陸の孤島

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今回の日本の豪雪で、作詞が内村直也、作曲が中田喜直、高英男が歌った、「雪の降る街を」を思い出しました。

雪の降る街を 雪の降る街を
想い出だけが通りすぎてゆく
雪の降る街を
遠い国から落ちてくる
この想い出を この想い出を
いつの日かつつまん
温かき幸せのほほえみ

雪の降る街を 雪の降る街を
足音だけが追いかけてゆく
雪の降る街を
ひとり心に充(み)ちてくる
この哀しみを この哀しみを
いつの日かほぐさん

緑なす春の日のそよ風
雪の降る街を 雪の降る街を
息吹(いぶき)とともにこみあげてくる
雪の降る街を
誰もわからぬわが心
このむなしさを このむなしさを
いつの日か祈らん
新しき光降る鐘の音(ね)

『大雪になったら大変だろうな!』と思ったのが、山梨県の南部にある早川町に、知人を訪ねて行った時でした。県道37号線から脇道に入った集落でした。夏でしたが、樹木が生い茂って、日陰に入ると涼を感じられるほどで、その渓谷を見下ろすほどの小高い山の頂きに、その家があったのです。遠来の客である私たちを歓迎して、ご自分の畑で採れたトマトを、冷たい水で冷やし、それを切って、何と山盛りに砂糖をかけてくれたのです。『えっ!』と思ったのですが、そのお気持ちを無にできずに、食べたのです。でも、美味しかったのです。昔、「砂糖」は、貴重な甘味料だったのですから、それを存分にかけてくれたということは、<VIP待遇>だったわけですね。

年配のご夫婦でしたから、きっと子どもさんが、一週間に一、二度訪ねてきて、必需品を届けて、それで生活をされていたようです。車で登る山路は曲がりくねって急峻でしたから、もし、今も、そこで生活をされていたら、今回の史上稀な豪雪で、「陸の孤島」になっているに違いないと思ったのです。案の上、ニュースで、『住民1183人が孤立!』と伝えていました。「雪の降る村を 足音・・・」も聞こえようがありませんが、ニュースを聞いて、夏の日の思い出が蘇ってきてしまいました。『真冬に雪が降ったら、この辺りでの生活は大変だろう!』と感じたことなど思い出し、住民の不安が解消されるような援護がなされることを、ここ華南の雨の空の下で切に願っております。

(写真は、早川町内の「家屋」です)

22度

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さまざまのこと思ひ出す桜かな 芭蕉

今日の最高気温の予報は、22度でした。確かに昼前は、着ていった冬用のコートが不要で、脱いで手に抱えて、学校から帰ってきました。自分だけかと思って今出ましたら、何人もの方が、コートを脱いでいましし、電動車に乗っていた青年は半袖でした。このままとはいかないにしても、陽の光の強さから、そこまで春が来ているようです。

日本海側や東北や北海道、黒竜江省や吉林省や遼寧省などでは、まだまだなのでしょうが、ここ華南では、一足早めに春を感じさせられています。2011年に、家内が入院手術を日本の病院でしましたので、そばにいて上げるために日本に残りました。そのおかげで、板橋の病院の近くの満開の桜を、五年ぶりでしょうか、心ゆくまで眺めることができました。

今年は、近くの公園の中に、数本の桜の木が植えられてあるそうですから、一足お先に<観桜>と洒落込もうと思っているのですが。開花、満開、そして散る時期を推し量れなませんし、<桜前線>の予報も、こちらではありませんので、いつ頃になるのでしょうか。この公園も通り道ではなく、わざわざ出かけないとなりませんので、どうしたら好いのでしょうか。葉桜になる前に行けたら、嬉しいのですが。

日本人って、どうして桜が好きなのでしょうか。小学校の校庭に桜の木が植えられていて、ちょうど開花の頃に入学式があり、年度の移り変わりになりますので、時別な思い入れがあるのでしょう。また、開花している時期が短いこと、散り際が潔いことが、日本人の心情に合うからでもあるようです。小さな花が、『あっ、桜に似ている!』と思ったのでしょうか、「桜草」と命名してしまい、小さなピンクの貝を見て、同じように、『あっ、桜に似ている!』と言って、「桜貝」にしてしまうのです。

桜にまつわる思い出が、思いの中を駆け巡る、早春の午後であります。

(写真は、「サクラソウ」です)

ライバル

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「10年来のライバル」という、浅田真央とキム・ヨナの戦いが、ソチ・冬季オリンピックで終わりました。他を寄せ付けないで、ずっと相手を意識しながら、互いに練磨してきた二人です。聴くところによりますと、ヨナは IOCに勤めるとのこと、真央は学業を続けることでしょう。日韓問題が、今日のように緊迫していない頃から、政府間、国家間の思惑を超えて、スポーツの世界で<しのぎ(激しい競争のこと)>を削ってきたことは、実に爽やかだったと感じてきました。優れたスケーターであるがゆえに、フアンもマスコミも、良きつけ悪しきにつけ、この二人に注目してきたのです。中には心無い中傷や憶測があって、心苦しいこともありました。こう言うには、「有名税」なのですが、悪意の中傷は慎まなければいけません。実に聞き苦しいからです。 戦いがすんで、互いに労(ねぎら)い合う言葉がニュースで報じられていました。相手への感謝と激励の言葉が、真央にもヨナにもあって、とても気聞き心地がいいので、この二人は人間としても、スポーツ選手としても、そして若者として、素晴らしいものを持っているようです。また二人とも、涙し、泣き、号泣もしたのだそうです。ヨナも真央も、自分の祖国からの期待を背中に感じながら、競技を続けて来て、その重圧は大変なものがあったことでしょう。ヨナは『心が身軽になった!』と言ってました。誠一杯に自分の力を出し切ったのですから、真央も同感なのでしょう。 順位やメダルを超えて、この二人が見せてくれたスポーツマンシップに、感動して、中国の真央のフアンも、日本のヨナのフアンも、『ありがとう!』との声を上げています。真央は、『ヨナはとてもすばらしい選手だと思う。ジュニア時代からずっと同じアジアの選手として多くの人から注目を浴び、そのような点で私も成長できた部分もあったの!』と言い、ヨナは、『真央、泣かないで、あなたがいたからヨナがいたんだよ!』と言っていました。国と国の間も、その様になることを切望したい思いで、心が一杯の週末であります。 20140222-124528.jpg

ハグ

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今日の午後、私のことを、『雅仁さん!』と呼んでくれる若い友人の<おばあちゃん(奶奶nainaiー父方の祖母)>が、彼のお母さんと一緒に訪ねてくれました。我が家は五階ですのに、一度も休むことなく昇って来られたのです。腕をとって助けようとしたら、『要らないよ!』と言って一人で大丈夫でした。以前は、膝に問題があったのですが、全く、それを感じさせないほどの健脚ぶりに、八十三歳を感じさせませんでした。同伴の嫁に贈り物を持たせての来訪を、私たちは歓迎したのです。

一昨日、『金曜日の午後三時ごろにお邪魔したいのですが!』と電話があって待っていたのです。家内は、朝9時半ごろのバスに乗って、街中のショッピングモールにあるケーキ屋さんに出かけて、チーズケーキとクッキーを買ってお待ちしていたのです。一昨年、ご主人を亡くされて、お子さんたちが代わり代わりにお世話をされているそうで、とてもお元気でした。この老夫妻には、たびたび家やホテルに、食事に招待されたり、帰国時などには、軍用車を手配してくださって、空港まで送っていただいたのです。お二人とも軍功のある高級軍人で、軍人の退職後のために設けられている 「干休所(軍の幹部の住宅)」にお住まいで、何度もでかけたました。

お招きいただいた時に、風邪気味だった家内が体調を崩したことがありました。おじいちゃん(爸爸)が、軍の診療所に連れて行ってくれて、診察してもらい、薬もいただいたことがありました、雨の中、サンダルを履かれ、家内に傘をかざし、腕をとってお連れくださったのです。その元気だった後ろ姿が今も目の底に残っています。優しい人で、軍人だったとは思えないほど温厚でした。入院中に何度かお見舞いをしたのですが、手術後、しばらくお元気でしたが、入院先の病院で亡くなられたのです。

その若い友人が、アニメが好きで、それを見ながら日本語を独学していて、この街に私たちが来たことを聞いて、毎週のように、我が家に訪ねて来てからの交わりなのです。今は、東京の大学に留学中で、今回帰国中には、一緒に食事をしたり、ケーキ工場見学のおりに、来日中の中国の友人夫妻のために通訳をしてくれたのです。このおばあちゃんですが、戦時中、日本軍が村に放った日で、腕に火傷をされておられたのです。恨んでもいい日本人、赦さなくてもいい私たちなのに、美味しい餃子を作ってもてなして、赦して、家内をハグしてくれたのです。今日も、おばちゃんと家内は、しっかりとハグしていました。華南の巷のアパートの五階の光景は、「中日友好」の一つの真実な有様なのでしょう。

(写真は、美味しそうな「チーズケーキ」です)

ニッポン・サイズ

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アメリカのテキサス人は、なんでも大きいもの好みだと言われています。全米一の大きな州に住むことの誇りで、ステーキもマグカップも「テキサス・サイズ」なのだそうです。ところが、1953年1月に、アラスカが最後の州に編入されてから、No.2に格下げになってしまったのです。世界で一番面積の大きな国は、ロシアです。因みに、カナダ、アメリカ、中国、ブラジルの順に続きます。大きいことって、本当にいいことなのでしょうか?

政治学を学んだり、政治家になろうと考えたことはありませんが、好きな総理大臣に、病気で二ヶ月で退任された、石橋湛山がいます。お寺の子で、甲府一中で学んだことがあり、当時校長をしていた大島正健の感化を強く受けた人でした。大島正健は、札幌農学校の一期生で、直接クラークの薫陶を受けたのです。湛山は、早稲田に学び、後にジャーナリストとなり、東洋経済新報社の主筆、重役をした経歴があります。終戦の年の10月には、「靖国神社廃止の議」を述べています。この湛山の考えの一つは、日本を大国にしようとの動きの中で、「小日本主義」を主張しています。「東洋経済新報」の1921年の社説で、

~一切を棄つるの覚悟~
「我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ。志の小さいことだ。古来無欲を説けりと誤解せられた幾多の大思想家も実は決して無欲を説いたのではない。彼らはただ大欲を説いたのだ。大欲を満たすがために、小欲を棄てよと教えたのだ。~ もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、必ず我に有利に導きえるに相違ない。例えば、満州を棄てる、山東を棄てる、その支那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる。また朝鮮に、台湾に自由を許す。その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的地位を保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、一斉に日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた自由を許せと騒ぎ起つだろう。これ実に我が国の地位を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の地位に置くものではないか。」

と語ったのです。あの「言論の自由」の許されない時代に、こうのように言えたことに、驚かされるのです。大局に立って、ものを言える言論人だったことになります。今また、大きな日本、強い日本になるような動きがありますが、石橋湛山なら、『小さな日本で好い!』というのでしょうか。コツコツと物を作り、より良いものを作ろうとして国が富んで行った過去のようにしたら好いのではないでしょうか。争わないで、四海平和な関係を、<ニッポン・サイズ>で、持ち続けて行くのはどうでしょうか。

(図は、かつての日本の「職人」です)

孫と私とランドセル

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「また」というのは、以前にあったことや起こったことが、今度も、繰り返される時に用いる言葉でしょうか。日本のニュースを見ますと、この週末に、ある地域では百年ぶり、百二十年ぶりの大雪が、『また雪が降った!』と伝えていました。私たちがいた、先週末の東京にも、結構な雪が降り積もっていました。『明日は出かけて行って、孫兵衛に、約束のランドセルを買って上げなければいけないけど、雪で行けるかな?』と心配したのですが、翌朝、交通機関に乱れはないと、ニュースが伝えていました。降り積もった雪に足を取られながら、私にぶら下がる家内と一緒に、東急東横線ー地下鉄副都心線ー東武東上線で、孫兵衛の待つ駅に降りることができました。

駅前も除雪が思うようにいっていないで、スパイクの付いていない靴でしたから二人とも、滑り滑りで駅前の大型スーパーに入り、そこの地階のフードコートで、長男と孫たちと落ち合ったのです。午前中でしたので、外は、まだ深々と雪が降っていましたが、店内は効き過ぎた暖房で、コートを脱いで、汗を拭うほどでした。一緒に、「ランドセル特売コーナー」に行って、品定めをしたのですが、『これがいい!』と言ったのは、昨年の売れ残り値引き品でした。すぐに、『これね!』と言って買うことにしたのです。何と爺孝行の孫ではないでしょうか。この店も、正直に去年物と今年物とを区別して売っていたのは、大手のスーパーだけあって『流石!』と思ってしまいました。

在米の孫兵衛たちにも買ってあげたかったのですが、「ランドセル」は日本文化の産物、『要らないわ!』と言われて、「外孫」には何の入学祝いもせずじまいなのです。これって不公平でしょうか。不公平といえば、外孫たちの母親、私たちの次女が小学校に入学した時のことです。着る服は、巡りめぐって従姉妹のお下がりでした。また、新一年の定番のランドセルも、上の兄の長女が六年間使った「卒業済みランドセル」の代物だったのです。くすんだ赤で、所々に傷がついて、それなりに年代物でした。『歌織が使ったのでいい?』と次女に聞きましたら、『うん、いいよ!』と言ってくれました。『嫌!』と言ったら新しい物を買おうと考えていたのですが、親の意向、経済状況(!?)を理解してくれたのでしょうか。不満や不平を何一つ言うことなく、<ピカピカの新一年生>が<お下がり>で身を調えて入学式に出て、それ以来6年間使い通したのです。

授業参観に行きました時、教室の後ろの物入れに、たくさんのランドセルが並んで光り輝いて収まっていたのですが、次女のだけが、異様にくすんでいました。でも一番居心地がよさそうに、『デン!』と座りこんでいたのは見事だった。「まだ使える物を使うこと」、「物を大切にすること」を、次女は学ぶことができたのだと思っています。「みんなと違う自分の物」を持って使うことは、性格や人種や才能などの違う人々の中で生きていかなければならない彼女にとっては、良い学びだったのでしょうか。絵を描くのが遅い子の絵を描く手伝いをして、自分の絵が描けないで、先生に怒られてしまった次女でしたが、相手を顧みることにできる心があったことからして、「ランドセル事件」は落着したようでした。

あのランドセルは、何度もした引越しの後で、何処かに行ってしまったようです。そう言えば、まだまだ貧しかった戦後間もない頃、ランドセルを買ってもらえなかった級友たちが何人もいました。彼らは、ズタ袋に教科書や筆箱を入れて登下校していたのです。彼らは、どんなその後を生ききているのでしょうか。彼らの消息を知りたい思いに駆られている、『日本では、また雪が降った!』のニュースを聞いた日曜日の午後であります。

(写真は、教室の机に下げられた「ランドセル」です)

子守唄

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「春天来了」、中国のみなさんにとって、一番響きの好い、聞いて嬉しくなるフレーズなのではないでしょうか。文字通り『春が来たんだよ!』という意味です。もちろん、熱帯地域には四季はないのですが、それでも微妙に春を感じる時があるのではないかなと思ってしまうのですが。春夏秋冬、はっきりとした季節の移り変わりのある日本の中部山岳に生まれた私にとっても、春の到来は、思い出とともに心地よい時であります。新暦の元旦は、まだ冬の真っ最中でして、暑いコートを着て、手をポケットに突っ込み、肩をすぼめての外出ですが、旧暦の元旦(今年は1月31日でした)は、まだまだ寒いのですが、太陽の輝きも強さを増していますし、気分的に春を思うことができるのです。

今、「爆竹」と「花火」の炸裂音が、四方八方から次々と聞こえてきます。「火薬」を発明した中華民族の末裔のみなさんにとっては、誇らしい音響と、煙と、匂いなのでしょう。戦の銃器に用いないで、平和のために、喜びのために用いるのであれば、強烈な爆発音も、<子守唄>に聞こえてきそうです。2007年の「春節」と「元宵節」を、天津で過ごしました。年越し蕎麦を口にし、「除夜の鐘」を聞きながら「元旦」を、静まり返って迎える日本の街中とは違って、心の準備をしないままに、「春節」の前日だったでしょうか、「天塔(テレビ塔)」の前を、自転車で通っていた時に、突然、右側で爆竹が鳴り始めて、真っ赤な紙片が散らばり、驚かされたことがありました。外国人向けのアパートの7階に住んでいたのですが、建物の横が空き地でしょうか、広場になっていました。そこから花火を打ち上げていたのですが、窓の横で花火が開くものもあって、午前零時、旧正月の元旦になった後まで続いていました。初めての中国の「過年」、正月を、その爆竹と花火で、驚きの中に歓迎されたのです。

中国も日本も、それぞれの仕方で正月を迎え、終えるわけです。「けじめ」をはっきりとさせることについては、中国も日本も同じなのでしょう。来週の月曜日から、授業が始まります。気を引き締めて、学生のみなさんとともに学ぼうと願っております。私にとっての「爆竹と「花火」の炸裂音は、『今年も精一杯するんだぞ!』との叱咤激励の声のように聞こえてまいりました。

(写真は、「爆竹(鞭炮bianpao)」です)

ランタン

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1940年と言いますから、昭和14年に、「上海の花売り娘」という歌が大流行しました(川俣栄一の作詞、上原げんとの作曲で、岡晴夫が歌いました)。戦争中でしたが、当時の上海は、日本人の青年たちにとっては、『一度行って見たい!』と願った街の一つだったようです。

紅いランタン 仄かにゆれる
宵の上海 花売娘
誰(たれ)のかたみか 可愛い耳輪
じっと見つめる 優しい瞳
ああ上海の 花売娘

霧の夕べも 小雨の宵も
港上海 花売娘
白い花籠 ピンクのリボン
襦子(しゅす)も懐かし 黄色の小靴
ああ上海の 花売娘

星も胡弓(こきゅう)も 琥珀の酒も
夢の上海 花売娘
パイプくわえた マドロス達の
ふかす煙りの 消えゆく影に
ああ上海の 花売娘

この歌に、「ランタン」が出てきます。中国語では「紅灯籠」と言って、旧正月「春節」の最後の日である「元宵節(日本では<小正月>に当たります)に街中を飾って、行く「正月」を惜しむのです。日本でも、長崎にはこの習慣が残っていて、「長崎ランタン・フェスティバル」という行事が行われるようです。今日が、その「元宵節」です。漢代に始まった中国のみなさんが、とても大切にしている行事なのです。四川省開県には、「対罵」という習慣があるそうです。これは「元宵節」の夜に、家の外に椅子を出して、憎んでいる人に向かって、思いを込め、力を込めて罵るのだそうです。罵られた人は、それを黙って受けなければならないとのこと。思いもよらないで、憎まれていることを知ることもあるのでしょうね。罵った相手と、明日から顔を合わせたら、どういう風に付き合って行くのか、ちょっと心配になりますが。意外とあっけらかんとしている、そんな大らかな国民性を感じますから、問題は起きないことでしょう。

寒くて何もかもが縮こまっていた冬が終わり、「春到来」の喜びの宵なのです。みなさんは、今晩、「湯円」を食べるのです。地方地方によって作り方が違うようですが、白い皮の中にゴマの餡を入れた、ピンポン球ほどの大きさでしょうか、これが美味しいのです。何処かで買ってきて、私たちも日中友好を願い、楽しんで頂くことにしましょう。

(写真は、「ランタン(紅灯籠)」です)

白い東京

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今朝、5時過ぎになっていたでしょうか、窓のカーテンを、そっと開けて見ましたら、道路が真っ白でした。どうも一日中雪が降るそうで、16年振りの大雪、関東地方でも降雪量が多いと予報されています。歌に、山崎唯一の作詞作曲の「白い想い出」があります。

雪が降ってきた ほんの少しだけど
私の胸の中に 積りそうな雪だった
幸せをなくした 暗い心の中に
冷たくさびしい 白い手がしのびよる

雪が溶けてきた ほんの少しだけど
私の胸の中に 残りそうな雪だった
灰色の雲が 私に教えてくれた
明るい陽ざしが すぐそこに来ていると

灰色の雲が 私に教えてくれた
明るい陽ざしが すぐそこに来ていると
すぐそこに来ていると

子どもの頃には、雪が降ることが多く、降雪量も多くて、東京都下の街で、橇(そり)遊びをした思い出があります。これから、長男家族の住んでいる町に出掛けようと思っています。今春小学校に入る孫がいて、「ランドセル」をプレゼントすることを約束していますので、その約束を果たすためにです。家内も一緒にと思いましたが、大雪になって帰宅が遅れたりするかも知れませんので、一人で出かけることにしています。

雪といえば、昨晩、黒海沿岸のソチで、冬季オリンピックが開催されました。武器ではなく、スポーツで競い合う平和の祭典ですから、国際友好にとっては素晴らしい機会です。無事に終了することを願っています。これから出かける私も、滑らないようにしないといけないと思っている、白い東京の朝であります。

(写真は、雪の降る街路です)

世界一

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来週、中国の華南の街に帰るつもりでおります。今や第二、第三の「ふるさと」となっていますので、とても楽しみです。多くの友に会えるからでしょうか。今朝あるコメントを読みながら、思い出したことがあります。我が家にお客さまが見える時に、食事を作ったり、食後のデザートを作ったりします。そして、茶碗やお皿も洗って後片付けをします。そういった私の姿をご覧になって、みなさんが驚かれるのです。概ね日本の男性は、ドテンと座って、新聞やテレビを見ながら何も家事をしないと思っているからです。既成概念というもので、テレビや映画からの<日本人男性像>です。ところが、毛色の変わった日本人の男性がいることを知って驚かれるのです。

私たちを食事に招いてくださる家庭の多くが、奥様だけでなく、ご主人が料理をされ、しかも大変美味しく作っておられるのです。しかも何種類も、何種類も料理を作ってもてなしてくれます。ご主人が浙江省の出身で、奥様はマレーシアの華人で、お子さんのいないご家庭に招かれたことがありました。「郷土料理」とのことでしたが、実に美味しかったのです。多分、向こうで食べた料理の中で、プロの作ったものも含めて、一番美味しかったし、綺麗だったのが、このご主人が作ってくれたものでした。『また、食事に招いてくれないかな!』と思っているのですが。

この地の男性は、<中国一>なのだそうです。優しいですし、温順な気質を持っておいでです。天津にいました一年の間、街中の路上や市場の中で、よく喧嘩を見かけたのです。しかも激しい殴り合いや取っ組み合いです。男性同士だけではなく、女同士、男と女の組み合わせで、実に多彩でした。南の街にやって来て、そう言った光景を見かけないのです。気候も温暖、食べ物も豊富、厳しい要素が少ない社会や地域だからかも知れません。で、『ここの女性は幸せ!』だと自認しているようです。ですから、<かかあ天下>なのでしょう。

家内が時々出掛けて行く「日本人奥様会」があります。日系企業の駐在員の夫人の他に、中国人の男性と国際結婚をされた夫人がおいでです。時々我が家にもおいですが、みなさん幸せなお顔をされておいでです。優しいご主人に愛されておられるからに違いありません。姑さんが食事のお世話をされていて、入り込む隙がないのだとも聞いています。妻業と親業に専念できるのですから、素晴らしいことです。世界で一番良いのは、日本人の妻と中国人の夫のカップルですから、<世界一の夫婦>が、こちらにいることになります。

仕事中心、寝るための帰宅、休日はゴロゴロかパチンコ、会話はない、無味乾燥の夫、そんな男性の我儘さが、日本の社会なのでしょうか。あるご婦人が、ご自分のお父様が、そんな父親、夫だったことから、『父のような男との結婚は嫌!』と、中国人男性を生涯の伴侶に選ばれておられます。日本人の男性は、猛省をしなければならないのでしょう。

(写真は、中国の大河「長江」の源流の唐古拉山脈です)