でも

 

 

中学の歴史の時間だった思いますが、3年間、担任で社会科を担当し、教えてくれたK先生が、ただ中学生に対してではなく、まるで高校生か大学生に対しているかのように、《一人の学徒》として、真剣に向き合って、教えてくれたのを思い出すのです。

東北の岩手県と宮城県を流れる、「北上川」の流れの特徴が、「蛇行(だこう)」しているのを、今の様に、コンピューター映像の機器のない時代、大きな地図やスライドを教室に持って来てくれ、時には視聴覚教室で、画像を見せながら説明してくれたのです。

その「蛇行」の個所に、決まって「地蔵」があるのだと、K先生は付け加えたのです。なぜかと言いますと、気象異常で凶作になり、飢饉に見舞われた川沿いの住民が、生まれてきた子を、養育することができず、藁の籠に入れて捨てたのが、蛇行箇所に流れ着き、それを慰霊するためだったのだそうです。

ここから、物事をうやむやにしてしまったり、処分することを、〈水に流す〉という様になったのだと、教えてくれました。飢饉がもたらしいてきた歴史的な事実が、東北の郷土史の中に残され、無言のうちに伝えられてきたわけです。お腹いっぱいに食べられる中学生の私にとっては、学んだ信じがたい史実は、大きな衝撃でした。

そう言った意味で、歴史をしっかり見る目を、この先生は、私に養ってくれたのです。ところが、この「蛇行」には、積極的な役割もあるのです。一直線に流れる激流や急流を、緩やかな流れに変える務めがあります。さらに、流れの水を多くの農地に振り分けることができ、農耕には極めて重要な役割が担わされているのです。

振り返って見ますと、自分の生きてきた道筋は、随分と「蛇行」した形跡が残されているのです。北上川が、悲しい舞台になっただけではなく、意味を持っていた〈蛇行河川〉であった様に、〈蛇行人生〉にも意味や価値や副産物があるに違いありません。多くの人が、挫折や躓きや失敗を経て、今を迎えているのです。

罪や悪を除外して、《万事有益に原則》が、人の世の幹線に横たわっているのです。懊悩することだって、停滞ことだって、そして病むことだって、見方を変えますと、好いことを生み出す母胎であるのが分かります。この四月、〈前途洋々な春〉を迎える人ばかりではなく、〈停滞の春〉を迎えなければならない方もおいででしょう。でも自然界を見ると、真っ黒で真っ暗闇の土の中から、花が咲き、美味しい果物や穀物を実らせるではありませんか。

(写真は、北上川です)

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危うさ

 

 

象牙(ぞうげ)が高価な芸術品や置物になるので、象の生息地のアフリカでは、いまだに「密猟」が絶えないそうです。その原因の一つが、日本の「象牙市場」の規制の甘さがあるのだと報告されています。密猟者にとって、高く買ってくれる日本の市場があるのが、密猟が絶えない元凶だと言うのです。

この「ぞう」に関して、「象牙の塔(ぞうげのとう)」と言うことばがあります。“goo辞書”によりますと、《(フランス)tour d’ivoire》芸術至上主義の人々が俗世間を離れて楽しむ静寂・孤高の境地。また、現実から逃避するような学者の生活や、大学の研究室などの閉鎖社会。フランスの文芸評論家サント=ブーブがビニーの態度を評した言葉で、厨川白村(くりやがわはくそん)がこれを紹介した。」とあります。

もう一つ、「部屋の中の象“erephant in the room” 」と言う言い回しが、英語にあるそうです。本来いるべきでない巨体の像が、部屋に中にいると言う、〈異常事態〉を、そう表現するのだそうです。主として芸術至上主義や学者の現実逃避を批判する意味で使われるのだそうです。

”elephant in the room “、その状況は、そこにいるみんなが気付いているのに、気付かないふりをして、その重大な問題に触れようとしないのを、そう言うのだそうです。例えば、自分の人生上の重大な問題に、対処しない危うい状況のようです。

金銭上の問題や、異性問題や、名誉に関することで、人は、敢えて触れないように生きる傾向があるのでしょう。ところが何時か、そのないがしろにし続けた問題が露見してしまいます。それで早い時期に、いえ今すぐに処置すべきなのです。

「ハインリッヒの法則」と言うものがあります。『一件の大きな事故・災害の裏には、29件の軽微な事故・災害、そして300件のヒヤリ・ハット(事故には至らなかったもののヒヤリとした、ハッとした事例)があるとされる。重大災害の防止のためには、事故や災害の発生が予測されたヒヤリ・ハットの段階で対処していくことが必要である。危険予知訓練なども参照のこと。』とです。

多くの場合、人は、その人生の後半に、失敗を犯す傾向があるそうです。〈円熟〉とか〈悟り〉だけではない、生きている限り人は、危うさから離れられないのでしょうか。きっと、自分が生き残って、忠告者、“mentor”が亡くなってしまって、もう警告や忠告をしてくれる年配者がいなくなるからなのかも知れません。そう言えば、《老いては子に従え》と言われますが、こう言った意味でなのでしょうか。

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季節外れ

 

 

ここ栃木の市内を流れる、かつての《舟運》で賑やかだっ「巴波川(うずまがわ)」の両岸に、鯉のぼりが、川面の上を泳いでいる光景が、先日来見られます。春の観光シーズンを飾るためです。

端午の節句に、男の子に成長を願って、庭に柱を立てて、勢いよく風になびいて泳ぐ飾りをつけるのですが、ずいぶん前から、この「鯉のぼり」が観光の目玉に使われるようになりました。清里に向かって走る車窓から、谷間を通る箇所に飾られた鯉のぼりが、春風に揺れていたのを眺めたのを思い出します。

巴波川の川底に、太陽の陽の射す角度によるのでしょうけど。鯉のぼりの影が写っていて、本物の鯉が、驚いているようです。初めてここに来ました時に、船遊びをして、女船頭さんの唄に、合いの手を入れて楽しんだのは、一昨年のことです。季節外れの〈 巴波川の鯉のぼり〉です。

(下野新聞の撮影の写真です)

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夕顔

 

 

集まりに呼ばれた時に、家内がよく作って持って行ったのが、「手巻き寿司」です。酢飯に、キュウリ、人参、椎茸、ソボロなどをのせて、海苔巻きにしたものです。酢の効いたご飯や冷たくなったものは、敬遠して食べない中国のみなさんですが、アッと言う間に、この「手巻き」が、テーブルからなくなってしまうのです。

子どもの頃、事あるごとに、よくこの「手巻き寿司」を、母が作ってくれたことがありました。中国の街には見当たらないので、「干瓢(かんぴょう)」は家内は使いませんが、母はこれを甘辛く煮て使っていました。この栃木に参りまして、3ヶ月近く過ぎようとしているのですが、こちらの名産品がいくつかあるのに気付きました。

ここは、近年「いちご王国」で、日本一のいちご生産を誇っています。《とちおとめ》と言う品種は、抜群に甘く、「大福」に入れたものが売られていて、小豆の餡と餅とのコラボが合っていて、美味しいのです。行きつけの和菓子屋さんの店頭から、もう時期が過ぎたのでしょうか、今は消えてしまっています。

この栃木のもうひとつの名産品は、その手巻き寿司に入れる「干瓢」なのです。今から約 300年前、壬生藩主(下都賀郡壬生町にあった藩)の鳥居忠英(ただてる) というお殿様が、前任地の滋賀の木津村から「干瓢の種」を取り寄せ、この辺り「下野の国」に広めたと伝えられています。

この周辺は、「関東ローム層(黒色の火山灰土)」による土壌に覆われているため、排水が良いそうです。それに夏の暑い時期には、日光那須連山か ら発生する雷雨が地面を冷やし恵みの雨となり、水分が実を太らせ、この「干瓢」の成長を促します。 このように土壌や気象条件が、ともに栽培に適した地域であるこ ともあって、全国の97%の一大生産地となったのです。

この「壬生(みぶ)」と言う地名ですが、“ウイキペディア”には、『壬生は、もともと水辺、水生(みぶ)の意で泉や低湿地を意味し[1]、後に「壬生」の字を当てた地名、そこを出自とする一族や集団を指す。また、皇子の世話や養育を行う子代である「乳部(壬生部/みぶべ)」からの転化を含む。」とあります。

東武日光線に、この「壬生駅」があり、その2つ宇都宮に近いのが「おもちゃのまちえき駅」で下車して、10分ほどに徒歩で行かれるところに、家内が入院している「獨協医科大学病院」があります。「干瓢の里」で、「夕顔」から取った果肉を乾燥させて、「干瓢」ができるそうです。

大陸から渡って来た種が、滋賀の木津に植えられ、その種がこの壬生の地に蒔かれた経路に、大陸中国との深い関わりがあることが知らされます。そう言えば「かんぴょう」って、しばらくら食べていないのです。中国の皆さんは、この夕顔をスープにして、好んで飲むのです。夏の野菜ですが、いつか調理してみようかな、の朝です。

(夕顔の花と実です)

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バラ

 

 

この写真は、3週間も前に、長男が、卒業する生徒のご両親から、感謝でいただいた《黄色いバラ」を、先程、iPoneで撮ったものです。家内の入院先に、持って行きたかったようですが、病室に生花は持ち込めず、私の留守番先の家の玄関に、飾ってくれたのです。

大きな花が3輪残っていて、まだ綺麗なのです。やっと記念にしたくて、結婚記念日に撮ったわけです。もう直ぐ、入院先の家内の所に、出掛けようと思います。一昨日、家内に記念品を買ったのですが、これを持参します。今日も風が強いのですが、気温は17℃です。

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芳しさ

 

 

きっと、「ふるさと」って〈匂い付き〉なんだろうと思います。目に残る景色や生活だけではなく、そこには、梅や桜、遠くから運ばれてくる桃や葡萄や林檎の花、畦道の流れの淵に咲いていた草花、両親や兄や弟の汗や涙、そんな多くのことに、懐かしい匂いや香りがあったのでしょうか。きっと〈懐かしさ〉が、匂いを付けてしまうのかも知れません。

中部山岳の山から流れてくる沢の淵の旅館の離れで生まれ、沢違いの山奥で育って、就学前に、兄たちの後を追って山の林に分け入り、木通(あけび)を採ったり、栗を拾ったり、沢の流れを泳ぐ山女(やまめ)を追ったりしました。小学校の入学式に、病んで出られず、通学もできませんでした。ただ兄に連れて行ってもらった教室で、兄の横に椅子をおいて未来、一緒に飲んだ脱脂粉乳の匂いと味は覚えています。

巡りくる季節にも匂いがありました。東京に出て来て住んだ街の里山や川や貝塚、近所の広場や旧国鉄の引き込み線の操車場が、遊びの舞台でした。多摩川の鉄橋の下で泳いだり、潜ったりして、ハヤを手で掴んだり、魚影を眺めたりしていました。お寺の庭のイチゴや木イチゴやグミ、通学路の無花果(いちじく)、こっそり食べて美味しかったけど甘酸っぱい香りがしていました。

姉や妹がいなかったからでしょうか、柔らかそうな女の子の身体に触れたくて、そばにすり寄り、もどかしく手で触わろうとする衝動に駆られた、幼い日がありました。上の兄の同級生のこぐ自転車の荷台に乗せてもらって、耳鼻科に連れて行ってもらった日、この手で触れた、電気店のお姐さんの腰の感触、そして匂いを、かすかに覚えているのです。中耳炎で痛いのに、その気持ちよさが、痛みを敗走させてしまっていたのかも知れません。ちっとませた小学生なのか、幼いなりにも男だったのでしょうか。

やっと妻を得て触れた、彼女の柔らかな唇や乳房や肌、その感触は匂い立つような、まさに真性の《乙女の芳しさ》でした。赦されて再生された者にとって、何と素晴らしくも、歓喜できることなのだと感謝したのです。後ろめたく触ってしまい、誘惑の嵐の中を彷徨い、迷いながら青年期を過ごし、その罪を悔いて、やっと妻を得て、疚(やま)しさなしに触れることができたからです。

数えきれない匂いの記憶が残されています。  健康的で、夢や希望を生み出すものです。人を元気づけ、生きる意欲を沸き立たせてくれます。この家の庭に降り注ぐ陽にも、生い出る草や花にも、土にも《創造の匂い》のあるのが感じられます。「春一番」も吹き、「桜」の花が満開になりましたが、48年前も、同じ様に桜の時期でした。かすかな春の匂いがして来ました。

今日

 

 

この花は「二輪草」です。春の花なのですね。風雪を越えて来た〈夫婦愛〉を、この二輪草になぞらえて歌った歌がありました。

あなた おまえ
呼んで呼ばれて 寄り添って
やさしくわたしを いたわって…
好きで一緒に なった仲
喧嘩したって 背中あわせの ぬくもりが
かようふたりは ふたりは二輪草

ほうら ごらん
少しおくれて 咲く花を
いとしく思って くれますか…
咲いて清らな 白い花
生きてゆくのに 下手なふたりが さゝやかな
夢をかさねる ふたりは二輪草

おまえ あなた
春がそこまで 来たようだ
よかった一緒に ついて来て…
雨よ降れ降れ 風も吹け
つらいときにも 生きる力を くれるひと
どこに咲いても ふたりは二輪草

この花は、「Anemone(アネモネ)」の一種だそうで、ギリシア語の「anemos(風)」を語源とし、春の初めのおだやかな風が吹き始める頃に花を咲かせるからとも言われます。和名で「二輪草(ニリンソウ)」なのです。ひとつの茎から二輪ずつ花茎が伸びることから、そう命名されています。英語では「Soft windflower(柔らかな風の花)」と呼ばれるそうです。

今日、4月4日は、家内と私の結婚の「四十八周年」になりました。風雪も嵐も、そして何度か〈死の危機〉もあった年月を、二人で超えて来たかな、の今日です。あの日にも、この二輪草が咲いていたのでしょう。4人の子が与えられ、彼らも結婚をし、それぞれ家庭人となりました。

今年の記念日は、それぞれの居場所で、過ぎた年月を、家内は家内なりに、私は私なりに思い出すことにしましょう。そして、これからの日々にも思いを巡らせて行きたいと思っています。多くの人たち、父や母、兄弟姉妹、友人、恩師、隣人たちがいてくださって、私たちの今日があります。

1980年の初夏、住んでいたアパートの上階でガス爆発があって、家族全員、次男は家内のお腹にいましたが、火をくぐり抜けて生き延びたのです。胸がキューンとするほど懐かしく思い出されてくる、時と日と出来事の年月でした。たまに食べたバイパス沿いの店のラーメン、何軒か向こうの店で買って食べた焼き鳥、みんなで出かけた相良の夏の海、そんな日々があっての今日です。病む日もありましたし、あります。

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いのち

 

 

中学校の国語教科書に、次の詩が掲載されています。「生命は」と言う題の詩で、吉野弘の作です。

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい

花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする

生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和

しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

〈生命軽視〉の時代のただ中で、《命の重さ》、自分のも他者のも、同じ様に極めて重要なものであることを、とくに、若者は学ばなければなりません。どの命にも、意味と価値と目標、そして使命と義務とがあるからです。

孤独を噛み締めた時が自分にもありました。〈独りぼっち〉の寂寥感(せきりょうかん)に耐えられなほどでした。どこか賑やかな雑踏の中に駆け込みたかったのです。でも、群衆の中には、自分の孤独を紛らわせてくれるものも、忘れさせて、癒してくれることはありませんでした。

古来、人は孤独さの中で、己を鼓舞し、強め、高めてきたのでしょう。『荒野(あれの)」には、「声」がある!』と、若い時に読んだ本の中にありました。静まり返ることがなければ、聞き逃してしまう様な、《天来の声》があるのだそうです。《静かな細い声》と言うようです。

私は、『生きよ!』と語る声を、何度か聞いて今日まで生きて来ました。「高価で尊い」のだと言う、自分の命と存在の価値宣言を聞き、知らされ、生き直したのです。

(去年の春先に植えた朝顔の芽です)

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工事中

 

 

この写真は、長閑(のどか)な春の海べのひと時を撮ったものです。ここは、北アメリカのオレゴンの海浜です。近くに港があって、牡蠣が獲れたりするのですが、海水は、足をつけられないほど、まるで氷水のように冷たいのです。

この海から内陸の街で、次女が2人の子を育てています。今朝の“message  ”で、次の様に言ってきました。

『そう、いーちゃん、たくさんの愛情を注がれて育っているんですね。命ってすごいね。人間を育てるのって大変だね。私たちの二人の子も思春期に入ろうとしてます。どうぞ私のためにお願いしてください。《工事中?》の始まりです、知恵が与えられますように。長いレースがはじまり、『よーいどん!』の音を聞いたのか聞かなかったのか、あたふたしながら走り始めた気分です。さっきも子育ての本を読んで、⒈良い質問をする。⒉個人的に傷つかず腹を立てない。⒊驚かないで受け入れる。⒋深呼吸をする。と言うチャプターでした。頑張ります。』

その本は、子育て中を、「工事中」という表現で言い当てているのだそうです。みんな《未完の大器》なのです。名を残さなくても、目立たなくても、《健全な心の持ち主》であるように、造物主と社会との前に、この大工事が完成する様に願っています。かく言う私も、いまだに《工事中》なのかな。

(オレゴンコーストをジョギングする孫と両親です)

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国谷

 

 

茨木のり子に、「桜」と言う詩があります。

ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞(かすみ)立つせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

まざまざと、多くの「死」を、青年期に見た人だから、こんな詩が詠めるに違いありません。けっこう人って、鈍感な一面を持ち合わせていて、人生ってもっともっと続くのだろうと錯覚しているのかも知れません。その反対に、まだ来ぬ死を、言い知れずに恐れる感覚をも持ち合わせているのです。

『桜って綺麗!』って思い始めたのは、大人になってからであって、子どもの頃の入学式や卒業式の頃に、校庭を飾っていた桜の記憶は、子どものものではありません。そう思ったのは、知人に誘われて、南信州の「高遠(たかとう)城址の桜」を観に連れて行ってもらった時でした。確か三十代の中頃だったでしょうか。それも美味しいご馳走が共にあった経験でした。

その折の写真が、『あっ、高遠の桜って綺麗だったんだ!』と記憶を呼び覚ましてくれたからなのかも知れません。気分が良くて、気の知れない方たちの交わりがよかったのも、綺麗さの中に含んでいるのでしょう。

そう、そんな気持ちで、何度見たでしょうか。家内が、胆嚢の手術を終えて退院した時に、板橋のある運動公園に咲いていた桜が、随分と綺麗でした。退院の喜びと重なり合って、やけに綺麗だったからです。東日本大震災のあった後のことも、印象深く覚えているのでしょうか。目黒川の夜桜を、次男に案内されて観たこともありました。

毎日乗車し、通過する東武宇都宮線の「国谷(くにや)」の駅舎の横に、10本の桜の老大木があります。真冬の頃から、『咲いたら綺麗だろうなあ!』と、通過のたびに眺めて来たのです。それが芽が膨らんできて、ちらほらと咲いたのですが、寒い日が続いていますが、今日は、4月1日、今日明日で満開になるのでしょうか。ちょっと焦(じ)らされているこの頃です。

(「国谷駅」の桜です)

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