16と61

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 阿倍仲麻呂は16歳で、唐の都・長安に、遣唐使船に乗って留学しましたが、私は61で、北京の隣の天津に、家内と一緒に、飛行機に乗って行ったのです。まず香港に行き、そこで一週間過ごして、イギリス、スイス、カナダ、オランダ、ブラジルなどからの若者たちと一緒になって寝台列車に乗って留学しました。

 香港での一週間は、長女が一緒にいてくれて、他のルートでやって来た都合40人ほどが、集まっていました。そのセミナーの最後の説教を依頼され、その私の英語通訳をしてくれました。イギリス関係の施設で、美味しい賄いの食事をいただきながら過ごしたのです。乗車した長距離の寝台列車は満席で、丸一日、賑やかでした。ブラジルから来ていた若い歯科医師の女性が、切符を紛失したりの trouble などがあったのです。

 同じ車輌に、若者の数人のグループが、別の街を訪問する計画で、アメリカから来ていて、compartment の外の通路で、聖書を読んでいた私に、話しかけてきたのです。『親戚の人が天津に行くと、親から聞いているんです!』という話になって、『もしかしたら、デニーズ?』と言ったら、『そうです!』と答えて、不思議な方法で再会を二人は喜んでいました。

 あの日から、帰国再訪問を繰り返して過ごした、二十一世紀の13年間は、阿倍仲麻呂とはまるで違っていて、比べようがありません。16歳の仲麻呂とでは、望郷の思いのふかさは桁違いでした。仲麻呂は、どんな思いで、故郷を思ったのでしょうか。

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 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

 この和歌の意味は、『広い空を振り仰いで眺めると、美しい月が出ているが、あの月はきっと故郷である春日の三笠の山に出た月と同じ月だろう。』なのですが。家のベランダから、晴れた宵には、夜空を見上げて今会うが、この数日は、「三日月」が、鋭利な刃物のように、寒空に光を受けています。

 仲麻呂は、何度も帰国の旅を繰り返しますが、叶えられずに異国日に没しています。70歳を過ぎて、老いた仲麻呂は、どんな思いで死を迎えたのでしょうか。「科挙」の試験に合格して、有能な官吏として、玄宗に重用され、唐の王朝で過ごした人でしたが、55歳の折に、詠んだ上記の和歌は、あまりにも有名です。

 人の一生とは、実に不思議なものであるのを、仲麻呂の生涯から示されますが、二度も帰朝できた吉備真備(きびのまきび)と一緒に帰ることができていたら、どんな老いを、奈良で過ごしたことでしょうか。海上に散ったりした可能性もあったのですが、仲麻呂は長安に舞い戻るのです。李白とも交流があったりした生涯を、大陸で送り、大陸に没したわけす。

 切々たる望郷の思いが仲麻呂の70年の生涯に感じられますが、私たちは、御心なら、華南の街から天の故郷の帰りたいと思っていたのです。ところが押し返されるようにして帰国し、来春、帰国以来4回目の正月を、下野国の栃木で迎えようとしています。大陸なる山に、北関東なる地と同じ月がかかっているのですが、今頃、どの様に輝いているのかが気になる師走なのです。

(長安の都の復元図です)

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