沈黙

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 『観まい!』と思いながら、ついに観てしまった映画がありました。遠藤周作の書いた小説を、マーティン・スコセッシ監督が、2016年に監督制作した「沈黙-SILENCE」です。

 小説を読むのを躊躇してしまったのですが、帰国中、小山市の上映館に足を運んだのです。観客が少なかったのが意外でしたが、極めて強烈な impact を受けたのです。もちろん拷問され、殉教していく島原の農民への思いは強かったのですが、彼らを迫害し、罪に定める裁きを行った、長崎奉行所の代官の井上筑後守への想いが強かったと言えます。

 この井上は、後に大目付で、宗門改役になっています。実在の人物で、家康の家臣の子として生まれたのですが、彼自身がキリシタンの過去を持っていたのです。映画では、人の弱点を、巧みに突いていく様子が、圧巻でした。元キリシタンであったことから、彼らの心の動きや弱さを熟知して、追い詰めていくのです。  

 徳川家康は、幕藩体制を盤石なものにするために、さまざまな政策を取りました。まだ三河にあった家康は、「一向一揆」、大きな宗教勢力であった「一向宗」に危機感を感じていたのです。それを上手に懐柔策で治めて、味方にした家康は、一方では、キリスト教の布教を認めていました。しかし幕府運営、とくに文治政策に、天海という天台宗の仏僧を招き入れるのです。キリスト教は、《神の下に人は平等》を説きましたから、うって変わって、禁教に転じるのです。

 福島県の会津が、この天海の出身地でした。十一歳で出家し、下野国の足利学校で学び、比叡山延暦寺で修行をし、禅寺でも修行をした人でした。家康と、七十三歳で出会って、その健康や仏教信奉、仏門との関わり、京の朝廷との関わりなどで、政策顧問として重用されるのが、この天海だったのです。

 陰陽道をもとに、江戸の町作りにも手腕を発揮し、そのために五十年もの歳月を費やしています。仏教の振興に励み、寺を建立し、やがて家康を葬る日光山にも手をのばしていたようです。家康没後は、天海は家康を「大権現」として神格化し、秀忠、家光にも、徳川三代に仕えています。天主教に対する危機感があって、仏門重用、寺請制度、宗門改帳(宗門人別改帳)などで、支配体制を確立していき、二百六十年の徳川幕府をもたらしたのです。

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 初期の宗教政策は熾烈で、多くのキリシタンの殉教を産んでいます。その政策を推進したのが、臨済宗の僧の以心崇伝であり、天海だったと考えられます。その弾圧者が、長崎奉行であった井上筑後守でした。これを演じたのが、イッセー緒方でした。自らキリシタンの過去がある奉行の、懐柔策で上手に転ばせてしまう演技、そして転んでは告解するキチジローを演じた窪塚洋介で、信徒でありながら、惑や恐れを上手に演じている心理描写が、実に巧みに演じていたのに驚かされたのです。

 私が、初めて訪ねたお隣の国で、3人に教会の指導者にお会いしました。十数年も収容所にいて帰って来られた方とお会いし、山の中の河辺でバプテスマが行われ、奥まった街中の小さな家に溢れるような人が溢れて礼拝を守り、建国記念の歌を、心情に反する内容の歌を歌わないと拒んだ老婦人伝道者とお会いしました。

 その後私たちが13年過ごした街でも、仕事を取り上げられ、軟禁されても、棄教しない、強固な信仰を持つみなさんと、共に過ごすことができたのです。五代、六代の信仰者もいました。

(映画に出てきた、「井上筑後守」、「キチジロー」です)

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秋近し

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 今朝、開いた朝顔です。暑さの中に、涼を感じさせてくれて、なんともホッとさせらています。沖縄の近くに台風が迫っているようです。豪雨、猛暑、今度は〈台風〉、矢継ぎ早の気象の変化が、日本列島を包み込んでいます。それでも、もう直ぐ秋になることでしょう。味覚の秋、芸術の秋、読書の秋、それに錦秋、麦秋、爽秋などという季節が来てくれます。「秋近し」と言って、この酷暑を乗りこえたい覚悟です。

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鯛料理をご馳走に

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 先週末、この街で、最も新鮮な魚を売るお店で、一匹の鯛を買って、それを調理していただきました。夕食のおかずにだったのです。私たちが過ごした華南の街から、そう遠くない田舎街の出身のご婦人が、友人とお二人で、訪ねてくださって、夕食に作ってくださったのです。

 その方の出身は、海辺の村なのですが、ちょっとカッコウをつけて街なんて言ってしまいました。確かに、その周辺では中心地で、一度お招きいただいて訪ねたことがあったのです。この方のお母さんは、その村の市場の入り口に、魚の入ったバケツを置いて、通りすがりの買い物客に、新鮮な魚を売っていたそうです。その脇で、幼い頃から彼女は、お母さんと一緒に、貧しかった家庭を助けていたと、そう話してくれました。

 だからでしょうか、私たちが出会った街で、よく海鮮料理の料理店に招待してくれたのです。ある時、注文した魚が卓上に運ばれてきました。すると、〈服務員fuwuyuan/ウエイター〉に、『この魚はダメ、新鮮なのにかえて調理して持ってきてください!』と彼女が言ったのです。そんなにはっきりと物言いをするのが、おとなしい彼女にしては珍しかったのです。

 魚を獲って生活していたお父さんが、市場に卸して、残った魚を、お母さんが商いしていたから、彼女も目利きが鋭いのです。大切な客として接してくれた私たちに、新鮮な魚を食べて欲しかったからです。

 先日、こちらで買った鯛は、彼女の目に新鮮だったようです。20194月に、退院間もない家内の見舞いに来てくださった時に、作ってくださった同じ料理でした。あれ以来食欲が出て来て、その愛が功を奏して、家内は回復していったのです。鯛の頭部に、ネギとニンニクとしめじと豆腐で、〈tang/スープ〉にしてくれたのです。また鯛の身を、蒸して、その蒸し汁に、醤油やニンニク、小ネギで味をつけて、かけてくれ、薄味にしてくださったのです。

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 家内が、2019年の正月に、急遽入院した省立医院は、完全看護ではありませんでしたので、24時間三交代で、家内の身の回り、看護室への連絡など、お世話をしてくれる当番表を作ってくださって、姉妹たちを割り当ててくれたのです。前回の入院時にも同じようにしてくれました。1週間で退院になって、私の知らない間に、治療費も教会と彼女が支払ってくださったのです。即刻帰国する時には、ビジネス席の航空券を買ってくださって、硬くない席で3時間のフライトでした。。

 《来客効果》ってありそうです。母のようにして、家内を慕ってくださり、それも十数年来、変わらない愛と敬意があっての再会なのです。今も、ご主人と一緒にアワビの養殖、卸、出荷などの事業をされておいでです。忙しい中のお見舞いに、どんなに励まされていることででょう。家内を「師母shimu」と敬意を込めて呼んでくれています。今日、成田から帰国します。神さまが、出会わせてくださった方々のお一人なのです。

(「鯛」と「鮑の養殖場」です)

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人の性格と高温と

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 『言いたくはないのですが、暑いですね!』、毎週メールをしてくれる友への返信で、ついそう言ってしまいました。〈性格と死因〉について、医者ではない物書きの内田百閒(うちだひゃっけん)が、次のように言ったそうです。

 『芥川君の死因についてはあんまり暑いので腹を立てて死んだのだろうと私は考えた(「河童忌」にそうあります)。』、どうも芥川龍之介は、立腹癖があったとかで、あまりにも暑い夏に辟易したのでしょうか、その暑さに腹を立てて、自死してしまったのだと、独自の見解をしています。

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 生い立ちの時期に、家庭に辛い経験があったこともあって、芥川は繊細な性格だったそうです。頭は鋭く切れた人だったのですが、自信がなかったようです。しかも、厭世的なものの考え方をする人だと言われています。育った家庭に問題があって、心や過去に傷のない人などいないと思われますが、そう言った心の戦いの中で、彼の書いた作品が世に出て、共感を呼んだのでしょう。

 鉄道マニアの先駆者の内田百閒は、友の死に際して、青酸カリ自殺や睡眠薬自殺とされていた死を、〈立腹〉のせいにしたのでしょうか。しかも、高温な夏の友の死だったので、そう言って退けたにちがいありません。ちなみに、その日の気温は、今日本列島を包み込んでいる356℃だったようです。

 ある統計に、〈日本人は自殺しやすい気温〉に触れていました。その温度は、〈25〜26℃〉なのだそうです。気温を地図上で、高温地帯を赤で表記するものを見ていましたら、日本中が、真っ赤になっています。真夏日、危険な夏日に見舞われている日本列島であります。

 今日日、高温の日の連続で、『溶けてしまいそう!』と、家内が言うほどに、〈災害級の暑さ〉が続いているのです。それで、ゆめゆめ腹を立てずに、さっぱりしたものでも飲んだり、食べたりしながら、もう3週間ほどのピークを、『よく生きてるよ!』と、自分を褒めて、凌いでまいりましょう。

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神以外にない

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 「サイモンとガーファンクル(Simon & Garfunkel)」と言う、ユダヤ系アメリカの青年たちがいました。われわれの世代で、folk song が流行っていた頃の二人でした。英文学を専攻したサイモンの、作詞は、文学性に富んでいて、高く評価されていたのです。私たちが結婚した年に、” America “ が彼らによって作られ、歌われています。

[Verse 1]
“Let us be lovers, we’ll marry our fortunes together”
“I’ve got some real estate here in my bag”
So we bought a pack of cigarettes and Mrs. Wagner pies
And walked off to look for America

「私たち恋人になって、私たちは結婚するの」
「僕の鞄のなかには いくつかの「不動産」も入ってるんだ」
そして僕らは煙草ひと箱に ミセス・ワグナーのパイを買い込んだ
僕らは歩き始めたんだ アメリカを探す旅へと

[Verse 2]
“Kathy,” I said as we boarded a Greyhound in Pittsburgh
“Michigan seems like a dream to me now”
It took me four days to hitchhike from Saginaw
I’ve gone to look for America

「キャシー」 ピッツバーグでグレイハウンドバスに乗り込むときに僕は言った
「今じゃミシガンも夢のように思えるよ」
サギノーからヒッチハイクするのに4日間もかかったんだ
僕はアメリカを探しに旅立ったんだ  

[Verse 3]
Laughing on the bus
Playing games with the faces
She said the man in the gabardine suit was a spy
I said “Be careful his bowtie is really a camera”

 バスのなかじゃ大笑いさ
乗客の顔を見ながらゲームで遊んだんだ
彼女言った「ギャバジンのスーツを着た男はスパイだって」
僕はこう言った「気を付けろ、彼の蝶タイは実はカメラだぞって」 

[Verse 4]
“Toss me a cigarette, I think there’s one in my raincoat”
“We smoked the last one an hour ago”
So I looked at the scenery, she read her magazine
And the moon rose over an open field

 「タバコを放り投げてよ 確かレインコートに1本残ってたはずだから」
1時間前に最後の1本を吸っちゃったわ」
僕は仕方なく景色を眺めて 彼女は雑誌を読み始めた
そして向こうの広い野原に月が昇っていったんだ

[Verse 5]
“Kathy, I’m lost,” I said, though I knew she was sleeping
I’m empty and aching and I don’t know why
Counting the cars on the New Jersey Turnpike
They’ve all come to look for America
All come to look for America
All come to look for America

「キャシー、ぼくは失くしてしまったんだ」彼女が寝むっていたのを知っていたのに、言ってみた
ぼくは空虚で苦しいのに何故だか分からない
ニュージャージーターンパイクで車を数える
彼らはみんなアメリカを探しに出てきたんだ
みんなアメリカを探しに出てきたんだ
みんなアメリカを探しに出てきたんだ 

 この歌詞の内、『心に穴が空虚で、どうしたらいいのかわからない I’m empty and aching and I don’t know why  と歌っていました。青年期の正直な気持ちを表したのですが、これを聞くと、青年期というのは、心が空っぽで、心が痛く感じるのは、いいのかも知れません。その空いたところや痛んだところに、時に応じ、人や本などの思想や社会に起こる出来事への思い通して、それを一つ一つ埋めて行く時期なのだと言うことなのでしょう。

 そう言った意味で、音楽を聴いたり、絵画を見たり、本を読んだり、友達や兄弟姉妹や親とも話をしながら、心の中に、様々な物事を蓄えて来たのを思い出すのです。この歌で、サイモンが作詞しているのは、自分が生まれた街や国や地球、そう言った世界を探し歩きながら、知ろうとしている、青年期の探究心の旺盛さを歌い込んだのでしょう。

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 男を磨き上げるためには、ナンパな文学や音楽よりも、スポーツを選んだ自分は、情操教育が不足していたのを感じるのです。二人の兄の真似をしていた少年期だったので、兄たちが陸上部、野球部で活躍していたので、中学生になって、バスケットボール部に入ってたのです。そこには社会人、大学生が入れ替わりで、やって来ていて、高校生の練習の脇で、一緒に練習をしていたのです。

 女っ気のない、野郎ばかりの世界で、揉まれ、叩かれ、真似して生きていたのです。でも、達成感や疲れや空腹で、なんか充実していたのを思い出し、心の〈空っぽさ〉なんか感じることもなかったし、レギュラーになること、守備や攻撃が上手になって、対抗試合で勝つことで、思いはいっぱいだったのです。

 その頃、ポール・アンカが、『チュウチュウ トレイン!』とか『おお ダイアナ!』とか『ユウアー マイ デスティニー!』を歌い、コニー・フランシスが『かわいいベビー ハイハイ!』なんて歌って、American music が大流行りしていました。何か意味のない歌詞でしたが、曲のノリがよくて、聴いている内に歌い出したほどです。

 でも、今の子どもや若者たちに、夢が欠落していて、何か危機的だと言われています。〈空っぽ〉なら埋めることができますが、〈空虚さ〉が広がっていると、ちょっと問題だと思うのです。スマホのゲームでは、その穴は埋めきれません。

 こんな歌が歌われていた頃、自分も〈ニッポン探し〉の旅に出て、南に惹かれて九州に、急行電車に乗り込んで出掛けたことがありました。その時に一緒だった友人も、『突然、主人が亡くなりました!』との知らせが、奥さんから去年あって、そんな年齢になったのかと、思ったのです。そう、人生短し、ですね。

 パスカルと言う人が、『人の心には空洞がある!』と、有名なことばを残しています。人の一生は、きっと、その〈空洞〉を埋めるための日々の積み重ねなのかも知れません。これも、それも、あれも、いろいろやってみて、それでも空虚感は拭い取れないのでしょう。パスカルは、その穴を埋めることができるのは、『神以外にはない!』と答えています。創造者なる神さまだけが、その空洞をご存知だからです。

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母の詩四題

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 これって、《敬慕》の念があふれていて、「敬母の詩」なのでしょう。和歌山県で生まれた詩人の河野進牧師の「母の詩」です。「明治の母」に育てられた方で、懐かしい思い出があふれていたことでしょう。慢性の喘息で、苦しんでいたお母さんに向けられる、優しい息子の思いの深さが読み取れるようです。

 

❤️「母 讃歌」

富士山と母は よく似ている

うれしくて なつかしく

大地にしっかり立って どこへも動かないで

嵐にも暗い雲にも 負けないで

昼も夜も むくいは ついに求めないで

富士山になくて 母にあふれる

太陽のような あたたかさ ほほえみ

永遠につづくのは 神と母の愛であろう

 

❤️「太陽のように」

母という字は

上から 下から

左から 右から

表から 裏から 見ても

同じかっこうをしている

母は太陽のように

かげひなたがないもんな

 

❤️「同情」

お母さんのようなやさしい人が

どうして生涯 病気をされたか

よくわかりません

病気をしたから やさしくなったと

思いません

でもわたしが多くの病人に同情できるのは

たしかにおかあさんのおかげです

すみませんが ありがとうございます

 

❤️「巻きずし」

保育園のこどもたちに

すしやでつくらせた巻きずしを持たせて

裏の桃山へ花見に行った

ゆうこちゃんは二切れのこした

どうしたの

お母ちゃんとおにいちゃんにあげる

わたしのこどものころの思い出が

いなづまのようにひらめいた

 

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 この牧師さんから、愛情と敬意のこもったお便りを、二十数年前にいただきました。主と教会、そして人を、とくに弱い立場の人に関心を向け、愛して奉仕された牧師さんでした。

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ノアの日のような

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 13年ぶりに帰国した2019年の秋、東日本を襲った19号台風は、栃木市だけでなく、関東甲信及び東北地方を中心に大 規模な災害をもたらしました。住み始めた栃木市では、降り始めから 10 12日一日の降水量が、平井町の観測所で 298mm鍋山町の観測局では 422mm などを記録するほどの豪雨でした。永野川の越水や決壊、巴波川、赤津川、三杉川等の氾濫、山間部における 19 か所の土砂崩れな どが発生しています。

 住んでいました借家の床上に浸水し、起き出してから、水が徐々に引いていきましたが、泥が居間や寝室にいっぱいになっていて、その泥や、外の庭の書き出しで、昼頃までかかったのです。床上浸水でしたが、その前の晩は、二階の部屋に移っていましたので、濡れることはありせんでした。水が運んできた泥が、水が引いて、床や、コンクリートの三和土(たたき)の上に残っていたのです。それが造陸運動の中で、繰り返されて扇状地が出来上がり、栄養分のある農耕地なってきたのと、同じ自然界の働きなのでしょう。

 私たちに、家をお貸しくださった息子さんが、手配してくださって、高根沢町の友人の教会のゲストルームに疎開させてくださったのです。その家は、これまで二回ほど、洪水で浸水していて、衛生上、闘病中の家内にはふさわしくないと、判断してくださっての愛の行動でした。おかげさまで、3週間弱の避難生活を、みなさんのご好意でさせて頂いたのです。

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 先週、〈一時間の雨量が40mm 〉と、ウエザーニュースが伝えていました。家の脇を流れる巴波川の水位が、みるみるうちに上がってきていました。それで四年前のことを思い出したのです。雨の降る量と、受け止め流す河川の容量とに差があって、いつでも越水しそうでした。部屋が4階でしたので、心配はなかったのですが、自然の猛威をまざまざと目撃した次第です。

 『「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。 また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。(創世記9913節)』

 創造の神さまは、大自然の営みを支配されていて、ノアの日のような、未曾有の量の水で、地を覆うようなこと、『滅ぼさない!』と、虹を立てて、契約して下さいました。でも、今回目撃した、この街の中で、〈40mm1時間〉の雨の降り様、大風が横殴りの雨を叩きつけていたような爆雨は、もし神さまが制限付けないなら、瞬きの間に、水が溢れたことでしょう。自然をも支配される神がおられるので、畏れかしこんでこに時代を生きてまいりましょう。

 そうならないように、暑さも降雨量も風速も、憐れまれる神さまの制限が加えられているのです。人が、過ごしやすい環境を、細やかな配慮をなさって、天地を創造されていることを思い知らされているこの頃です。地球の軸の傾きが、太陽との距離が、ちょうど良くされているのを思うだけでも、神さまの善意を知ることができるのです。

( “Clip art library”から「ノアの方舟」、「巴波川の氾濫」です)

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[街]釜ヶ崎と山谷

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 東に山谷、西に釜ヶ崎、ご存知「ドヤ街」でしょうか、日雇いで働く人たちのl宿所が密集している地なのです。1950年代に、とくに大阪万博の時代、日本の経済が急拡大して栄えていく時代に、その労働力を提供した人たち、主に土木建設の仕事に従事した人たちが、その日の仕事を終えて、泊まっていた町です。一時期は、2万人ほどの方々がいた様です。

 芝浦や横浜などの海岸に出掛けて行って、私も働いたことがありました。そこには「寄せ場」があって、そこに手配師のおじさんがやって来て、『お前、お前、お前・・・!』と、その日に必要な頭数の労務者を雇うのです。仕事にあぶれる人たちの一部が、止むに止まれず売血をして、〈黄色い血〉と言われて社会問題になった頃に、アルバイト気分で働いたことがありました。弟がやっていたのを話に聞いて、一番電車で家から出掛けたのです。親に養われている身の私は、その日を必死に生きている方たちから、仕事のきかいを奪っているように感じて、申し訳ない気持ちもありました。

 でも社会勉強をさせてもらって、けっこう高い日給を稼ぐことができたのです。その頃から、少し経った頃でしょうか、岡林信康の作詞作曲、そして歌で、「山谷ブルース」が歌われ始めていました。

 

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今日の仕事はつらかった
あとはしょうちゅうを あおるだけ
どうせ どうせ山谷のドヤ住い
ほかにやることありゃしねえ

一人酒場で 飲む酒に
かえらぬ昔が なつかしい
泣いて 泣いて みたってなんになる
今じゃ山谷が ふるさとよ

工事終れば それっきり
お払い箱の おれ達さ
いいさ いいさ山谷の立ちん坊
世間うらんで 何になる

人は山谷を 悪く言う
だけどおれ達 いなくなりゃ
ビルも ビルも 道路も出来ゃしねえ
誰も解っちゃ くれねえか

だけどおれ達ゃ 泣かないぜ
はたらくおれ達の 世の中が
きっと きっと 来るさそのうちに
その日にゃ泣こうぜ うれし泣き

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 この人は、私たちの世代人で、お父さんが牧師さんでしたが、学んでいたキリスト教系の大学を中退し、フォークソングの世界で生きてきたのです。身一つで、地方から都会に出て来ざるを得なかった方たちからすれば、切迫感に乏しい日雇い経験をしてみた、親や社会に対しての反抗児だったのでしょう。

 生きるか死ぬかの瀬戸際で、釜ヶ崎や山谷に流れ込んで来た人たちがほとんどだったのですから、彼や私の意識は、みなさんとは違っていたのです。その一つの釜ヶ崎で、キリスト教伝道を、アメリカ人宣教師がされいました。その日雇いの労務者から献身され、神学校で学んで、牧師になられた方がおいでです。この方の教会で、お話をさせて頂いたことがありました。

 中流階級への伝道ではなく、この社会の底辺に生きる人々に、福音を宣べ伝えるという使命を、主からいただいて、忠実に奉仕されてきている教会です。江戸時代にも、こう言った日雇いのような人が、その釜ヶ崎周辺には集まっていたそうで、その歴史は長いのです。大阪万博の建築ラッシュ時には、多くの人が、ここで生活をしていたそうです。西成のど真ん中に、「通天閣」があって、その下に銭湯があり、入浴し、宿所で泊まったこともありました。山谷も、東京オリンピックの建築ラッシュ時に、多くの出稼ぎの方たちがいました。

 そこには、今は、外国人旅行者が、安い宿泊代金で、泊まるようになり、街は様変わりしているようです。でも、成長期の日本の歴史を刻んできた街であることに変わりがありません。山谷にも教会があって、きれいに選択した上着やシャツや食料を、車に載せて運んだこともありました。確かに東西にあった宿所があって、道路や施設が出来上がったので、そのために大きく貢献した街であったわけです。目をつむると、あの時、あの場所、そして人の群れが思い出されてまいります。

(大阪の釜ヶ崎、ツルハシの仕事ぶり、東京に山谷の絵や写真です)

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