ラブレター

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「三行ラブレター」というコンテストを、「日本語文章能力検定協会」が毎年行っています。両親や友人や先生、恋人や恩ある人にあてて、愛や感謝を、三行の短い文章で書き表すのです。少ない言葉で表すというのは、実は大変難しいのです。

私が読んだ「ラブレター」の中に、一行で三文字のものがありました。南極越冬隊に行った夫に当てて、その妻が書き送ったものです。

『あなた』

これを受け取った夫は、三文字に込められた、奥様の愛情、愛慕、会いたいとの切々たる思いを深く感じたことでしょう。結婚という契約の中で交わされる夫婦の感情が、これほど深くて、一万語を持って書かれた恋文に勝って、真実な愛が込められていることに、驚かされてしまいます。言葉を駆使して、意思の疎通ができるのは人間だけだということを、改めて思わされています。

ここで、先週、日本語科の三年生に書いてもらった「三行ラブレター」を、四編ご紹介しましょう。

父さんが作れる たった一つの料理
中国料理の特に卵焼き
どんな料理よりも優しい味 (お父さんへ)

もらった命、もらったやさしさ
きつく叱られた幼き日々も 贈り物だったんだ
本当にありがとう (お母さんへ)

お天気予報
最初にあなたの住む街を見ます
今日はあたたかくなりそうですね (友だちへ)

午前中ずっと私の歩く道路に沿って探していて
ただ、私の服から落ちたボタンのためだったと知って
涙が止まらなかった  おばちゃん ありがとう (おばあちゃんへ)

なかなかの秀作です。日本語を学んでいる学生たちがいて、今すべきことに懸命なのが嬉しいのです。

(写真は "WM”による目玉焼きです)

生き方の好きな方

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私が、長い間、働いた街に、同業者のM氏がいらっしゃいました。九州の出身で、我が家のように子沢山でした。この方の家を訪ねると、玄関に、子供たちが全員集合で歓迎してくれたのも、我が家と似ていました。私たちの末の子と同じ年に、双子が与えられていました。気さくで、明朗で、ちょっと、悪戯っぽく上目遣いをされる愛嬌のある方でした。七歳ほど上の方で、私たちの所にも、よく来てくださいました。弟のように思ってくれていたのかも知れません。

私が、三十年前に手術をした時には、彼の事務所の若い方たちが、お見舞いにきてくれたことがあったのです。また、私たちの事務所を、素人だけで手作りしていた時も、独身の大工さんが、彼の事務所に出入りされていて、大工道具一式を持ってやってきて手伝ってくれたこともありました。

その街で、お互いに余所者同士(そこに私は生まれましたが、育ってはいない街でした)だったからでしょうか、若い私を気遣ってくださったのです。こちらに来る前に、ご挨拶に行った時に、『茨城に越すんです!』と聞いたまま、私たちはやって来てしまい、その後音信不通でした。その時は、病気をされておいででした。この二月に帰国しました時に、友人の所を訪ねましたら、この方をご存知で、すでに退職されて、お嬢さん家族と一緒に生活をされていると聞きました。

筋肉のお病気で、病状も進んでおいでのようです。この方の生き方が好きで、今のような生き方をしているのにも、多少の影響を受けております。病まれて弱くなっている姿を、昔馴染みには見せたくないのでしょうか。今度、帰国の折に、お訪ねたいのですが、遠慮すべきなのでしょうか。若くて元気なときに行き来した人ですから、お会いしたい一人です。病状が膠着状態だと好いのですが、ご無事を願っております。

北風

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東北中国から北風が吹いて来るようになりました。この風を頬に感じるたびに思い出す歌があります。長男が通っていた幼稚園の「演芸会」が、隣町の大きな演芸場で行われたときに、隣のクラスの出し物で、CDが流れていて、初めて聞いた歌でした。井出隆夫の作詞、福田和禾子の作曲の「北風小僧の寒太郎」です。

きたかぜこぞうの かんたろう
ことしも まちまでやってきた
ヒュ-ン ヒュ-ン
ヒュルルンルンルンルン
ふゆでござんす ヒュルルルルルルン

きたかぜこぞうの かんたろう
くちぶえ ふきふきひとりたび
ヒュ-ン ヒュ-ン
ヒュルルンルンルンルン
さむうござんす ヒュルルルルルルン

きたかぜこぞうの かんたろう
でんしんばしらも ないている
ヒュ-ン ヒュ-ン
ヒュルルンルンルンルン
ゆきでござんす ヒュルルルルルルン

もう暦の上では、立冬が過ぎました。秋の日を「釣瓶落とし」と言いますが、これから、「冬至」まで、日一日と、日の入りが、ずんずんと早くなります。もう間もなく十二月、年々歳々、駆け足の速度が早くなるように、時間が跳んで行きます。

昨日、『オギャア!』と生まれた産毛(うぶげ)の私の頭髪は、今や、薄くなって白髪が増してきています。『おにいさん!』が『おじさん!』、そして、今では、学生さんたちに『爸爸(yeye/イエイエ)/おじいちゃん』と、陰で言われるようになってしまいました。私の高校時代の担任の渾名が、兄の学年が陰で呼んでいた『オジイ!』でしたので、中国も日本も、同じように呼ぶのが不思議な感じがいたいます。N先生は、慶応ボーイの英語教師でした。

(イラストは”yahooイラスト”の北風小僧の寒太郎です)

親日家

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小学校の社会科の授業で、「大森貝塚」のことを学んだことがあります。アメリカ人の生物学者、E.モースが、1877年に発見した、この貝塚は、日本の考古学に光を当てた、学術的な大貢献でした。私の父が、旧制中学の時に、この大森(東京都品川区)の親戚の家に寄宿して、そこから学校に通っていたと言っていました。

このモースが、三度の来日で触れた日本について、「日本その日その日(Japan Day by Day 講談社学術文庫版)」を著しています。39才で初来日した彼が、東京帝国大学で教えながら、東京や、旅先で見聞したことを、スケッチ入りで書き著した本なのです。偏見や蔑視のない目と心と体で触れた、江戸文化を残しつつ、新しく変えられていく日本の街々と人々と事物を捉えたのです。

横浜、東京、江ノ島、日光、函館、長崎、鹿児島、京都、瀬戸内海と、精力的に旅をしたのです。主に学術的な目的を持った旅でしたが、日本文化に感心しながら触れた日本滞在記です。こんなことが、記されてあります。

「人々正直である国にいることは実に気持ちがよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠を掛けぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは、一日に数十回出入りしても、触ってはならぬ物には決して手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間も無くポケットの一つに、小銭が若干入っていたのに気付いて、、それをもってきた・・・・日本人が正直であることの最もよい実証は、三千万人の国民の住家に、錠も鍵もかんぬきも戸鈕(とちゅう)もーーーいや、錠をかける戸すらもないことである・・・」

そんなことですっかり<日本びいき>になったのが、モースでした。私も日本で生活をしたアメリカ人を大勢知っていますが、彼のように、みなさん好印象をお持ちでした。もちろん日本にも日本人にも欠点もありますが、総体的に、高い評価のあることは、私たちが誇っていいのかも知れません。明治期も今も、変わっていないようで安心しました。

複雑

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初冬の雨が、しとしと降っている、11月の週日の朝です。電動自転車の後ろに孫を乗せたおじいちゃんが、眼下のバス通りを左の方には走って行きます。マントをかぶって、雨を防いでいるのです。小学校に向かって、何台も何台も列を作っている、平日の毎朝の光景です。

孫の送り迎えを、おじいちゃんが主にし、両親は、勤めに出ている、これは中国の一般的な家族のシフトなのです。11時半前後になると、今度は、逆の右方向に、迎えに行ったおじいちゃんの運転する電動自転車が戻って来ます。おばあちゃんが作る昼ごはんを、孫に食べさせるためです。

さらに一時半過ぎになると、また小学校に孫を送り、五時前後に、下校する孫を乗せたおじいちゃんの電動自動車が帰って来ます。日に家と学校を四往復するのですから、意外と大変なことのようです。これが<祖父母の生き甲斐>、老後の過ごし方のパターンなのでしょう。全中国の22の省、5つの自治区、4つの特別市で繰り広げられている生活の一端なのです(この町は、特に電動自転車の普及率が高いそうです)。

もちろん、徒歩や自転車、今では自家用車も使われているようです。ですから、小学校の周辺の道路は、大混雑です。朝晩は、渋滞しているのを見かけますが、みなさんは、上手に泳ぐように歩き、自転車や電動自転車や車を駆っているのです。『次代を担う子供のためだ!』と、渋滞に巻き込まれた車、運転手さんも、黙って耐えているのです。

こちらでよく見かけるのは、おじいちゃんやおばあちゃんが、孫の通学用リュックサックを担いであげている様子です。足腰の弱くなったおじいちゃんやおばあちゃんが、そうしている様子を見て、『そこまでして上げなくても・・・・』と、ちょっと私の思いは複雑です。バスの中には、『ご老人を労りましょう!』と標語が貼られているからです。

国際貢献

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この秋、国際社会で、大きな問題になっていたのが、「エボラ出血熱」の蔓延です。アフリカ大陸の西部の国々で、蔓延し、医療従事者に感染し、そこから第三次の感染が危ぶまれていると言うのが、今の問題です。日本にも感染が広がる可能性もあるわけす。

私の長女がシンガポールで働き始める時、「サーズ」が流行っていて、中国大陸や香港、そしてシンガポールでも、感染された方が亡くなっていると言うニュースが、飛び交っていました。『渡航を延期した方が・・・』と思ったのですが、彼女は、マスクをして出かけてしまいました。親の心配をよそに、恐れなかったのが好かったのでしょうか、間も無くこの流行が収束したのです。

そんな恐れの中、日本の製薬会社の薬が、「エボラ出血熱」の治癒に有効だと言われています。また、昨日の朝のニュースですと、特別製のマスクに殺菌作用があって、感染拡大に有効な防疫機能を持っていると伝えています。こう言った世界大の問題に、日本の企業が貢献できると言うのは、<物作り大国>を掲げて来た国としては嬉しい限りです。

また、在米の大学で、日本人研究者が、ガンを制圧できる薬を開発したとのニュースもありました。これも画期的なことです。人の命に関わることに貢献できる人材がいると言うのを、私たちは誇るべきかと思うのです。こう言った人材や機関を作り出した、日本の教育や研究の成果が、今顕著に現されてきているのでしょうか。

国際貢献が、軍事や産業だけではなく、人間の根本的な面で、役割を果たせることは、驚くべきことと思います。この様なニュースを聞いた多くの青少年が、地球的な規模で、平和や福祉や幸福のために役立ちたいと、自信と使命感を持って、学んでいって欲しいものです。

私の愛読書に、次の様なことが記されています。「えやみもあなたに天幕に近づかない」と書いてあります。「えやみ」は、原因不明の流行性の疫病のこと、「天幕」は、家とか民族とか国家を意味しています。そこを害することがないことの約束です。この約束を握りしめて、この時代を生きていきたいものです。

スポーツ考

 

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テニスもフィギュアスケートも、日本人選手の活躍が目覚ましいようです。でも、練習や養成に、莫大なお金がかかるのだと聞いています。スポーツが科学的に捉えられていて、ガムシャラに、根性でやる領域のものでは、もはや無くなってきているのです。食べ物、用具、練習内容や時間などが、科学的なデーターによってプログラムされないと、世界に通用する選手にはなれないのです。練習だけではなく、精神面でメンタルトレーニングもしなければならないのです。 心身両面の周到で細心な環境を要するのだそうです。

ただ路地裏で、ボールを蹴ったり走ったり、布で作ったボールを投げたり打ったり、冬の田んぼに水を張って凍らせた特設リンクの上を、下駄に金属に刃をつけた物で滑っているだけでは、もうダメなのです。実績のあるコーチについて、科学的に練習を積まなければならない時代です。

貧しかった野球小僧の野村克也などは、もう例外なのです。こう言った環境の中から、頭角を現わして来る時代は、すでに過去のことになっているのです。しっかりと育成される必要があるのです。足が早いとか、遠投がすごいとか、体格が好いだけではだめなのです。総合的な資質が求められています。

名門の教室で育成された選手だけが、栄冠を手にするのです。お父さんの鰯漁を手伝っていた少年が、名投手になったり、アフリカの原野を裸足で走っていた少年が、オリンピック・スタジアムで、飛んだり跳ねたり、走ったり投げたりすることは無くなってきているのでしょう。

どのスポーツもアマチュア色がなくなってしまいました。プロアマを問わず、選手が、お金で計られ、どれだけ稼ぎ出すかが注目点になってしまっています。そう言った世界で生きている大人がいるのです。次から次へと有望選手を発掘して、育成して送り出すのです。まさに、<稼ぐ人間マシーン>です。芸能界と同じです。だから、スポーツが面白くなくなってしまいました。

日本のプロ野球の「ドラフト」のニュースを聞いていて、少しスポーツをしたことのある、10月下旬の私の思いであります。

吉祥寺駅

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「東京音頭」と言う歌があります。作詞が西條八十、中山晋平の作曲で、1932年に発表されています。

ハァ 踊り踊るなら チョイト
東京音頭 ヨイヨイ
花の都の 花の都の真中で サテ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハァ 昔や武蔵野 チョイト
芒(すすき)の都 ヨイヨイ
今はネオンの 今はネオンの灯の都 サテ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハァ 花は上野よ チョイト
柳は銀座 ヨイヨー
月は隅田の 月は隅田の屋形船 サテ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ(省略しました)

ここで歌われている「武蔵野」には、かつて櫟林の原野が広がって、「芒の都」だったのです。「甲武鉄道(今の中央線です)」が、新宿と甲府間に開通してから、徐々に沿線が開発されて来ているのです。今では、東京の西の一大繁華街でしょうか、若者に人気があり、最も住み好い町に選ばれた、吉祥寺駅を主要駅にした「武蔵野市」があります。

この吉祥寺駅には、京王井の頭戦の始発駅もあり、都心の渋谷を結んでいます。今では、JRや地下鉄やその他の私鉄相互乗り入れや、直通輸送が行われていますが、この井之頭戦線は、渋谷止まりで、そこを折り返している鉄道です。時々乗ったことがありますが、沿線には、大学や高校の多いのが特徴です。

この京王井の頭線の吉祥寺駅のガード下に、「青果会社」の分場があって、何年か年の暮れの時期に、仕事をしたことがありました。休み時間や青果物の搬入の待ち時間に、年配の話好きのおじさんに、いろいろと人生、世の中を教わったのです。このー駅も、田舎に行っている間に、全く変わってしまい、昔の面影がなくなって、寂しく感じたりしていました。こちらにきて、さらに年月が経ちましたので、大きく変化しているのでしょうか。やはり「秋」、飽きもしないで、昔を思い出しております。(十月に書いた記事をアップしました)

(写真は”WM”の京王井の頭線の「吉祥寺駅」の改札です)

落葉

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フランスの詩人、ヴォルレーヌが “Chanson d’automne” [Paul Verlaine
(秋の歌「落葉」 ポール・ヴェルレーヌ)]という詩を、1866年に出版した詩集の中に掲載しています。ヴォルレーヌが二十歳の時に作ったものです。それを、1905年に、上田敏作の翻訳で、「海潮音」の中に掲載しました。

落葉                 上田敏 (『海潮音』より)

秋の日の
ヰ゛オロンの
ためいきの
ひたぶるに
身にしみて
うら悲し。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。

パリで生きる青年のうら悲しさが詠まれています。これを、何人かの人が翻訳していますが、上田敏訳が高く評価されているようです。「秋のシャンソン」という箇所を、「落葉」と訳したのが好かったのでしょう。明治の息吹が感じられる文語体の詩は、島崎藤村の詩に似て、簡潔で、歯切れが良くて素晴らしいと思います。パリで詩が詠まれた頃の日本は、「勤皇佐幕」に二分し、若者たちが国の将来を、それぞれに思い考えながら、夢を持ち、行動し生きていた時代でした。

こも詩を上田敏が紹介したのは、明治維新が過ぎ、欧化主義の動きも一段落し、明治の末期に生きる青年たちに好まれたのでしょうか。ちょっとおセンチな感じですが、シャンゼリゼ通りを感じさせたり、同世代のフランス青年たちを、日本の青年たちに思わせるには十分だったのでしょう。

そろそろ、私が生まれ育った故郷では、林道に入ると、そこは落ち葉で敷き詰められ始める頃でしょうか。歩くと落ち葉が渇いた音を立てて、『もうすぐ冬だぞ!』と語りかけるかの様でした。春の山歩きには、新芽が吹き始め、やがて、新緑が陽に映え、いのちの息吹を感じさせてくれるのですが、秋は、山の自然全体が「休息」に入ろうとしているのです。うあー、枯れ葉の音が聞こえ、その匂いがして来そうです!

高尾山から「明治の森(正式には[明治の森高尾国定公園]だそうです」を経て、相模湖に下って行く山路は、何とも懐かしく思い出されてきます。一人で、仲間で、子どもたちを連れて、何度も歩いたからです。陽の光と空気、音と匂いと風、秋から冬にかけて、この山路が目に浮かんできます。弟からの先日のメールに、この山路を、ある夫妻を案内して歩いた、高一の時の思い出が書いてありました。『帰国したら、近くに里山を一緒に歩いて見ましょう!』と誘ってくれました。

「落葉」を、<おちば>と読んだり、<らくよう>と読むのですが、前者は日本的な、後者はフランス的な感じがするには、私だけの偏見でしょうか。耳の底で、カサカサする音が聞こえる様です。{ヰ゛オロンとはヴィオロン、ヴァイオリンのことです}

(”写真部byGMO”による「落葉」です)

『おばあさんの新聞』

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今年の「新聞週間」に、日本新聞協会が、新聞配達にちなんだエッセイコンテストの発表をしました。その最優秀作品に選ばれたのが、岩國哲人(てつんど)氏の応募作品、『おばあさんの新聞』でした。次の様なエッセイです。

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『おばあさんの新聞』

一九四二年に父が亡くなり、大阪が大空襲を受けるという情報が飛び交う中で、母は私と妹を先に故郷の島根県出雲市の祖父母の元へ疎開させました。そのー後、母と二歳の弟はなんとか無事でしたが、家は空襲で全焼しました。
小学五年生の時から、朝は牛乳配達に加えて新聞配達もさせてもらいました。日本海の風が吹きつける海浜の村で、毎朝四十軒の家への配達はつらい仕事でしたが、戦争の後の日本では、みんながつらい思いをしました。
学校が終われば母と畑仕事。そして私の家では新聞を購読する余裕などありませんでしたから、自分が朝配達した家へ行って、縁側でおじいさんが読み終わった新聞を読ませていただきました。おじいさんが亡くなっても、その家への配達は続き、おばあさんがいつも優しくお茶まで出して、「てっちゃん、べんきょうして、えらい子になれよ」と、まだ読んでいない新聞を私に読ませてくれました。
そのおばあさんが、三年後に亡くなられ、中学三年の私も葬儀に伺いました。隣の席のおじさんが、「てつんど、おまえは知っとったか?おばあさんはお前が毎日来るのがうれしくて、読めないのに新聞をとっておられたんだよ」と。
もうお礼を言うこともできないおばあさんの新聞・・・。涙が止まりませんでした。

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この岩國哲人氏は、島根県知事(2022年4月初めに、お父上が知事だったそうで、哲人氏はそうでないと指摘がありました!ありがとうございます!)や国会議員をした政治家でしたが、現在は引退して渋谷にお住まいで、78歳です。お父様を小1で亡くし、お母様の実家の島根県に引越しをされ、小5の時に新聞配達を始めたのです。貧しかったので、新聞購読ができず、配達した家のおじいさん、おじいさんが亡くなった後は、おばあさんに読み終わった新聞を読せてもらったのです。字の読めないおばあさんは、毎日やってくる哲人君のために新聞を取り続けてくれたことを、おばあさんの葬儀に参列して知るのです。

その激励のおかげで高校を卒業後、東京大学に進学し、実業界で活躍した後、政治の世界で活躍されたのです。母と同郷でしたので、岩國氏のことは存じておりました。私の長男も次男も、中学生の頃に新聞配達をしていたことがあります。風邪を引いた時、彼らの代理で、<新聞おじさん>をしました。<苦学生>は、今も大勢おいでなのでしょうね。朝早く働く<新聞少年>、<新聞学生>を、この華南の町の空の下から応援しています。

(”日本新聞販売協会”の「新聞少年」の像です)