本業の他に、いろいろな仕事のアルバイトをした経験が、私にはあります。弟が見つけてきた、町工場の鶏小屋のケージを電気溶接で作る仕事を皮切りに、穴掘り、看板設置、沖仲仕、牛乳工場、個展の警備、中元歳暮の配送、ホテル、デパート、海の家、スーパーマーケット、その他、『軟派な仕事はしまい!』と決めて、けっこう楽しくさせてもらいました。学校に行くのをやめて、プロの職に就くようにと誘われたことも、何度もありましたが、みんな断りました。
中高とお世話になった教師の紹介で、ある研究所に3年勤め、その後に教師を2年し、アメリカ人起業家の助手になり、その仕事を受け継いで、61才まで働きました。父が青年期を過ごした大陸中国に行く思いを諦め切れず、家内の手をとって、東北地方の街で一年、漢語を学び、その後、華南の街の大学で、日本語教師をし、その後は、パンの製造販売と製パン機器や材料を扱う会社の顧問として、同じ街にとどまり、今日に至っています。
労働する喜びを、父に教えられたからでしょうか、何をしても、『楽しかった!』に尽きます。そう、床清掃の仕事もやりました。開店前に中堅のスーパーマーケットの床を洗浄し、ワックス仕上げをする仕事で、けっこう長くさせてもらったのです。コンビニエンスストアの床掃除もありました。お陰で、子どもたちを学校に行かせることができました。
いろいろな仕事をかじりながら、働く人を見てきました。中国にやって来て、中日での〈仕事の違い〉に気づいて、実に驚いたことがありました。車で何人か乗って来て、荷物の積み下ろしなどをしているのを見ていた時に、運転してきた人は、運転席にいるか、外にいてタバコをふかしたり、新聞を読んだりして、その作業を手伝おうとしないのです。
手伝えば、作業効率がはるかに好いし、早く作業を終えられるのに、そうしないのです。と言うには、一人一人が、独自の仕事に雇われているからです。ですから人の仕事に手を出すことは禁物なわけです。この辺のこだわりや習慣が分からなかった時は、『何てこった!』と思っていましたが、国柄の違いなのです。
《気が付いたことをする》といった習慣でしょうか、仕事の極意を学ばされた私には、納得がいかなかったわけです。気の多い私が、34年間一つの仕事に専念できたのは、感謝でした。向いていたのかどうかは分かりませんが、それを《天職》として受け止めたからでしょうか。私は満足の思いで、今もおります。
今でも、機会があるなら、何か働きたいと思っています。隣が家具屋さんですから、『猫の手が借りたくなったら、猫よりも少しマシですから声を掛けてくださいね!』と言ってあります。今の私たちの事情が分かっていて、まだ声はかからないままです。
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