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社会への関心、世の中のことへの興味を呼び起こしてくれたのは、小学校5、6年の担任の先生、中学校3年間、「社会」の授業を担当し、地理や日本史や世界史などを教えていただき、担任だった先生でした。とくに、中学校の担任の先生のお宅に、5人ほどの同級生でお邪魔したことがあったのです。あの中で、後に教師になったのは自分だけだったでしょうか。仕事を選び、それを決めるのにも、強い影響力を与えてくれた教師でした。
JRの路線の駅名にもあるお名前で、後に高校の女子部の中学校の校長をされておられたのです。高校受験を控えていた長男に、自分の出た学校を見せて上げようと、息子を連れて、訪ねたこともありました。
ある授業で、戦争のことを学んでいる中で、「日本軍の軍人の特徴」について触れられたのです。世代的には、この先生も従軍経験がおありだったと思います。授業で、ご自分の体験談を話されることはなかったのですが、『日本人ほど、軍人になるのにふさわしい国民はないのです!』と言われたのです。軍人に最適な資質を備えていると言うわけです。
それは、「死を恐れない」、「命令に絶対服従」、「罪悪感がない」、「残虐な行為ができる」と教えてくれました。私の父は、兵士として戦った経験はありませんでしたが、戦前の軍事教育を、学校で受けた世代でした。そう言った教育がつちかったのが、「日本精神」だったのでしょう。誰もが、そうだった、そうあるべきなのは、その時代の子たちだったのを思い出したのでしょうか。
「忠君愛国」の日本人であることを、戦前の日本は、教育でも政治でも行政でも、広く国民に求めたのです。あの長い戦争が敗戦という形で、終戦を迎え、平和の時代に、自分は育ったのですが、神風特攻隊や予科練の勇姿に憧れていたのです。どうも「日本精神」の残り滓を持っていたのです。
『貴様と俺とは同期の桜!』と平気で歌う少年だったのです。日本人の優等性にこだわり続けていたのが、今思うに不思議でならないのです。担任の同乗する遠足のバスの中で、「軍隊小唄」、
(一)
いやじゃありませんか 軍隊は
カネのお椀に 竹のはし
仏さまでも あるまいに
一ぜん飯とは なさけなや
(二)
腰の軍刀に すがりつき
連れてゆきゃんせ どこまでも
連れてゆくのは やすけれど
女は乗せない 戦闘機
(三)
女乗せない 戦闘機
みどりの黒髪 裁ち切って
男姿に 身をやつし
ついて行きます どこまでも
(四)
七つボタンを 脱ぎ捨てて
いきなマフラー 特攻服
飛行機枕に 見る夢は
可愛いスーチャンのなきぼくろ
を歌ってしまったのです。担任が、難しい顔で振り返って、自分を見たのが分かり、『しまった!』と思いながら、最後まで歌い切ってしまったのです。そう言った「日本精神」を、8年の間、私を育ててきださった宣教師さんは、取り扱ってくれたのです。路傍伝道で、声を振り絞って得意がっていた私に、
『かれは叫ぶことなく聲をあぐることなくその聲を街頭にきこえしめ。(文語訳聖書イザヤ書42章2節)』
を示してくれたのです。イエスさまは、路傍で、叫び声を上げることなく、穏やかな口調で、人々を教えられたことを、二十代の私に教えたのです。そんな恥体験を思い出すのです。神の国を継ぐ者には、ふさわしくないもの、「日本精神」を、取り除く務めを、教会の主は、宣教師、しかもアメリカ人の宣教師を通して、その業をなさったのを思い出すのです。
ずいぶん前になりますが、台南の教会に参りました時に、その教会の牧師さんとの交わりの中で、その街で、日本人の宣教師が奉仕をされていたそうです。ところが、途中で帰国をされたのだそうです。『何かあったのですか?」とお聞きしましたら、『この方が持っていた「日本精神」が原因だったと思います!』と言われたのです。
ところが私の家内は、「日本人」へのこだわりのない家庭で育って、子供の頃から英語を父親から学び、アメリカ人が出入りする家で育ったのです。結婚して彼女は、『何人(なにじん)なんてこだわらないで、同じ〈人〉としてみるべきだと思うわ!』と、よく私に言いました。そんな彼女の忠告と、八年間の私の師匠の忍耐によって、「日本精神」から自由にされることができたのです。
今も、あの怪物が、怪しく動き始めてはいないでしょうか。日本製品や、日本人の資質の優秀さを自ら誇る心に、蠢いているかも知れません。日本がかつて支配した近隣の国が、経済力をつけて、その国々の誇りが、似たような精神を誇示しているように感じます。それがぶつかり合うような危機も感じているのです。防衛費の予算規模が膨らんでくるのは、国防という名の戦争準備でしょうか。わが父の世代が駆り出された戦争、その「大東亜」という言い方が、近隣の国にも意識され過ぎているかも知れません。こんな思いが、思い過ごし、杞憂であって欲しいのですが。
(この日曜日の朝の東の平和な空です)
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