灯心

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<地震、雷、火事、親爺>、子どもの頃に聞いた、“怖(こわ)いもの四傑”でした。実際に、この四つを、軽微に体験した私にとって、甲乙つけがたいので、順位を考えてしまうほどです。今季、西日本を襲った「暴雨」による「洪水」の被害を考えますと、これも付け加えたらいい様に思います。さらに、前代未聞の「高温」だって、日本だけではなく、世界規模で見舞われていますから、四傑に、二つを加えて「六傑」になるでしょうか。

でも、最近のお父さんは、「友達」の様で、怖くなくなって来ているそうです。私たちが今住んでいます小区で、子を叱る声は、お母さんばかりです。お父さんは、仕事と趣味で忙しくて、朝早く、夜遅くの生活型で、家で子どもと過ごす時間が激減している様に見受けられます。

「火事」は、天井板一枚で経験し、子どもの頃に、火遊びの火が突然大きくなった経験もあって怖さを知っています。ところが、<火事場(災害現場)泥棒>をする輩が増えている、とニュースが伝えています。休日を利用して、後片付けのボランティアのみなさんがいる反面の現象です。

「雷」は、八王子の藤森公園で、すんでのところで避けた経験がありました。「地震」は、帰国中、息子の家で経験した「東日本大震災」で、家の中にいられず、近くのスーパーの駐車場に避難した経験があります。ほとんどが揺れる経験で、建物の倒壊などの渦中にいた経験はありません。

疫病、テロ、放射能、流れ星の落下、竜巻、食料飢饉、洪水、津波、街中暴走、煽り運転、突然切れるなどの未経験の「怖い物」が、まだ私にはあります。二十一世紀は、便利な時代の只中で、生きにくい時代になっています。暴漢に突然襲われる様な事件も多く起きています。<いじめ>も多発しています。

昨日お会いした方は、白血病の子どものお世話をされていると言っていました。病院のベッドが不足していて、収容仕切れないので、篤志の企業などの援助を受けて、部屋を借りて、そこでお世話をしているそうです。親に捨てられた子、孤児、貧困家庭の子などに手を差し伸べて、活動をされておいでです。

今、一番生きにくいのは、子どもたちです。隣町に、耳の不自由な話すことにできない子どもたちの施設があったり、重度の心身に障碍を持っていて、親に捨てられた子どもを世話をされている方もおいでです。「義務」とか「優しさ」が忘れられているのが、「怖さ」かなと思わされています。人の心から「隣人愛」が失われてきているのです。

そんな中で、灯心を灯し続けているみなさんが、ここにも、世界中にもいらっしゃいます。豪雨の地で、真水でなく、泥水で顔を洗っていたボランティアの方の写真を見ました。善意が絶えることなく行われているのも忘れてはなりません。

(上高地の7月中旬の景観で「ワタスゲ」です☞「里山を歩こう」への投稿です)

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よき人生



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小学校に入学するために、三男の私に、東京の日本橋の百貨店の三越で、帽子と編み上げの靴、上下の小学生服にワイシャツと靴下、ランドセルに下穿きと下穿き入れを、採寸して、父は注文してくれました。昭和二十年代の半ばのことでした。私が入学を予定していたのは、中部山岳の山の中の村立小学校でした。村長の息子も、そんな入学準備をされなかったのにです。

父の私への期待は、上の二人の兄以上であって、兄たちにはしなかったことを、私にはしてくれたのです。普通、長男と末っ子には、親は特別扱いをするのに、私の父は、『また男の子か!』の三男の私に、特別な寵愛を示してくれたのです。もちろん終戦間近に入学した上の兄たちには、物資不足の時代的な背景があったのですから、そうすることができなかったのですが。それでも、兄たちと弟は、公立中学で学んだのですが、私だけを、父は私立の中学に入学させたのです。

ところが、入学前に、肺炎に罹ってしまった私は、街の国立病院に入院しなければならないほど重篤な病状でした。死ぬか生きるかを通って、村立小学校の入学式の日には、父の用意してくれた、その制服を着て出ることができませんでした。それで退院した後に、街から写真屋さんを呼んで、きっちりと父の用意してくれた物を身につけて、記念写真を撮ってくれたので、その写真だけが残っています。

父の果たせなかった夢を、きっと三男の私に託したかったのだと思います。有名大学で学んで、有名企業に務めるか、官僚にでもなるか、『末は博士か大臣か!』、そうであって欲しかったのかも知れません。そんな父の期待を知ってか知らないでか、一つ一つと、裏切ってしまう私でした。三流大学に入学し、名のない研究所に、私は就職してしまったのです。それでも、その研究所の所長が、有名大学の教授だったことを知った父は、私を連れて、この所長に挨拶に行ってくれたのです。

まだ父は、私に期待していたのでしょう。その所長の肝入りで、ある高校の教師として送り出してくれたのです。将来は、その所長が務めていた大学に招聘され、講義を担当させるつもりでした。しかし、その学校に二年いて、私は、不義理にも、一身上の都合で退職してしまったのです。そして、アメリカ人起業家の手伝いを始めたのです。それには生活保証も、将来の保証もありませんでした。

でも、私は、そうして得た仕事を《天職》だと確信して、34年間働き、退職したのです。そして全てを整理して、中国にやって来たのです。そうしましたら知人の紹介で、大学の日本語科の教師をさせて頂くようになったのです。教授にも、博士にもなれませんでしたが、外国人講師として、全く考えも思いもしなかった国で、あの教壇に立つことができたわけです。もし父が生きていて、私のその後を知ったら、喜んでくれたかも知れません。

自分に、何か能力があったのでもなく、ただ、素晴らしい人との多くの《出会い》によって、《扉》が開いて今日も、中国の片隅の街の中で、お手伝いをさせて頂いて、家内と生活することができているのです。これは自分の計画以上のことに違いありません。好き人生を生きて来たのだと、今は 思っています。もう何年、こうして居られるでしょうか。

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心の戦場

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ユダヤ人に伝えられている物語の中に、王が部下の妻に思いを寄せて、権威を傘に着て、欲望を遂げてしまう記事が、赤裸々に記されています。事の始まりは、自分の軍隊が、敵と戦いをしていた時でした。この王は、出陣することなく、王宮に留まり、夕暮れに、その屋上を歩いていました。その時、湯浴みをしている女を見てしまうのです。

ただ見ただけではなく、じっと盗み見をして、この王の目に美くしく見えたの でしょう、欲情を膨らませた彼は、誰の妻かを調べせます。そして、ついに王宮に呼び、自分の寝室に招き入れて、思いを遂げてしまうのです。この民族の中には、結婚の枠を越えた男女の関係が、禁じられていました。その禁を、この王は破ったのです。

ところが、この女から、妊娠したという知らせを、この王に伝えます。それで、この女の夫を戦場から呼び戻すのです。その女のもとに帰させ、夫によって妊娠したことにしようと、悪計を思いつくのです。ところが王の思惑に反して、この王の部下のウリヤは、『自分の戦友たちが、戦いの最前線にいるのに、自分だけが妻と寝ることはできない!』と言って、王宮の門で夜を過ごして、妻のもとに帰ろうとしませんでした。

それで、万策尽きた王は、その女の夫を、戦いの前線に立たせ、その間に仲間は陣を引いて、戦死させることを思いつき、そう命じます。その様にして、ウリヤは、何も知らずに、敵の手で討たれて死んでしまうのです。そんな自分を抑制し、妻の下に帰ることのできない戦友を思って、戦友たちと共にあろうとしたウリヤと、情欲に負け、禁を破り、殺人まで犯す王との違いが、興味深く記されているのです。

何処の国でも、どの時代でも、『民の頂点に立つ者は、特別な緊張状況にあるのだから、側女や側室によって、夜伽(よとぎ)で慰められる必要がある!』と考えるのでしょうか、<英雄色を好む>と言う言い逃れの考えが、大手をふって一人歩きしてきています。こんな凡夫な私だって、緊張と圧力と孤独があり続けて生きて来ました。でも、してはいけない事は、この王の時代も、20世紀も21世紀のこの時代も同じです。多くの人は、それを一人の妻と、求め合って生きています。

このユダヤ人の書の中に、『若い日の妻を喜べ!』とあります。決して「若い妻」ではありません。よく誤解して、「古くなった糟糠之妻」を捨てて、「若い妻」に鞍替えをする輩がいます。どんな優れた業績や貢献を残した男でも、社会は、そんな男を、人として評価せずに、軽蔑するのです。そんな言い訳を防ぐために、《結婚制度》が定められてあるからです。

一人の妻を愛し続けた凡夫と、政治手腕に長けて、多くの事業の功績を残したが、家庭を顧みなかった英雄と、どちらが人間として優れたているのでしょうか。《一人の女だけを愛した男》と<五千人の女と寝た男>と、どちらが偉いのでしょうか。<男の誉れ>を遂げても、家では妻が泣き、娘は不実の父を見ながら育って間違った男性像を抱き、息子は父親の生き方を見倣って、それを是として同じ様に生きるなら、次の世代の家庭は、どうなってしまうのでしょうか。

誘惑は、凡夫も王も同じです。みんな《心の戦場》で戦って生きて来ているのです。これは男も女も関係ありませんで、女性も戦って生きているのです。古代、「義人」と呼ばれた人が、次の様に言い残しています。『私は自分の目と契約を結んだ。どうして乙女に目を留めよう。』とです。あの王は、見るものを間違えた様に、多くの男が見間違えて、結婚と家庭を壊してしまいました。「美しさ」は偽りです。外貌は衰えて、形を変えますが、心は日々に変えられて美しくされ、輝きを増すのです。気を付けましょう。

(オリーブの花です)

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アメリカ

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もう何十年も前に、私の恩師のレクチャーで、当時のアメリカ大統領の助言者の一人の方のコメントを聞きました。建国の精神から遠く離れてしまい、罪や悪に満ちたアメリカ合衆国が、国際的な地位や経済力を、いまだに保持でき、崩壊を免れている理由についてでした。

一つは、建国の父たちの理想や夢に繋がっている、今日の国民たちの国を思う思いです。イギリスから「メイフラワー号」にやって来た人たちの思いの中にあった、新しい国を建てようとする、建国の理想や夢や幻のことです。

二つは、この国から全世界に送り出されている、教育や文化や医療や宣教に携わる人々と、その働きを支援している経済的な犠牲の大きさです。発展途上にある国に対する、無形の知的、人的、物的援助を、自分たちの責務と感じた人たちの存在と、それを支えている人々がいることでした。

三つは、この国の中で、国の将来の健全性や祝福を願う人々がいることです。その実現のために、祝福を願う人々の思いがあることです。国籍や言語や文化を超えて、アメリカ合衆国の国家的な使命を理解する、諸外国からの期待する思いも、この国に向けられていることです。

私は、中学の時に、学校をサボって、通学の下車駅前にある、名画座によく通っていました。そこはアメリカ映画を再上映している映画館でした。近くに幾つもの大学があって、そんな大学生を対象に上映していたのです。三本立てで観ることができました。観たわりには、英語が上達しなかったのが不思議でなりません。強烈な印象を受けたのが、ジェームス・ディーンが主演した、「理由なき反抗」でした。アメリカの物質の豊かさに驚かされ、繁栄の陰での同世代の若者たちの奔放さに共鳴し、「チキンレース」という命がけのゲームなどに度肝を抜かれ、痛烈な影響を受けてしまいました。

ハリウッドの作るアメリカ文化は、上品でも有益でもなかったのですが、善きにつけ悪しきにつけ、中学生の私には強烈過ぎたのだと思います。それでもアメリカの一面を知ることができたのです。その頃、まさか後になって、アメリカ人と一緒に仕事をし、彼から学び、彼の事業を受け継ぐなどと思ってもいなかったのです。そして、やがて与えられる子どもたちに、アメリカで教育を受けさせたことも、考えたら不思議でなりません。大きな見えない手が、そのように導いたに相違ありません。

戦争に負けて、その国の占領国になりましたが、焼土と化したこと、被爆国となったことを怨んだり憎むことよりも、大きな愛を持って、戦後復興を援助してくれたこと、栄養補給に飲ませてくれた、「脱脂粉乳」に象徴される、助力に対して、感謝を忘れてはいけないのかも知れません。南北に日本が分断していたら、どうなっていたことでしょうか。それが回避されたことだって、偶然ではないからです。感謝ありき、でしょうか。

(プリマスにある「メイフラワー号2号」です)

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ラベンダー

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富士山の麓に、「河口湖」があります。中央線の大月から、富士急電鉄で終点、 中央高速道の大月ジャンクションから東名高速道路に抜けられる途中にあります。そこに"富士急ハイランド"があって、何度か、子どもを連れて遊びに行ったことがあります。「ほうとう」と呼ばれる、”味噌煮込みうどん"、茹でたキャベツに特製のタレを混ぜて食べる"吉田のうどん"が美味しい観光地です。

ここにある公園に、"ラベンダー"が、人工的にですが植えられていて、6月から7月にかけて、街全体が芳香に溢れていているのです。そこも一、二度訪ねたことがありました。まるで、フランスの"プロヴァンス"を彷彿とさせてくれるほどでした(フランスには行ったことがありませんから、そう想像しただけです)。
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「まち興し」のために、観光協会は、その街の特色を打ち出して、観光客の誘致に必死なので、河口湖も、"ラベンダー"で勝負したのでしょう。この花で有名なのは、北海道の富良野市です。テレビや映画の舞台になり、今や中国の観光客のみなさんの人気スポットになっていて、"beihaidao(北海道)"に憧れています。
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昨年札幌の病院に入院した時に、退院後に訪ねてみたかったのですが、保護装具で、腕を吊っていましたので、観光気分どころではありませんでした。すでに装具が外れた今、"ラベンダー"の香りをかいだら、気分爽快になれるでしょうね。"プロバヴァンス"って、どんな所でしょうね。

フランス南東部に位置していて、ローヌ川からイタリアの国境 にかけての地中海に面する地域のだそうです。 その土地柄は、夏は陽射しが強いのですが、カラッと過ごしやすいそうで、世界でも人気のリゾート地として広く知られている様です。 開放的で心地好い気候で、その土地の料理も美味しいそうです。私の好物のトマトをふんだんに使っているとか。

(上の二つのl写真は「河口湖」、三番目は「プロヴァンスのトマト料理」、四番目は「富良野」です)

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これが海だ

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上海港から、「蘇州号」に乗船して、東シナ海に至り、まったく岸から離れ、海の真っ只中で、船のエンジン音だけしか聞こえなくなりました。四方の大海原を見渡した時に、感じたのは、『これが海だ!』でした。それまで岸が見える船にしか乗ったことがなかった私には、海の実際を知らされた時でした。カモメも飛ばなくなり、飛魚が船の進む方向に、まるで競争するかの様に、飛んでいる姿しか見えませんでした。

作詞が林柳波、作曲が井上武士の小学校唱歌の「うみ」です。

1 うみはひろいな 大きいな 
月がのぼるし 日がしずむ

2 うみは大なみ あおいなみ
ゆれてどこまで つづくやら

3 うみにおふねを うかばして
いってみたいな よそのくに

海の上の船で、丸2日の船旅は快適でした。五島列島が見えてきた時は、『1年振りに帰って来たんだ!』と思ったことでした。北九州の岸が見え、瀬戸内海をゆっくり走って、翌々朝に、大阪港に着岸したのです。もっと早く走れるのかも知れませんが、瀬戸内海の何処かで、しばらく停泊していたのかも知れません。寝ている間ですので分かりませんが。
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飛行機のない時代、門司や神戸の港から、大陸に向かって船で出掛けたのです。父も青年期に、そうして大陸に渡り、奉天で仕事をしていました。何度か、この船を利用して、上海と大阪を往復したのですが、最近は、飛行ばかりになってしまいました。一度、冬の嵐の時には、船が大揺れして、船員さんたちも船酔いしていた様でした。遣唐使船や遣隋使船は、木造の小型船でしたから、大変だったろうと想像したものです。

今日は、「海の日」だそうですね。3連休だとか。大陸にいて、その恩恵に預かったことがありませんが、退職して、こちらでお仕事の手伝いをしながら過ごす身には、「陸の日」の連続でしょうか。来月には、「山の日」もあるのですね。

(下は、黄浦江を進む「蘇州号」の船首と上海港の周辺の様子です)

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お見舞い

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この街に来まして、間もなくなく出会ったご家族があります。私たちの長男と同い年で、パンの製造販売と、パン製造の機器や材料などを扱う事業を営んでいる方です。学校を終えて、上海に出たのだそうです。そこで同郷の奥様と出会って結婚をされ、現在、二人のお子さんを育てておいでです。現在、お子さんたちは、東京においでで、下の小学生のお嬢様は、区立小学校に通っておられ、お母様が一緒に生活をされておいでです。

日本贔屓で、日本の製品と変わらないパンを作っておられ、新規に「どら焼き」を製造して、それを売り出した時には、製品を届けてくれました。美味しかったのです。以前、この会社で、「日本語読書会」も持っていたのです。また何時か再開したいと言っていますが。最近、この方のお母様が、重い病気に罹っておられて、木曜日に、彼の故郷に、所用でこちらに戻っておられた奥様、会社で働いていおられる方と、お見舞いに行って来たのです。

この国には、「省sheng」があり、「市(この市に含む幾つかの<市>があります)」、「县xian(日本で言う<県>です)」、「镇zhen(日本の<郡>でしょうか)」、「村cun」の行政区分があり、出掛けたのは、この街の末端の一つの「村」で、潮のにおいがする海浜の村でした。こう言った何十万という村で、この国が形作られているわけです。

今では、「巨峰」や、台湾から輸入してきた「火龍果huolongguo☞写真」を、この村で栽培していて、頂いて帰ってきました。土地に見合った作物が研究されていて、高級品は大都市に、二級品は省内の市場に、はね出し物は、家で食べたり、路上で売られたり、親族に送られたりされているのでしょう。亡くなられたお父様が作られたという、自分の故郷を、海からの大波から守る防波堤や、お父様のお墓まで案内してくれた、彼自慢の故郷でした。

ご両親は、お嬢様と二人の息子を育て上げ、ご主人と死別されたお母様は、お嬢さんの体の不自由な息子さんのお世話を、病気になるまでされてきていました。6年前に、そのお孫さんに、この街でお会いして、今は21歳になっておられ、施設で生活をされていました。その村に行く途中、家内が、「巻寿司」を作って、それを持参して、彼を訪ねました。彼は美味しそうに食べてくれたのです。PC操作ができるので、その道で仕事ができたら、自立できるのですが。口に加えた筆で目や文を書かれる星野富弘さんのお話などをしてみたいと思っています。

お母様の家では、妹さんたちが、夕食後の用意をしてくださっていて、ご馳走になってしまいました。若き友人から、病気になった母親を訪ねて欲しいと依頼されたのは、嬉しいことでした。一緒に時を過ごし、病気を克服できるように願い、良い交わりが与えられて、夜遅くなりましたが、この街のわが家に、無事に帰ることができました。好い一日でした。遠くに病人を見舞えるというのは、感謝なことです。

火と水を通って

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作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一の「おぼろ月夜」の「蛙の鳴く音(かわづのなくね)」のフレーズが、今晩、思い出されてなりません。

菜の花畑に 入り日薄れ
見渡す山の端 霞深し
春風そよ吹く 空を見れば
夕月かかりて におい淡し

里わの火影も 森の色も
田中の小道を たどる人も
蛙の鳴く音も 鐘の音も
さながら霞める 朧月夜

「雨後の筍」と言いますが、一昨日は、台風襲来で、雨が多く降ったせいでしょうか、「雨後の蛙の声」で、大賑わいの夜中です。オスのカエルが、メスを呼ぶのだそうですが、次の世代を残すために、そうします。下の子が生まれた頃に住んでいた家の南側が、大家さんの田んぼで、それはそれはカエルの大合唱でした。

今頃の事です、明け方近くに、『ドカン!』だか『ヴォカン!』だか、ガスが爆発する大音響がして飛び起こされたのです。我が家の玄関の扉が空いてしまい、ベランダの干した洗濯物と、飼っていた鳥籠の文鳥が焼け死に、南側の窓のガラスが割れて飛び散ったのです。幸いカーテンが、飛散を防いだ様です。15軒ほどの集合住宅の三階、我が家の真上の家で、ガス爆発が起こったのです。

それと分かった私は、跳び起きて、直ぐに三階に駆け上がって、通路にあった消化器で消化活動をし始めたのです。モクモクと新建材が出す煙が部屋を満たしていて、家に入ることができず、何もできずにいました。残念ながら、救出することができず、ご婦人と飼い犬が亡くなられたのです。

あんなに驚いたことはありませんでした。4番目の子が家内のお腹の中にいて、まだ小さな3人の子たちと一緒に住んでいた家でのことでした。家内は、明け方に、窓際に寝ていた子どもたちの布団を、なぜか、その日は、奥の方に引いていたのです。それで、飛び散ったガラスの破片で怪我をしないですんだのです。

間もなく、消防署と消防団が駆け付けて、消化活動が行われたのです。それが終わり、新聞記者の取材を受けた後、私は、頭に痛みを感じたので、その日の午前中に、近くの整形外科で診てもらったところ、頭部に30ものガラス片が刺さっていて、それを取り除いてもらったのです。傷みを感じなかったのです。

もう一つ驚いたのは、消防士が我が家を点検された折、『ガスが、ここにも降りていたのに、引火しなかったのはあり得ないことです!』と言っていたからです。また消防車の放水で、家具や布団や衣類などは全滅でした。多くの物を失ったのですが、命からがら、火と水を通って、一家5人と胎児が救われたのです。その後、上の兄の計らいで、必要なものを東京から、友人たちが運んでくれて、助けられたのも忘れられません。

蛙の鳴き声を聞いていて、ふと1980年の今頃の時期に起きた事故を、思い出してしまいました。私の家族は、奇跡的な助けを経験したのです。亡くなられた方が、娘たちを家に呼んでは、お菓子をもらったり、子どもなりに世間話をしていた様です。その子たちが、もう四十代、下の息子が三十代の後半で、元気で生きていますから感謝なことです。

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