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 魅入ってしまった一葉の写真です。次男が撮影して送ってくれたもので、十一月の終わりの都内の一郭の夕べが映し出されています。動と静、暗と明、天と地、縦と横、手前と奥行き、右と左、無色と有色、高と低、自然と人造物などの対比が見られて、なんとも言えません。

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 農家の庭の柿の木に、秋になると、「柿」の実がなっていて、そこを通るたびに、『農家の子に生まれたかった!』と思っていました。桃も葡萄もドリアンも大好きですが、この「柿」ほど美味い果物はないのだと決め続けている私です。今季、近くのスーパーや「街の駅」に出掛けて、この「柿」を、何度買ったか知れません。13年も日本を留守にして食べなかった分を、今年は食べ足した様に思うのです。

 柿好きを「柿喰い」と、言うのだそうです。「柿」が読み込まれた有名な俳句に、

 柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺

という、正岡子規の句があります。どんな柿を、子規が食べたのかと言いますと、朝廷に献上する「御用達(ごようたし)」に推奨されるほどに美味しい、「御所柿(ごしょがき)」でした。子規もまた、自分を、《柿喰い》と言うほど、柿好きだった様です。

 戦時中に父のお世話をしてくださった方が、私が住んだ街の卸売市場の「青果商協同組合」で、理事長をやっていたのです。このおじさんの紹介で、その市場で、午前中、「仲買い(なかがい)」の手伝いのアルバイトにしていたことが、私にありました。競りが終わって、その場内を歩いていると、『準ちゃん!』と、このおじさんに呼び止められて、『これは、珍しくて美味い「御所柿」だけど、一箱上げるから、奥さんと一緒に食べたらいい!』と言って、頂いたことがありました。

 どうも、それを食べてから、私も《柿喰い》になってしまった様です。本当に美味い「柿」だったのです。このおじさんは、私がお店(街の中心で果物屋をしていました)に顔を出すと、『ウナギでも喰おう!』とか、『今日は、カツ丼でも喰おう!』と言っては、訪ねるたびに、近所の食堂に連れて行ってくれた方でした。

 こちらでは、ここ地場産の柿が売られていて、美味しくいただきました。それは「御所柿」よりも、また「富有柿(御所柿の改良種の様です)」より小ぶりの柿で、糖度があって実に美味いのです。きっと出回る時期は、そう長くなかったのでしょう。柿って種類が多そうです。

 この「柿」を喰えば、自分の子どもの頃、また子どもたちが小さい頃のことを思い出してしまいます。これからは、家内の好きな、「干し柿」が出回るのでしょう。『柿が赤くなると、医者が青くなる!』と言われてきた様に、滋養豊富な果物なのでしょう。今季は、今日、訪ねてきた友人と家内と三人で、最後の一個を食べ終えてしまいました。

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マスクと判断

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 新型コロナの感染予防のために、外出ごとに、家内も私もマスクを確認をしながら、家を出る毎日です。それで、何年も前のこと、新潟に出掛けた時のことを思い出しました。日本海側は、雨降りが多く、雷もよく発生するのだそうです。雨に慣れているので、濡れるのに慣れておいでかと思いましたら、そうではなかったのです。

 新潟の諺に、『弁当忘れても傘忘れるな!』があるそうです。雨に濡れて風邪を引いて重くなって肺炎にならない様な、細心な注意がされて、弁当よりも傘の方が大切な携行品だとお聞きしたのです。次男が新潟の高校に進学しましたので、家内も私も何度も新潟に行きました。

 入学間も無く、春の運動会があって、家内と出掛けた時も、雨降りでした。グランドも泥だらけで、中止かと思いきや、強行されたのです。先生と生徒たちが、構内やグランドに砂を運んだり、懸命に作業をしていました。それでも運動会が行われ、応援の歓声がグラウンドに響いていました。

 恩師のお嬢さんの関係で、子どもたちが学んでいたアメリカ西海岸のオレゴン州の街も、日本の日本海側の街と同じで、雨降りの多い地域で、ここの人たちは、濡れるのに慣れていて、傘なしでも、“ No problem !(平気平気)“ で生活をしているのに驚かされたのです。

世界中で、今日日、新しい諺ができているに違いありません。『弁当忘れてもマスク忘れるな!』でしょうか。今日も、家内と一緒に外出をしたのですが。家内は、2度もマスクを忘れてしまい、私が家に取りに帰ったほどです。もうマスクなしの生活は考えられません。

 この薄い布が、コロナ菌を、どれだけ防げるのかには、私の経験から、少々懐疑的なのです。でも、道ですれ違う人に、安心感を与えられるという効果は絶大です。ニュースでしょうか、配信の動画でしょうか、アメリカのスーパーの買い物客が、マスクを着用しているかどうかのチェックがなされている様子が映し出されていました。

 無着装のお客さんに、店側はけっこう厳しい対応をしていたのです。アメリカも、ここ北関東の街でも、年配者で男性のマスク無しが多いかも知れません。寒くなって、保菌検査で陽性になる人が増え続けています。寒さが厳しくなるにつれ、爆発的に急増することも考えられます。重症者や死者も増えています。『一応、覚悟しておこうね!』と家内に言ってあります。

 私の愛読書に中に、次の様な一節があります。

 「あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。」

 やがて一人の「彼」が登場し、医学や疫学の方策がなく、お手上げの絶望状況下で、予想すらしなかった方策で、このコロナ攻勢を制圧するのではないかと思わされています。救世主の再来だと、多くの人が彼を崇め礼拝する様になるのではないでしょうか。私を教えてくださった方たちの教えなどから勘案すると、そう言ったことが起こりうると感じているのです。

 これは個人的な見解であって、そうでないかも知れません。様々な問題が、世界中に山積している時代の頂点に、その「彼」が登場し、人心を自分に惹きつけます。人口と食糧、国際紛争、自殺、青少年問題、離婚、性倒錯、気象異常などが、深刻化してきています。それらを解決するのでしょう。

 しかし、この「彼」は、真正な「救世主」ではありません。そんな気配が感じられてきそうな世相ではないでしょうか。しっかり目を見開いて、口にマスクをして、時の動きを正しく見て、判断していこうと思っております。

 
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一輪の初冬

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 母親の誕生日、8月1日に、娘がお祝いに贈ってくれた「蘭(胡蝶蘭))」の最後の一輪です。4ヶ月の間、窓越しのカーテンの陰で咲き続けました。もっと長持ちさせられるのでしょうけど、11月30日、3℃の寒い朝も、陽を背後から受けた午後3時も、最後の花が、美しく、しっかりと咲き残っています。

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助言者

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 『次の時代を担う者は、どうあるべきか?』について、イスラエル民族の歴史に残されている出来事を思い出しました。

 父親が召されて、王位を継承した新しい王のもとに、嘆願者たちがやって来たのです。父親の治世下では、税の取り立てが厳しかったので、生活が大変だったのです。そこで、『ご子息だったら、厳しい取り立てはなさらなうだろう!』と期待してやって来たわけです。

 その王宮に、父親に仕えていた年配の長老たちが残されていました。この若い王は、この父の長老たちに、『民の訴えをどうしたら好いだろうか?』と相談しました。そうすると、父に仕えた長老たちは、『民に、親切な言葉をかけてやったら、彼らは、いつまでもあなたの僕になるでしょう!』と勧めたのです。

 ところが、父の長老たちに相談したまでは好かったのですが、すでに自分では、どう答えるかを決めていたのでしょう。自分の期待した答えが、長老たちから返って来なかったので、その進言を退けて、聞かなかったのです。『どうしたら好いでしょうか?』と聞いてくる人は、相談ではなく、自分の決めたことに、<同意してくれること>を願ってやって来る事例が多い様です。それは、到底、相談とは言えません。

 それで、若い王は、子どもの頃から、一緒に育った若者たち、つまり「ご学友たち」に相談、いいえ、同意を得ようとしました。案の定、若者たちは、『厳しく取り立ててください!』と言います。そして、『この民には、「私の小指は父の腰よりも太い、」、「父よりも、さらに重税を課そう。私の父は、お前たちを鞭で懲らしめたが、私は蠍(さそり)で懲らしめよう!」と言ってくだい!』と言ったのです。

 同意を得た、この若き王は、その通り、民に告げました。若者たちは、若き王、二代目に、《ヨイショ》をしたわけです。『ノー!』と言う勇気のない者は、「助言者」にはなれません。

次代を担う指導者が、その責任を果たすために、天は、長く経験を積んだ長老たちを、その人のそばに置かれます。その年配者の経験や知恵の中からなされる、忠告や進言に、耳を傾けて、正しく責務を果たさせるためです。歴史の中で、その時代の必要に、十二分に届いた為政者、行政者、社長、会長のもとには、「よき参謀」がいました、”No 2(ナンバーツー)”に徹して、主君、社長に仕えた《番頭さん》がいたのです。それゆえ、その指導者が、つつがなく責務を果たし、名君、名社長として名を残すことができたのです。

 多くの人は、『自分に実力や能力が備わっているから!』とか、『私だけが適任者だ!』、『俺がいなければ、この国、(会社、共同体、この部署)は駄目になってしまう!』と勘違いしています。いつでも責務を引き継げる《第二世代》、《後継者》が、育ち、整えられ、備えられているのです。後継者がいなくて駄目になるにではなく、後継者が驕り高ぶったので、崩壊してしまったのです。いつでも、責務を引き継げる人がおります。

 会社も、商店も、共同体も、官庁も、何処でも、《後継者問題》を抱えています。案ずるなかれ、『その人がどきさえすれば(居なくなれば)、そのポストを担う人が出て来て、さらに勝った務めを果たすことができる!』、これが歴史が証していることです。

 後継者は、自分と務めで、益を被る人と、その人の家族や子弟のために励まねばなりません。また、その務めを後継する、「第三代目」の鑑になるように、責任を行うのです。賢い「番頭(ばんとう)」を持った主人の店が栄えた様に、内閣も、学校も学校も同じで、公義に立つ助言者を持つ指導者は栄え、名を残すのです。

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三大花木

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 上から、フランボヤン(鳳凰木・ホウオウボク)・ジャカランダ(紫雲木・シウンボク)・スパトデア( 火焔木・カエンボク)の世界の三大花木です。季節は、「そぞろ寒」から「本寒」に移りつつあります。私の恩師の誕生日は、” Thanks giving day “ でした。お元気なら、85歳になっていたのです。ジョージアの片田舎の出身でした。下は、ジョージア州花の「チェロキーローズ」です。

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お白洲

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 「わいろ」と「政治献金」のお話です。菓子箱の底に小判を隠して、『ご挨拶に参りました!』と手土産を差し出す場面が、時代劇によくありました。お代官様は、その菓子の底の小判を確かめると、『うむ、分かり申した!』と、裏取り引きに手を染めて、偽手形や特権の権利書などを発行していくのです。そんなこんなで、お代官様は、在任中に一財産を築き上げて、左団扇で余生を送るのです。

 家が豊かなので、ばか息子がそれを、親に見習って、妾を囲い、遊興や博打に散財して、身も財も滅ぼし、お家は崩壊と言うのが、三文芝居の筋書きです。そういった反面、庶民、町民は、たまに落語や小屋掛の芝居に出かけるくらいで、地味で勤勉な生活をしていたのでしょう。堅実な生き方をしていた様です。

 賄賂を英語では、"under sleeve “ と言うそうです。これは日本や江戸時代にあっただけではなく、洋の東西を問わず、二十一世紀にも横行している裏交渉です。先日も、有名なアメリカのテレビ俳優が、自分の娘の大学進学に、これをやって、刑務所送りになったとニュースが伝えていました。実力がないのに有名校に進学して、また賄賂攻勢で単位を積んで、無実力の社会人になって、社会的立場を得て、また賄賂をもらって生きるのでしょうか。
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 主要な官庁の大臣をした人の選挙贈賄事件の裁判が、今まさに行われています。以前、住んでいた街の市会議長をした方のご婦人のお世話を、家内がしたことがありました。すでにご主人とは死別して、残された財で生活をしていたのです。このご婦人が、『悪い人がいるんですよ!』と家内の同情を買うために、過去を語ったそうです。『主人の選挙の時に、票集めで知人にお金を配ったら、それを言いふらした人がいたんですよ、なんと悪い人なんでしょう!』と。

 賄賂は地方選挙では、常套手段で、お代官様の菓子箱と同じなのです。これは国政選挙でも、多くあることで、ムヒカ元ウルグアイ大統領の様な、清廉潔白な政治家、貧乏な政治家は稀なのではないでしょうか。賄賂をもらってしまうので、〈心は小さく財布の大きな政治家〉になってしまい、もうその段階で、義を行えない政治家に成り下がって、国内外の賄賂提供者の思いのままに動かざるを得なくなってしまうのです。

 政治上の不正でも何であれ、しでかした事事は、いつの間にかうやむやになって消えてしまうと、多くの人が考えているのですが、そうではありません。人は行ったわざに応じて、裁かれ、その申し開きをしなければなりません。個人はもちろん、国や公共団体や企業体が犯した悪事も問われる日が来ます。とくに国の命運、人類の将来を決めるべきことを、誤った責任は、大きいからです。

 人類には、最後に審判の〈お白洲の筵(むしろ)〉に、誰もが座らされる時がありそうです。隠れてしたことが露わにされてしまうのです。『誰も見ている人がいなかったはずなのに!』と思ってみても後の祭りです。《お天道様》と言われる万物の支配者は見ておられ、記録されていて、言い逃れはできないのです。私も、そのお白洲に座すのですが、感謝なことに、私には《代わって死んでくださり弁護してくださるお方》がいるのです。

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心を治める

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 「ねたみ(妬み、嫉み、嫉妬)」と言う感情が、どんなひどい結果を生むか、小説ばかりではなく、現実の世界に多く見られます。人類最初の殺人事件の記録が、ユダヤの古書の中にあります。カインとアベルの兄弟の中で起こった一件です。ちょっと長くなりますが、その条(くだり)を取り上げてみます。

 『人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」
 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。
それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」』

 弟と自分とを比較してみた時、弟のささげた物は受け入れられ、自分の捧げたものは拒まれた経験をします。弟への祝福を喜べない思いが、兄の内にみられます。この違いは、この時だけのことではなさそうです。これまでの二人の生き方の結末ではないでしょうか。

 私には二人の兄と一人の弟がいます。子どもの頃を総括すると、〈喧嘩〉ばかりしていたのです。原因の一つは、いつでも我が儘な三男坊の私にありました。父親は、最初の子や最後の子を可愛がり、真ん中の子たちはあまり関心を示さない、これが良くあることです。しかし私たちの父は、三男を殊の外に愛したと思います。溺愛まではいきませんが、美味しい物があると、一番に私に食べさせ、食べ捨てた葡萄の皮を、上の兄たちに拾わせたりしていました。

 兄たちは、どんな気持ちで拾わされていたのでしょうか。聞いたことがありません。兄弟三人は、街の公立中学に行きましたが、私だけ私立中学に行かせました。確かに父には、偏った子育てがあった様です。そんな私は、就学前に、肺炎に罹って、死にかけたのです。国立病院に入院させ、時の県知事が見舞いにくるほどでした。知事の側近、院長をはじめ病院の偉い方たちの一団が、ベッドの上の私を取り巻いていた光景を覚えています。

 それで甘やかされた三男坊は、始末が悪く、父や母のいない陰で、小突かれていたのです。それって当然の仕打ちでしょうね。それで兄たちは晴れ晴れとされていたことでしょう。そんな子どもの時期がありながら、兄たちは、弟の私を連れ回してくれたり、守ってくれたのです。いじわるする私なのに、私に同情して弟は、父に叱られる私のために泣いたり、家を出されると、一緒に出てくれたのです。

 結婚して、兄弟たちから離れた地で生活をしていた私が、アパートの上階で、ガス爆発の火災事故があって、消防の水で、家財を失うもらい事故に見舞われたことがありました。ほとんどの物を失ったのですが、再出発のために、兄弟が、東京と私たちの街を車で、何度も往復して、ほとんどのものを差し入れ、整えてくれました。そして昨年、家内が入院すると、何度も差し入れを持って見舞ってくれました。退院すると、その祝いに、温泉の宿に招待してくれ、経済的に助けてくれ続けたのです。

 兄たちには、兄たちへの方法で、明治男の父は愛してくれていたのでしょう。そう言って父からの愛を受けていたに違いありません。弟を小突くいて腹癒せをするくらいで、〈苦味〉や〈妬み〉は全くなかったのです。アダムが、私の父の様に、不正や狡いことをすると、ゲンコツをくれていたのなら、カインは、陰湿な弟への感情を持つこともなく、私の兄たちの様に、平然として、自分の感情を正しい形で処理できたのでしょう。

 蔑(ないがし)ろにし、処理しなかった〈怒り〉や〈妬み〉は、やがて最悪な結果を生むのです。現代人の私たちにも必要なことは、《心の思いを治めること》です。そうできる能力は、誰もが与えられているから、そう言われるのです。もしそんな思いがあったら、心を治めようとしてみることです。やらないよりも、やる方がよいからです。どんな悲劇も、《逆転の機会》があります。そう信じて生きるのがよいのです。

(エリヤ・カザンの「エデンの東」のジェームス・ディーンです)

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生きよ!

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 中国で日本語を教えている時に、「日本文化」の講座で、日本の社会問題の一つとして、「自殺」を取り上げたことがあります。実は、『東アジアは、自殺件数や割合が、欧米諸国に比べて、際立って突出している!』という前提でしたが、確かにそう言った傾向は見えます。朝鮮半島が二分された大韓民国は、北朝鮮に比べて、アジア圏では突出して多いのは事実です。しかし世界全体を見ますと、違った動きが見えてきます。

 世界では、旧ソヴィエト連邦に所属したロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、南米のガイアナの自殺率(人口10万人比)が高いと、WHO(世界保健機構)が、2016年の統計として報告しています。中国の統計は作為的で信じられませんが、その自殺者の実数は、夥しく多くいると思われます。

 長いこと日本では、とくに1998年から2012年まで、三万人以上の自殺者が出ていました。それ以外の年でも、2万人前後の自殺者数があります。今年の春以降、新型コロナインフルエンザの猛威で、日本では、コロナに直接間接の影響があっての自殺者が急増している様に思われているのです。

 厚生労働省によりますと、『ことし9月の1か月間に全国で自殺した女性は640人で4か月連続で去年の同じ時期を上回った一方、20代から50代の男性も705人と去年を56人、率にして8.6%上回りました。8月に自殺した同じ年代の男性は706人で去年を6.6%上回っていましたが、1か月間でさらに2ポイント悪化しています。』と報告しています。

 私の入った学校で、新学期早々に、「宿泊合宿」がありました。これからの4年間の学生生活へのオリエンテーションのたのためだったのです。それが終わってから、一緒に行った同じ学科の茨城県笠間から来ていた女学生が、自殺してしまったのです。これから始まろうとしていた矢先の同級生の死は、衝撃的でした。理由は知りませんでしたが、残念な思いをしたのです。

 儒教の影響の強い精神風土の国だけではなく、社会が強く自由を蝕む様な圧力を持っていたりすると、悲観や諦めが先走りして、自死を選ぶことが考えられますが、個人的な内面の問題は、世界的に見て深いのかも知れません。8月から9月の自殺傾向について、自殺の防止に取り組むNPO法人「ライフリンク」の清水康之代表は次の様に言っています。『新型コロナウイルスの影響で非正規で働く人や自営業者を中心に働き盛りの男性が追い詰められている。雇用を守る政策を続けていくことが必要だ。』としています。

 ユダヤの古典に、一人の自殺者が登場しています。『当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はみな、ダビデにもアブシャロムにもそのように思われた。』と記されている、アヒトヘルが、その人です。ダビデの内閣の主要な人物で、知恵者でしたが、自死してしまいます。その理由を次の様に記しています。

 『アヒトフェルは、自分のはかりごとが行われないのを見て、ろばに鞍を置き、自分の町の家に帰って行き、家を整理して、首をくくって死に、彼の父の墓に葬られた。』、とです。自分の進言が拒まれた時、その屈辱体験を超えられなくて死を選んだのです。こういう場面で、もし彼が自分の心の内を分かち合える、“ mentor/メンター、相談相手 “ がいたらよかったのにと、私は思ったのです。しかし、エルサレムにも故郷のギロにも、自分の心のうちを語れる友が、彼にはいませんでした。それが彼の悲劇だったかも知れません。

 傑出した能力の持ち主は、へりくだって人に相談することができないのかも知れません。〈恥の文化〉の中で、育った人は、屈辱は耐えられないのでしょう。高校生の時に、田宮虎彦の「足摺岬」を読みました。大学生の主人公が、肺を病んで悲観し、死場所を求めて、土佐高知の足摺岬にいきます。体調を崩した彼はやどをとります。そこで同宿のお遍路さんや旅の商人たちに介抱され、その宿の交わりを通して、自殺を思いとどまるのです。

 そう言えば、華南の街にいた時、私たちの事務所のあった建物の隣の建物の二十数階の家から、中学生が飛び降りて自殺をしてしまったのです。その直前、お母さんと激しくやりとりをした後のことでした。知り合いではなかったのですが、隣人の危機に何もできなかった無力さを覚えたことがありました。ナチスの収容所の中で、ユダヤ人たちが、『それでも人生にイエスと言おう!』と、劣悪と悲観と恐怖の中で告白し、歌ってていた人たちの言葉を、「夜と霧」の中で、フランクが記しています。

 私の愛読書には、『生きよ!』とあります。

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光り輝く一瞬

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 人間を突き動かすもの、特異な行動をとらせるものの一つに、〈劣等感〉があります。これまで残忍な人、非情な人と、私は個人的に出会ったことはありませんが、そう言った人のことは話に聞いたことがあります。これまで過ごした七十数年の年月に、数限りない人と出会ったと思います。職業柄、多種多様なみなさんの生き方や考え方に触れたことになります。結論的に、けっこう、この劣等感って厄介なものの様に思えるのです。
 
 自己嫌悪に陥っていたり、言うことが自虐的だったりして、劣等感に苛まれている人は、何人もお会いしたことがあります。そう、ありのままの自分を受け入れられない人が、そう言った傾向が強いのではないでしょうか。欠点や劣っていることに拘り過ぎて、ご自分を全体的に見ることをしないのかも知れません。ある講座を受講した時に、その日の講師が、出席者を二人づつ向き合う様にされました。

 それで、相手の《優れた点》を発見し合う様に促されたのです。無作為の相手が決められて、初対面の人の容姿や雰囲気や素振りなどを、目で観察し合ったのです。知らない人だから、かえって先入観無しで、いろいろなことに気づけるわけです。相手の女性に、何を言ったか私は覚えていませんが、『歯が綺麗ですね!』と、その方に言われたのは覚えているのです。他に褒めようがなかったのでしょうか。

 人の内には、けっこう自分では気づかない優れた点があるものです。先日、歯医者に行って、大(おお)先生(院長の父上かも知れません)が、歯の治療の最終的仕上がりを診てくださったのです。手入れが良かったのでしょうか、三度も『歯が綺麗です!』と言われたのです。これで、生涯に二度歯を褒められたことになります。これは両親に感謝しなければなりません。七十でも褒められて嬉しいもので、このところご指導通りに歯磨きに、さらに励んでいるのです。

 誰でも褒められたい願望があるのに、とくに幼児や少年期が、それを必要としているのに、〈褒められなかった子〉がいました。それが原因してでしょうか、体格的に小さく、弱々しく病弱な体質で、外見的に見栄えがしない子がいました。その一人が、あのアドルフ・ヒットラーの少年期です。でも恵まれない幼少期を過ごした子どもが、みなそうなのではありません。〈劣等感〉に苛まれない人の方が、きっと多いのでしょう。正しく対処できたらよかったのですが。

 でも、少年アドルフは劣等感の申し子の様でした。お父さんとの関係もよくありませんし、お母さんは、そんな子を褒めたりしなかったのかも知れません。その上、両親の仲もよくありませんでした。軍人だった父親は、母親にも子どもたちに横暴に振る舞っていたそうです。少年アドルフには、憧れの父ではなく、無関心だったら救いがあったのですが、何と自分を生んでくれた父親を、〈敵〉としたのです。

 自分の父親を敵視していたというのは不幸なことでした。ということは、人間形成のために、良い男性性のモデルを持たなかったことになります。人は、どこかで強いモデルを求めるものだからです。アドルフは、父親と16歳で死別し、敵をなくした彼は、その敵愾心の矛先を他に向けます。経緯は他にもあるのですが、それが最終的に「ユダヤ人」の撲滅に導いたことになります。

 でも「劣等感」は、上手に作用すると素敵なものを生み出すのです。就学前に肺炎に罹って、生死の境を彷徨った私は、スプレストマイシンやペニシリンの投与で生き残りました。それでも私は、病弱で学校に行けず、学習能力の遅れで劣等感に陥っていました。いまだに漢字の書き順が間違っているのです。東京の小学校に転校して、久し振りに登校した教室で、国語の授業時間に、生涯一度きりの《褒めことば》を、内山先生からもらったのです。

 それは今でも忘れられない、《光り輝く一瞬》でした。その一瞬があったので、不登校児にもならず、学校に行ける時にはワクワク感があり、行くと調子に乗り過ぎて、悪戯をして怒られて立たされるのですが、楽しかったのです。しまいには学校の教師までさせていただきました。それが信じられない級友代表が、本当かどうかを確かめに学校にやって来たのです。これって劣等意識を、一言の誉めことばが跳ね返した例かも知れません。

 私のアメリカ人の恩師は、日本での働きは進みませんでした。非凡な教師でしたが、結果は出せずにいたのだと思います。野心的な人でも、売名家でもなかったので、機会を得なかったのだと思います。それで彼は著作に情熱を傾け、何冊かの本を米国で出版し、日本でも翻訳で出版していました。私の本棚に、その著作があります。彼も満たされない部分を持ちながら、後代の人に、学び得た思想を残そうとして生きたのです。手指で数えられない、量りで測りきれない実績があります。
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 それにしても私の知る限りでは、あんなに堅実なゲルマン人が、一人の劣等感の権化の様な人の演説を、全国民的に支持してしまったのは、時代的な背景、民族的な危機の中で、救世主の様に思えた、いえ惑わされ、そう思わされたからにほかなりません。〈強さ〉の背後には、必ず〈弱さ〉が隠されてあるのに、気づかされるのです。弱さの反動が、横暴を生み出し、悲劇をもたらします。

 あのアメリカ大統領のリンカーンは、祖父を原住民に殺害され、母を9歳で亡くし、継母に育てられた人でした。貧しい開拓農民の子でもありましたので、正規に受けた教育は一年ほどだったそうです。ですから劣等感に苛まれて然るべき子でしたが、アメリカでは、最も尊敬される大統領となっています。

 リンカーンの人となりの成長に果たした継母サラの果たした役割は、実に大きかったのです。書を読み、労働に勤しみ、人を愛することを、その継母から学んだ人でした。サラから聖書を読むことを教えられたことが、リンカーンの人格形成、政治家としての使命をもたらせた点ではないでしょうか。

 厄介さを、逆手にとって、リンカーンの様に、二十一世紀のアメリカの青少年にさえも、敬意を持たせている器になっていった人がいます。また人類の最大の汚点を記して、厄介者の餌食になったものもいるわけです。人は、美しくも醜くも生きられるのですが、荒れ野の中で、どなたの生涯にもあった《光り輝く一瞬》を思い返して、心して美しく咲き終わりたいものだと、思う晩秋の北関東の巴波の流れの辺りです。

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