今がどのような時か

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 父に教えられた句に、次のようなものがありました。

 桐一葉 落ちて天下の 秋を知る

 さしもの暑かった夏は行き、暦は秋になっても暑さが和らがず、やっと今朝になって、寒さを感じられるようになり、「やっと」を思わせる季節が巡ってきたようです。家のベランダから見える、知人の庭の木の葉が落ちては掃き、落ちては掃きが繰り返されるようになりました。

 わがベランダも、白と紫の桔梗も咲き終わり、サンパラソルがしぶといように花をつけ、まだ蕾が二つほどあります。撫子も盛りがすぎて、遠慮がちに咲き、ペチュニアだけは元気に咲き続けています。盛りの時季を終えて、冬を見据えた秋の到来です。

 わが家に、女の子が二人与えられましたが、昔の人は、誕生と同時にでしょうか、桐の苗木を植えるのだと聞きました。大きく育った桐の木で、タンスを作って、娘の嫁入りに持たすためだとかでしたが、庭などない家にばかり住み続けた我が家では、そんな風流な風習を真似ることもできずに、嫁がせてしまいました。

 秀吉の家紋は、この桐でした。天下を手中におさめた豊臣秀吉の治世も、桐の葉が落ちていくように、終わりかけているのを、上のような句にしたのが、豊臣の武将の片桐且元だそうです。秀吉の配下で、朝鮮出兵にも遣わされた人ですが、最後には、家康についたのです。

 天下の移り変わりに即応して、難しい時代を生き抜いたのでしょう。家老職までこなしながらも、身を転ずるのは、あの時代では珍しくなかったのでしょうか。時を読むことができ、一族の将来を思いながらの決断を、且元はしたのででょう。

 パウロが、「時」について、次のように記しています。

 『あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。(ローマ131113節)』

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 一昨日、次の讃美歌(21 575)、「球根の中には」を聴きました。

球根の中には 花が秘められ、
さなぎの中から いのちはばたく
寒い冬の中 春はめざめる
その日、その時をただ神が知る

沈黙はやがて 歌に変えられ
深い闇の中 夜明け近づく
過ぎ去った時が 未来を拓く
その日、その時をただ神が知る

いのちの終わりは いのちの始め
おそれは信仰に、死は復活に
ついに変えられる 永遠の朝
その日、その時をただ神が知る

 そうですね、「日」と「時」を、知っておいでの神さまが、すべての日と時とをご存知なのです。

 織田、豊臣、徳川と移り変わった時代の流れと、その動きの激しさは、今も同じで、世界中から叫び声が上がっています。戦争と戦争の噂や話題がふえ、国と国、民族と民族の対立が激化しています。人心が乱れ、犯罪が凶悪化し、恐れと不安が満ちています。どんな時代なのかを読んで、「光の武具」で身を纏うように、パウロは勧めています。

 私たち、二十一世紀を生きている者も、目を覚まさないといけないに違いありません。だからこそ、「昼間らしい、正しい生き方」をする必要がありそうです。ソドムから出て、光の中で生きることでしょうか。

(霧の花と葉、球根です)

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古商都の今

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 家の近くに、「コエド市場(まちの駅)」があります。FMラジオのスタジオもあって、パンやお土産、近くの農家が作る季節の果物や野菜果物などが売られていて、けっこう便利です。コーヒー・コーナーもあって、「蔵の街」を観光で訪れるみなさんが、よく出入りしておいでです。「道の駅」の街中版でしょうか。

 この「道の駅」は、最新統計によると、全国に、1209 箇所ほどあるそうです。車社会の中で、新しい形態の複合商業施設で、駐車場、商業施設、休憩所、食堂などを兼ね備えたスポットで、人気度が高くなっているようです。車の運転をしなくなった私も、時々、市内の循環バスや自転車で出掛けています。

 とくに地元の農家が、農産品を記名入りで売っていて、運送費や宣伝などが省かれるからでしょうか、安く買うことができるのと、新鮮さが相まって人気の場所になっています。やはり、この便利なSpot も、功罪があって、社会的な弱者の〈われわれ世代〉に、問題を投げかけているそうです。

 13年ぶりに帰国して、たまに帰国しても短期間で、戻ると言った生活を繰り返してきましたから、日本の世情に疎くなって、ふと頭を上げてみたり、市役所に行ってみたりすると、もう歴とした「後期高齢者」になっていたのです。そう医療費負担の減額などの恩典に浴する世代になっているのに気付いたのです。

 車を利用しない、この高齢者にとっては、近場に、一軒でほとんどの物が揃う、スーパーマーケットがあることは大きな助けです。ここの家の周りは、かつては人の波が押し寄せるほどの賑わいだったのですが、今では多くの店がシャッターを下ろしてしまって、空き地も目立っています。私たちよりも少し年嵩の老い、ご婦人たちに独り住まいが多いようです。5年前に住み始めた頃にあった八百屋さんも、お店を閉めてしまい、クリーニング屋も消えてゆき、小さな魚屋が残っているだけです。

 おばあちゃんが、手押し車を押して買いに行ったスーパーも閉まり、遠道を買い物に行くお姿を見るにつけ、運動にはなりはしますが、ちょっと辛そうです。おっつけ私たちも、そんな姿で、人に見られるようになるのでしょうか。社会は、便利さや軽便さで動いていて、世の中の弱い立場の人たちは忘れられていくのでしょう。

 この「道の駅」などは、過疎の街中に住む人たちには、縁の遠い存在で、お嬢さんや息子さんが、たまに来て、通院の助けのついでに、連れて行ってもらうだけで、日常の生活には、用無しです。大型スーパーの進出で、商店が潰れ、小ぢんまりしたスーパーもやめてしまい、そこに自転車で出掛けていた人たちも、もうお歳やお病気で、乗れなくなってしまっています。さらにアメリカ資本の超大型の店舗がお隣の街にできて、少なからず既存のスーパーなども影響が出ているのでしょう。

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 細々と経営していたお店も、「道の駅」の近くの車でしか行けない距離の住民、とくにお年寄りを支えていた小型スーパーが、一方が栄えるにつれて、もう一方が衰えて、ついには閉店になっているのが現状です。こう言った、「買い物難民」の中には、タクシーを使える人はいいのですが、なかなか買い物の難しい世になっています。

 引き売りの軽自動車の移動店舗だって、山の方に住む人には便利でも、街中の狭間に生活している人には、届き切れてないのです。ここに、軽自動車で、週一回やって来る、高級豆腐の挽き売りがあります。紹介していただきましたが、だいぶ高額なので、いつの間にか手が引っ込んでしまいました。

 駅前のスーパーに代わって、郊外のバイパス沿いに、大型店が出店し、地方都市でも、駅周辺の過疎化が進み、今度は、また次の波が襲ってきているようです。以前は10年のサイクルで変化していたようですが、今は45年の間に変化が起こっているのでしょう。event があった時、どこからやって来られたか、昔栄えた商店街に、人の波ができていて、驚きました。その空き地に kitchen car や屋台が出て賑わっていたのです。住む街の様子です。

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信仰と教育の系譜

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 「日本の良心」を培うために、クリスチャンの果たした役割は大きかったと言えます。東海道の神奈川宿(現在の横浜市神奈川区)に、古刹の成仏寺がありますが、幕府はアメリカ人医師のヘボン(James Curtis Hepburn)の宿舎と施療所のために、ここを使うようにと、幕府は定めました。横浜港に、ヘボンが上陸したのは、1859年の秋のことでした。

 このヘボンは、おもに眼科医で、当時の日本には眼を病んだ人が多く、彼らの治療のために心血を注いだのです。「毛唐(外国人への蔑称です)」を撃つ機会を探って使用人として、ヘボン邸に同居した武士(身分を隠した刺客でした)が、その機会を探っていました。ヘボンの生活振りや挙動を見守るのですが、何の非も見つからないばかりか、その人格の高さに平伏し、ともに居住する必要を感じずに、暇乞いを願って、去ったと言われています。

 このヘボンは、ヘボン式ローマ字を作り、英和辞書を作り、聖書の翻訳をしています。さらに教育にも着手し、「ヘボン塾」を開学しています。後の明治学院の始まりでした。

 医療、宣教、教育などの面で、日本の近代化に果たした役割は、実に大きなものがありました。とくに教育が果たした実りには驚かされます。横浜で成された業だけではなく、熊本、松江、弘前などでも、聖書に基づいた宣教、医療、教育をもって、多大な影響力は、二十一世紀の今に至っても及んでいます。

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 札幌に農学校が開校されにあたって、来日した人が、あのクラークでした。1876年に来日し、翌年に離日していて、札幌には9ヶ月しかいませんでした。ヘボン上陸から17年後のことです。教頭職という立場で、教壇に立つにあたって、北海道開拓使の清田清隆に、農学を教えるばかりではなく、道徳教育を要請したのです。そこで、「聖書」を基にして、それをしたいと願ったクラークに、頭を縦に降らなかったのですが、結局は、清田が折れて、「聖書」が用いられたのです。

 クラーク(18261886)は、マサチューセッツ農科大学、アマースト校の校長でしたが、南北戦争に従軍した、北軍の士官でもあったのです。アマースト大学のカリキュラムで、教育が行われました。一期生が16名いたのですが、英語で教育がなされ、彼らには英語の基礎はありながら懸命に、辞書を引きながら学んだのです。しかし彼らは、187735日の日付で、「イエスを信ずる者の盟約」を結ぶのです。

 明治の初年、長い封建時代が終わって間も無く、札幌にやって来た若者たちが、イエスをキリストと信じたのには、驚くばかりの出来事でした。その一期生の主だった人は、佐藤昌介(北海道帝国大学総長)、大島正健(言語学者、旧制甲府中学校校長)、内田瀞(牧場主)、黒岩四方之進(牧場主)、伊藤一隆(道庁勤務を経て石油会社経営)、渡瀬寅次郎(教育者、種苗店経営)、柳本通義(台湾官吏)でした。

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 この他に、新渡戸稲造、内村鑑三が、二期生にいました。直接クラークの薫陶を受けなかった青年たちが、キリスト者として、後の日本や世界に大きな感化を及ぼすのです。とくに、教育や伝道で内村の働き、そして国際連盟での新渡戸の果たした働きは驚くほどのものがあります。

 私たちの在華中、説教の通訳や訪問の手伝いや結婚式の試式など、生活に全般にわたって、手助けしてくださった方は、省立の師範大学法学部の教師をされておいででした。彼女は、裁判官の仕事を経て、日本に留学し、広島大学法学部で、博士号を取得されておいででした。先日も、家内の見舞いのために2週間ほどの間、訪ねてくださったのです。
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 その広島大学は、戦後、総合大学として新しい一歩を記すのですが、その初代学長をされたのが、文部大臣や国会議員を歴任した森戸辰男でした。被爆地の復興とともに、若者教育を担った福山藩士の背景の人で、一校、東京帝国大学に学んでいます。一高時代は、校長であった新渡戸稲造の倫理学の講座に学んで、人格上の深い感銘を受けたのだそうです。この人の精神的バックボーンには、そんな出会いがあったのです。

 この森戸辰男は、どのように、新しい大学を導いたのでしょうか。どうも、新渡戸稲造の教育観の強い感化が見られます。

  『新渡戸 の教育は人格教育といわれています。森戸は、新渡戸 教育・大学の目標を、「職業的能率ではなく、専門的 知識ではなく、人格の涵養」にあると考え、それを体 験的に「吾々の精神の一般教育(ゼネラル・カルチュ )であった」としたのでありました。  森戸にとって大学とは、人格の涵養を行う場所であ り、大学教授とは教育者であったと。そして、森戸に とって新渡戸教育が新制大学――現在、広島大学は新制広島大学になっているわけですが――における一般 教育の原型と森戸は述べており、また、それを実践し ていきました。( 広島大学文書館 館長  一)』

 この、クラーク、クラークの感化を受けた農学校の一期生、新渡戸稲造、森戸辰男に至る「信仰の系譜」を眺めて、そんな教育理念で行われた広島大学で学び、広島の教会で信仰復興をした姉妹に至る流れは、神さまのご計画と導きに違いありません。この姉妹は、私たちの帰国後、教会のお世話を担って、愛兄姉とともに立っておいでです。

(ヘボン、クラーク、新渡戸、新渡戸と内村、新渡戸とこの中に森戸がいます)
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街を出入りする木戸があった頃

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 江戸の街には、「木戸」があって、夜間の市中の出入りを禁止していました。それは地区ごとに、街中の夜間の江戸の街の治安を守る目的だったのです。小学校で学んだ、「出女入り鉄砲」の取り締まりのためでした。諸大名の謀反を未然に防ぐために、江戸への鉄砲類の持ち込みの禁止、江戸に留め置いた大名の妻子が城外に出ることを禁止するのが主だったようです。高輪(東海道)、四谷(甲州街道)、板橋(中山道)、千住(日光街道)などに「大木戸」を設けたのです。

 この栃木宿にも、「木戸」があって、巴波川の幸来橋(以前は念仏橋と呼んでいました)があり、その近くに西木戸があったそうです。その西側の巴波川の河岸に公園があって、その真ん中ほどに、小塚がありまあう。祠のようなものがあって、『何だろう?』と思った箇所ですが、それは岐阜出身の西川謙之助の供養塔だとあります。この付近で、慶応3年に、宿場の出入りの箇所、「西木戸」の近くで、斬り合いがあって、その被害者なのです。

 物騒な時代があり、二度の世界大戦があり、戦争に負けて、与えられた平和な国ができて、感謝ですが、また、きな臭い匂いが、世界のあちこちで立ち込み始めています。私たちが過ごした華南の街の住宅には、「木戸」ではなく、どこにも頑丈な門扉がありました。住宅街の巡りは鳥のケージのように、鉄製の高い囲いがあって、鉄条網の箇所もあったりで、正門と裏門がありました。その門には、番をする係員たちが、出入りする人や車を見張っていたのです。

 よその住宅を訪ねると、初めての来場者だと分かるのでしょう、呼び止められて、誰を訪ね、どんな用かなどと職務筆問をされたのです。檻の中に住み、勤めた学校も同じで、鉄製の網や柵の中に置かれるのです。

 帰国してからの今の住宅は、鉄筋六階建てですが、どこにも鉄柵も木戸も監視所もありませんが、残念なことには、最近では防犯用の監視カメラは作動しているようです。だんだんと、お隣の国と同じ監視社会になって、何か居心地が悪くなってきてります。

 移動のための交通機関を利用するためにチケットを買うには、隣国では身份证shenfenzheng(身分証明書)なしには買えませんが、ここでは、どこへも自由に行き来できます。でも、監視カメラが増えて、きっと顔認識されて、誰がどこにいて、今どこに向かって移動中と言った事が、ITシステムによって分かる時代が、間もなく私たちの国でもできそうです。

 でも行動や生き方に、疾しさがなければ、恐れたり、恥じたりする必要はなさそうです。『ああ昔は良かった!』などと言っても、もう手遅れでしょうか。まあ感謝を忘れないで、一日一日、一週一週、一年一年と生きていけば好いのですね。

(江戸四谷の「大木戸」跡です)

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時と日と

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 “ singular day と言う単語が、毎日新聞に出てきていました。「特異日」を意味しているそうです。とくに、今日の「119日」は、ドイツにおいてはそう呼ばれる日なのです。偶然に起こる出来事が、同じ月の日の起こる確率はなさそうですし、何か意味があるわけでもな誘いですが、じつに興味ぶかいものです。

 1918年、ドイツが王政から共和制国家に移行の宣言。

 1928年、ヒトラー等によるのミュンヘン一揆(クーデター)。

 1938年、ユダヤ人の暴動。

 1989年、ベルリンの壁の崩壊。

 私にとっては、二親、三人の兄弟、妻、4人の子ども、孫や嫁や婿の誕生日は「特別日」で、入学日」、結婚記念日なども入るでしょうか。

 聖書の中で、パウロが次にようなことを言っています。

 『ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。(ローマ145節)』

 日本の社会も、お隣の中国や韓国も同じですが、日や方角に拘りをもっています。もし、日や方角に煩わされているなら、虜にされていて、日にではなく思いから解放される必要があります。

 駐車場のナンバーリングや病院の階数や病室番号に、日本では「四」と「九」が記されないところが多くあります。大変お世話くださった宣教師さんが、駐車場をお借りしましたら、所有者の方が、駐車場所にナンバーリングをしたのです。縁起の悪いとされる数字を除き、宣教師が西洋人だと言うことで、「13」を付け加えて、記さなかったのです。

 私は、朝の四時四十分に生まれたと、父の手帳に記されてありましたし、家内とは四月四日に結婚式を挙げました。それから、もうすでに52年を過ぎていますが、無事に「金婚式」を迎えることができましたし、まだ助け合いながら一緒に生活を続けています。
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 でも、今一番気になっているのは、「キリストの再臨日」です。何人もの自称預言者たちが、日を特定をしていますが、その日は隠されていて、聖書をどのように読んだとしても、特定できないでいます。

 日に意味があるのではなく、これまで多くの聖徒たちが待ち望んできた《出来事》に意味があるのです。世界の動静、自然界の異常現象、人間の愛の欠落、国家間や民族間の対立、戦争の頻発が見られる今は、なんとなく、《その日》の到来が、時間的に近そうに感じてなりません。

 準備はできているでしょうか。いつキリストがおいでになられても大丈夫でしょうか。マタイに福音書に次のように記されてあります。

 『だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。 2444節)』

 「思いがけない時」においでになるのです。英欽定訳聖書には、” for in such an hour as ye think not the Son of man cometh.” とあります。「想外の時」に来るのでしょう。つまり、予期できないで、秘密裏にされているので、ある人は恐れ、ある人は待望するのです。

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世界の名花

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 これは、「世界の名花」と言われている、上からジャカランダ、ホウオウボク、サンダンカ、オオゴチョウ、カエンボクです。華南の街にいました時に、草花も多種多様に咲き誇っていましたが、木花が多いのに驚きました。亜熱帯気候ですから、当然なのですが、私たちの国では、沖縄にも、木花が目立ちます。

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湾処

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 子どもの頃の遊び場に、川の支流につながる水場がありました。ドジョウやカエルやフナやザリガニなどが棲息していて、その小川にズボンや袖をまくり魚獲りをしたことがあって、実に面白い遊び場でした。

 毎日のように送信していただいている「里山を歩こう(野生を撮る)」のブログがあるのですが、昨日の受信分に、冒頭の写真がありました。中国地方の山地にある、小さな流れ、渓流にある、「湾処(わんど)」と呼ばれる、小さな入り江のような地形が写されていました。そこには、さまざまな生物が棲息していて、昔は、そのような場所は、どこにでもあったのですが、今や、都市開発の中で、失われてしまっている自然の宝庫なのです。

 「地理」の教科を教えていたことがありましたが、「湾処」には触れたことがありませんでした。以前、我孫子の知人の家にお邪魔した時に、近くの川に面した箇所に、池のような箇所、「手賀沼」がありました。そのまま公園として自然保護がなされていて素晴らしい行政なのだと得心しました。あれも、大きく広い「湾処」と呼べるのでしょうか。

 子どもの頃に流行った歌に、「よしきり」という小鳥や「すすき」や「枯落葉」などが出てくる「大利根無情」という歌を思い出したのです。

利根の利根の川風 よしきりの
声が冷たく 身をせめる
これが浮世か
見てはいけない 西空見れば
江戸へ江戸へひと刷毛(はけ) あかね雲

(セリフ)「佐原囃子が聴えてくらアー
想い出すなァ……御玉ヶ池の千葉道場か。
うふ……平手造酒も、今じゃやくざの用心棒
人生裏街道の枯落葉か。」

義理の義理の夜風に さらされて
月よお前も 泣きたかろ
こゝろみだれて
抜いたすすきを 奥歯で噛んだ
男男泪の 落し差し

(セリフ)「止めて下さるな 妙心殿。
落ちぶれ果てゝも 平手は武士じゃ。
男の散りぎわは 知って居りもうす。
行かねばならぬ 行かねばならぬのだ。」

瞼 瞼ぬらして 大利根の
水に流した 夢いくつ
息をころして
◯◯まいりの 冷酒のめば
鐘が鐘が鳴る鳴る 妙円寺

この歌の歌詞の他に、次のような一節もあるようです。

利根の川風袂に入れて
月に棹さす高瀬舟
人目関の戸叩くは川の
水にせかるる水鶏鳥(くいなどり)
恋の八月大利根月夜
潮来あやめの懐かしさ
佐原囃子の音冴え渡り
葦(よし)の葉末に露置く頃は
飛ぶや蛍のそこかしこ

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 ここには、群馬県の水上を水源とする利根川の下流域に見られる「クイナ」、「あやめ」、「よし」、「ほたる」などが出てきています。それらは水辺に棲息する動植物なのです。わが家の前を流れる巴波川は、この利根川の支流の一つで、舟運が行われていた関係で、護岸で流れが守られていて、この付近には、この「湾処」は見られないのです。

 自然は、実に理にかなって造り上げられているのです。それは、まさに「創造者の知恵」です。そんな生命を育む世界に、《命の循環》、《命の均衡》が行われ続けられ、驚くべき知恵が込められています。湾処などによって、自然的に水位の調整も行われるのだそうです。そんな地系を、人の便利さや儲けのために、破壊してきた人の歴史は、この時代に生活する私たちに、今やツケを払わせているのでしょう。もう、どうにもならないほどに、自然界の均衡が破られて、取り返しがつかなくなってしまっているのかも知れません。

 「湾処」だけではなく、子どもの頃に分け入った「里山」も、都市近辺の住宅化、行政や地域開発会社の収益のために、利便性のために破壊さててきてしまいました。都会の近郊には、もうほとんど、「無駄」、「無用な産物」のように、顧みられなくなってしまった、先人たちから譲り受けた自然財産なのです。「干潟(ひがた)」なども、すでに消えてしまった自然の原風景なのです。

 神の御心によって成る自然が、飽くことのない人の欲望で破壊されるにつれて、人の心が荒れ始めたのではないでしょうか。自然に間近な街に住み始めて、散歩途中で、懐かしい風景に出会うのは、神に会うのに似たものなのではないのかと思えるほど、言いえないほどの懐かしくも快感を覚えるのです。

(「湾処」、「よし(葦)」です)

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クリームパンと草餅と

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 子どもの頃から、買い食いをする時に、いつも買っていたのが、砂糖をまぶしたピーナッツと菓子パンの「クリームパン」でした。コッペパンに、コロッケを挟んでソースのかかったパンも、あんこの入ったアンパンも美味しかったのですが、柔らかいパンの中に、なめらかで、黄色くて甘いクリームが入っていて、こぼれないほどほどの硬さもあって、これほど美味しいと思ったものはありませんでした。

 父の家から駅にゆく道に、街のパン屋があって、そこでも売っていました。このクリームパンの発案者は、新宿の「中村屋」の創業者なのだと言うことを、後になって知ったのです。長野県人で、早稲田に学んだ相馬愛蔵と国光夫人の発案なのです。愛蔵は早稲田時代に、内村鑑三の教えを受け、クリスチャンだった人です。

 故郷で養蚕の事業をしていたのですが、東京に出て、「万朝報」の広告を見て、本郷にあるパン店を買い取って、奥さまと共に、製パン業を始めたのです。国光夫人は、仙台藩士の娘で、宮城女学院やフェリス女学院に学び、この方も14歳でバプテスマを受けたクリスチャンでした。

 そこで作られたのが、このクリームパンだったのです。滋養に富んだパンだとの謳い文句で売り出され、一躍、東京で市場を折檻するほどに繁盛した主要商品でした。喫茶部を設け、中国では銘菓の月餅を作って売り出したりしたのです。中学と高校の一級か二級上に、新宿中村屋の創業者の孫がいました。

 相馬愛蔵は、「一商人として」という書を残しています(「青空文庫」で読むことができます)。日曜日の営業について、内村鑑三に、『日曜日だけは商売を休んで、教会で一日を清く過ごすことは出来ませんか。』と、聖日礼拝遵守を勧められますが、葛藤の末、営業することを選び取っていきます。

 私は、副業で、清掃業を月に二度ほど、スーパーマーケットから請け負って、子どもたちの就学時にしていました。日曜日の夜11時から始めて、よく月曜日の早朝、営業開始に間に合うように仕上げる事業をしていました。

 自分は、厳格な聖日遵守主義者ではなく、その収益で、一緒に奉仕していた方たちの経済援助もでき、主に許された確信で、guilty を覚えることなく、長年続けたのです。その事業を、主から受けた確信があったからです。もちろん、人には勧めませんが、破ろうとする不信の行為だとも感じませんでした。

 牧師会があって、店の定休日だった時には、同労の友人たちにも一緒に手伝ってもらったことも、帰省中の子どもたちの協力もありました。頼まれてコンビニショップの床掃除もしたこともありました。真夜中に、いったん店のシャッターを下ろして掃除をし、ワックス仕上げをしたのですが、体調の悪い時に、中学生に娘が、『私、一緒に行って手伝うね!』と言ってついて来てくれました。あんな嬉しかったことは、後にも先にもありません。

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 長くさせていただいたスーパーマーケットの床掃除は、子どもたちの教育が終わって間もなく、店の改装があって終わりました。その事業をやめてから、ずいぶん長い間、ワックスが床にのらないで起こる、powdering  (粉化現象)でやり直しをしたり、ワックスが足りなくなったり、人員不足になった時の夢を見ることがあったのです。なんと、今でもたまに魘(うな)されます。

 いろいろなことがあっての今は、平穏ですが、老いて行く自分を感じながらも、それなりの感謝を覚えて過ごせるのは、本当にありがたいことです。寒くなるので、生前、母が買って未使用の「綿入り半纏」を、兄嫁が、クリーニングに出して、家内にと送ってくれました。夏のような陽射しが、東の窓から入ってきた秋の朝です。

 そんなことを思っていましたら、懐かしいクリームパンが食べたくなってきました。新宿に行かなくても、ヤマザキ製のパンは、スーパーマーケットの棚にありますが、やはり、新宿中村屋の件(くだん)のクリームパンを、また食べてみたいものです。その新宿までの直通の特急がありますが、片道3050円で、往復6100円で、一個200円ほどでしょうか、そんな高いクリームパンは食べられそうにありません。

 その特急で、下の息子が、時々やって来てくれます。浅草向島の志満草餅(よもぎ餅)を、必ず家内の回復のために買ってきてくれます。きっと新宿の高島屋のデパ地下で、あちこち歩き回って、美味しくて健康的なものを物色しながら、あれやこれやと、京都や名古屋や、その他の土地の名物を、袋いっぱいに買ってきてくれるのです。

 思春期に、泣いて育て上げた息子の来訪は、家内の《最良の薬》なのです。『☆☆!俺の時間を返してくれ!』と言っていた、彼の担任が、そんな今の息子を見たら、何と思うことでしょうか。聖書に、

 『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 (ロマ828節)』

とあり、辛かったこと、楽しかったこと、全てを織り交ぜての今は、ただ感謝だけだと、彼の母は、微笑みながら、今朝も言っています。

( 新宿木村屋のクリームパン、株式会社テラモトの写真です)

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一人の独裁者とか反逆者の出現

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 『申し訳ないが……。私は皇帝になどなりたくない。私には関わりのないことだ。支配も征服もしたくない。できることなら、皆を助けたい。ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も。私たちは皆、助け合いたいのだ。人間とはそういうものなんだ。お互いの幸福と寄り添いたいのだ……。お互いの不幸ではなく。憎み合ったり、見下し合ったりしたくないのだ。世界で全人類が暮らせ、大地は豊かで、皆に恵みを与えてくれる。人生は自由で美しい。

しかし、私たちは生き方を見失ってしまった。欲が人の魂を毒し……。憎しみと共に世界を閉鎖し……。不幸、惨劇へと私たちを行進させた。私たちはスピードを開発し、自分たち自身を孤立させた。ゆとりを与えてくれる機械により、貧困を作り上げてしまった。知識は私たちを皮肉にし、知恵は私たちを冷たく、無情にした。私たちは考え過ぎ……。感じなさ過ぎる。

機械よりも、人類愛が必要なのだ。賢さよりも、優しさ、思いやりが必要なのだ。そういう感性なしでは、世の中は暴力で満ち、全てが失われてしまう。飛行機やラジオが、私たちの距離を縮めてくれた。そんな発明の本質は、人間の良心に呼びかけ、世界がひとつになることを呼びかける。

今も、私の声は世界中の何百万の人々のもとに届いている。何百万もの絶望した男性たち、小さな子供たち。人々を苦しめる組織の犠牲者たち。罪のない人たちを投獄させる者たち。私の声が聞こえている人たちに言う……。絶望してはいけない。私たちに覆いかぶさる不幸は、単に過ぎ去る貪欲であり、人間の進歩を恐れる者たちの憎悪なのだ。

憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶えるであろう。人々から奪いとられた権力は、人々のもとに返されるだろう。決して人間が永遠に生きないように、決して自由が滅びることもない。

兵士たちよ。獣たちに身を託してはいけない。君たちを見下し、奴隷にし、人生を操る者たちは、君たちが何をし、考え、感じるかを指図する。君たちを鍛え、食事を制限する者たちは、君たちを家畜として、ただのコマとして扱うのだ。身を託してはいけない。そんな自然に反する者たちなどに。機械人間たち……。機械のマインドを持ち、機械の心を持つ者たちなどに。

君たちは機械じゃない。君たちは家畜じゃない。君たちは人間だ。心に人類愛を持った人間だ。憎んではいけない。愛されない者が憎むのだ。愛されず、自然に反するものだけだ。

兵士よ。奴隷を作るために闘うな。自由のために闘え。『ルカによる福音書』の17章に、「神の国は人間の中にある」とある。ひとりの人間ではなく、一部の人間でもなく、全ての人間なのだ。君たちの中になんだ。君たち、人々は力を持っているんだ。機械を作り上げる力、幸福を作る力を持っているんだ。君たち、人々が持つ力が、人生を自由に、美しくし、人生を素晴らしい冒険にするのだ。

民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか。皆でひとつになろう。新しい世界のために闘おう。常識ある世界のために。皆に雇用の機会を与えてくれ、君たちに未来を与えてくれ、老後に安定を与えてくれる世界のために。そんな約束をして、獣たちも権力を伸ばしてきた。しかし、奴らは嘘つきだ。奴らは約束を果たさない。これからも果たしはしない。独裁者たちは自分たちを自由にし、人々を奴隷にする。

今こそ、闘おう。約束を実現させるために。闘おう。世界を自由にするために。国境のバリアをなくすため。欲望を失くし、嫌悪と苦難を失くすために。理性のある世界のために闘おう。科学と進歩が全人類の幸福へ、導いてくれる世界のために。兵士たちよ。民主国家の名のもとに、皆でひとつになろう。』

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 映画『独裁者』(1970年上映)の作中で、独裁者ヒンケル(ヒットラーを風刺していると言われています)と瓜二つの顔をしていたために間違われた、「床屋(チャーリー・チャップリン)」が、兵士たちの前で語った、映画の最終場面で、ヒンケル演説です。チャップリン自身によって書かれたもので、史上もっとも感動的なスピーチとして世界中で賞賛されているそうです。

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 この写真は、もう何年も前に見つけた、「独裁者列伝」の顔写真です。写真編集の時には死んでいる者に、が書き込まれていました。この中には存命中の者、また、今は亡くなってしまった独裁者もいます。生き残った者も、入れ替わらなければならない者も、また付け加えないといけない最悪な者も、何人かいそうです。また、その頃は、まだ独裁の牙を剥かなかった者が、今や牙を研いだ者もいます。

 やがて、一国の独裁者などではなく、世界政府が出来上がって、その独裁の座に着く者がいます。もう既に生まれていると言われています。驚くべき知恵の持ち主で、カリスマ性があり、世界中の未解決の大問題を、一挙に解決してしまうほどの能力を持つているのです。世界の多くの人々が、この者の支配を、待ち望み、認め、崇拝してしまう時が来るようです。

 鬼のような、見るからに悪魔のような形相ではなく、柔和で穏やかな印象を与える者なのではないのかなと、私は思っています。刻印を受けず、この者の前で、ぬかずかないではいられない人は、多そうです。

 一人の悲劇的な独裁者のヒトラーは、次のように言いました。

 「全てはこの世界では本当に偉大なものは共同戦線によって闘い取られたものではなく、常にただ一人の勝利者の成果だったということを決して忘れてはならない。」

 ところが、旧約聖書の預言者ミカは、次のように記しています。

 『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ68節)』

 このような指導者こそが、混迷の終末の時代に願われるのではないでしょうか。来年には、アメリカの大統領選挙が行われます。アメリカの国民は、どんな人物を首長に願うのでしょうか。歴史の傍観者ではいられそうにありません。

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競いあうような紅葉の美

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 上の写真は次男、下の写真は次女が撮って、送ってくれた写真です。次男はふるさとの紅葉、次女はアメリカ北西部の街の紅葉を愛でて、送ってくれました。自然界は、慰めに溢れているのですね。

 主の御名が高らかに賛美され、礼拝を受けられますように!

 好い日曜日であり、素敵な一週でありますように。

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