はがくれ)」と言う書がまとめられて、おもに普段の武士の心得が記されています。そこには「四誓願の武勇」の忠義、孝行、慈悲が述べられているのです。格別に藩主への忠義が、臣下に求められていました。

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 佐賀県は、律令制下には西海道、「肥前国(長崎県も含めてです)」で、徳川幕府の下では、鍋島氏の佐賀藩(鍋島藩とも言いました)、唐津藩(藩主の改易があって明治維新前は小笠原氏が治めていました)が置かれていました。県都は佐賀市、県花は楠の花、県木は楠(くすのき)、県鳥はカササギ、県の人口は80万人です。申し訳なくも、この県も通過県でした。

 弥生時代を代表とする、その時期の国内最大規模を誇る「吉野ヶ里(よしのがり)遺跡」が、県の西部にあって、古代の浪漫に思いを馳せるにはもってこいの地に違いありません。北の青森、「三内丸山遺跡」と比肩しています。私は、多摩川の流れに近い「七つ塚」と呼ばれる「貝塚」に魅せられて、時間があると出かけては、木片で地を掘っていました。そこには、土器のかけらや鏃(やじり)などがあって、それを収集したことがあったのです。古代人の生活を想像しただけで、心が溢れるような気分にされたのです。科学する心があったからでしょうか。

 そんな気分を満たすように、この吉野ヶ里遺跡は、集落の防護のために、濠で囲まれているので「環濠集落(かんごうしゅうらく)」と呼ばれて有名です。中国や朝鮮半島にも見られるもので、その関連が強いと考えられています。やがて古墳時代になると、この集落の濠に、さまざまなものが投げ捨てられ、埋められてしまいます。今になって考古学者が、掘り返して考古学の的となっているようです。

 

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 またこの県では、古来、「唐津焼」や「有田焼」や「伊万里焼」の焼き物が有名で、とくに欧米人が好んで買い求めてきた歴史があるのです。茶器には蒐集の趣味が、私にはありませんが、ただ、「唐津焼」の素朴な作りと焼きの素顔は好きで、いつまでも眺めていたくなります。

 そう言えば、中学の修学旅行で、京都の龍安寺の「枯山水」、「石庭」に行ったことがありました。多くの古代の建物などを、京都や奈良で見たのですが、その「石庭」には、なんとも言えない感動を覚えてしまったのです。廊下から眺めていた庭は、帰る時間が来ても、去り難い思いで、ずっと、そこにいたかったように、唐津の陶器には魅せられてしまうのです。

 14才の中坊にしては、なんだか「わび」とか「さび」に関心があったようで、それなのに仏門には入らずに、母と同じ道のキリスト教徒になってしまいました。そう言えば、この肥前国には、長崎や熊本天草と同様、キリシタンたちが多かったそうです。

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 宣教師と共に、長く過ごした街に、アメリカ人宣教師が始められた福音派の教会が、国立大学の近くにありました。その教会の牧師さんが、佐賀県人で、温厚な方で、何度も集まっては一緒に賛美をした方でした。でも、優しい眼差しの中に、時としてキラリと鋭い眼光を見せていたのを、私は見逃さなかったのです。それが印象的でした。お身体を壊されて、他の県の教会に転任されていかれました。

 私たちの教会に来られて、信仰を持たれた若いご婦人を、保育園で保育助手として働けるようにしてくださったのです。人を、余所者を外見などで判断しないで、ありのままに受け入れてくださった方でした。お元気でいらっしゃるでしょうか。

 政治家で、佐賀県の出身の保利茂という方がおいででした。苦学して学校を出られて、政治家になった方でした。福岡出身の広田弘毅に重なって見えるのです。お父さまは車夫をされていて、お母様は「お蚕(かいこ)」をしたりしていて貧しかったので、中学校に進むことができなかったほどでした。鉄工所の工夫をしていたのです。

 向学心の志を捨て切れず、東京に出て、助けてくださる方がいて、中央大学に学び、報知新聞、東京日日新聞の記者になっています。その後、政治家に転身し、自民党官房長官、幹事長、労働大臣、衆議院議長などを歴任した、優れた政治家でした。吉田茂に高く評価された人でした。佐賀県人では、そのような方々を存じ上げております。みなさん、『そうにゃ人物じゃったね!(とても良く出来た人でした)』、でした。やはり優れたり、出来た人を送り出した県というのは、県全体の評価が高いのかも知れません。

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 福岡、長崎、熊本の各県と共に、沿岸で接する有明海には、「干潟(ひがた)」と、「不知火(しらぬい)」の自然現象が見られて、注目されてきました。とくに「不知火」は蜃気楼の現象で、かつては見られて、注目され続けてきましたが、今では、さまざまな理由、例えば夜間が照明の故に明るくなってしまったりが原因で、ほとんど見られなくなってしまいました。

 Aurora 現象と同じように、この「不知火」は、見たい願いがありますが、それ以上に見たいのは、「青い地球」です。被造物が、どれほど美しく造られているかを見て、創造主をほめたたえたいものです。『昨日は、温泉ば行って、ゆっつらーとしてきたばい。』、佐賀県にも、多くの温泉地があるようです。素敵な県であります。

(吉野ヶ里遺跡、唐津焼陶器、有明海、武雄市にある県木の楠です)

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自分で復讐してはいけません

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 少々怖いお話を、聖書から取り上げてみましょう。

 『彼らはベゼクでアドニ・ベゼクに出会ったとき、彼と戦ってカナン人とペリジ人を打った。 ところが、アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らはあとを追って彼を捕らえ、その手足の親指を切り取った。 すると、アドニ・ベゼクは言った。「私の食卓の下で、手足の親指を切り取られた七十人の王たちが、パンくずを集めていたものだ。神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。」それから、彼らはアドニ・ベゼクをエルサレムに連れて行ったが、彼はそこで死んだ。(士師157節)』

 これを「聖書的応報の原則」とか「蒔いた種の刈り取り」と名づけてみました。「手足の親指を切られる」と言うのは、手足が機能しなくなってしまうことになりますから、物を掴んだり、立ったり、歩いたり、走ったりすることが難しくなります。そんな仕打ちを受けたのが、アドニ・ゼデクでした。彼自身が、捕虜として捉えられた七十人の王にしたとおりに、その報いを受けて、親指を切り取られ、そして死んでしまったのです。

 〈人にした通りのことが返って来る!〉、これは因果を言っているのではありません。神に造られた人の尊厳を傷つけ、肉体をも損ない、その機能を失わせてしまう虐待に対する、造物主のなさることであります。蒔いた種が良ければ、良い収穫がありますし、その逆もまた真で、アドニ・ゼデキは、自分が七十人の王にしたとおりのことが、神によって〈報い〉として見舞われ、自分に帰ってきたことが分かったのです。    

 地上に悪が満ちる時、罪が満ちる時、神の忍耐を超えたことをし続けると、必ず報いを受けます。私は、人のことを悪く思ったり、憎んだりした時に、その直後に、包丁で指先を怪我したり、頭を壁にぶっつけたり、自転車から転んだり、病気になったりしたことと、関連させて納得して生きてきました。きっと神さまは、それ以上の罪を犯さないようないようにと、制御機能のスイッチを入れて働かせておいでなのでしょう。罰とは考えません。

 なぜなら、この神さまは、「忍耐の神」でいらっしゃるからです。よく警察が容疑者を捕まえないで、〈泳がせる〉ことがあるのですが、それに似ているかなあと、個人的に思っているのです。神さまは、見逃すのでも、猶予しているのでもなく、〈罪が満ちる時〉を、きっと待っておられるのでしょう。神さまが、“ Noのサイン、『これまで!』と決められる時、あのヒットラーは自害し、スターリンは脳卒中を起こし、金正日は急性心筋梗塞を起こし、アミンは多臓器不全で、チャウセスクはルーマニアの国民に処刑されて果てています。

 命の付与者は、だれでも生まれる時と死ぬ時を定めておいでです。突然死ぬのではありません。罪の結果死ぬのです。でも、自分の罪の身代わりになってくださった神の御子を、「キリスト」と心で信じ、口で告白するなら、永遠の命の救いをいただけるのです。パウロは斬首刑で、キリストの弟子のポリュカルポスは火炙り刑で、私の敬愛した宣教師は脳腫瘍で、もう一人の宣教師は前立腺癌で、父は脳溢血で死にましたが、キリスト者のいただく永遠の命を、これらのみなさんはいただいて死んでいかれたのです。

 私は、自分が〈赦された罪人〉だと自認しています。赦されるべきではないのに、神の憐れみと予定とによって、罪赦されのです。キリストが、私の身代わりに罪となられて、十字架に死なれたことによって、罪が処分されたのだと信じています。それで、神の子の身分をいただき、義と聖と、やがて栄光化される望みの中に入れていただいたと、信じているのです。

 『愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 (ロマ1219節)』

 聖書は、復讐を禁じています。それは神さまだけがなさることだからなのです。だから、極悪人、人を人とも思わぬ者、独裁者、侵略者、虐待者たちの死を願うことは、決してしてはなりません。私たちができることは、彼らが悔い改めて、神に立ち返るように祈ることです。人には生きながらえている間中、救いの可能性は残されているからです。復讐は主に任せること、これが聖書の命令であります。

(キリスト教クリップアートのイラストです)

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そうお願いしてあります

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 中国の諺に、「死屍(しし)に鞭打つ」があります。故事熟語辞典によりますと、

 『【由来】 「史記 伍子胥伝(ごししょでん)」に出てくる話から。紀元前六世紀、春秋時代の中国でのこと。楚(そ)の国に仕えていた伍子胥は、父と兄を楚の平王に殺され、亡命して呉(ご)という国に仕えることになりました。仇討ちのため、すぐにでも楚と戦いたかった伍子胥ですが、呉の国情が許さず、時機を待ち続けます。そして一六年後、呉軍を率いてついに楚へと攻め込んだ伍子胥は、都を占領。しかし、平王はすでに亡くなっていました。すると伍子胥は、平王の墓を暴き、「其尸(しかばね)を出し、之を鞭うつこと三百(その死体を引きずり出して、三〇〇回、鞭で打ち)」、積年の復讐の念を晴らします。しかし、その行為は旧友からでさえ、あまりにもひどいと非難されたのでした。』とあります。

 当時、中国の指導的な地位にあった鄧小平は、日本を訪問しました。中国の経済を活性化した人でした。東京から京阪神圏への移動には、新幹線を利用したのです。『速い。とても速い! まるで後ろからムチで追い立てられているかのようだ。これこそ私たちが今、求めている速さだ!』と、197810月に乗車した時の印象を、驚きをもって、そう語りました。

 大阪では、松下電器(Panasonic)創業者の松下幸之助と会見し、その工場を見学をしました。そして、中国の復興のための助力を、鄧小平は松下幸之助に依頼し、技術援助等の約束を交わしたのです。その甲斐あって、低迷していた中国の経済は、羽ばたくように復興を遂げていき、今日に至っています。

 鄧小平は、自らを「小平xiao ping 」と名乗るほどに小躯でしたが、フランスの留学体験があったからでしょうか、華魂洋才(これは私の造語です)で、欧米諸国や日本の技術や know-how をうけ入れていきました。初めて私が中国に行きました時、広東省の省都の広東の街には、もう亡くなっていたのですが、その鄧小平の大きな写真の看板が、掲げられていました。若い人たちの思慕を、死しても得ていたのです。

 在華中に聞いた話ですが、19972月に、北京で鄧小平が亡くなったのですが、遺言があったのだそうです。国家再建の貢献者ですから、丁重な葬儀や埋葬が行われてよかったのですが、遺体は「検体」にするように、自らは願ったのです。しかし娘の決断で、その遺灰は中国の領海に撒かれました。ですから、鄧小平の「墓」はないのです。彼や娘が恐れたのは、墓が暴かれて、死して亡骸が鞭打たれることで、それを避けたのでしょうか。

 『十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ233943節)』

 自分も、かつては、この犯罪者のように罪人でしたから、当然、永遠の死の刑罰に処せられるところ、神の憐れみによって、イエス・キリストの十字架の贖いを信じることができたのです。たとえ病や事故で死んだとしてもも、「パラダイス」に行くことができ、永遠のいのちをいただけると確信しています。それは思い出してもらう以上の映えあることなのです。

 だれも、私の亡骸を鞭打つことはないと思いますが、家内には、葬儀不要、遺骨不要、埋葬不要で遺灰にして、どこかの川か海に流して欲しいと伝えてあります。栄光の体に復活の望みがありますので、そう、お願いしてあります。

(「広州市のイラストです)

 

キンコンカン

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 作詞が菊田一夫、作曲が古関裕而、歌が川田正子の「鐘の鳴る丘(とんがり帽子)」が、ラジオから聞こえてきました。

緑の丘の 赤い屋根
とんがり帽子の 時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メイメイ小山羊も ないてます
風がそよそよ 丘の上

黄色いお窓は おいらの家よ

緑の丘の 麦畑
おいらが一人で いるときに
鐘が鳴ります キンコンカン
鳴る鳴る鐘は 父母の
元気でいろよと 言う声よ
口笛吹いて おいらは元気

とんがり帽子の 時計台
夜になったら 星が出る
鐘が鳴ります キンコンカン
おいらは帰る 屋根の下
父さん母さん いないけど
丘のあの窓 おいらの家よ

おやすみなさい 空の星
おやすみなさい 仲間たち
鐘が鳴ります キンコンカン
昨日にまさる 今日よりも
明日はもっと しあわせに
みんな仲良く おやすみなさい

 昭和20年(1945)8月15日、長かった戦争が終わりました。戦災で親を、住む家を亡くした「戦争孤児」たちが街にはいっぱいでした。保護施設に収容される孤児

はわずかで、多くの孤児は、新宿や上野などにあった地下道をねぐらにして生き延びたのです。彼らを「浮浪児」と呼び、飢えや寒さや暑さに耐えて生き抜いたのです。

 生きるために、盗みを働いたり、残飯を食べたりしたのです。ある子どもたちは、篤志家たちが運営する施設に収容されますが、そこも住み良い環境ではなかったようです。当時の世の中全体が飢えていた時代でした。そんな時代のただ中、NHKでラジオドラマが放送されます。「鐘の鳴る丘」でした。

 このドラマの主人公は、戦争が終って、戦地から帰って来た復員兵の加賀見修平でした。ガード下を通った時に、浮浪児にカバンを奪われそうになるのです。その浮浪児の名前は、隆太でした。隆太には、浮浪児仲間の修吉、ガンちゃん、クロ、みどりなどがいて、この一群の浮浪児の世話をしていくのです。

 修平は、自分を慕う彼らに、何をして上げられるかを考えていくのです。それで修平の故郷が信州だったので、信州の山間部に「少年の家」を、隆太たちも協力して建設していきます。そこで共同の生活をしていきます。その様子のドラマでした。昭和22年(1947年)7月から4年近く、790回も放送されたのです。日本中の家庭が、『緑の丘の赤い屋根 トンガリ帽子このドラマに耳を寄せて聞いたのです。

 当時は、日本中の子どもたちが、このドラマを欠かさず聞いていたと言われるほどの人気番組でした。弱い者たちへの優しさが、負け戦で、何もかも失った大人をも引き付けたのです。ラジオドラマの内容は丸っきし覚えていませんが、この主題歌は、繰り返し聞かされていましたので、いまだに鮮明に覚えているのです。

 それ以降、私たちの世代は、「ラジオドラマ」を、息を呑んで聞いたので、NHKが果たした戦後間もない頃からのラジオ放送は、誰にも思い出があることでしょう。今まさに、ウクライナでは、家を奪われ、親を亡くしている子どもたちが、同じような今を過ごしていることを、ニュースで聞き、胸が痛くなります。

 日本から出かけて、福音宣教にあたっておいでの方々も、ウクライナにおいでです。聖書に出て来る「北からの諸国連合軍(エゼキエル38〜39章)」が、エルサレムに向かって進軍して来る預言が、どのように成就するのか、注意しなければなりませんが、ウクライナ侵攻も、その一連の動きの中にありそうです。

エルサレムを囲んだこの軍隊は、一日のうちに全滅し、倒れた「兵士の埋葬」に7ヶ月を要し、彼らの武器を燃やすのに7年を要すると預言されています。累々たる屍、投げ捨てられた武器があることが、エゼキエル39章に記されてあり、この軍隊の最後の様子が予言されているのです。神さまが、この戦いに介入されるからです。エルサレムは、「わたしの都」と言われる神のものだからです。悪しきものが誇ることはありません。

歴史は動き、予言されたように成就されています。私の関心は、この地上に、『神が、これからのなさることを見ていきたい!』、そう思うのです。今日から、11月、秋たけなわの季節の到来です。さつまいもが美味しいですし、「にっこり」と言う梨が、なんとも言えず遠慮気味に甘くて、秋を十二分に感じさせてくれます。ウクライナにも秋がやってきていることでしょう。平安!

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まあいいかの今を

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 つくづく思うことですが、私の落ちた学校に、この人は合格しています。付属の幼稚舎から高校まで学び、法学部政治学科に合格しているのです。卒業すると、一流企業に就職し、人の羨むような要職を務め上げて、取締役にまで栄進し、晩年には、国家イヴェントの責任も負い、出世街道を爆進したのです。

 同じ年に生まれ、同じ戦後の星のもとを生き、時代の風を受けて生きてきたのに、この私は、三流の学校に進学し、教員採用試験にも落ち、高校の恩師の世話で就職させていただき、就職先の責任者の口利きで、教師にさせていただきました。教育畑に5年いさせてもらい、将来に何の約束も保障もない、キリストの福音に仕える伝道者に、アメリカ人宣教師に誘われてさせていただいたのです。以来、50有余年、この道で生きてきました。

 私と同年齢のこの人は、この時節、留置生活を続けています。鉄の格子のかかった牢で過ごしているのです。外に出られるのは、取調べの時だけです。お父さんからの素晴らしい機会を用いて、自分の敏腕さでキラ星のように生きたのに、人生の最後半の時を、そんな境遇で過ごしています。それに引き換え、今の私は、家内とともに同じように老齢期を迎え、地方都市の川の流れのほとりの借家に住んで、けっこう楽しく感謝な生活をさせてもらっています。

 この上の写真は、先頃の選挙で合格された方の若き日の写真です。歌手で、テレビの連続時代劇にもレギュラー出演した有名な同世代人です。初めてこの写真を見た時に、『あれー!』と驚いたほど、自分の若い頃にそっくりで、『こんな写真撮られたかな?」と見間違うほどだったのです。

 この方も同じ世代で、国会議員の今を生きていて、私よりも少し若いのですが、まあ順調な人生を生き、締めくくりのこれからを国政に預かって、重責を果たそうとしているようです。

 石を投げられ、騙されてお金を取られ、誤解されたり、悪口を叩かれ、説教中に聖書と説教ノートを取り上げられたり、取り調べの一棟に呼ばれ、始末書を書いたりしました。どこへ行っても成功者の道の真反対で生きてきたのに、それを終えて帰国し、休止中の身なのに、とても幸せなのです。

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 ただ不足は、家内にダイヤモンドを買って上げられなかったことと、老いを、もう少し心地よく過ごせる家を買い与えられなかったことなのです。でも、家内は、身につけると痒くなる宝石への思いは微塵もないのです。東と西に窓があって、開らけた部屋で、朝日の昇るのと沈むのを眺められ、天気の良い冬場には、富士が遠望でき、ベランダに季節季節の花を植え、知り合いの来訪を歓迎して、私の作る同じ物の繰り返しの食事を食べて、満足してくれているのです。

 日曜日ごとには、二人で聖餐に預かり、友人の配信する礼拝に加わり、礼拝を守る前には、市の駐車場に二十人ほど集まるラジオ体操会に参加しています。その福寿会の園芸会にも出席し、時には蕎麦を食べに連れて行ってもらったり、家内は週一でリハビリと訪問マッサージ師の施術を受けながら、6週に一度の検査で病院に通う生活に喜んで生きているのです。

 この私は、自転車で数回転倒して、若い頃の無理もあるのでしょうか、今はあちこちと体が痛く、温まると好いので、散歩コースにある日帰り入浴施設に時々行き、6、7週ごとに街医者に通院し、毎日一錠の薬を服用し、台所と洗濯の仕事を天職に替えて過ごしています。不安がないとは言いませんが、生き方を顧みていますが、もう半転、逆転もできないので、『まあいいか!』の十月の末です。『もう一輪!』咲かせたいと思ってもいいのでしょうか。

(ラジオ体操仲間から頂いた鉢の green です)

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働く日本人の姿

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 江戸期の画家が描いた、仕事をしている庶民の姿が、素晴らしいですね。どんな職種に従事してもProfessional  な雰囲気を感じさせる、仕事への下向きさ、真面目さが、どなたからも滲み出ています。筆をとって描いた人が、Pro意識の画家だったからに違いありません。

 長い間の奉公、下働き、見よう見まねで技を覚え、そのような努力や工夫があって、その仕事に就いているのです。一朝一夕ではなりえない巧みさがうかがえ、職人の生き様が感じられます。小学校の同級生のお父さんが、家の仕事場で家具の修理や製作をしていて、その仕事ぶりを遠くから見ていたことがあります。

 貧しい家のように見えましたが、お父さんからは仕事への気迫が感じられたのです。ああ言った仕事ぶりを見ることが少なくなっています。米を『パッカーン!』とリヤーカーに乗せた焼き窯で、焼いた米菓子を作っていたおじさんも、仕事ぶりが良かったのを思い出します。鍋の破れを修理する鋳掛やさんもいました。

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「否」と言える勇気をもって

 

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 「天晴武士(あっぱれもののふ)」という言葉が、山本周五郎の作品の中に出てきます。武士の家庭では、男子を育てることが、武家に嫁した女性の主たる務めだったのだそうです。私情の入り込む余地などのない、母性の心の動きを制した育児が、日本の封建時代の武家社会には求められていたようです。

 主君のための子、やがて主君に仕えていくわが子のために、天晴れな家臣となって生きることを願う、いわゆる滅私奉公だったのでしょう。だからでしょうか、『武士道とは死ぬことと見つけたり。』と言われた、「葉隠」が鍋島藩にあって、かつての武士の世界で、高く評価されて、近代国家になりつつある軍隊の中にも、その精神が引き継がれて行ったのでしょう。

 無敗の神国日本が、開国以来の「負け戦」を体験し、「土性骨(どしょっぽね)」を打ち砕かれて、民主的な社会が生まれた、いえ与えられたのですが、それからもう八十年になろうとしています。新渡戸稲造が著した「武士道」には、日本の精神や社会の仕組みなどにとって、この「武士道(もののふのみち)」には、大きな意味があったと記しています。

 明治維新以降、欧米に立ち遅れた日本の現状で、自分の国を、国際社会に紹介し、訴えるにあたって、この書を著したことになります。彼自身が、陸奥の盛岡藩の藩士の子として、1863年に盛岡城下で生まれています。彼の家には、父親が江戸藩邸から持ち帰った「舶来品」が多くあって、そんな中で物心がついたので、「西洋への憧れ」が強かったのだそうです。稲造は、英語も習い始めていました。

 十五歳の1877年9月に、札幌農学校に学びます。在学中に、クラークの導きで基督者となった上級生との交流の中で、彼も信仰を告白し、宣教師のハリスから洗礼をう受けます。その後、東京大学で学び、母校の札幌の農学校の助教授になります。その後、ジョンズポプキンス大学に私費留学しています。その動機が、東京大学の入学の面接試験の折に語った、『太平洋の架け橋になりたい!』だったのです。

 1900年に、病気治療中の稲造が英文で執筆した「武士道」を、アメリカで出版したのです。好評を得て独訳、仏訳とされ、ヨーロッパでは Best seller になっていきます。東洋の小国日本への関心が、欧米社会に高まるという結果を生んだのです。


 日本人の「心の拠り所」、精神の支柱、道徳的な根拠になっていたのが、この「武士道」であると言う主張が、この本でなされています。ある学者との交わりで、『(日本の学校に宗教教育のないのを知って)道徳教育はどうして施されるのですか?』と問われ、驚いた稲造が、子どもの頃のことを思い返すのです。自分の道徳教育は「武士道」だったと気付いています。

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 また、稲造の妻であった Mary が、夫との生活の折々に感じていたことなのでしょう、『日本では、なぜそういった考えをするんですか?』と何度も、その説明を求められることがあったのです。これが執筆の最も大きな動機だったようです。そのようなことが、本書の「序文」に記されてあります。

 武士が生きていくのに求められたことが、形を変えて女性にも、『芸や、もっと穏やかな人生の優雅が求められていた。』と、男らしいこととともに、女性に求められていたことにも言及しています。

 『過去の日本のサムライは、国民の花であっただけでなく、国民の根でもあった。』と言っています。『サムライ以外の民衆に道徳的標準を示し、民衆をその手本で導いた。』、『民衆に娯楽と教育の無数の通路ー芝居、寄席の小屋、講釈師の高座、浄瑠璃、小説ーは、その主な題材をサムライの物語(*義経と弁慶、曽我兄弟などです)から取っている。』、『やっとヨチヨチ歩きを始めた子どもさえ、桃太郎の鬼ヶ島征伐の冒険談を、回らぬ舌で語るように教えられた。・・・女の子でさえ、武士の武勇と徳の愛にたっぷり浸り切って・・・』、など、侍の武勇伝を好んで聞かされてたのです。

 そのような「武士道(もののふのみち)」の中に育った稲造は、キリストの福音に触れて基督者となっています。稲造によると、武士道を否定しないのですから、聖書の説く教えと近かい部分もあって、共鳴していたに違いありません。彼は、信仰的良心を持ち続けて、教育界や国際社会で活躍したのです。内村鑑三も新島襄も武士の出であり、ホーリネス運動に中田重治は足軽の子であり、孤児救済に人生を捧げた石井十次も高鍋藩の下級武士の子、救世軍の山室軍平は農民の子でした。

 武人の子も農民の子も、福音に触れて、大きく社会に貢献して生きたことになります。だれも倒(さかの)ぼるなら、「アダムの子」でありますが、キリストを信じるなら、「神の子」とされるのです。

 嫌われ差別されて蔑称で蔑まれた人々でも、博徒でも、河原乞食でも、どんな身分でも、階級でも、人種でも、福音は「同じ罪人」だと言います。ところが、罪を認め、その罪を悔いて、心の中で信じて、口でキリストを告白するなら、何と、だれもが「神の国の住人」とされるのです。驚くべきことであります。

 神に、神の語られたことばに、従って生きていくことこそが、私にとっては真に生きていく「道」であり、「従順」は義務ではなくて、心から湧き上がってきて従うことができるようにされます。無批判に、主君や指導者、暴君の言いなりに生きていくなら、大変な間違いをしてしまいます。「否(いな)」と、勇気を持って言える市民でありたいものです。

(竹久夢二の「曽我兄弟」です)

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オオコワ!

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 『そんなことしちゃあダメでしょう!』と、子どの頃に悪さをすると叱ってくれる大人が近所にいました。学校で悪戯をすると、『準、後に(廊下に、校長室に)立ってろ!』言われ、街中をフラフラして、タバコを吸っていたら、警邏してるお巡り(さん)が、『君何してるんだ、幾つだ?しっかりしなさい!』と注意されました。

 中学生の頃、『あのオオ○○のヤツ、最近、いい気になってるじゃねえか!』と、体育教官室の前を歩きながら、仲のいい級友に言っていたら、それを、どうも教官室で聞かれてしまい、授業が始まってすぐに、真っ赤な顔をしていたので、殴られると思いましたら、『準、前に出てこい!文句があるなら、バスケで対マンをしよう!』と言われたのです。中年の先生と現役の自分でしたので結果は、こちらの勝ちでした。後はサッパリでした。

 就職して、職員室でネクタイを外して、胸ポケットに入れていたら、『ヒロタくん、ネクタイをきちんと着けていなさい!』と、主事に注意されました。親父にはゲンコツ、母親にも注意されました。また、ついこの間まで、『あんな言い方したら、傷ついてしまうから、気を付けてねっ!』などと、時々娘たちに言われていました。

 もうこれ以上言いません、叱ったり、注意したり、ダメと言って、矯正してくれる人が、私にはいつでもいてくれたのです。今も、“ No と言ってくれる家内が、そばにいてくれます。それで、踏み外さずに今日まで、どうにか生きてこれたのでしょうか。

 私は、叱られたり、叩かれた時、自分が悪かったので、「苦々しい思い」を持つことなく、『当然!』だと思って、恨みを後に引いてしまうようなことはなく、まあサッパリとしておれました。だから少年院にも刑務所にも収容所にも行かずに、巴波の流れのほとりに住んで、今の時を生きていられて、『幸せだなあ!』の今朝なのです。もし軌道修正や方向転換できなくて、突っ走って軌道を外れて自滅する機関車になってしまったていたら、『オオコワ!』です。黙認のYes man ばかりでなかったのは幸いでした。

("イラストAC"のバスケットボール選手です)

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今も歌っている

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 ホイットマンに、「おれにはアメリカの歌が聴こえる(“I Hear America Singing”)」と言う詩があります。

 

おれにはアメリカの歌声が聴こえる、いろいろな賛歌がおれには聴こえる、

機械工たちの歌、誰もが自分の歌を快活で力強く響けとばかり歌っている、

大工は大工の歌を歌う、板や梁の長さを測りながら、石工は石工の歌を歌う、

仕事へ向かうまえも仕事を終わらせたあとも、

船頭は自分の歌を歌い、甲板員は蒸気船の甲板で歌う、

靴屋はベンチに座りながら歌い、帽子屋は立ったまま歌う、木こりの歌、農夫の歌、朝仕事に向かうときも、

昼休みにも、夕暮れにも、母親の、仕事をする若妻の、

針仕事や洗濯をする少女の心地よい歌、誰もが自分だけの歌を歌っている、

昼は昼の歌を歌う―――夜は屈強で気のいい若者たちが大声で、美しい歌を力強く歌う。(飯野友幸訳)

 

“I Hear America Singing”

I hear America singing, the varied carols I hear,

Those of mechanics, each one singing his as it should be blithe and strong,

The carpenter singing his as he measures his plank or beam,

The mason singing his as he makes ready for work, or leaves off work,

The boatman singing what belongs to him in his boat, the deck-hand singing on the steamboat deck,

The shoemaker singing as he sits on his bench, the hatter singing as he stands,

The wood-cutter’s song, the ploughboy’s on his way in the morning, or at noon intermission or at sundown,

The delicious singing of the mother, or of the young wife at work, or of the girl sewing or washing,

Each singing what belongs to him or her and to none else,

The day what belongs to the day — at night the party of young fellows, robust, friendly,

Singing with open mouths their strong melodious songs. 

 

 内村鑑三に、「桶職」の作品があります。

我は唯(ただ)桶を作る事を知る、
其他(そのほか)の事を知らない、
政治を知らない宗教を知らない、
唯善き桶を作る事を知る。

我は我(わが)桶を売らんとて外に行かない、
人は我桶を買わんとて我許(もと)に来る、
我は人の我に就いて知らんことを求めない
我は唯家にありて強き善き桶を作る。

月は満ちて又欠ける、
歳は去りて又来たる、

世は変り行くも我は変らない、
我は家に在りて善き桶を作る。

我は政治の故を以て人と争はない、
我宗教を人に強ひんと為ない、
我は唯善き桶を作りて、
独り立(たち)て甚だ安泰(やすらか)である。

 役人や官吏や学者や軍人ではなく、内村は、一人の市井の人、職人を取り上げています。まるで日本人を代表するような、日蓮や、上杉鷹山や、二宮尊徳や、藤江藤樹ではなく、内村は、無名の、どこにでもいる「桶職人」を取り上げて歌いました。

 ワシントンや、リンカーンや、ジェファーソンではない、実業現場の人たちを、ホイットマンも取り上げています。どの村にも、どの街角にもいる人です。立派な法律の草案を書き上げてもいないし、文明の利器も発明もしていないし、奴隷解放もしていないのですが、目立たなく自分たちの社会を、支えてきた人たちを注目しているのす。

 その「甲板員が歌っていた歌」って、どんな歌だったのでしょうか、興味が尽きません。船に乗って、モールス信号を打つ通信員になりたかった私は、その単純な動機は、父の机の上に置かれてあった打信機を遊び道具として、いつまでも遊んでいたからです。けっきょくは甲板員にも通信員にもなりませんでしたが、救い主イエスさまを、ほめたたえ、感謝の歌を、七十七になる私は、今も歌っています。

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