エアコン

 

 

山梨と長野の県境に位置する「八ヶ岳」を思い出しています。ここから吹き降りる風が、冬場は凍てつくほどに冷たいのです。ここから幾つか東に寄った沢の山村で生まれた私は、冬場の厳しい寒さに免疫ができているのでしょうか。また、盆地で、長く仕事をした私は、窯の中の様な暑さにも、耐えられ、寒暖の差の大きさの中で、生きる術(すべ)を身につけたのです。

私たちが12年過ごした華南の街も、夏場は、「窯(かま)」の中にいる様な暑い街でした。道端の水溜りに、寝そべって体を冷やしている犬を見たのは、驚きでした。あの水だって、けっこう水温が高かったのに、それでも体を冷やす必要を感じていたのでしょう。

今日の栃木は、32℃です。一昨日、壊れて長く使っていなかったエアコンを取り外して、新規に購入し、設置したばかりでした。〈滑り込みセーフ〉で、暑さ対策が完備しました。退職したお父様が、独立して電気工事店を開業されたご子息を助けて、実に息のあった工事を、しかも廉価で、丁寧にしてくださったのです。

工事現場でよく聞かされる、荒い言葉や叱りつける様な事がなく、淡々と、確実に仕事をされていました。私は、2時間ほどの工事の間、その仕事ぶりを見させて頂いたのです。念のため、監視していたのではありません。畑違いの現場を、ご子息の助手をされているお父様が、『偉かったなあ!』、と思った次第です。

 

 

後片付けを丁寧にされ、残したゴミはただの一片だけでした。それで、満足の行く仕事ができるのだと思わされました。お仕事の後、お茶を飲みながら談笑しました。以前、要請があって、中国の天津や貴州に、電気工事で出張されたことがあったそうで、日本の技術水準の高さや確かさを証しされたのでしょう。『近所の方が、水餃子を大量に作って、差し入れしてくれたほど好意的でした!』と中国のみなさんへの好印象を話されていました。これって民間外交ですね。

これで、梅雨と盛夏の日本の暑さの対策が整い、家内の自宅療養も万全です。長く働いた中部山岳の街の事務所の方たちが、家内へのお見舞いをくださいました。それを、エアコン購入と工事の費用に当てさせてもらったのです。感謝でいっぱいです。

.

小江戸

 

 

江戸や明治の風情を今に伝える、栃木は、「蔵の街」と呼ばれ、落ち着いた街で、一昨年の初訪問の折に、家内も私もいっぺんに気に入ってしまいました。埼玉県の川越にも行ったことがありますが、少々観光地化が強くて、気忙しく感じたのですが、ほどほどの環境客の訪問で、ゆったりとした感じがいたします。時々欧米人の来訪も見受けられます。

日本には、「小京都」とか「小江戸(こえど)」と呼ばれる街が多く残されているのは、それぞれの街の努力と、戦災に遇わなかったため、焼失を免れたからでもあります。市民になった今は、ことさらに住みやすいのです。今日も、家内と一緒に、巴波川を渡って、旧市街の住宅街を歩いたのですが、つつましやかに住む人たちの姿を垣間見ることができました。

「倭町」、「城内町」、「惣社町」、「嘉右衛門町(かえもんちょう )」という町名も残っています。街中には、京の朝廷から遣わされた、東照宮参詣の使いが通った「例幣使街道(れいへいしかいどう)」が残されてあり、人や荷車が往来したのでしょうか、車社会以前の佇まいが残されていて、道沿いには、「銭湯」もあります。

旅人が休んだ茶店などもあったのでしょうか、そこで出された団子を思い出させるかの様に、和菓子屋さんが、何軒も残されていて、「嘉永」に創業したと看板が下げられた店も見受けられます。

昨日は、「草餅(よもぎの葉を練りこんだもの)」を、『お母さんの体に好いから!』と言っては、わざわざ新宿で買ってきてくれる下の息子に倣って、買ってみました。甘過ぎずに美味しかったのです。

まだ訪ねたことがないのですが、「佐原(千葉県香取市)」も、「小江戸」と呼ばれて、この佐原、川越、栃木の街では、〈小江戸サミット〉が行われているそうです。「江戸」の文化や趣味や遊びや粋(いき)なども、舟運でつないだ物や人の行き来で流入していたのでしょうか。〈小江戸・栃木〉には、喜多川歌麿の記念館があり、江戸に行っては、贅を尽くした船主や蔵主が、江戸で遊んだ名残なのでしょうか。

規模こそ違え、江戸の町並みを彷彿とさせた、川越や佐原や、ここ栃木は、かつては栄えた街だったのでしょう。文化の交流があったのに、〈江戸弁(言葉)〉の影響が少なく、江戸や東京に近かった割りに、福島弁に似た語尾が聞こえてきて、微笑ましいのです。

(友人が撮影して観る様にしてくださった写真です)

.

旅人

 

 

今、寝心地の良いベッドを使っています。新品同様のものを、友人の息子さんが、用意してくれたのです。この方は、おばあさまのされていた事業を引き継がれて、堅牢な家具販売を、我が家の隣でされておいでなのです。大手の全国チェーン店や外国企業と伍して、励んでおられるのです。

先日、新規に注文が取れて、ベッドの配達に行かれ、引き上げて来たベッドが、まだ十二分に使えるとのことで、『いかがですか?』とのことで、頂戴したのです。これまで所帯をもった当初は、ソファー兼ベッドを使っていたのですが、その後は、畳の上に布団を敷き、畳むという生活パターンでした。

中国に参りましてからは、どこに住んでもベッドを使って来ました。『日本に帰ったら、また畳の上で!』と思っていた矢先のギフトだったのです。子どもの頃に、父は、4人の子の内、私にだけ「寝台」を用意してくれ、東京に越して来て、家の間取りが狭くなるまで、使っていたのです。それは大工さんに注文して作った特注品だったのです。

普通、長男か末っ子が父親の寵愛を受けるのに、三男の私が、その栄誉に浴したわけで、兄や弟には申し訳なかったかなと、今更に思うのです。甘やかされなかった兄たちや弟の方が、強めに育って、人生のバネも強固の様です。

先週も、キャスター付きの椅子を四脚頂いて、応接室に置くことができました。これで友人や兄や弟が座ることができそうです。スーツケース2個で帰国したのに、生活するための必要品が、与えられてほとんど不自由なしでいます。結局、人は〈寄留者〉で、〈旅人〉なのでしょう。

私たちの住む家は、友人の奥様のお母様が、ご主人を天に送ってから、お一人で生活されていた家ですから、その当時の手紙が、レターケースごと残っていたり、引き出しに裁縫道具などがあったりなのです。全てを残して、お母様も天に帰られたのです。

生きて行く上で必要な物って、結構わずかで好いのでしょう。およそ人は、余分な物を、持ち過ぎているに違いありません。ある方が、『貧乏な人ほど、多くの物を持つ!』と言っていました。合理主義の生き方は、わずかな物で生きることなのでしょう。所詮、持っていけない物ばかりなのですから。

(男体山です)

.

いけない

 

 

男が生きて行く上で、〈明治男〉の父が、私たち4人の息子に願ったのは、《男であること》でした。それで、《男らしさ》を、自分で培おうとしたのです。自分の子がメソメソすることを、父は強く嫌ったのです。男は闘いながら男になっていくので、〈腕っ節〉が強くなくてはなりませんでした。よく言っていたのが、『泣いて帰ってくるような奴は家に入れない!』でしたから、どうしても喧嘩が強くなくてはなりませんでした。

身体が大きな相手でもひるまないで、果敢に攻めなくてはいけません。痛くっても泣いたりできません。歯を喰いしばって、反撃するのです。ある時、一級上のマコトに、組み伏せられたことがありました。病欠児で小さい身体の私の上に、両手をつかんで跨っていたのです。手を振りほどいた私は、右手で土を握り、目潰ししたのです。ひるんだ彼は泣いて家に帰って行きました。

その後、二度と私を、彼が組み伏すことはありませんでした。拳で仕返しができなかったので、やむなくそうしたのですが、本当は拳で殴り倒したかったのです。それ以来喧嘩をしても負けることはなくなりました。中学の同級生に、後にN大の応援団の幹部になる、大男のYがいました。何かのきっかけで殴り合いをしたのですが、一発で殴り飛ばしました。

進学して、同級生が、『廣田、お前喧嘩が強いんだってな!俺の同級生がN大の応援団員に聞いたそうだ!』、負けたYが、そう漏らしたんです。それで、変に有名になってしまったわけです。でも、ある一件から、暴力は私はやめたのです。生乳工場でバイトをしていた時のことです。配送の運転助手が、言いがかりをつけてきたのです。保冷庫の中にいた私に、『出て来い!』と言うので出たら、『ついて来い!』と言って林について行くと、上半身裸になって、刺青を見せたのです。

見慣れていた私は、そんなことでひるまなかったのです。隠した丸太を取って殴りかかってきました。それをもぎ取って、ノックダウンしました。それ以来、その相手は、私の目の前から消えてしまい見なくなりました。19の時でした。いかなる理由があっても、《暴力はいけない》と、その時、分かったのです。

でも今は、拳ではない、言葉や記事による〈暴力〉が罷り通る世の中ではないでしょうか。よその国では銃殺されたり、仕事を失い、獄屋に送られたりするのに、私たちの国では、「言論の自由」、「表現の自由」をいいことに、誹謗や中傷や虚偽で、人を槍玉に上げ、揶揄する言論が、表現の自由を逆手にとって許されているのです。

有る事無い事、勝手に憶測で物言う輩がいます。あれって、〈暴力〉なのです。言い返せない相手に、勝手なことを言っているのです。どれほど傷ついているか、想像に絶します。どうしても《暴力反対》な、2019年、令和元年の初夏であります。

.

カラス

 

早朝は、小鳥のさえずりが聞こえて、『あっ、朝だ!』と思わされるのですが、8時過ぎると、今度は〈からす〉が、しわがれた大きな鳴き声を発して、ちょっと騒音な感じがするのです。

『東京で住み難くなったカラスが、疎開して来ているに違いない!』と思ったりしてますが、隣の群馬県の赤城山で、『カア!』と鳴いてていたと、国定忠治が言ったとか言わなかったとか、そんなことを聞いていますので、長く住み着いた群れが、ここにもいるのかも知れません。東京弁の鳴き声か、ちょっと栃木訛りの鳴き声かは、私には判別できません。

『カラスの鳴き声は、餌の有る無し、所在、良悪などを知らせている!』と聞いたことがありますが、然もありなんで、仲間との情報交換をしているのでしょうか。ともかく、このカラスが賢いのは有名です。

〈胡桃〉を路上において、通る車に引いてもらうのは聞いたことがあるのですが、交通量の大き道路上ではなく、たまにしか通らない、「自動車教習所」のコースで、それをするカラスもいると言われています。車に引かれないで住む算段ができるのですから、安全のための交通指導員になってもらいたいほどです。

〈針金製ハンガー〉を使って、深い入れ物の底にある食べ物を、餌にすることもできるのだそうです。鷲と同じ様に、眼力があって、高い所から生ゴミ袋の中にある、餌になりそうな食べ残しを見つけることもできる様です。きっと人類が滅びた後、次の地上の主役はカラスのなるのでしょうか。

(「イラスト素材パラダイス」より)

.

群れ

 

 

この写真は、2、3日前の朝日新聞に掲載されていたものです。『日本海の孤島「竹島」で戦前に盛んだったアシカ猟の様子をとらえた写真が、朝日新聞大阪本社に保存されていた。1934年6月、島根県・隠岐の島の漁師らに同行ルポした際に撮影された計13枚。研究者は当時の生業を伝える貴重な記録と評価している。』とありました。

このアザラシを、アメリカのノースウエストコーストの海岸線を案内してもらっていた時に、娘婿が連れて行ってくれて、身近で初めて見たことがありました。大きな岩場の洞窟に、おびただしい数のアザラシがいて、ひときわ高い岩の上に、一頭のボスが、王の様に君臨し、家来でしょうか、妻たちでしょうか、取り巻きが囲んでいました。

大きな鳴き声が洞窟に響き渡り、悪臭が立ち込めてていて、長く止まることができないほどでした。群れをなす動物たちには、群れを守る頭が必要なのでしょうか。猿山も、アザラシ洞窟も、子孫が生き残るためには、群れの争いを治め、仲間を餌場に導く指導者が必要なのでしょう。

人間も群れをなして生きてきたのでしょう。でも、群れを嫌う孤高の人もいて、群れを離れる自由が、人は選び取ることもあります。群れるのが好きではなかった私ですが、今は、《小さな群れ》に加わって、落ち着いていられるのです。とても落ち着いていられるが感謝です。

.

マーガレット

 

 

駅から我が家までの道端に咲く花を、先週末のやって来た次男が撮った写真です。この花の名前の“Marguerite”は、次女の娘婿の父方のおばあちゃんと同じ名前です。私の母と同じで、4人の男の子のお母さんで、女手一つで育て上げたのだと聞きました。

《女は弱し母は強し》、いずれの国のお母さんも、同じで、その手で作ってくれた食べ物を食べて、洗ってくれた着物を着て、掃除をしてくれた部屋で休み、その笑顔とことばに送り出されて、子は成長するのです。

このマーガレットの原産国は、アフリカ大陸の西岸にあるカナリヤ諸島だそうで、明治の末期に、わが国に伝わっています。そうしますと、この道端の花は、長い旅をしてやって来て、そこで花開かせて、行く人を楽しませてくれていることになります。

そういえば、マーガレットを訪ねた時に、美味しいお茶をご馳走になったことがありました。

.

出自

 

 

この絵は、「かやぶきの里」と言う題の絵で、出雲出身の絵師・堀江夕聲(ほりえゆうせい)が描いたものです。子どもたちが、嬉々として遊ぶ様子を描写したものです。この夕聲を、次の様に紹介しています。

「出雲国大東(現在の雲南市大東町)に森山勇兵衛為春の第四子として生まれ、後に母方の堀江家を継ぐ。幼名は善三郎豊信、青年期に雲峯・盛伯と号し、京都で海北家の養子となった折に名を海北斎宮介精一、字を友聲とした。ほかに斧巖・豈楽斎・遷喬などと号す。

 幼少より絵を描くことを好み、文化十四年(1817)に京都で山本探淵に師事。また四条派の柴田義董に私淑した。二十代で伯耆、備後、美濃など諸国を遊歴し、萩の毛利家で多くの作品を描く。天保元年(1930)、海北友徳の懇請を受けて海北家の養子となり、宮中・社寺の御用を勤めるが、翌年、養子縁組を解消され、出雲へ帰国した。天保七年(1836)からの数年を丹後国宮津で過ごし、宮津藩お抱えの話が挙がるほど当地で高い評価を得ている。嘉永五年(1852)に広瀬藩九代藩主・松平直諒の下で御用絵師となり、以降はl広瀬を中心に活動した。

 友聲は近世島根における数少ない職業画家であり、様々な筆法を駆使して多種多様な画題を手がけた。中でも膨大な数の写生を基にした、緻密な描写と鮮麗な色彩による花鳥画が名高い。横山雲南(後の黄仲祥)・上代 英彦ら多くの門人を指導し、堀江家からは養子の友節(二代)以降も有聲(三代)・和聲(四代)と画家を輩出した。」

この夕聲の出身地である「大東」に、私は行ったことがあります。母の親族が住んでいて、鳥取に出張した折に、出雲市と、この大東とを訪ねたのです。その大東の親戚の家で、石川五右衛門の様な〈釜の風呂〉に入れてもらったのです。大きな鍋の中に木製の簀(すのこ)を入れて浮かせ、それに載って湯に体を浸すのです。木の風呂桶しか知らない私にとって、異文化、異習慣の体験でした。

こんな田舎が、母の由縁の地であることを知って、以外だったり、驚きであったのを思い出します。日本の神話のふるさとである「出雲国」と母、そして自分との繋がりもまた、意外に感じてなりません。この街からは、長崎に落とされた原子爆弾で被爆した、長崎大学医学部の永井隆医師が住んでいたことがあったそうです。

こう言った名のない土地との繋がりがあって、自分がある方が、けっこう多いのでしょう。もっと昔は弥生人や縄文人だったわけで、もっと昔はシベリヤ、さらに昔には、どこに繋がるのでしょうか。チグリスやユーフラテスの流れの源辺りに、私たちの出自(しゅつじ)をたどれるのでしょうか。

.

母の日に

 

 

これらの写真は、「母の日」に、家内に贈られた花です。多分、今年が一番多くの鉢花屋や花束をいただいた年ではないでしょうか。『元気になって!』の思いが込められています。一つは、家具店を経営しています友人のご長男の事務所の上に飾る様にと、家内が差し上げました。とても喜んでくださったのです。

.

花々

 

 

この〈ハイビスカス〉は、長女が撮って送信してくれたものです。もう私たちの住んでいた華南の街の側道の植え込みなどには、このハイビスカスで花盛りでしょうか。〈ブーゲンビリア〉も、私が勤めていた学校の工業路に面した門から入った道の脇にも、いたる所に溢れかえる様に咲いていることでしょう。

 

 

そう言えば、ここら辺りでは、亜熱帯植物は見当たりません。観葉の鉢植えは、そろそろ売り出されているのでしょうか。先日見舞ってくださった友人夫妻が、「プリンセスダイアナ(一番下の写真です)」という花の鉢植えを持ってきてくれました。あのプリンセスに因んだ花です。花の命名って興味深いものがありますね。

 

 

花盛りの季節に、わが家の部屋の中にも、多くの花が咲き誇っていて、時間が、ゆっくりと過ぎていくのを感じさせられている今です。

.