好き嫌いと言うのは、子どもの頃のことかと思っていましたら、歳を重ねてきた今も、同じように、好き嫌いがあるのに気付き、子どもの頃以上に、激しいように感じてしまいます。
食べ物でニンジンとネギがダメでした。ただ、すき焼きの中に入っている場合は、そのネギを美味しく食べました。また、ニンジンもjuicer で、リンゴといっしょに作ると、美味しく飲めたのです。つまり〈形状〉が違うので、目に訴えないので、食べる段、飲む段には、問題にならなくなるのでしょうか。
最近目立って、野球やサッカーやバスケットボールの選手で、腕に刺青をしているのを見かけます。ファッションの一つでなのでしょうか、少年たちに夢を与える彼らが、それがスポーツの飾りであるかのように見せているのです。皮膚呼吸ができなくなるのだそうですが、聖書では、異邦人の習わしである、入墨を、次のように禁じています。
『あなたがたは死者のため、自分のからだに傷をつけてはならない。また自分の身に入墨をしてはならない。わたしは主である。(レビ19章28節)』
温泉施設でも入浴禁止されているのに、キリスト教会の牧師や伝道者の方で、以前、極道や八九三と呼ばれていた方が、身体に刺青をしていて、その過去を隠しているのは好いのですが、講壇の上でもろ肌脱いで、それを見せて、『過去は役立たずのヤクザだったけど、今は改心して、キリスト者となり、神学校で学んで牧師になっています!』と言うのです。
聖書には、次のようにあります。
『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1章9節)』
どんな過去も、神の前に、「罪を言い表わす」なら、すなわち悔い改めるなら、赦されると約束しています。ある俳優が、映画のサウンドトラックの歌の名で、次のように歌っていました。
親にもらった 大事な肌を
墨で汚して 白刃(しらは)の下で
積もり重ねた 不孝の数を
なんと詫びよか オフクロに
背中で泣いてる 唐獅子牡丹
主人公の花田秀次郎も、親への申し訳なさを悔いたのでしょう、そんな風に歌って、親に詫びているのです。そう言った過去は、映画の中でのこと、人気取りの映画興行でのことであって、実際に、刺青をした人は、人に知られまいと、過去を封印し、その肌を人前に晒すようなことはしないのです。
私が知っている牧師に、過去に〈ピス◯◯〉と呼ばれた人がいました。この方は、肌に刺青を入れていたかどうかは知りませんが、自分の過去を封印してしまって、人目や耳から知られないように、隠したのです。それを売り物に、〈こんな男でも救われる〉と言う話をされなかったのです。でも、そんな過去を誇っているような姿勢や生き方が、〈嫌い〉で仕方がありません。
ところが「改心記」と言う本を書かれて、過去の写真を載せ、講壇の上で双肌に入れた彫り物を撮った写真を載せておられます。私の知人に、お父さまが、その極道の過去を持っていて、足を洗っておられて、その道から離れた過去があるのです。左の小指の第一関節を落として〈指詰め〉をしていたそうです。背中にも腕にも太腿にも、満身に刺青をしていたようです。
その過去の指詰めの跡や刺青を隠しながら、この社会を生き抜いたのです。二度と、同じ過ちの道に戻ることがなかったそうです。立派な夫、父親として生きたとお聞きしました。幼い日に日曜学校に通っていたことがあり、長じて信仰を持ったのです。パウロがピリピの教会に書き送った手紙に、
『キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 (ピリピ3章21節)』
とあります。無垢な状態、無傷な体に回復し、栄光化された肉体に変えられる、《救い》にあずかれるのです。
『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21章4節)』
これが、聖書が説く、「赦し」なのです。心の記憶の中にあるさまざまな傷付いた記憶に、神さまは触れてくださるのです。ダビデが、神さまに、そう懇願している祈りががあります。
『神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139篇23~24節)』
ああ言ったものは、威嚇や誇示であって、講壇で観せるものではありません。好き嫌いの問題でもなさそうですが、大嫌いなのです。神さまから頂いた身体を、大切に保ちたいものです。
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