その右の手で堅く握られて

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『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。(イザヤ41章13節)』

 この聖書のことばを、家内のお母さんが、入院する前に、カードに書き記して、手渡してくれました。1983年の8月の終わりのことでした。上の子たちが小学生、次男が3歳だったでしょうか。生涯初めての全身麻酔の手術を、東京女子医大病院で、次兄と二台並べられた手術台で受けたのです。名前を呼ばれて、「か」が聞こえた後の記憶はありませんでした。目が覚めたのは、激痛によってでした。目を向けて見守ってをいてくれた看護士(その頃はまだ看護婦さんと呼んでいました)さんの目と合ったのです。

 入院した病室に、私を見舞ってくれた宣教師さんに、『イエスさまの十字架の痛みの何十分の一ででも味わえるのですから感謝します!』と、初めての経験への恐れがあったからでしょうか、軽口をたたいてしまったのです。その「十字架の苦痛」など、人が味わえるはずがないのにでした。そう言ったのに、その舌が乾く間もない術後、咄嗟に、「鎮痛剤」の注射を、その看護婦さんにお願いしたのです。

 耐えられない激痛でした。自分ではけっこう我慢強いと思っていましたが、根っからの弱虫だったのです。初めての大掛かりの手術は、それまで小学校の2年生の時、中耳炎で、耳の中の化膿した部位の切開を受けたのですが、あの時の痛さは、いまだに記憶に鮮明なほどだったのですが、それとは比べられないほどでした。

 「豪語」と言う言葉がありますが、伝道者として召されても、未熟な信仰者の私は、赤っ恥をかく強がりだか、信仰だかを、宣教師さんに、そう語ったことを、強く恥じたのです。主に、『ごめんなさい🙇!』と言いました。また、『自分は良いことをしたのだから、この痛さから解放してください!』と、主に交渉をしたほどだったのです。

 術後の翌日、同室の同じ手術を受けた患者さんから、『歩いた方がいいですよ。回復が早くなるから!』と言われ、歩行器を、まだ無理と思っていたでしょう、看護婦さんにお願いして、病棟の廊下を、痛みをこらえながら歩いたのです。強がりでオッチョコチョイの私は、無理をして、それをし通したのです。見舞いに来た家内や子どもたちに、いいところを見せたかったからでもあっからでしょうか。

 あのイエスさまの痛さと苦しみとは、信ずる者の贖いの代価となられて、身代わりに全て信じる者の罪の呪いを負われて、あの呪いの十字架についてくださった時のものでした。人の想像をはるかに超えた、心身両面の苦しみ、とくに愛され続けてきた御父から、【見捨てられる】、十字架の頂点で、救われる人々の罪、私たちの全ての罪を身に負われて、【罪となられた】ことの、父なる神との断絶でした。聖(きよ)いお方としては耐えられなかたに違いありません。

 十字架の贖い、罪の赦しは、この方法しかなかったのです。神の御子である方が、神であることに固執しないで、人となられて、マリアの胎に、聖霊によって宿ってくださったのです。信じる私たちが、生きる者とされるために味わって下さったのです。養父ヨセフの大工職を継いで、およそ30歳の時に、ナザレの家を出て、ヨハネからバプテスマを受け、伝道の生涯に入られ、神の国を宣べられたのです。12人の弟子たちを、ご自分の働きの後継者として選ばれ、教えられ、彼らと活動を共にした後の十字架だったのです。

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 そのことが解って、今や60年近くたちます。先々週、大学病院の手術台の上に、5時間ほど寝ていました。生まれてから心臓が動き続けていること、その神秘さに驚いていた矢先、2024年の暮れに、自分が、その心臓を病むなどと考えてもみなかったのに、心電図検査の結果、心房細動、不整脈と診断されたのです。それで、主治医に、“ Catheter Ablation (カテーテル・アブレーショ)“ をすることを勧められました。家族の勧めもあったのです。でも、不整脈は治らないままでした。2年経って、もう一度、アブレーションを主治医に勧められ、家族の思いもあって受けたわけです。

 右足の付け根から、動脈の中に、カテーテルを挿入して、心臓まで運び、零下40〜50℃の低温で病巣を焼くのだそうです。医療スタッフにお任せして、ほとんど痛みを感じないで目覚めたのです。病院では、メスを使って、患部を手術するのではないからでしょうか、「検査」と呼んでいます。その検査の2日後に退院しました。4人部屋の病室は、入れ替わり立ち替わりで、慌ただしく患者さんの出入りが激しかったのです。

 同室のお一人から談話室で声を掛けられました。明日一時退院して、10日後に再入院すると言われ、同年齢の方と話をしたのです。若い頃から病気をしてこられ、リストラにあったり、釣り好きとか、脳の疾患で、奥さまの作ってくれる食べ物の味がしないとか、娘さんがいるとか話してくれました。

 同じ時代の同じ風の中を生き抜いてきた者同士、気が合ったのでしょうか、話も合ったのです。お隣の茨城県の方だそうで、栃木と同じ訛りのある話しっぷりでした。主治医がベッドの上の私に、検査の準備をしていた時に、そっとカーテンを開けて、一時退院の挨拶をして出て行かれたのです。人懐っこい方で、病室で、わたしの履いていたスクールシューズが、カーテンの下に見えなかったとかで、面会室で、私の履いている靴を見て、隣の患者だと解って話しかけてこられたのです。『どこで買われたのですか?』と聞かれて会話が始まりました。

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 今では、病室風景も様変わりしているのでしょうか、カーテンを閉め切って、隣同士でも会話がなくなってきているのを感じたのです。痛かったりして不自由でも、自分のベッドの回りのカーテンは開け放ってあって、以前はよく、目を合わすと、仕事の話や子どもの頃の話をしたり、食事の終わったトレーを運び合ったり、助け合ったり、労わり合ったのですが。病気の種類、病棟によって、そして時代の変化もあって、部屋の雰囲気や状況も違うのです。

 入院患者が多すぎて、内臓器の疾患で、循環器科、泌尿器科、整形外科の混合病棟でしたので、看護師さんとみなさんとの話が耳に入ってきて、どうも重症そうでした。われわれ世代の年寄りの老人病棟のようだったのです。みなさん、何かひっそりと寡黙でした。

 40年前は、三十代の終わりの年齢での入院手術でしたから、働き盛りの患者さんばかりでたが、今回は老人ばかりでした。札幌の整形外科病院で、鍵盤断裂の縫合手術をした時は、みなさんが中年くらいの患者層でした。病室内でいじめられた方に、相談されたり、旭川の方は、開拓農民の子で、家や学校での体験談をいろいろと話してくれ、『夜間のカップラーメンがうまいので、どうですか!』と言って、二度ほど頂いて、二人でこっそり食べたら、本当に美味しかったのです。食堂で、ワイワイガヤガヤできたから、そんな話を聞けたのでしょう。

 今回は5日間の入院、検査で退院したのです。退院の翌々日が、掛かり付けの街医者の診察日だったのです。タクシーを呼べばいいのに、次男が置いていったヘルメットを被り、自転車でソロリソロリと出掛けてしまいました。病院からの検査結果と今後の治療の方法などの指示書を、掛かり付け医に渡したのです。投薬も必要で、処方箋で隣の薬局で薬を処方していただく必要があったからです。

 帰りに、行きつけのスーパーに寄って買い物をしました。やはり、だいぶ無理をしてしまったようです。それで、それ以降は、しずかに優等生をしています。

 昨日は、寒さと少々体力不足の家内の通院日で、代理で宇都宮の病院に私が参りました。私と同世代の漢方医とペイン医を兼ねた方 が主治医で、家内の様子を伝えたのです。毎月一回、宇都宮で持たれる、がん患者と医師と医療スタッフ、そして家族の交わりである「メディカル・カフェ」で、この方は、医療スタッフもされておいでで、良い交わりのある医師なのです。同じくクリスチャンでもあることから二重に交わりが与えられているのです。家内がとても信頼を置いているお医者さんで、私たちが頼りにしている医師なのです。

 さて、老いるとは病との併走のように感じるのですが、健康だった日々を感謝し、今の治療も回復も感謝しながらの私たちです。昨日は、息子さんのプレゼントのセッティングで、金沢旅行をされた隣家の友人が、金沢名物の「きんつば」をお土産に届けてくれました。同病の隣人、友人との交わりにも感謝しているのです。

 そして、何よりも、その右手で、手を優しく握っていてくださる神さまに、最大の感謝な朝であります。

(“いらすとや”のイラストです)

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静かに人を支えられる人に

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 まだ2月の初め、まだまだ寒波の影響が強い日本海側や北海道や東北地方は、雪害だと報じられているのに、もう歌っていいでしょうか。春の訪れを待ち望む想いは、どこにいても同じですから、小学校の音楽の時間に、先生のオルガンの音に合わせて、思いっきり歌った思い出の歌なのです。

1. 春の小川は、さらさら行くよ
岸のすみれや、れんげの花に
すがたやさしく、色うつくしく
咲いているねと、ささやきながら

2. 春の小川は、さらさら行くよ
えびやめだかや、小鮒の群れに
今日も一日ひなたでおよぎ
遊べ遊べと、ささやきながら

 どなたも、歌った覚えがおありでしょうか、今ごろに一番ふさわしい歌なのではないでしょうか。

 赤坂東宮御所に、徳仁さまが皇太子時代にお住まいだった頃のお話です。結婚されて、待ち望まれてお生まれになられた愛子さんが、4歳ほどの頃のことです。お住まいのカーテンをそっと開けて、外を見ておられました。体調が思わしくなくて、外に出られず、室の中にいた時のことでした。

 そんな愛子さまの背中を見ていたお世話係の方が、可哀想に感じたのでしょう、外に出てから帰ってきました。『春をお部屋に持ってきましたよ!』と言って、テッシュに包んだ小さな花束を愛子さまに手渡されたそうです。時間を持て余して、手もちぶさたをしている愛子さんに、庭に咲いている花、タンポポとスミレ、そしてネモフィラを摘んで届けたのです。

 わが家では、この季節になると、子どもたちが、『春を探しに行ってきまーす!』と大声で言って出掛けて行った日々がありました。周りが山々の盆地の中に住んで、彼らが大きくなりましたので、そこは一歩、住宅地を外れると、農村地帯で、自然は溢れるほどでした。白雪の山から吹き降ろす山おろしが、身を縮めさせていた冬が、陽の力が強くなるに連れて追いやられて、冬は敗走していきました。

 一日一日、一歩一歩と「春」がやって来る様な街でしたから、子どもたちは、春を見つけに出掛けたのです。野花を摘んでは、彼らは嬉々として帰って来ました。それを『お母さん!』と言って手渡していたのです。

 東宮御所では、お世話をされるKさんが花を積んで、愛子さんに手渡したのです。すると愛子さんは、『わあきれい、ありがとう!』と感謝したのだそうです。このKさんは、昭和、平成、令和と、宮内庁職員として仕えてこられた方で、幼い愛子さんが安心できる存在だったのです。

 40年ほど、そうして御所の雑務に仕えてこられたのです。雨が降ると、お出かけの主人の家族にさっと傘を差し出し、庭の手入れをして過ごされてきておいででした。時が経って、その方が退職されることになりました。忠実なお仕事をされて、職員の間で尊敬を集めておられた方でした。このKさんのために退職祝いの会が開かれました。

 皇族方も集まられて会が催されたのです。その集まりに、すでに二十歳になられた愛子さんが出席されておいででした。一通の手紙をしたためて、そっと、この方に手渡されたのです。そして、その会のもたれていた部屋から出ていかれたそうです。公務が待っていたからです。

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 その手紙には、次の様な感謝の言葉が綴られていました。『長年、私たち家族を支えて来てくださったことを、決して忘れません。』、『私が外で遊べなかった日、そっと花束を手渡してくださいました。自分のために何かをしてくださる方がいると初めて、その時知りました。』、それは、この方の思いやりへの感謝でした。

『しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに、仕える者になりなさい。 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(新改訳聖書10章43、45節)』

 さらに、『あの時のお花の匂いは、今でも覚えています。あの花束が一番嬉しかったのです!』、家には、たくさん部屋はある中で、自分が戻っていられる空間が、この部屋、この方との交わりだったのだとも述懐しています。『Kさんのように、静かに人を支えられる人でありたいと思っています。目立たないで、人の前に出ず、ただそっと苦しみや不安の中にいる人を受け止められる人でありたいのです!』と、大人になった愛子さんは、そんなことを綴ったのです。

 この手紙に、そのご家族に仕えたKさんは、『自分の仕事が、誰かの心に残っていた、それがだけで十分すぎるほどです。』、これこそが、真の奉仕を知り、それを実行された人の「沈黙の哲学」なのです。言葉で示すことでも、行動でもなく、背中で示す生き方、仕えた姿勢だったことになります。

(知人が送信してくださった「コスミレ」、「タンポポ」です)

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如月となり次兄の癒しを祈る

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 二月、如月(きさらぎ)となりました。眼下の巴波川の流れは、まだ温むこともありませんが、ベランダの右手に見える大平山の山肌は、木々の芽が膨らみ始めているのが、遠く見られるのです。湧き上がるような様は、やがて萌え上がるのでしょう。例年、この時季に見られます。

 雨のない晴天続きですが、湧き水を水源とする、この川は、流れの川面に、陽の光をキラキラと輝かせて、漣(さざなみ)を見せています。江戸期から、明治、大正まで、ここと江戸を結んで舟運が行われ、綱手道(写真左右に見えるのは時を経た逞しい男衆が歩いた敷石です)を人力で曳いて、江戸からの荷を運び、この河岸でおろしたのだと聞きます。悠久の時の流れを思わさせられています。

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 日の光は、気温こそは低いのですが、つよさをまあいきわえていまあう。まだ明けやらぬ早朝の今は、ー5℃ほどの気温で、身が震えます。昨日撮った、トマトが、2月なのに、枝に青い実を、まだつけているのです。冬の奇跡が春に持ち越して、小さな命を繋いでいます。

 まだ自分の足で立ち、歩けているのを感謝するこの頃です。すぐ上の兄が、腰を痛めていると言ってきています。今夏、八十五になります。カレブは、この年齢で壮健であるのを告白しています。木通(あけび)採りをする、この兄の後について、山の中に分け入り、小川で魚つかみで、バシャバシャと兄を追った幼い日が、昨日のように思い出されます。次兄が腰痛から癒やされ、回復するように祈る、2月最初の日の朝です。