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この街に来まして、間もなくなく出会ったご家族があります。私たちの長男と同い年で、パンの製造販売と、パン製造の機器や材料などを扱う事業を営んでいる方です。学校を終えて、上海に出たのだそうです。そこで同郷の奥様と出会って結婚をされ、現在、二人のお子さんを育てておいでです。現在、お子さんたちは、東京においでで、下の小学生のお嬢様は、区立小学校に通っておられ、お母様が一緒に生活をされておいでです。
日本贔屓で、日本の製品と変わらないパンを作っておられ、新規に「どら焼き」を製造して、それを売り出した時には、製品を届けてくれました。美味しかったのです。以前、この会社で、「日本語読書会」も持っていたのです。また何時か再開したいと言っていますが。最近、この方のお母様が、重い病気に罹っておられて、木曜日に、彼の故郷に、所用でこちらに戻っておられた奥様、会社で働いていおられる方と、お見舞いに行って来たのです。
この国には、「省sheng」があり、「市(この市に含む幾つかの<市>があります)」、「县xian(日本で言う<県>です)」、「镇zhen(日本の<郡>でしょうか)」、「村cun」の行政区分があり、出掛けたのは、この街の末端の一つの「村」で、潮のにおいがする海浜の村でした。こう言った何十万という村で、この国が形作られているわけです。
今では、「巨峰」や、台湾から輸入してきた「火龍果huolongguo☞写真」を、この村で栽培していて、頂いて帰ってきました。土地に見合った作物が研究されていて、高級品は大都市に、二級品は省内の市場に、はね出し物は、家で食べたり、路上で売られたり、親族に送られたりされているのでしょう。亡くなられたお父様が作られたという、自分の故郷を、海からの大波から守る防波堤や、お父様のお墓まで案内してくれた、彼自慢の故郷でした。
ご両親は、お嬢様と二人の息子を育て上げ、ご主人と死別されたお母様は、お嬢さんの体の不自由な息子さんのお世話を、病気になるまでされてきていました。6年前に、そのお孫さんに、この街でお会いして、今は21歳になっておられ、施設で生活をされていました。その村に行く途中、家内が、「巻寿司」を作って、それを持参して、彼を訪ねました。彼は美味しそうに食べてくれたのです。PC操作ができるので、その道で仕事ができたら、自立できるのですが。口に加えた筆で目や文を書かれる星野富弘さんのお話などをしてみたいと思っています。
お母様の家では、妹さんたちが、夕食後の用意をしてくださっていて、ご馳走になってしまいました。若き友人から、病気になった母親を訪ねて欲しいと依頼されたのは、嬉しいことでした。一緒に時を過ごし、病気を克服できるように願い、良い交わりが与えられて、夜遅くなりましたが、この街のわが家に、無事に帰ることができました。好い一日でした。遠くに病人を見舞えるというのは、感謝なことです。