雨のち晴れ

北原白秋は、福岡県柳川市(山門郡沖端村)の生まれでした。子どもの頃を思い出して作詞したのでしょうか。この『あめふり』は、1925年(大正14年)に、中山晋平の作曲で、雑誌『コドモノクニ』で発表されています。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかえ うれしいな
ピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

このところの春雨で、雨の中を歩くのは、ちょっと気が滅入るのですが、この  ♭ランランラン♯ との歌詞を思い出して、この雨が地を潤し、春を呼んでいるんだと思ってみますと、軽快さに思いを変えられ、嫌な思いを追い出せるのです。

「蛇の目傘」は、子どもの頃にさしていました。ゴム長靴などなかったし、下駄を突っかけて、水たまりもなんのそので外歩きをしていました。今、滞在している家の洗濯場に、この蛇目があるのです。ちょっと懐かしさに誘われて、開いてみました。そうとう古いもので、破れて開ききりませんでした。

竹と紙、その紙に油を塗って、雨を弾く様に細工した〈優れ物〉です。そのほかに、障子と襖(ふすま)、畳、板の間、和紙の明かりとり、二層式の洗濯機、娘が買ってきた杉細工の蒸かし、街中で自分で買った竹製の孫の手、壁には1986年の暦(30年以上前のものです)、昭和の香りが満ちている家で、六十日近く生活をさせて頂いています。

街を歩きますと、江戸や明治を感じさせてくれる蔵や年季の入った土壁と木造の商家があり、和菓子店が散在し、江戸の木場を結んだ舟が行き来した巴波川(うずまがわ)が流れ、そこに鴨や白鷺や鯉が見られるのです。目を逸らさなければ、ここは江戸時代そのものです。でも現実は、けっこうきわどい運転のおばさまたちの繰る軽自動車に、煽(あお)られています。

それでも、“coffee”と書かれた看板の〈喫茶店〉が多いのも特徴でしょうか。アメリカ発祥の “starbucks“ が、蔵造り風で、本通り脇にあるのです。若者人気で賑わっているのが、通りから眺められます。アメリカ文化や雰囲気を感じさせる空間だから、若者を惹きつけているのでしょう。

それにしても、「柳のねもとで泣いている」少年(少女?)が気になって仕方がないのです。ずぶ濡れの中を歩いて帰って来た私には、泣いている気持ちが分かって上げられませんでした。でも家内が病んで、ちっと弱さを感じる様になって、この子が泣かなければならない理由を、考えられる様にされているのです。雨のち晴れの朝です。

強弱多少


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ここ栃木では、このところ雨の日が続いています。この「春に降る雨」を、「春雨」と日本人は呼んで、この地で生活し続けてきているのです。また「春時雨」とか、「小糠雨(こぬかあめ)」とか「春霖(しゅんりん)」とか、そう言った別名もあります。

叩きつけるように強くはなく、〈しとしと〉と降る風情が、日本人の心に合っているのでしょうか。まるで〈小糠〉のように降るからです。中国の華南の街では、もう今頃は、雷の季節になっているかも知れません。この西から東に、北から南に、自在に走る稲光と、轟き渡るような雷鳴とを、しばらく聞いていないのに気付いたのです。

この時季、父や母から、一雨一雨暖かくなると聞いてきましたので、そんな期待感が湧き上がってきます。昨日も春雨、小糠雨にズボンの裾を濡らしながら、駅まで歩いて、東武宇都宮線の電車に乗り、家内の入院先の病院に行って帰りました。

日本人の感性と「雨」とは深いつながりがあるに違いありません。何時でしたか、雨の呼び名を調べたことがありました。驚くほどの表現があって、この雨が日本人の心を形作ってきているのが分かったのです。

春雨や   添水みにゆく  傘二つ

日野草城(ひの そうじょう)の作です。「添水(そうず)」と言うのは、「懸け樋(かけひ)」などで水を引いて、竹筒に注ぎ入れ、一杯になると、その重みで反転し水を吐き、軽くなって元に戻るときに、石などを打って音を発するようにした仕掛け。もと農家で猪(いのしし)や鹿を脅すのに用いられた。〈ししおどし〉(大辞林)」です。

忙(せわ)しなさを覚える時、雨は人の心を落ち着かせてくれます。「雷」と「小糠雨」の《強弱》、私たちの一生にも、そう言った違いや変化があるのに気付かされます。

春雨の 中を流るゝ 大河かな

与謝蕪村の作です。しとしとと降る春雨と、大きな流れの川との《多少》を対比して詠まれているのですが、人の一生も、わずかなことの積み重ねによって、けっこう大きかったり多かったりになるようです。私たちの長く住んできた街に、旧市街と新市街の間に、大河が流れ、大きな中洲の中に、私たちに住んできた家があります。

昨日の三月三日は、古来私たちに国で、女の子の成長を願って祝ってきた日でした。病まないで、怪我をしないで成長して欲しいとの親の思いが受け継がれてきているのです。この雨がやんだら、暖かくなるのでしょう!

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縮める

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学校行事の中で、どなたも懐かしく思い出すのは、「遠足」、「林間学校」、「臨海学校」、「修学旅行」でしょうか。その中でも圧巻は「修学旅行」です。東京で小中高と学んだ私は、小学校は「日光」、中学は「京都・奈良」、高校は「北海道」に出掛けました。

教室を出て、外に出掛けるという、日常性から離れられたことが、よかったに違いないのです。小学校での日光行きは、今でしたら観光バスで行くのでしょうか、私達の時代は、「列車」に乗って出掛けたのです。日光駅からバスで通った「いろは坂」の曲がり角の印象は、強烈でした。

巡った「東照宮」、「中禅寺湖」などが、今でも思い出されるのです。一番驚かされたのは「華厳の滝」でした。その97mもの高さに、11歳の私は圧倒されてしまったのです。狭い日本に、こんな〈落差〉のある滝があるというのも、不思議なものです。

実は、私は、アルゼンチン、ブラジル、パラグアイの3国の国境にある「イグアスの滝」も、アメリカとカナダの国境にある「ナイアガラの滝」も、行って見たことがあります。その規模からするなら「華厳の滝」は、この両者にかないませんが、「落差」はこれらに優っているのです。

今週の日曜日に、私が滞在している家に、17人の家族や友人たちが集まって、集いを持ち、《タコライス》と呼んで、わが家で、ちょっと特別な時に食べてきた食事を、子どもたちのリクエストで共に調理しました。「和気藹々」、《ワキワイワイ》な感じがして、実に賑やかな時でした。

ところが昨晩は、家内は入院先の病院、昼前に娘たち家族が帰って行ってしまい、一人というより、「独り」になってしまったのです。その〈落差〉は、この街の北にある「華厳の滝」に比べられないほど、大きい、いえ、「深い」のを感じたのです。

『ジイジ、コーヒー飲む?』と毎朝聞いてくれて、淹れてくれた孫たちが、もういないのです。そうしましたら、友人が、『夕食を一緒にしませんか!』と、電話で誘ってくださったのです。もう二つ返事で、『はーい!』と言ってしまいました。腕を怪我しているのに、次女が使わせていただいた車を、雨の中を取りに来られて、お宅までお連れくださったのです。

実に美味しい、奥様お手製の「オムレツ」をご馳走になりました。次兄が差し入れしてくれて、お裾分けした「沢庵とラッキョ」が、テーブルに載っていました。味も語らいも、その〈落差〉を縮めてくださったのです。アイスクリームもいただきました。その配慮が、憎いほど嬉しい夕べでした。隣街にいる家内の感じている〈落差〉を縮めるため、会えても会えなくても、面会に励むことにします。

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広島県呉市中央1丁目付近に咲く、「イヌノフグリ」です。今では絶滅危惧種なのだそうですが、市街地に咲いていると、[HP/里山を歩こう]が知らせてくれました。

十代の母をときめかせた、凛々しい青年が、この呉(くれ)の隣にあった江田島海軍兵学校にいたのです。私が青年期を過ごしていた時に、少女の頃を思い出したのでしょうか、眩しそうに母が話してくれました。

母親は「母親」なのに、自分の母が「女」なのだと気付いた一瞬でした。憧れたり、慕わしく思ったり、そばに居たいと言った衝動を覚える思春期、青年期を過ごしていたわけです。

息子たち、娘たちが、自分の母親が、「女」なのだと言うことを、何時、何処で、どんなきっかけで知ったんだろうかと、思ったりしている朝です。

今日の栃木は快晴です。現実は、ごみ出しの日、朝一番で、集積場に出して、ソファーに座って、愛読書を開き、人を思いながら、そんな思いにふけっております。

北関東の山を遠くに眺める、この地は、朝焼けと夕焼けが、やけに綺麗です。家内も私も子どもたちも魅了させられているのです。面会できてもできなくとも、次女の運転の帰途につく車から眺められる夕焼けは感動ものです。

長女と次女家族がやって来て、40日になります(長女は一旦仕事で任地に戻り、主人を連れて再来しました)。毎日、入院中の母でありバアバであり妻を見舞いに通った道は、近道も見つけたり、渋滞を避けたりした日々でした。

明日、それぞれの街に帰って行きます。オセンチにならないようにしよう、そう決心している朝です。そう言えばレンゲが、昨日の帰り道、道路脇の畑で咲いているのを見つけました。

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一羽のすずめ


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今週、私たちに、滞在先の友人の奥様が、ピアノ演奏をしてくださって、その音色と歌唱に驚かされてしまいました。先週はハープの演奏と歌唱をしてくださったのです。音楽学校で、中学から大学まで学ばれた方ですから、音も声も素晴らしいのです。5メートルほどの距離の席で、お聴きましたので、その迫力は感動的でした。

歳を取ってからですが、音楽とか花とか絵に目が開かれてきた私は、『どうして若い頃に関心を向けなかったのだろう?』と、仕方のない悔いをしているのです。そんな私が、体調が優れなかったり、心が重かったりすると、決まって家内に教えてもらい、『歌って!』とお願いして、歌ってもらった歌があるのです。

「一羽のすずめに」と言う歌です。時々、キーボードを弾きながら歌ってくれることもあるのです。『うまくないの!』と言いながら、何時も弾いたり、歌ってくれるのです。ピアノを正規にを学んだことがない家内ですが、私は、穏やかに叩くピアノやキーボードの鍵盤の音と声が好きなのです。

その曲、“”Why Should I Feel Discouraged,Lyrics Mrs.C.D.MartinMusic Charles H.Gabriel”を、この日曜日に、友人の奥様が歌ってくださって、聴くことができたのです。念のため、お願いをしたのではありません。

入院中、まるで「一羽のすずめ」のようにして、一人で病室で闘病している家内、その家内のこと、今後のことを考えていることが多い、これまた「一羽のスズメ」のような私に、『背を伸ばして、元気を出して!』とでも言うように、強弱高低をはっきりした声とピアノを聴かせてくださったのです。

ほんとうに背筋が伸びたようでした。頭をもたげ、将来にに望みをつなぎ、永遠を思うことができたのです。人とは何者でしょうか。気高く、高貴なものとして、地に足を据えて生きているのです。「永遠の御手」に支えられているのですから。

(「徒然庵の俳句日記」から雀です)

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ときめき

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大分県に、「日田(ひた)」と呼ばれる街があります。江戸幕府の直轄領で、明治の初期には、皇室に属する「天領」でした。そこは盆地で、巡りが山で、長く盆地で生活した私には、少し地形的な想像がつきます。と言うのは、街の情報を聞いただけで、一度も訪ねたことがないのです。久留米と大分を結ぶ、〈JR久大線〉の沿線にある街です。

14年ほど前に、熊本で会議があって、出かけた帰りに、この久大線に乗って、由布院温泉に行ったことがありました。実は、その年の春に右腕の腱板断裂の縫合手術をして、リハビリが必要だったからです。それで、その湯布院に、久留米在住の友人のお父様の別荘があって、使わせてくださるとのことで、鞄を家内に持ってもらって、1週間、湯治をしながら過ごしたのです。

Vその別荘は、温泉が引かれていて、温泉三昧の時でした。その時に通過したのが、「日田」でした。美しい街だったのです。そこは、私には思い入れのある街だったのです。当時、母校の恩師の推薦で、ある研究所に勤めていました。柳川の高校で研修会があって、それに出席したのです。その時、私をときめかせた女性が、そこにいました。

念のため、家内と出会う前の話です。背がすらりとして、いわゆる「日田美人」でした。東京弁の旅の人に、この女性が恋をしたのです。いえ御免なさい、こちらがでした。ある時、休暇をとって、東京に出て来てくれたのですが、女性の気持ちを分からない自分は、結婚を迫られそうで、それ以上の付き合いを避けたのです。

『ずるい、卑怯者!』と女性に言われてしまうのを覚悟で書いています。でも、その頃、まだ24歳でした。70パーセントはまだ〈子ども〉で、30パーセントは〈ませた青二才〉でした。そんなこんなで、今、二度目にときめいて、48年も結婚生活を共にして来た家内、《糟糠之妻》がいるのです。苦労をさせ続けた彼女の前では、頭の上がらない男です。

今日も病院に、入院中の家内の着替えを持って、一人で出かけて来ました。何度も、何日も怪我で入院した私に、着替えを運んでくれた家内へのお返しの日々なのです。20℃もある日の午後でした。昨日は、大人数で、入院先に出かけた私たちを、満面の笑みを浮かべて迎えてくれました。帰りしな孫たちとは握手とハグをしたりしていました。ところが今日の午後は、気分が優れず、会うことが叶いませんでした。ただ快復を願う、春を感じさせた日の夕べです。

(日田名物の「日田羊羹」です)

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もう一つの出会い

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今、私たちを受け入れ、まるで兄弟のような愛をお示しくださるのは、過去を遡ってみますと、共通の知人の《親交のネット》につながる方なのです。3年前の帰国時に、滞在場所を探していた時に、この方が快諾くださって、その帰国時に、以前奥様のご両親がお住まいだった家で、過ごさせていただいたのです。

昨秋、帰国時の住まいを探していて、北関東のかつての県都・栃木市に滞在する許可を、再びいただいたのです。東武鉄道やJRの鉄道網を使って、東京や新宿や浅草、町田までつながる便利さと、空気と水の美味しさ、朝焼けと夕焼けの美しさ、何よりも《人の優しさ》を楽しもうとしていました。

そして、これまで数年に亘って、次男の推薦で、日赤広尾病院で、家内が診察をしてもらって来た、その代わりに、獨協医科医学病院(栃木県壬生町)が、先端医療と地域をカバーする医療をしていることを知って、ここで継続診察や治療をしようと決めたのです。

ところが十二月に入って、降誕節の後に、体調を崩して、元旦に、膵炎のCT検査をして、そのまま入院してしまったのです。その治療を終える頃、肺に影があると言われ、省立医院の主治医に、日本での治療を勧められました。

その医院を退院した足で、飛行機の搭乗手続きをしていたら、空港の医師から、搭乗不可を申し渡され、やむなく家に帰ることになったのです。その帰宅は、家内にとっては、一息つける時で、かえってよかったのです。翌朝、搭乗許可を得て、成田空港に向かい、出迎えてくれた長男の車で、栃木にまいりました。

その日から今日まで、六週の間、様々な助けを、ご夫妻でして下さって、家内は入院生活を続けることができています。私の愛読書に、「友はどんな時にも愛するもの。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」とあります。私と家内を、友のように、兄弟姉妹のようにしてさせてくださっています。

その彼が、今週、交通事故で救急搬送され、幸い打撲で家に帰ることができ、この週末の土曜日に、CT検査を控えています。ちょっと、私たちに気を使ってお疲れになって、怪我に遭ったのではないかと、ちょっと自分を責めてみたりしてしまいました。でも無事に回復するのを願っています。

互いに若い日に出会って、私を指導してくれた恩師の、その恩師の義弟に当たる方を、この友は自分の師と仰いだのです。《同根同種》と言ったらよいのでしょうか。春のような陽気の先週、自転車に跨って、彼の好物の「揚げ餅」と「いちご大福」と「どら焼き」をもって、お見舞いに行って来ました。痛みがあるようですが、回復を願って、彼の家を辞しました。

主(ぬし)を待つ

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こちらに来ましてから、専用のコーヒーカップを、新たに買いました。家内用には小型の花柄、自分用には無地のマグカップです。箸は、中国の家で使っていた物を、入院用に、また退院してから使おうと、持って来たのです。

ところが、入院中の食事は、箸付きで不要とのことで、滞在先の家に、主の帰りを待ちながら置いてあります。マグカップは、落としても割れてもよいように、プラスチック製の物を使っていて、家に残してあります。

この家には、高価な茶碗やお皿やコーヒーカップや湯呑みが、壁一面の茶箪笥に、飾るようにして置かれてるのです。きっとご両親が、趣味で蒐集された物なのかも知れません。

さて、主のいない間、マグカップは次女の婿殿が、箸は孫娘が使っています。孫たちが喜んでいることがあります。好物の納豆を毎食、ワンパック全部、自分で食べられるからです。その納豆を、その箸で上手に、辛子と出汁を加えてかき混ぜて、炊きたてのご飯にのせて、またかき回して、箸で美味しそうに食べるのです。やはり爺の血なのでしょうか。

婿殿たちは、妻が日本人なので、二本の小枝のような箸を使って、食事をしていて、二人とも上手に、何でもつかむことができます。手の指を開いた形のフォーク、指を閉じた形のスプーンで育ったのに、けっこう技術を要する箸を使えるというのを楽しんでいるのです。

桜の咲く頃までに、家内は、病を克服して退院してくるのを、心から願っています。そして、多くの友人たちが待つ、中国の華南の街に、帰れると願っております。

出会い

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若い頃からの知り合いで、私を啓発してくれた友がいます。彼の読書量、蔵書量は、学術研究者や文学者の様で、先般の熊本大分地震の折には、その蔵書が、書斎や廊下、家中に散乱してしまったのだそうです。その整理に多くの時間を要したと言っていました。

彼は、ほぼ同世代で、共通の器から、生き方や考え方を学んだ時代がありました。ところが、読書量は比べることができません。英語も堪能ですから、洋書を読まれるのです。私など太刀打ちすることができません。だからと言って彼は、〈頭デッカチ〉ではなく、このたびの家内の闘病には、遠くから支え続けてくれています。

この友人は、一年一年、毎週書き残したものを製本されるほど、自分の思想の遍歴を残しておいでなのです。その書物が読みたくて、今、入院し闘病中の家内のそばにいるために、もう一人の友人の家の滞在先から、『読みたいのですが!』とお願いしましたら、数年分を、先週送ってくれたのです。

彼ほどの〈本の虫〉ではない私も、時々、人の思想に触れたくなるときがあります。その送っていただいた論集の中に、イギリスの詩人のテニソンの詩の一節を、彼が引用していました。

私は過去に出会ったすべての人の一部分である

 I am part of all that I have met. 

「私」が形造られるために、多くの人と「出会い」があり、その感化を受けて、今の自分があるのだと言うのです。父母兄弟と先生たちと友、様々な人との出会いを経て、〈一人の人〉になれるのだと言うのです。人の書き残した書物や新聞や手紙も、それに含まれるでしょうか。

良い人とも、そうでない人とも出会ってきたので、その多くの出会いが、心の中の《記憶庫》から思い出されるのです。父や兄たちの全てを真似し、友人や先輩の喋り方を真似をし、憧れの映画スターの仕草や服装を真似をした日を思い出します。唐詩や宋詩、古今東西の金言や格言などを覚えました。でも「人」との面と面と向き合った出会いから、人格的、精神的な多くの影響をいただいたのです。確かに、その人たちなしには、今の自分がないことが分かります。

そんな出会いや交流した日々を、今静かに思い返しています。まだ独身の頃に読んだ本の中だったと思うのですが、『男児《妻(さい)》を得て始めて人となれり。』とありました(うる覚えですが)。今春四月で、結婚生活が、満48年を迎えるのです。まさに《糟糠之妻》との「出会い」こそ、最高のそれであります。

その年月の様々を思い返して、感謝のあふれる夕べであります。

(鳥取県日野町が撮影した「鴛鴦(おしどり)」です)

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スカーフ

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今まで、人から聞いたことばの中に、一番多かったのは、〈頑張れ〉だったでしょうか。中学校に入った時に、担任に呼ばれて、『東大目指して一生懸命学びなさい!』と言われました。またバスケットボール部に入って、上級生や先輩たちから、『母校の名誉のために勝て!』と言われたのです。

同じ学校の高等部に進んだ時、先輩から受け継いだ渾名の〈オジイ〉と呼んだ、私のクラスの担任は、もう諦めたのでしょうか、檄(げき)を飛ばすことはありませんでした。それで、ハンドボール部に入って、ボール投げに興じたのです。

インターハイや国体で、何度も優勝してきている伝統ある名門でした。練習が厳しくて、部員が少なく、当時11人制の定員ギリギリでした。それでも東京都では準優勝し、インターハイも国体も、私たちの時代には行けませんでした。〈頑張らざるを得ない〉時でした。

父が、『金は残さないが教育だけは受けさせてやる!』と言って、大学に行かせてくれました。アルバイトに集中で、あまり一生懸命に学業に励みませんでしたが、社会経験は、一応積んだのです。人生の先輩たちから、良いこと、もちろん悪いことも学ばされ、取捨選択能力も培ったのです。

結婚して、家内と4人の子を、養い育てるために、懸命でした。食料は運んだのですが、実質的な子育ては母親である家内がしてくれました。私は、一生懸命に副業を持ちながら、仕事に励んだのです。風邪など引いたりする暇はありませんでした。息抜きは、山の温泉や都会の入浴施設に行くことだっただしょうか。

退職で、長年して来た仕事に一区切りつけて、若い日から、『僕も行くから君も行け 狭い日本にゃ住み飽いた 海の彼方にゃ支那があり・・・』と歌わされたのですが、〈馬賊〉になるためではなく、『来て下さい!』、『行って下さい!』、静かな細い声で、『一つの街に、あなたを引いて行くから!』と聞いて、その声に応答するために、中国大陸に渡りました。

人生経験の長い年配者がいることを喜んでくださる中国のみなさんと、《若き友情》を育み、国や民族や歴史の経緯(いきさつ)を超えて、ここまで13年を、その一つの街で過ごしてきたのです。もう全く、〈頑張る〉ことはありませんでした。開くドアー、流れる水、動く車に身を任せての生活でした。

昨日、家内の助けをしてくださっているご婦人が、『夢を見ました!』と言ってこられました。『実は昨日、お昼頃、飛行機の中で、ご夫婦が私の街に帰ってきた夢を見ました。私は会いに飛んで行きました。師母がマフラーをかけて身軽に踊っているのをはっきり見ました。美しい姿、また嬉しそうな顔‥‥‥』とです。

私の願いは、家内と二人で、また華南の街で、愛する若いみなさんと一緒に交わり、生活することなのです。

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