みずありがとう


 「みずありがとう」余震の中給水活動(産経新聞 5月8日(日)14時51分配信 )

 陸自北富士駐屯地(山梨県)第1特科隊、郷田直人3等陸曹は1通の手紙を記者にみせた。

 「きゅうすいのおにーさんへ がんばってください みんなでちからをあわせてがんばってください みずありがとう」(原文)

 出動命令を受け、郷田3等陸曹が向かったのは茨城県北部。田中智顕(ともあき)3等陸佐を現地指揮官に特科隊員51人が3月14日から29日まで、駒門駐屯地(静岡県)の隊員と計85人で給水、給食活動を展開した。

 活動範囲はひたちなか市のほか北茨城市、高萩市、日立市など。避難所には被害が大きい沿岸部の住民が避難していた。余震は続き、震度4から5弱が1日十数回。

 郷田3等陸曹は日立市の高台にある久慈中学校で給水活動にあたった。住宅被害を免れた住民らも水道が破損して隊の給水車に列を作った。

 1度に200人も並ぶ。1人が容器を持っていなかった。夢中で沿岸から逃げてきた人に容器はない。郷田3等陸曹はとっさに「バケツがあれば未使用の指定ゴミ袋を広げて入れて」とアドバイスした。間もなく1人がバケツに指定ゴミ袋を入れて郷田3等陸曹に差し出した。

 隊員の勤務は午前7時から午後8時まで。避難所では給水を待つ列が続く。昼食をゆっくりと食べてはいられない。トラックの荷台で隊から支給された冷たいレトルト食品を胃袋に流し込む。

 郷田3等陸曹は被災者にできる限り声をかけた。「家は大丈夫でしたか」「けがは」。すると年配女性が「こんなものしかなくてごめんなさい」といってあめ玉をくれた。大切なあめ玉にちがいない。「こんなもの?
これ以上のものはない!」。感謝した。

 幼子(おさなご)からの手紙はそんな折に届いた。かわいらしい絵封筒に入っていた。便箋(びんせん)の裏に母親も書き添えていた。「寒い中の給水作業、本当にありがたい。隊員の一生懸命な姿に勇気づけられます。娘が手紙を書きたいというので私もお礼をと思い、書かせていただきました」。

 被災して不自由な生活でも生き抜いてほしいとの思いが自衛官の業務を支えるが、被災生活を続ける住民の温かな心に触れ、郷田3等陸曹は「勇気と力をもらった」。

 一方、田中3等陸佐は炊事班を統制していた。避難所の食事は救援物資の範囲で作る。コメだけならおにぎり。パンのみということも。すると田中3等陸佐は隊員に湯を沸かすよう命じた。

 「せめてスープだけでも」。あり合わせの材料でパンとともにスープを提供した。ある自治体には救援物資として姉妹都市から野菜や肉が届いた。コメはある。「カレーを作って」のリクエストに応えた。

 野菜の中にゴボウがあった。支給食材を使わなくてはならない。“ゴボウ入りカレー”となったが、冷たい体育館での避難者に湯気が上がるカレーライスは好評だった。

 任務を終えた田中3等陸佐は話す。「余震が続き、大変な時期がまだ続く。第2のふるさとではないけれど自分たちが活動したことで(茨城県北部には)特別な思いがある」。「茨城愛」こそが自衛隊員自らを支えている。(牧井正昭)

(写真は、陸上自衛隊北富士駐屯地第一特科隊の給水活動の様子)

 
 4月21日に、中国に帰って来まして以来、以前と違うことが一つあげられます。何となく家の中が、《暗い》ではありませんか。電気がついていないからなのです。今回の帰国で、長男の家、そして次男の家に寄宿させてもらっておりました。あの3月11日からの40日ほど日本滞在中には、計画停電がおこなわれ、節電も余儀なくされたのです。ただ、次男の家は23区以内の都心ですので、計画停電の除外地域でしたから、強制的な停電はありませんでした。しかし次男は、いつもですとこの季節、ガンガンと暖房をかけていますのに、あの日以降、字が読めないくらい室内の照度を落として生活をしているのです。蛍光灯や白熱球ではなく、LED電球に付け替えて、消費電力を落とす努力をして生活しているのです。それが習慣化してしまったのでしょうか、3ヶ月ぶりのこちらでの生活でも、つい《節電》してしまうのです。日本のような明るさには、ちょっと届かないこちらの夜間照明ですが、この夏の電力消費量をまかない切れないのだと、ニュースが報じていました。
 
 そんな日本や中国の電力問題のことを、私なりに考えていましたら、今日のニュースで、今上天皇、明仁さまご夫妻が、計画停電の除外地域にある皇居ですのに、ご自分の住宅や執務室で、時間を決めて《計画停電》を、一日も休まずにしてこられたと報じていました。その累計時間は、130時間だったそうです。ご自分を厳しく律して生活をされているのは、私たちが倣うべき模範ではないでしょうか。これこそ王道を歩まれる真の王さまではないでしょうか。このような謙遜で自重される王を戴いています私たちは、お二人に感謝しないければならないと思わされたのです。

 被災者のみなさんを慰問されたときには、お二人で黙祷されておられる後ろ姿を見て、お年を召されて少々小さくなられた明仁さま、美智子さまですが、凛(りん)とされておられるのを見て、私も背筋を伸ばしてしまいました。優しいのですね、お心が。中学生の明仁さまが、学校の旅行のおりに、友人たちとトランプをされておられた写真を見たことがあります。家で、ゲームなどしたことなどなかったのでしょうね。十代の多感な明仁さまが、楽しく興じられているのを見て、親近感が湧いてきて、皇室と私たちとの距離が、大変縮められたのを感じたのです。

 好きなときに駄菓子屋に飛んでいったり、食べたくなって中華そば屋の暖簾をくぐったことなど、一度たりともなかったでしょう。もちろん生活苦などなかった代わりに、私たちが何気なく楽しめたことを楽しめなかった境遇を思って、申し訳ないなと思ったりもしました。でも、御夫妻は、いつでも私たちと同じ目線に立って話し合い、握手をし、感情を分かち合いたいのです。そうできない立場も認めなければなりませんが、不自由の中を歩んでこられた皇室のみなさまの上に、心からの祝福を願っております。

 明仁さまは、お病気をお持ちですから、健康にご留意され、いつまでも私たちの《キング》であったほしいと思う、「憲法記念日」の前の晩、遥かに故郷に想いを向ける夕べであります。

(写真は、4月27日に三陸町歌津でもうとうされる、明仁さま、美智子さま御夫妻です)

たかが・・・されど

 
 30年ほど前の1979年に、「チャイナ・シンドローム」というアメリカ映画がありました。「怒りの葡萄」や「荒野の決闘」で熱演した、往年の名優ヘンリー・フォンダの娘、ジェーンがテレビ局のキャスターを演じたものでした。その内容を、goo映画から転載します。

 「キンバリー(ジェーン・フォンダ)は、ロサンゼルスのKXUAテレビ局の人気女性キャスターで、ある日、彼女は、カメラマンのリチャード(マイケル・ダグ ラス)と録音係のヘクター(ダニエル・バルデス)をともなって、ベンタナ原子力発電所の取材に出かけた。厳重なチェックを受けた3人は広報担当のギブソン (ジェームズ・ハンプトン)の案内で、取材を開始した。しかし、中心部のコントロール・センターでカメラを回そうとしたリチャードが、ギブソンに禁止だからとそれを止められる。その時突然震動が起こり大騒ぎの制御室の中で技師のジャック(ジャック・レモン)が冷静に指示を与えている。やがて、放射能もれがわかり、原子炉に緊急停止の命令が出された。その様子をリチャードがカメラに収める。スタジオに帰ったキンバリーは、早速プロデューサーのジヤコビッチ (ピーター・ドーナット)に、そのことを報告した。原子炉の事故は一大スクープになるはずだ。しかし、ジャコビッチは、このニュースを流すことに反対し た。

 調査の結果、その後の発電所に異常が認められないため、運転が再開されることになるが、ただ1人、ジャックだけは不安な予感を抱いていた。発電所の近くの酒場で、ジャックはクビを言い渡されたリチャードを探していたキンバリーと出会った。リチャードは、例のフィルムをもったまま行方をくらましているのだ。キンバリーと別れたジャックは、かすかな震動を感じ、原子炉を調べにいった。やはり、ポンプの一つにもれがあった。もう少し様子をみてから運転を再開 すべきだというジャックの忠告に、しかし所長は耳をかそうともしなかった。
 翌日、取材に出かけたキンバリーは、偶然、リチャードに会う。彼は、例のフィルムを物理学者のローウェル博士(ドナルド・ホットン)に見せにきたのだ。フィルムを見た博士は、もう少しでチャイナ・シンドロームになるところだったと断 言した。チャイナ・シンドロームというのは、原子炉の核が露出した時、溶融物が地中にのめりこんでいき、地球の裏側の中国にまで達するという最悪の事故のことだ。一方、ジャックは、発電所内の各所にあるパイプ結合部のX線写真を調べているうちに、重大なミスを発見した。それは、納入業者が製品チェックの手ぬきのために、同じ写真を何枚も焼き増ししたものなのだ。

 事故の原因追求に悩みぬいた末、ジャックはX線写真をキンバリーに渡し、世論に真相を訴える決意 をする。しかし、その頃、何者とも知れぬ者たちが動き出し、まずX線写真をとりに行ったヘクターが車ごと崖下に突き落とされ、ジャックも彼らの追跡をうけ、命をねらわれた。そこで、ジャックは残された1つの手段を決行することにした。それは、発電所の中心部にジャックが篭城し、発電所をキンバリーに取材させ、内部の異常を世間に知らせようというもので、言うことをきかなければ、核をもらすと所長を脅した。しかし、外から中心部を操作できる発電所の人間 が、発電所の動きを止めたため、ジャックは射殺され、すべて酔っぱらいのたわごととしてかたづけられることになつた。しかし、キンバリーは、追求を続け、 発電所内の人間の証言をとり、ニュースで事実を発表するのだった。 」

 題名の「チャイナ・シンドローム」は、アメリカの原発が炉心溶解を起こしたら、地球を突き抜けて反対側の中国にまで熔けていってしまうのではないかという会話の中のジョークから付けられているのだそうで、中国を非難しているのでは決してないのです。3月の東北大震災、それにともなって起きた原発事故は、自然災害ではなく《人災》なのでしょうか。先日も、渋谷で抗議デモがあったとニュースが伝えていました。たかが映画ですが、されど映画なのでしょう。人の営みを警告しているメッセージには、目と耳と心を向けて、正しく状況を理解し、どうすべきかの判断を下したいものです。

(写真は、映画「チャイナ・シンドローム 」のポスターです)

神秘


 「神秘」、goo辞書によりますと、《[名・形動]《古くは「じんぴ」とも》人間の知恵では計り知れない不思議なこと。普通の認識や理論を超えたこと。また、そのさま。「宇宙の―を探る」「―な美」 [派生]しんぴさ[名] 》とあります。

 小学校の理科の時間に、自然の成り立ちを学んでいたときに、驚いたことを思い出します。地球と太陽の距離、光や熱をそこから受けていること、引力、地球の傾き、地球が天空に浮いている惑星であること、エンジン動力を持たないのに回転し動いていること、空気の濃度、太陽の照度、雨の降る量、日本には四季が明確にあること等々、その自然の不思議さ、驚異に目を見張ったのが昨日のことのように感じられます。何よりも不思議なのは、不思議に思う人間の存在でした。本当に核、アメーバー、小生命体、猿、類人猿、私という順序に変わってきたのだということは、どうしても信じることができませんでした。飛行機を発明し、月に足跡を記し、ペニシリンを作り出すほどの驚異的な能力を持つ人間、悲しんだり喜んだり怒ったり笑ったり妬んだりし、字を書いたり詩を作ったり本を編集する人間、言葉を持って交流する人間、平和を願ったり戦争をしたりする人間、その様な高尚な理知的な人間の始まりが、そんなものだとは決して納得できなかったのを思い出します。こういった自然界にみられる《神秘》の前に、ただただ驚愕していたのです。

 これまで自分の人生に起こったこと、生まれた日本の国に起こったこと、更には全世界・全宇宙に起こってきたこと、そういったことを、今回の東日本大震災の悲惨さを見聞きして改めて考えさせられております。近年異常気象が世界中でみられますが、統計を調べてみますと、
【日本】   最高気温・2007年に多治見市と熊谷市で記録した40.9℃、最低気温・1902年に旭川で-41.0℃、最多降水量(一日)・1982年8月に奈良県上北村日出岳で844mm、最高震度地震・2011年3月11日14時46分頃 に透刻地方太平洋沖で Mw9.0 、最大瞬間風速・1966年9月5日(台風18号) に宮古島で85.3m/s
【世界】  最高気温・1927年にイラクのバスラで58。8℃、1983年に最低気温・南極のボストーク基地で-82.9℃、最多降水量・1952年3月15日から16日にかけてフランスの海外寮レニュオン島シラオス で1870mm、最高震度地震・1960年5月22日に南米チリ西岸でMw9.5(最大被害地震・1556年1月23日に中国今日最初で起こった「華県地震」で82万人から83万人の死者)、最大瞬間風速・1934年9月12日 にアメリ合衆国のワシントン山で231mph(103.3m/s、)
といった気象観測の記録がありました。

 こういった記録を思い起こして、どうして最高最低気温が100度や-150度、降水量が300mm、地震の震度が20MWになったりしないのだろうかと思うのです。何か大きな力が押しとどめ、限界点が定められているように思えてならないのです。太陽と地球の距離だって、もう少し近かったら地球は火の海になるでしょうし、遠ければ凍土に化してしまうはずです。空気中の成分だって、窒素(体積比で78.084 )と酸素(同20.946 )と二酸化炭素(同00.032 )によって成り立っているのだそうですが、この成分の比率の均衡が狂ったら、人は生きて生けなくなるのではないでしょうか。それなのに均衡が保たれているのは、何なのでしょうか。何によるのでしょうか。偶然なのか、それとも必然なのでしょうか。これこそが《神秘》ではないでしょうか。どんなに科学技術が進歩して、速度や震度や量や成分を見極めることができても、これらの限界を定めている《神秘》には驚嘆させられてならないのです。

 その均衡が、近年、狂ってきているのではないでしょうか。「普通の認識や理論を超えたこと」が頻発しているのではないでしょうか。ぎりぎりの限界点を超えて起こる事象が、脅威的になってきています。今回の東日本大震災の被害は、俳人芭蕉が愛でた三陸海岸の海岸線の美しさを、壊滅的に壊してしまったのではないでしょうか。自然は再生しますが、人の心の不安や恐怖はなかなかぬぐい去れないのではないでしょうか。どなたかが言われたような「天罰」ではないと思いますが、自然界が、追い込まれて悲痛な叫び声を挙げているのが、今回の出来事なのかも知れないなと思うのです。私たちに必要なのは、自然と和らいで共生することに違いありません。あんなに美しいこの日本の自然の景観が、どれほど生きていくために励みであったかを思い起こし、感謝しているところです。この日本の美、大自然の美の均衡が保たれ、この国土に生きる人々のさらなる励みとなるようにと、2011年の黄金週間の只中、PCの前でキーを叩きながら、独り住まいの私の願うところであります。

(写真は、実に美しい「三陸の海岸線」です)

記憶


  『あっ、この場面、いつか見たことがる!』、『えっ、この場所、いつか来たことがるんだけど!』と思ったことが、何度かあります。どう考えても、初めて出会ったのではないと思うのです。『どうして、この光景や、この街に見覚えがあるのだろうか?』と、しばらく考えこんでしまわけです。しかし現実の印象のほうが強くて、過去の経験を押し出してしまうのが常です。これを《デジャヴ(既視感と訳されたフランス語です)》というのだそうです。これは、ひとつの《記憶障害》なのだそうですから、あまり多くを語りますと、治療を勧められそうなのでやめますが。

 4月21日の夕刻、三ヶ月ぶりに、長楽にあります「福州国際机場(飛行場)」に降りました。空港から街中まで、中国版リムジンに20元で乗り込んだのですが、沿道の風景はみなれた独特な懐かしいものでした。心のなかで、第二の古里と決めてありますので一入です。風景の懐かしさはもとより、ここには独特の「匂い」があるのに気づきました。育った中部山岳の山里にあった家にも、沢違いの同じような村里の家にも、4人の子どもの教育のために越してきた八王子、日野、稲城の家にも、そこには父母がいて、兄弟たちがおり、飼い犬もいて、住む家は違っても、父の家の「匂い」の懐かしい記憶があるのです。子育てをした盆地の中の、いくつもの引越し先、住宅にも、それぞれの思い出と共に、家族の独自の「匂い」があったのを思い出すのです。

 今回の帰国の折、長男の埼玉の家で過ごしたときに、『この洗濯物の匂い、アメリカのオレゴンの匂いがする!』と感じたのです。そういうのはよくありますね。この街にできたスターバックスに入りますと、初めて入ったホノルルの店の雰囲気や匂いを思い出しますし、オレゴン・ポートランドも思い出してしまいます。しばらくご無沙汰をしていますので、近いうちにスタバに行ってみたいと思っています。

 今回の東北日本大震災で被災された方々の住み慣れた街は、無残にも押し流されて跡形も無い惨状を見せています。遠望の山や街の形は残っていても、歩きなれた道も公園も商店街も学校も見当たらなのだそうです。今朝テレビを見ていましたら([KeyHoleTV3.13]というインターネットの局があって、次男に見れるようにセットしてもらいました)、お母さんの故郷の福岡県直方(のうがた)の高校に入学した、新一年生の女子高校生の特集が放映されていました。何代も何代も住み慣れた故郷や友人から離れるというのは、定着居住の農耕民族の日本人にとっては、実に厳しい選択と決断なのでしょうね。でも、きっと素晴らしい思い出を携えてやって来た九州で、確りと学ぼうとした若い世代の彼女は、うしろ向きでははなく、輝く将来に目を向けた生き方に、祝福を願ったことです。

 直方には仕事で一度行ったことがありますが、閉山してしまった今は、もう石炭の採掘も「ボタ山(石炭クズを盛ってできた小山)」も過去の事になってしまっているのでしょうか。街のそこかしこに、そのボタ山がありましたが、その光景もその《匂い》も様変わりになっているでしょうか。新しい生活を始めた直方、きっと懐かしい「匂い」のある街となるのだろうと思うのです。そんな決断をして故郷の《匂い》を後にし、離れた多くのみなさんに、心からの応援を送りたいと願う、五月の連休前の私であります。

(写真上は、震災前の「陸前高田の桜」、下は同じく「陸前高の海」です)

学者と学徒

 
 江戸時代の幕末、土佐に「万葉集」を研究する国学者で、鹿持雅澄(かもちまさずみ・1791~1858)がいました。独学の人で、死後になりますが明治になって、彼の研究した「万葉集古義 (141册)」の大著が刊行されています。それは「万葉集」の注釈書で、後に大和言葉、和歌を学ぶ学徒に、貴重な資料を残したことになります。幕末の尊皇攘夷の高まりの中で、土佐勤王党を立ち上げた武市半平太は、雅澄の甥だそうで、研究の傍ら「私塾」を開くと、半平太や次代を担う多くの青年たちが雅澄を慕って、彼の門をくぐり学びを受けたようです。土佐の志士たちの「勤王思想」に強い影響を与えたことになります。半平太と共に成長し、西に東に奔走して、青春の血を燃やした坂本龍馬(1836~1867)と同じ時代人ですから、龍馬もまた彼の感化を、直接間接に受けているのかも知れません。

 私が3年の間働かせてもらった職場の所長は、この鹿持雅澄の研究者で、「萬葉学の大成 鹿持雅澄の研究 」といった書を残しています。国学も万葉集も学んだことのない私ですが、日本語を教える機会を得て目覚めたのでしょうか、この恩師の書を、この度、古書店から手に入れました。「やまとことば」への関心が、とても強くなってきておりまして、『日本語の表現って、なんて美しいいのだろうか!』と、この数年、しきりに思わされているのです。

 さて、中国でしばらくの間、交わりをしてきました若い友人が、日本留学の機会を得て、高知県下の高等学校に留学が決まり、彼の入学式が4月15日に行われました。そこで中国にいますご両親、祖父母の代役で出席したのです。実は、この学校の校長先生と校長室長(秘書でしょうか)が、昨秋、私たちの住んでいる華南の街を訪ねて来られました。彼の留学のことについて相談していました方から、このニュースを聞きましたので、時間を割いていただき、シャングリラホテルで、若き友人と共にお会いしたのです。その歓談のおり、『私に任せてくださいますか、彼のお世話をいたしましょう!』と、校長先生が約束してくださったのです。それから話がトントン拍子に運びました。とくに室長の先生が好意を寄せてくださり、何くれとなくご指示くださり、国際部担当の先生が事務上のことを進めてくださったのです。私の友人を、このような形で受け入れてくださり、お世話くださることへの感謝を込めての出席でした。とても良いお交わりをさせていただき、式の前には校長先生と室長、式後には事務長との機会を得て、夕刻、学校を辞しました。

 この祝福の機会に、もう一つの願いを叶えたくて、時間を工面して、この萬葉研究者・鹿持雅澄の記念碑のある、安芸市大山岬を訪ねることが出来ました。ここは高知から室戸岬に行く途中に、太平洋に突出し、近くに《道の駅》もありました。もちろん、恩師の書を手にしてのことでした。その碑に、次のような和歌が刻まれていました。

     「あきかぜの福井の里にいもをおきて安芸の大山越えかてぬかも」

 この意味は、「冷たい秋風の吹く、高知城下の福井の里に妻を残して、ここまで来るには来たものの、まだこの大山峠を越えて行かなければいけないけれど、仕事での来訪ではあるが、残して来た妻の事が気がかりで心配でならない!」でしょうか。雅澄が、家庭志向の人であることが察せられ、そんな人柄に魅せられた恩師が、彼を高評価しているのです。この留学した若い友人は、「民俗学」に感心があって、様々な困難の中から留学の門が開かれたのです。初めての外国、日本、高校生活、寮生活、団体生活で、大きな戸惑いを覚えているのを、しばらくぶりに彼に会って感じましたが、早く日本の高校生活や風習や文化に慣れて、1年後の次の大学へのステップに進むことができるようにと願って、今夕、高知を発って羽田に戻ってまいりました。

 高知から歩いて大山岬の勤務に、雅澄はついたのですが、その足跡を追った私は、高知龍馬空港でレンタカーを借りましたので、車での大山岬行した。高知城内にも彼の碑文があるのですが、これは次回に回すことしました。高知の地で、万葉学者の息吹きに触れて満足な私ですが、将来への新しいスタートを切った若き学徒が、送り出してくれたご両親と双方の祖父母への感謝を深く覚えて、耐えて励むようにと願った、今回の高知への旅でした。そういえば魯迅も孫文も周恩来も日本留学を経てのことだった事を思い出した次第です。

(写真は、高知県安芸市の「大山岬」の海に沈んでいく夕陽です)

国民


日本の復興にとって最も強大な資源は「国民」―米紙
2011年4月13日 08時57分 (exciteニュース)

 2011年4月8日、米紙ウォール・ストリート・ジャーナルの中国語版ウェブサイトは、日本の復興にとって最大の資源は「国民」であると論じた。以下はその内容。

 それはまるで昨日のことのようだ。筆者は今でも50年代初めのミュンヘンで深夜、大量の掘削リグが「ダ、ダ、ダ」という音を鳴り響かせていたのを覚えている。彼らは当時、徹底的に破壊された街の再建に励んでいた。もはや再建は不可能だという声も上がっていた。ドイツの工業が再び欧州の強者になる日は絶対に来ない、と。だが、わずか数年後、ドイツ人は街を復興させたばかりでなく、世界のトップ3に入る実力をつけた。

 今、 ほぼ同じ試練が日本人の目の前に横たわっている。そして同じように、日本人はもうダメだ、復興など不可能だという声も聞こえている。世界銀行の試算による と、日本が復興を遂げるには5年の歳月と2350億ドルの費用が必要。今年の国内総生産(GDP)成長率は0.5%減少するが、再建作業が本格化する今年 後半には再び上昇するとの見方も示した。

 日本人は深夜も働き続けたドイツ人によく似ている。社会における教育と愛国主義への重視も突出している。この国は土地が狭く、自然資源も乏しいのにこれほどの繁栄を成し遂げたのだ。だが、最も強大な資源は「日本人」という国民だ。彼らはほぼ全員が優れた教育を受け、目標を成し遂げようとする強い意志を持っている。常に革新の精神を持ち、心の底から国の盛衰興廃に関心を寄せているのだ。(翻訳・編集/NN)

竹箆返し

 
  大地震、大津波、最近の頻発する地震のことを考えていまして、「竹箆返し」という言葉を思い出しました。weiblio辞書によると、『仕返しや逆襲のこと。「竹箆返し」と書く。竹箆(しっぺ・しっぺい)というのは、禅宗の修業で使われる竹などが素材の細長い棒のようなもののこと。「しっぺい返し」ともいう。』とあります。禅修行で、体が動いたり、集中力が途切れたりした場合、徳の高い僧侶が監督者となって、修行僧の背を打つのが修業の一つなのです。ところが打たれた僧侶が、役割交替で打つ場合があります。それを「竹箆付返し」といい、打たれた恨みを復讐したり、仕返したりすことこから、そう言い始めたようです。ゲームをした後に負けた者が、手首を人差し指と中指で打つことも「しっぺ」といい、よく子供の頃やり合ったものです。

  今日、原子力安全委員会の試算により、事故後からこれまでに外部に放出された放射性物質の量は、推定で「63万テラベクレル」に上るといっています。国際評価尺度では、外部へ放出された放射性物質の量が「数万テラベクレル」以上で「レベル7」と規定されました。この数字は、チェルノブイリ相当、それ以上の数値になるようです。なぜ、この3月に、こんな大試練のただ中に、日本と日本人が投げ込まれたのでしょうか。今、東京の一等地の次男の部屋のコタツにあたりながら過ごしていますが、自分が揺れているのか、地面や家が揺れてるのか区別できないような感じがしてきて、揺れても、なかなか立ち上がったり、避難のために家を出るようなことが少なくなって、大分油断度が増してきているようです。

  私の父は、1923年 9月1日(大正12年)に起こった「関東大震災」を経験しておりましたので、地震で家が軋(きし)み始めると、『雅、窓を開けろ!』と大声で叫んで、外に飛び出すのが常でした。子どもの頃には、この3月からのようにひっきりなしに地震が起こることはなかったと思います。時折の体験だったからです。東北地方の震災地の方は、『こう度々では、もう・・・・!』と言われていました。今や、東京でも、ひっきりなしに揺さぶられますから、同じ印象が口から出てしまいます。でも、みなさん、忍耐強いのには驚かされます。

  さて、『この数年、地震、津波、火山爆発、酷暑、大雨の被害は普通ではない。今までとは、違ったレベルの厳しさの災害が起きている!』と思ってきました。なぜなのでしょうか。私が思うに、これは自然が追い詰められて《悲鳴》を挙げているのではないかなと思うのです。国土保全、地球保護の呼び声を掻き消してしまうような、自然破壊が、世界中で繰り広げられ続いてきています。ジャングルが切り倒され、草原が砂漠化し、川も空気も水も汚れに汚れてきています。便利で快適な生活をするために、19世紀から今世紀にかけて、常軌を逸した自然への冒涜が続いてきたのではないでしょうか。経済や工業が隆盛することに比例して、人の心が疲弊し荒廃し、大自然が破壊され、そのリズムを大きく狂わされしまいました。追い詰められた鼠が、追う猫を噛み、打ち叩かれた僧侶が、打った僧に「竹箆返し」をする、そういったことが地球規模で起こっているように思うのです。

  『人が悪くても、そこまで追い詰めてはいけない!』ということを、私は学んできました。どんなに極悪非道な人を追い詰めても、《逃れの道》を残すのが人道上の配慮だということをです。ちいさな魚屋を営んでいる家族が、仕入れ値に2割3割を載せて得る、その僅かな収入で、子育てをしてきました。ところが大きなスーパーマーケットが、近くに大々的に開業して、彼らの客を一網打尽に奪ってしまいます。客を取られ魚屋は廃業に追い込まれて、再生の道などありえません。こう言った非人道的な商法が当然視され、自然界のバランス、次の時代を担っていく子や孫のために、豊かな自然を残すなどを考えるより、便利さや快適さが最優先されたため、自然を苛め抜いてきたのです。

  だから、追い詰められた自然が、《叫び声》、《絶叫》を挙げているのではないか、と思えて仕方がないのです。鼠が追い詰められて、猫に向かって小さな牙を剥くようにしてです。またシッペをされたら、その《痛さ》を知って、仕返しをしないのが一番ですが、きっと自然は、『わたしたちの送るメッセージに耳を傾け、よく原因を見極め、どうすべきかの結論を出しなさい!』と、人類と地球の将来を思って、《痛さ》がどれほどのものかを知らせたいと願っての《竹箆返し》なのかも知れません。これほどの《痛さ》を経験したことは、未だかつてないのですから、3月以来の尋常でない《痛さ》から、地球の将来を見据えて、しっかりと習得し、反省(「悔い改め」のほうがいいでしょうか)したいものです。

(写真は、「大津波」、岩手県岩泉町の職員が110311に撮影されたものです)

 
  現代社会の一大特徴は、あふれるほどの種々雑多な情報があって、どれが有益で正確であるのかの判断力や選択能力がないと、溺死してしまうにちがいありません。高校時代、台風到来の湯河原の吉浜海岸で、一度溺れ死にそうになったことがあります。どうしてでしょうか。1つは、『泳いではいけない!』との遊泳禁止の指示に従わなかったことが社会的な原因です。2つは、台風が近づいているときの潮の満ち引きの力は、想像を絶するほどに大きいのだという法則に従わなかったことが自然的な原因です。3つは、死ななかった原因ですが、人の力を超えた、自然法則とは相容れない奇跡で、岸に戻されたという神秘的な原因でありました。

  ところで、福島原発の放射能汚染が、深刻な事態を迎えて、世界が戦々恐々としております。昨日、若い友人が訪ねてきて、昼食を共にしました。彼の話によると、『東京以上に危険なのは、北京やローマだそうです。この両都市のほうが放射能の数値は東京よりもはるかに高いレベルです!』と言っておられました。彼は放射能関係の専門家ではありませんが、中国人の彼の知り得た情報でした。日本に留学をし、優秀な成績で日本の株式市場に上場する大手企業に就職が決まったのです。多くの中国人が帰って行く中、彼はこの3月、一時帰国先の古里からご両親に送り出されて、恐れずに東京にやってきて、先日入社式を終え、今は研修中とのことでした。その研修の合間の土曜日の昼過ぎ、代官山の駅で待ち合せ、ハンバーグの美味しい店で家内と3人で昼食を摂りました。彼のご両親には、中国でなんどもご馳走になり、彼の専門知識で私のPCのメンテナンスをしてもらってきました。そんな彼からの《情報》でした。

  NHKのテレビニュースで、原発の事態が、論説委員や専門委員や大学教授によってコメントされていて、視聴しています。産学協同の今日日、問題の渦中にある東京電力は、よくコメントをする大学に対して、相当高額の寄付金を捧げているのだそうです。それで、『事実を歪曲して話している!』、『真に深刻な事態なのに、「今は、人体には影響はありませんとよ!」としか言えない!』と、否定的な見方の情報もあります。もちろん日本や世界が、強烈で深刻な情報を聞いて、パニックに陥り、大混乱しないような配慮は必要ですが、必要不可欠の正しい情報を、すべての日本人、すべての隣国の人々、世界中の人々は願っているのです。正しい情報の提供を渋る理由が、産学の癒着、利権の金銭的な損得にあるなら、私も赦しません。また正しいと誰もが判断し、聞く必要のある情報を、もし操作しているのなら、その操作基準をはっきりと聞きたいものです。

  もう既に亡くなられたのですが、韓国の金大中元大統領が、日本で拉致された経緯について、マスコミの前で話された言葉を思い出します。それは、朴大統領が側近中の側近の部下によって狙撃されて、殺害された事件についてでした。『なぜ、こういった事件が韓国で起こったのでしょうか?』と問われて、『韓民族は、時の指導者が正しく政をしているなら、従順に従います。しかし一度、嘘偽り、義に反することをしたとき、はっきりとノーというのです。ですから朴大統領は部下に撃たれたのです。ところが、日本人は人とつながっています。よくても悪くても、「私はこの先生の決定を認め、それに賛成します!」として、認めてしまうのです。』と、日本人と朝鮮民族の違いを話されたのです。そんな話を、情報の閉塞の中で思い出してしまいました。

  不正、義に反すること、嘘偽りは、人道上、それらが人の命に関わるなら赦すことはできません。大きな影響力を持つマスコミが、正しい発言を躊躇するなら、マスコミの存在の価値や意義を失してしまっていることになります。そうであるなら効き味を無くしてしまって、外に捨てられる「塩」に成り下がっているのです。こういった専門分野に素人の私は、《正確な情報》と、《理にかなった解説と判断》を聞きたいと切々と願っています。

  なぜなら、私は、人類の最高の規範、指南書に、これまで聴き続け教えられてきたからです。人を恐れないで、失うことを恐れないで提供される、右に行くか、左に行くか、前に進むか、後に退くべきか決めるための情報を得ただけです。この深刻な事態を改善し、終息させるための《天来の知恵》が、事に当たっている専門家のみなさんの上に下ることを願うのが、長くこの書を読んできての結論なのです。その神秘的な知恵が、この事態の改善のための秘訣だと信じてやまないのす。人類はいくたびも、そうやって油注がれ用いられた有名無名の《器(うつわ)》によって危機を回避してきているからです。そんな器の出現を願わされている、桜花が散ろうとしている、大震災からひと月の日の昼過ぎであります。

(写真は、福岡県宗像から望み見る「玄界灘」です)

イスラエル医療団

  イスラエル医療団、医療機器など寄贈-「新たな志津川病院の基盤に」

 東日本大震災で外国政府が派遣した初の医療団として、宮城県南三陸町で医療支援を行っていたイスラエルの医療チームは4月10日、2週間にわたる活動を 終え、避難所の敷地内の一角に設置したプレハブの仮設診療所を、持ち込んだ一部の医療機器を含めて町に寄贈した。プレハブ施設は今後、津波で建物が大破し た公立志津川病院の医師らの臨時診療所として利用される。

 同チームは医師や看護師、薬剤師など60人。3月28日に来日し、現在も400人が避難生活を送っている同町総合体育館(ベイサイドアリーナ)の敷地内に仮設の診療所を開設。被災者への医療支援を始めた。
仮設診療所は6棟もある大規模なもので、血液検査やエックス線検査を行うための検査機器のほか、ICU(集中治療室)やNICU(新生児集中治療室)並み の高度な医療機器も完備。派遣された14人の医師は内科、外科、小児科、眼科、産科、耳鼻科など、幅広い診療科に及んでいたため、救急患者への手術や妊産 婦の出産にも対応可能だった。

 滞在期間中、同チームは約200人の被災者を診察。今回の震災では、津波で多数の死者が出ている一方、外科的な治療が必要な患者は少ないことなどから、未使用の医療機器もあったという。
 同チームのデイビット・ラベ医師はキャリアブレインの取材に対し、「最悪の事態に備えた上で、最善を尽くすのが災害医療。使わなかったこと自体に問題はない」とし、プレハブ施設を「新たな志津川病院の基盤にしてほしい」と語った。

 外務省によると、イスラエル政府の医療チームが災害支援で日本を訪れたのは初めて。また、ラベ医師の話では、同国の医療団が先進国で災害支援を行った例は過去にないという。(gooニュース・110410)