友・兄弟・母

 近所、趣味、クラブ活動、クラスが同じなどで、友人になるケースが、小学校の時にはよくあります。もう少し成長しますと、考え方とか価値観などが似ていた り、他には読んだ本での読後感や贔屓の作家の作品など、内面的なことで「友情」が芽生えてきます。また死線をくぐった「仲間」、人生の危機を共有した者同士が、「親友」となることがあるようです。中国の男性の方と話をしていましたときに、一番強い人間関係は、「戦友」だと言っておられました。国を守ろうと する意識があって、互いの「勇気」をほめ合うところに、強固な絆が生じるからなのでしょうか。中国の街中で、時々見かける光景は、大人の男性が二人、肩を 組みながら歩いてるのです。わたしは、小学校や中学校の時に、友達と肩を組んで歩いたことがありますし、そんな写真が残っています。でも、中国での、この 光景は、一見異様ですが、そうできる自由を感じてとても羨ましく感じるのです。

 中国にやってきて、国や民族を超えて、互いを引き付け合う「友情」があり、そんな絆で、ある人たちとつながっているように感じるのです。互いが進むべき同 じ方向を見つけて、その同じ道を歩もうと決心し、同じように感じ合い、病んだり困窮したり悩んだりしたときに助け合い、情報を交換し合い、安否を問合う 「同士」が、しかも国籍や人種を超えて、自分の周りに何人も与えられていることは、ほんとうに感謝なことです。異国での関わりは、さらに深くて鋭敏なので はないかと思います。これは友人以上の関わり、いえ本物の友情の絆で結び合っている関係ではないかと思うのです。一昨年、家人が病んで入院したときに、わ たしたちを「一家人」と呼んで、家族以上の情愛を示してくださった中国のみなさんも、家人とわたしの「一家人」であることを感じさせてもらっています。1 週の間、毎日24時間、もれることなく家人のベッドの脇にいてくださって、上下のお世話でさえも喜んでしてくださったのです。

 わたしの愛読書に、「友はどんな時にも愛するものだ、兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」とあります。よく言われるのは、「友人」は選ぶことができ るのですが、「兄弟」は選べません。選ぶことのできない兄弟は、父と母を共有するのですから、多くを両親から受け継いでいることになります。私には、二人 の兄がいて、一人の弟がおります。『産めよ、増えよ!』と言われた戦時下に、上の三人は生まれ、弟は団塊の世代として生まれています。四人四様、父と母の 好い点を受け継ぎ、また弱さを受け継いでいることになります。父は、61で召されましたが、母は、来月95歳になろうとしています。老いは日に日に進んで いっております。9ヶ月ぶりに帰国しました日に、成田から、その足で、母がいますホームを訪ねました。『もう忘れてしまっているかもしれないな!』と思っていたのですが、『忘れるものですか!』と言って、ぎゅっと手を握ってくれました。「母性」とは、ものすごい力と愛とを内に宿しているのだと、改めて知らさ れ、母の愛に感謝しました。まだ山奥に住んでいたときに、上の兄が私を庭に打ち付けたことがありました。泣いて家に飛んで帰った私を、玄関の土間に座って、 膝の間で抱いて、打った頭をやさしくなぜてくれたことを鮮明に覚えているのです。その当時のほとんどのことは忘れてしまったのですが、記憶というのは不思議な ものです。

 そうですね、大病から生還した母の生涯は、もう5年も生きることはないかも知れません。先日、これからの母のあり方について、兄たちと弟で話をしてくれました。わたしは術後の風邪で、今ひとつ力がなくて駆けつけることができずに欠席しました。三人三様、四人四様、方法は違っても、母への感謝をもち、愛しています。わたしたちに取っては、たった一人の「垂乳根」の母親だからです。恵まれない小女時期を過ごして、父と出会って結婚し、4人の子をなして、『わたしは、本当に慰められ、この四人はわたしの〈宝物〉です!』と母がよく言っていました。いつも喜んで感謝を忘れない母の最期の花道を、喜ばしく楽しく愉快 にたどっていただきたい、これが、明日中国に戻るわたしの心からの母への願いであります。

(写真は、土偶の『垂乳根の母』です)

 入学した中学校の校舎の表玄関に、薪を背負った金次郎の銅像がありました。入学式に列席していたわたしたち新入生に、校長が、『毎朝夕、二宮金次郎先生の 像に脱帽して礼をしなさい!』と言いました。素直だったのでしょうか、「勤勉」の象徴のような、勤労学生の模範のような、二宮尊徳の少年の姿を鋳た像に、 帽子を脱いで朝な夕なに礼をしたのです。横浜線から乗り継いでやってくる級友たちと集団での登校でしたから、国分寺の駅で降りて歩いて通学をしました。の ちになって、バスに換えたのですが、上級生や高校生が脇を通り越していくと、5~6人の集団のわたしたちは、大声で、『おはようございます!』と挨拶をし ました。実に純で素朴だったのでしょうか、生きている高校生にあいさつをするように、像に向かって敬意を表したのを思い返しています。やがて生意気盛りに 突入したわたしは、おかしなことだと疑問が湧き上がってきて、像への礼をやめてしまったのです。

 敗戦以前の父たちの世代の学校では、教育勅語の奉読式があり、天皇皇后の写真(御真影といわれました)に敬礼し、宮城(皇居のことです)を遥拝していたと 聞きます。集団で例外なく、強制されてそうしたのです。写真や住居や書かれた物に向かって、それがあたかも人格のあるもののように振舞うのは、おかしなこ とに違いないのです。もちろん私は、国王としての昭仁天皇や美智子さまへの敬意を忘れませんが、それ以上の存在だとは思っておりません。過去のいきさつな ど、読み物で知ってはおりますが、それにわずらわされません。イギリスやスウェーデンやオランダには国王がいて、国民から親愛の情で敬われているように、 私は敬います。

 1890年(明治23年)、第一高等中学校教員だった、30歳の内村鑑三が、明治天皇の名で記された教育勅語に、最敬礼をしなかったことが、大変な社会問 題となり、教職を追われた事件があったそうです。最敬礼が、十分になされなかったことが問題だったのだそうですが。彼が十分に日本人らしく振舞わなかった ことが糾弾されたようでしょうか。わたしの知る限り、彼ほど祖国日本を愛した人はいないし、日本人としての誇りも忘れなかった人でした。日章旗に対して目 を向け起立すること、国歌に対して唱和することが、教育の一環として求められています。わたしはこの起立と唱和に抵抗を感じません。それは皇国史観に立つ 国粋主義者だからではありません。わたしの師は、アメリカ人として星条旗と国歌に敬意を表していました。日本と日本人をこよなく愛した師にも、そうするこ とが当然だったからです。そのように、わたしも日章旗と国歌に敬意を表したいのです。父や母、子や孫、そしてわたしが生まれた国であり、この生まれ育った 国の平和と安泰を望むがゆえに、その願いを託してそうします。

 隣国に軍隊を進軍させたときに掲げた旗と、平和な日本に翻る現在の国旗とは違います。わたしには抵抗はないのです。父が海軍一族だからでもありません。純 粋に、日本人としての自覚があるからです。祖国への愛着や愛惜を持たなくて、だれが世界平和を語り、隣国と和して敬うことができるでしょうか。あまりにも 過去にこだわりすぎて、意気や志気をなくしてしまってはなりません。この時代を生きるわたしたちは、今を責任持って生き、将来を孫子に備えなればなりませ ん。わたしが民族主義者だからではありません。わたしが確信していることは、この体内には、きっと中国や朝鮮半島の人々の血が流れているということです。 大和民族の純血を信じていません。いわば親族の間柄なのですから、敵対関係ではなく、友好関係を取り戻さなかければならないのです。戦争が終わって、70 年にもなろうとしています。もう十分に償ったのですから、過去に煩わされないで、将来に、しっかりと目を向けて今を生きようではありませんか。そこには、 なすべきことが山積しているからです。

 それでも、この驚くほどに美しい日本は、わたしの母国であり、祖国であるのです。

 

 

春待望

 『イエローストーンにしよう!』、『モンタナにも行きたい!』ということで、オレゴン州、ワシントン州、アイダホ州、モンタナ州、ワイオミング州のイエ ローストーン(国立公園)に、娘ふたりと一週間の旅行をしたことがありました。次女の卒業式に出席して、『折角のアメリカ訪問なのだから!』と彼女たちに 勧められたのです。どうしてモンタナだったのかといいますと、1990年代の初めの頃だったでしょうか、「リバー・ランズ・スルー・イット”A River Runs Through I”」を観て強い印象を受けていたのです。この映画の舞台だったのが、“Big Sky”と呼ばれるモンタナで、そのミズーラの川と空の美しさに魅入られ てしまっていたのです。もちろん開拓者の家族の物語にも、ジェームス・デーンの再来とも言われていた、ブラッド・ピッドも気になりましたが、第一は、その自然 美でした。モンタナこそ、北米の自然美の最たるものではないかと思った私は、『何時か訪ねてみたい!』と思っていたのです。

 その旅は、とても楽しいものでした。ドライブインに泊まり、食事はスーパーマーケットで食材を買って、公園の施設で調理したりの一週間だったのです。警ら 中のパトカーに不審に思われて、職務質問にもあったりしましたが、事情が分ったのでしょうか、行ってしまいました。6月だったのに、雪が降った日もありま したが記念すべき時でもありました。このイエローストーンは、ユネスコの「世界遺産」の第一号だったのではないでしょうか。残念なこことに、訪問の1年ほ ど前に森林火災があって、焼け跡が目立っていましたが、野生のバッファローとか鹿や小リスなどもみることができ壮大な自然に圧倒されてしまいました今、生 活の本拠地である。

 今、生活の本拠地である中国にも、多くの「世界遺産」が認定されているのですが、北京の故宮(紫禁城)や万里の長城、四川省の九寨溝や黄龍、福建省の土楼 を訪ねたことがあります。この自然美でしょうか、造物美はイエローストーンに勝るとも劣りませんし、文化遺産は、中国人の驚くべき知恵を感じさせられて圧 倒されてしまうほどでした。

 しかし、一番美しく感嘆の的であるのは、「一人ひとりの故郷にある美」、「一人ひとりの思い出の中にある懐旧の美」なのではないでしょう。ワイオミングや 四川省に行かなくても、父や母や兄弟たちと過ごした片田舎に咲いていたタンポポや桑の実(ドドメ)、田舎道にあった水車や丸木橋、父が作ってくれたカルメ 焼きや正確に切り込んでくれた雑煮用の餅などには、実に懐かしい思い出が残されています。『日本って美しい国だ!』と真実思うのです。

 これは感傷的である というよりは、こういった物事に敏感で鋭敏、繊細に反応する感覚を、民族として受け継いでいると思うのです。地震や津波は、あまりにも峻厳で厳粛であるこ とは事実ですが、豊かで美しい自然に恵まれた風土の中に生まれ、育ったからに違いないのではないでしょうか。南北に細長い島国で、四面が海で囲まれ暖流と 寒流が流れ、列島の中央には急峻な山並みが背骨のようにして走り、春夏秋冬の四季の移り変わりが生活そのものに大きく影響してきた、こういった驚くほどの 自然の恩恵に浴してきた民族なのではないでしょうか。この自然環境の中にやって来て住み始め、天来の知恵や、渡来して下さった民の技術や能力で、この文化 が育まれたのでしょうか。としますと、私たちは自然に創りだされた民族と言ったらいいのでしょうか。

 すべての民族・国民には、それぞれに独特な優秀さがあるのですから、それを分かち合いながら、この地球を生活の場としているすべての人が、これに深く感謝 し、これに知恵を傾けて保全していきたいものです。太陽の熱量や光線、空気や水、さらに助け合い支えあうことなしには、どの民族も国家も存続していくこと ができません。小さな惑星の上に生活を営む私たちが、「恩恵のもとにある」という事実を、もう一度、認め直して、いがみ合いやそねみ合うことなしに、生き るように祝福され、定められている時間と地域の中で、責任を全うしていきたいものです。

 明日は「節分」、そして明後日は「立春」になります。今、日本列島は、歴史的な豪雪に見舞われていますが、もう春の足音が聞こえています。来ない春はない、しばし忍んで、春を待つことにしたいものです。

 真冬になると、中国大陸の奥のシベリア、その奥の北極圏の上空から押し出された寒波が日本列島に襲来します。このため日本海側は、旧正月に入ってから、歴 史的な豪雪に見舞われているとのことです。太平洋岸の東京のど真ん中に、この1月の初めからいる私は、ニュースの映像で観るだけですが、積雪地の未曾有の 雪害から、みなさまが守れるようにと心からお祈り申し上げております。

 雪を見て、ただ単純に『きれいだ!』と感嘆して、楽しむだけしかしない私たちには、雪の中で何百年もの間、その厳しさに耐えて生き続けてこられたみなさん のご苦労を思いはかることができません。一度も生活をしたことのない私は、雪が溶けて春になるのを待ちわびた、この豪雪地のみなさんが種を巻き、苗を植え て、手塩をかけて育ててくださった、美味しいお米や野菜、また荒海に船を出して収穫してくださった魚介類を供給し続けてくださています。それは、お金を 払って買うだけのことでも、生活の糧を得るだけの生業でもなく、「農」や「漁」を天職とされて、どんな困難な事態にもあきらめないでそれを継承し続けて下 さり、励んでくださったことを忘れてはいけないと思っております。ですから、私は決し感謝を忘れたことはありません。

 日本人の根の強さは、この厳しい自然環境と対決し続けて、過酷な自然環境の中で、知恵を育んでこられた先人から学び取ったからではないでしょうか。昨年の 東日本大震災で見せた日本人の特質には、世界から感嘆の声が上がりましたが、この類を見ない特質や文化を育んできたのは、こういった呼び方は避けたいので すが、「裏日本」だと思うのです。ある時は「いなか」、「地方」、「過疎」とさげすまれ、偏見の的であったのですが、父や祖父や先祖から継承してきた業 を、おのれの「仕事」として勤しんでこられたからであります。

 冬、雪の日に、手の器用な兄が、みかん箱で作ってくれたソリに乗って、崖の上から滑り落ちたというよりは、転がり落ちたことがありました。霜柱を踏み、氷 柱(つらら)を手にして遊びました。雪や冬を遊びの手段や時期にしてきた私にとっては、驚くほどに積った雪を、屋根からおろし、通路を確保しているみなさ んのお姿をみるにつけ、ただ、『大変!』と、言葉を漏らすだけです。「大変さ」には慣れてきたみなさんの根気強さは、この現実をはねのけていかれるのでは ないかと思うのです。若かったら、雪落としにでも出かけたいのですが、術後の私には何一つできないのは歯がゆいばかりです。そんな今のわたしの唇から一つ の童謡がついて出てきました。相馬御風の作詞、広田龍太郎の作曲に夜、「春よ来い」です。

    春よ来い 早く来い
    あるきはじめた みいちゃんが
    赤い鼻緒の じょじょはいて
    おんもへ出たいと 待っている

    春よ来い 早く来い
    おうちのまえの 桃の木の
    つぼみもみんな ふくらんで
    はよ咲きたいと 待っている

 やがて雪が溶け、木々の芽がふき、春の日が照るのですが、それまでの日々、雪害から守られて、喜びの春をお迎えになれるように、心から願っております。

 

四回目

 1年ほど前から、右足の付け根に違和感を感じていました。クシャミをすると軽い痛みが走るのです。『何かな?」と思っていましたが、3ヶ月ほど前から、そ の箇所がゴルフボール大にふくらんでいるのを発見したのです。昔、『ダッチョウ、ダッチョウ!』と、近所の子をからかっていた、その「鼠径ヘルニア」では ないかと疑ったのです。早速、昨年家内が入院しました、板橋中央総合病院のサイトにアクセスをして、調べましたら、やはり「脱腸」だったのです。友達をか らかって、はやし立てていたことが、自分に帰ってきたではありません。早速、外科の鼠径ヘルニアの専門医に問合わせのメールを送りましたら、その日に返信 がありました。帰国している間に入院、手術、術後の診察をしてくださるとの約束をとりつけて、1月6日に帰国しました。帰国しました翌日、病院で診察をし てもらったのです。家内の執刀医ではなかったのですが、若くて優秀との評価を受けていますK医師に診察をしてもらいました。『27日に入院、28日に手 術、そして29日退院ということでやりましょう!』と言ってくれました。

 先程、次男の家に帰ってきました。27日昼前に入院し、翌日の28日午前1115分から、ヘソとその両脇の3箇所に穴をあけて、内視鏡を使った手術をし ました。地下鉄三田線、山手線、東横線と、電車を乗り継いで帰宅しようと思ったのですが、いかんせん切り口に痛みが残っておりましたので、中山道の脇に 立って、タクシーを拾いました。その運転手さんとずっと話をしていましたら、代官山にあっという間に着いてしまいました。病気のこと、信念のこと、中国で の生活のこと、家内や子どもたちのこと、そして川口市長のこと、千利休のこと、ハワイ市民マラソンのこと、彼の家族のことなどで盛り上がってしまいまし た。『ボクは44歳で・・・』という人懐っこい方だったのです。『また、どこかで会いましょう!』、『お大事にしてください!』と,旧知の友のように、挨 拶を交わして車を降りました。客と運転手の間に、千利休の茶道で言われる「一期一会」があり、言葉と言葉の交流とは、実に不思議なものだなと思った次第で す。

 数えてみますと、四回目になりました。30代の終わりに左の腎臓を摘出し、50代に左足の静脈瘤除去手術、60代初めの右腱板断裂後の縫合手術の都合3回 の全身麻酔をしましたので、今回はそういうことになりました。『廣田さん、ひろ・・・・!』と言われて、目を覚ましたときに、激痛が走った最初全身麻酔 は、11時間以上の手術だったようです。術後、1年近く左半身が麻痺して、頭がボーッとしていたのです。今回は短時間でしたから、後遺症は全く有りませ ん。この30年間に麻酔法が変わったからかも知れませんね。『来年のことを言うと鬼が笑う!』と言われますが、次回は何時、どんな手術が待っているので しょうか、きっとあるのではないかなと思うのです。

 このように48時間、丸二日間での入院手術ですむというのは、医学・医術の長足の進歩なのでしょうか、ほんとうに驚かされてしまいます。それに見合うよう な、人間の心が、簡素化、即席さについていかないのではないかと感じてしまうのは私だけでしょうか。最初の手術の時に、義母が、

 「あなたの◯、◯であるわたしが、あなたの右の手を握り、『おそれるな。わたしがあなたを助ける。』と言ってるのだから」

と、メモ書きして渡してくれたのを思い出し、昨日の朝、読み直していました。その義母も、この三月で、百一歳になりますが、今は寝たきりで目をさますこと も稀になり、ほとんど会話もありませんが、義母の娘婿への深い愛を思い返していました。これも偶然ではなく、必然の「一期一会」なのでしょうか、多くの人 に励まされ、叱られ、そして勇気づけられてきた日々を,ただただ感謝して、ブログの原稿を書き込んでいます。同じ病室の方は、上の兄と同い年の工務店主の 大工さんで、彼とも会話が弾んでしまい、息子さんがあとを継がれて、父子三代の大工家族だと喜んでいました。痛かったのですが、いくつかの出会いに感謝し て。

 


 昨日は「大寒」でしたから、一昨日になるでしょうか、東京に初雪が降りました。久しぶりの日本の雪を、息子の家の窓から眺めていましたら、ひとつの歌を思い出したのです。それは山崎唯作詞・作曲の「白い想い出」でした。

雪が降ってきた ほんの少しだけど
の胸の中に 積りそうな雪だった
幸せをなくした 暗い心の中に
冷たくさびしい 白い手がしのびよる

雪が溶けてきた ほんの少しだけど
私の胸の中に 残りそうな雪だった
灰色の雲が 私に教えてくれた
明るい陽ざしが すぐそこに来ていると 

灰色の雲が 私に教えてくれた
明るい陽ざしが すぐそこに来ていると
すぐそこに来ていると

 いつごろだったか調べてみましたら、大学に入学した1963年(昭和38年)に流行っていた歌だったのです。ちょっとおセンチな歌詞と悲しいメロディーですが、この歌を思い出してしまうのは、年を重ねてきた証拠なのでしょうか。太陽のように輝く青春の日々だったといいたいのですが、アルバイトに明け暮れていました。芝浦の埠頭や横浜で、手配師が、『お前・・・お前!』と、その日に必要な頭数を揃えていく中で、雇われて日雇いの「沖仲仕(港湾労務者)」もしていたでしょうか。荷揚用の小さな船に乗って、沖に停泊している貨物船に行き、船倉に降りての荷降ろしの仕事や、大型トラックの助手などをしていました。

 この歌詞にあるような、「暗い心」や「灰色の雲」ほどではなかったのですが、恋が実ったと思って喜んだら、壊れたり、何もかもが不調で試行錯誤の日々だったのではないでしょうか。昨晩、今朝の明け方といったほうがいいのでしょうか、夢をみました。「初夢」ではないのですが、ちょっと切なく甘酢っぱい思いに浸されたようです。時々ランチを作ってもってきてくれた同級生がいました。汗臭い男子校で6年過ごして、女心が分かっていない私は、お腹がいっぱいになっただけで、映画や喫茶店に誘うこともないし、手を握ることもないままだったのです。夢というのは、その頃の思い出だったのですが、目が覚めたら細かいことはぜんぶ忘れてしまいました。ずいぶんと年月が経ってしまったのですが、最近、ちょっと青臭い夢を、時々見るのです。何かし忘れたことがあって、悔いが残っているからなのでしょうか。そういえば、二度ともどることのない青春の日々は、やはり悔いが多く積まれているのかも知れません。

 同世代のみなさんやちょっと先輩の方々と、電車などで乗り合わせるのですが、惚れたり好いたりした過去があったのでしょうけど、そんなことは全くなかったような涼しい表情をしている様子をみるにつけ、手を握り合ったり、抱き合ったりしている若者の横を通り越しながら、人の目のあるところでは決してしなかった彼らは、『どう思てるのだろう?』と、自分のことはよそに、そんなことを考えている自分が、おかしくて仕方がありません。「时间过了很快」、これは『時間の経つのがとても早い!』という中国語ですが、自分の青春の時は、鳥が飛び立つように過ぎ去ってしまって、一切が過去形になってしまっているわけです。今は、山奥の小さな湖水の水面のように、心の思いが透徹して澄んでいる・・・・と思いたいのですが、何とまだまだ生臭いのには困ってしまいます。

 渋谷から東急東横線で一つ目、山手線の恵比寿から歩いてすぐの「代官山」は、都会の喧騒から距離があって、たたずまいが落ち着いているのには驚かされます。お洒落で気取っていて落ち着いているのは、信じられないほどの感じがしています。昨日は、横浜よりひと駅の中目黒まで行って、「ブックオフ」で本を探してみました。こういった過ごし方は、やはり日本の生活なのだと思ってしまいます。

 そういえば明日は、中国では「春節」、つまり旧暦(農暦)の正月元旦なのですから、今日は日本的に言うと「大晦日」になります。今晩の中国は、爆竹の破裂音と花火の打ち上げ音で街中が大騒音に満ちあふれることでしょうか。「春の到来」の喜びが、張り裂けるお祝いなのですね。中国、そして中国の親しいい友人たち、隣人のみんさんに取りまして、この新しい一年が、喜びのあふれる祝福の年であることを心から願っております。

『アッ、やっぱり日本だ!』


 昨晩、仕事のために一時帰国した娘と、次男と三人で新宿の街で落ちあって、食事をし、買い物をしました。この街は小学生の頃から、たまにやって来ては歩いていた街でしたし、ことのほか学生の頃には、友達とワイワイやっていた街の一つでもありました。ですから、熟知とまでは言いませんが、まあまあの新宿通だったかも知れません。私の職場の本部が市ヶ谷にありましたので、会議がはねると、決まって新宿で下車しては、西口の飲食街の一角でご馳走になったのです。あの時の上司も他界されたと聞いていますので、昨晩、その西口の様変わりした街を歩いて、思い出してしまいました。東京大学の法学部をでたエリートでしたが、官界には入らないで、私学教育界で活躍された方でした。長崎の壱岐の出身で、お酒の好きな人でもありました。会議録を書いて出しますと、『駄目!書き直し!』と言われて、なんども書き直させられました。そんな上司でしたが、生意気な私を、よく連れ歩いてくれ、奥多摩の山を一緒に歩いたこともありました。この新宿の街を、酔って歩いていたこの方の後ろ姿が見えるようでした。

 もうすっかりお酒をやめてしまている私ですが、昨晩は、酔客がそぞろ歩いている間を子供たちの後について歩いていました。新宿の西口には、父の会社の一つがあって、何度か連れていってもらったことがありました。まだ淀橋浄水場があり、工学院大学の校舎が見え、都電が走っていた頃ですから、都庁や住友ビルなどの高層建築物などはありませんでした。昨晩、9時過ぎの新宿西口の飲食街、最盛期に比べると人通りが少ない感じがしました。やはり景気低迷の影響があるのでしょうか。

 パソコンや携帯電話関係の製品を買いたいというので、ヨドバシカメラの店内に、ついて入りましたが、そこは若者で混雑していました。ものすごい種類と量が店内いっぱいに並べられていて、ここばかりは景気がよく、需要が多いのだと分かりました。いくつもの製品を手にとってみました。ほとんどが、 Made in China でした。その他の販売館にある製品を確かめて見ることはできませんでしたが、そこも同じなのでしょう。これほどのものが中国で作られて、日本中、いえ世界中に輸出されているといった、中国の工業生産力には、今更ながら驚かされた次第です。このヨドバシカメラには、中国などからの旅行客がやってきて、旺盛な購買力で買って帰られるれるようです、自国で生産した製品、もちろん、パナソニックとか sony とか toshiba などの日本メーカー品ですが、それを持ち帰るのです。パソコンや携帯などの先端のメディア製品は、若者にとっては必需品になっているのでしょうね。どのように使うのか、まったく見当のつかないような製品が店頭に並んでいて、見ているだけでめまいがしてくるほどでした。

 三人で食べた夕食は、とても美味しかったのです。一昨日も、長男と孫たちで回転寿司に行き、ご馳走になったのですが、昨晩も「焼き牛タン定食」を食べたあと、同じような回転寿司店に入りなおして、喰い改めたのです。お菓子の安売り店に入って物色した後、娘は会社が用意したホテルに帰り、次男と私は代官山の家へ帰りました。つい満腹以上に食べてしまった帰り道がきついかったのは勿論のことでした。時々、地震で揺れている日本の首都ですが、平和で、豊かで、雑踏の中にも、満員の電車の中にも、どこかすました様子があって、『アッ、やっぱり日本だ!』と思わされること仕切りでした。

(写真は、新宿西口午前0時の様子です)

若者風情


九ヶ月ぶりの日本は、豊かな感じがしましたが、それは表面的なことだけなのでしょうか。アメリカ経済の破綻、ギリシャの国家的経済の困窮、そのあおりで世界経済が減速していると聞いていました。さらに、昨年の大震災の影響と円高で、日本でも中小企業が生き残りをかけて、東南アジアに新天地を求めて、安い人件費、特恵待遇をえて工場疎開をしていると聞いています。そんな動きの中で、国内の求人が減少し、景気低迷しているのだとの情報を得ていましたから、ちょっと意外な感じを覚えたのです。成田空港からJRエクスプレスの電車に乗って新宿に出て、中央線に乗り換えて、母のいる街の駅で下車しました。私の周りにいる人の様子、着る物、持ち物、表情、動きなどには、落ち着きがあり、豊かさや満足さが見られたのです。息子は、『見せかけ!』と言ってます。

この狭い国土に、多くの人が生活しながら、これだけの経済の繁栄を経験し、それを持続しているのは、やはり「東洋の奇跡」に違いありません。終戦後の焼土とかした国土荒廃、敗戦経験による戸惑いと無気力さの中で、朝鮮戦争の「特需」が、日本の経済界に勢いをつけたことを、小学校の社会科の授業で学びました。また、城山三郎の「官僚たちの夏」によりますと、戦後の経済界を鼓舞激励したのが通産省の官僚たちであったようです。占領国の悲哀を克服するために、国家主導の産業界の再編成がなされたのです。世界に通用する「物作り」に励み、さらなる改良を積み上げてきたのが、私たちの父の世代で、それを受け継いだのが私たちの世代だったのでしょうか。頑なまでのこだわり、愚直な努力、世界を『アッツ!』と驚かせ続けさせてきた極上の物の生産と提供でした。そして、その動きが、今日にいたるまで続いていることに、驚かされるのは私だけではないと思うのです。

幾たびも奈落の底に落ちそうな瀬戸際に立たされながらも、這い上がろうとする遡及力を忘れないで、奮い立った先人から、こういった心意気を継承したのにちがいありません。しかし日本の物作りにしても、その発端は、朝鮮半島から渡来し、帰化した韓民族にあります。さらに、この韓民族に知恵や技術をもたらせ、精神・思想を教えたのが中華民族になります。この歴史の事実を忘れたら、日本人の独りよがりになってしまいます。「謙遜さ」を徳とする日本人は、これを忘れずに、励んできた結果、この特性を身につけることができたのに違いありません。そうやって築かれた繁栄は、前の世代からの遺産であって、今の世代が、この恩恵への感謝を忘れてしまうと、見せかけの繁栄も潰えてしまうのではないかと、ちょっと心配です。

今、帰国時の宿を次男の家に決めて、都会のど真ん中で過ごしています。昼ご飯時に、次男と一緒に出て、あちこちと歩いたのですが、お上りさんと思しき老若男女が、そぞろ歩いてるのと行き合いました。華の都の名所の一つなのでしょうか、訪ねてきたみなさんには購買力があって、好いものを求める高級志向は衰えているようには見えません。しかし、義母を尋ねた先週、地方都市の中心街の街並みは、年年歳歳、シャッターの降りている商店が増え続けているのです。『ここにあった店が、駐車場に変わってる!』というケースが多くなっておりました。かつての羽振り好さを感じることができないのは、とても寂しいものです。東京はともかく、地方に活力がなくなっているのを感じますから、日本はアンバランスになって、周りの海に落ち込んでいってしまうのではないかと、とても心配になってしまいました。

どこででもみかける顔立ちも服装も整った若者なのですが、海外志向から国内残留、冒険よりも保身、アパートに住みながらも似つかはしくない高級新車を手に入れたいと願うマイカー志向から何ランクも下がってちょっと格好の好い自転車志向に転じているのだそうです。堅実といえばそうですが、「危うさ」は若い人の特許だったのではないでしょうか。アジア人蔑視のヨーロッパに勇躍乗り込んで行った彼らの父や祖父の〈野望〉をなくしてしまっているのは、なんといっても寂しいものがあります。背伸びをすることなく、小ぢんまり纏まっている覇気の無さが、将来の日本にとっては、心配の種ではないでしょうか。「ゆとり教育」の教育効果は、シッカリと上がっているのですが、〈人間力〉が弱くなっているのが、極めて心配でなりません。九ヶ月ぶりの日本の現実に、戸惑う2012年の年の初めであります。

(写真は、代官山の街角風景です)

大将


 昨日、「親バカ」の次女からメールが来ました。小学校1年の息子の近況を、ジイジの私に知らせてきたのです。

『・・・毎日膝と服を泥だらけにして帰ってくる。どうも休み時間はお決まりの”フットボール”をしているようです。年上の子たちと一緒に走っているみたい。休み時間の先生と話をすると、校庭に3人ぐらいの大将(chief)がいて彼はその1人だそう。彼以外は2年生、3年生。この先生は思ったことをはっきり隠さないで言う人で、3人の性格を言っていたよ。
 彼はどんな大将かあててみて。
  1.ずる賢い大将(自分の良いように人を動かす)
  2.暴力大将(すぐ人をたたく)
  3.素直な大将(注意をされると二度としない)
ちょっと親ばかだけど、彼は〈3〉だそう。驚いたけど、彼はそんな子らしいよ。”本が書ける”ほどドラマがあるよう。子供の世界はシビアだからね。上手にできる子とできない子がいるんだよね。では彼のお弁当つくらなきゃ。じゃ、☆ちゃんによろしくね。・・・』

それで、私は、こんな返信をしました。

『・・・そう、3種類の「大将」がいるんだね。子供の世界を、そういった目でしっかり見ている先生がいるんだ。彼の大将ぶりは、そうだろうと思うよ。策略計略大将や強圧暴力強引大将でないんだね。公平で、みんなに好かれ支持される大将になってほしいね。ドラマを記録しておいて、教えてね。小学校の5~6年まで、クラスの番長だったけど、ある時、世代交代されて、没落したことがあったよ。三日天下だったけ、彼みたいな「好い大将」ではなかったからだね。今は、反省してるけどね。Sくんという同級生だけが、お父さんの味方になって、休み時間はいつもSくんと一緒で二人きりだった。◯◯◯の消防署に、お父さんが勤めていたけど、どうしてるかな。・・・彼のリーダーシップを、養い育てたいね。◯◯、頑張ってね。◯◯ちゃんは、そんな兄貴を見てるんだね。◯◯◯◯オジ(家内の長兄)も、番長だったようです。すごく正義感があったようです。彼らのお父さんとと◯◯◯◯オジに似たんだね。・・・』

 中学を出て、ハワイの高校に留学して、夏期休暇で親もとに帰ってくると、近所のスーパーのレジのアルバイトを、姉と一緒にするのを常にしていました。彼女の兄と弟も、そのスーパーで働いていましたが。高校を出ると、西海岸の大学に進学し、卒業後の1年を大学付属の幼稚園で働いて、帰国間近に、その街にあった学生宿舎で出会った一人の青年と結婚したのが、この次女です。ある時、『お宅は、どんな躾をしてるんですか!』と、電話が入りました。行動派で目立って、いつもみんなの真ん中にいた彼女を、目立たない子のお母さんに妬まれたのでしょうか、子育てまでも干渉されたことがありました。4人を育てさせてもらいましたから、ちょっとやそっとの非難で落胆することはありませんでした。家内と私は、好いところや自然性を大事にして育てようと決心していましたから。今、この次女には二人の子が与えられて、子育て真っ最中です。〈だれにも愛される子〉であるように、そんな子育てをして欲しいと、メールの返信をして思う今朝であります。どんなドラマがあるんだろうか?

(写真は、ライオンの母子です)

和の里の湯

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 昨年の暮れに、一つの買い物をしました。新聞配達をしている友人が紹介してくれたものです。田舎の道路際に、作業場兼展示場があって、店頭に並べて販売していた物です。前もって、『あったら紹介してくださいね!』とお願いしていたのです。しばらくたってから、『廣田さん、おそこで売っていました!』という知らせをしてくれたのです。それで自動車を持っている友人に乗せていってもらって、買いました。自動車の後ろのシートに積み込むことができて、家まで運んだのです。力仕事を禁じられていましたので、アパートの門衛をされている若い方と交渉して、15元(200円弱)で、5階の私たちの家に運んでもらったのです。そして、シャワールームに入れてセットしたのです。もう何かお分かりと思いますが、「風呂桶」です。木目があって、まさに日本で昔使っていた風呂桶と、ほとんど同じような形と感触です。 

 小学2年から20歳まで住んだ街の、私たちの家から甲州街道に下ってくる途中に、風呂桶屋さんが二軒あり、暖簾分けしたのでしょうか、同じ屋号でした。その作業や道具が面白くて、学校の帰りには、よく覗き込んだことがありました。独特な鉋(かんな)で、『シュッ、シュッ』と丸みを帯びて削ったり、その木を接着剤を使わないでつなぎとめる技術は圧巻でした。水をいれると、しっかりと膨張して、一滴の水も漏れることがないのです。乾いていても、タガが外れることがなかったから、驚くほどの技術だったのでしょうか。しかも木の材質が、「檜(ひのき)」でしたから、何とも言えない木の香がしていました。大人になって、有名な温泉場の浴場が、この檜で出来ていたことがあって、子ども頃を思い出されてとても懐かしかったのを思い出しました。買った風呂桶は、ニスが塗ってあり、木と木とは接着剤て合わせてあって、子どの頃に眺めた、桶屋さんのような緻密さはないのですが、大満足です。

 さて、風呂桶を入れたシャワールームを、実は「和の里の湯」と命名しました。というのは、このアパートに「和」の漢字が使われていること、家内と「和やかに暮らすこと」を願って、そう呼ぶことにしたのです。将来は、三保の松原から富士を仰ぐ絵を浴室の壁に描いてみたいなと思うのです。今晩、つまり元旦の晩も、この風呂桶に湯を張って、「伊香保温泉の素(入浴剤)」を入れて、「八木節」と、永六輔作詞、いずみたく作詞、デユーク・エイセスが歌った「いい湯だな」を、一声、二声うなりました。湯気は天井からポタリとは落ちませんでしたが、ひと時、中国にいるのを忘れて、群馬県の山奥にいるような錯覚を楽しんだのです。

 これまで中国での生活に何も不自由を感じなかったのですが、ただ一つ、『これに加えて、風呂に入れたら天国なのだがなあ!』という願いを消すことができなかったのです。その切なる願いが叶えられて、満満足な元旦を過ごすことができております。ある日本人の友人の家を、昨晩訪ねて、ごちそうになりましたが、彼の家には、「畳」の部屋があるのです。次は「畳」かなと、ちょっと日本情緒に恋心を感じている、2012年の年頭であります。風呂桶は日本円で6000円ほどでしたから、夢を叶えるにはずいぶんと投資がすくなくてすみましたのも、満足の一つであります。今、家内が、『極楽、極楽!』と言って出てきました。

(写真は、木曽さわらの風呂桶です。こんなには立派ではありませんが!)