先ほど、次男が送信してくれた今年の神宮外苑の銀杏並木です。秋の風物詩で、跳んで観に行きたいほどになります。子どもの頃に、一年ほど住んだことがあり、また3年ほど働いたことのある八王子の甲州街道(国道20号線)沿いの並木道も、春は緑、秋は黄金色できれいなのです。同じ東京の西東で競演しているようです。そして下の写真は、獨協医科大学病院の前の並木道(壬生町)で、やはり本物の秋の到来です。
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今日では、あまり話題にならなくなったことに、「マイ箸」がありました。食堂に入っても、備え付けの「割り箸」を使わないで、持参の自分の箸で食事をする人たちが、わずかですが見かけたことがありました。私も、そのことにl賛同し、箸を持参しましたが、外食の機会が少なかったので、それを使うことがなくなってしまいました。
この割り箸が、東南アジア、とくにマレーシアの原生林を伐採した木材が、以前は原料になっていたのです。それで、原生林に棲息するオランウーターンの生活圏を破壊している現状を、識者が憂えていたのが問題提起の発端だったと記憶しています。もう迷惑なことと言うよりは、原住の彼らの生存を脅かす危機的なことだったわけです。
これが自然環境の破壊の一例で、アレーシアのサラワクでの木の伐採を考えますと、私はしばらく華南の地にいたので、その地域には、竹がたくさんあるのを覚えているのです。森林公園の中には、様々な竹が育っていて、風に揺れる竹の葉同士が触れ合うサラサラという葉音は、何か音楽を聴くように爽やかだったのです。あの竹が乱伐されたら、どうかと考えたのです。今や竹材が割り箸に使われているからです。
そのサラワク州の森林地区に住んでいるみなさんが、日本に来られたことがあったのでしょうか。陳情団だったのでしょう。日本の様子を見て、『日本にも山があるじゃないか!』と絶句したと言っておられました。絶滅危機に瀕してるオランウータンについて、『森さえあれば何不自由なく幸せに暮らせるのに。日本人はなぜ、サラワクにまで来て木を刈るにかと!』とも言って、訴えていたそうです。
日本の林業の現状を考えますと、輸入材に頼らざるを得ないことも、その理由の一つなのです。つまり、林業従事者が激減し、現役世代も老齢化し、後継の若い世代が育っていない現状なのだそうです。私の父が、戦時下、軍命で従事していた、鉱石の採掘事業は、敗戦と共に終わってしまい、戦後を生きるために、軍需産業で使っていた索道(ケーブル)を利用して、県有林の払い下げで、木材を伐採して、京浜の木材業者に卸す仕事をしていました。
森林や林を再生するには、植林しか方法がないのですが、その植林で、木材として利用するためには、長い生育の時間がかかるのです。マレーシアで、そう言った長期的なことに配慮しながら、今の必要のために木材を伐採させていたのでしょうか。そう言ったことなしの乱伐では、森林は死滅してしまうわけです。
オランウータンの危機というよりは、森林の危機、自然界の均衡を破る危機、地球規模で保全を破ってしまうといった地球問題も孕んでいようです。
今は、日本のラーメン屋やうどん屋などに置かれている割り箸の輸入先の90%は、中国だそうです。そこでもサラワクと同じ問題が起こってしまうのでしょうか。食堂だけではなく、お弁当を買いますと、箸がついているか、レジで、それを求めることができます。地球資源に限りがあることを考えますと、今の必要を満たすことが、将来の不足を生んでしまうのは、割り箸だけの問題ではなさそうです。
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『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。 家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。 妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。 わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄(英欽定訳、中国誤訳は《peace/平安》です)を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄(平安)は、あなたがたの繁栄(平安)になるのだから。」(エレミヤ29章4~7節)』
よく「涙の預言者」と呼ばれたエレミヤを、矢内原忠雄は、その著書「世の尊敬する人物」と言う書を記しています。その中で、矢内原は、エレミヤ、日蓮、リンカーン、新渡戸稲造の四人を、あげているのです。第一に、このエレミヤを掲げて、「悲哀の預言者」と呼んだのです。この本は、日中戦争が拡大し、太平洋戦争に突入する前年の1940年に発行されているのです。
矢内原は、戦時下の日本の現状を憂えて、日本の軍国化を批判したのです。1937年、盧溝橋事件の直後に、日本が中国大陸に進出していく中で、中央公論九月号に、「国家の理想」と言う論文を発表し、その中で、婉曲に戦争批判をしています。その論文に、〈ケシカラン〉と言って東京大学で国家に盲従の教授陣に、反戦的な論文だと糾弾され、擁護陣もいましたが、結局は、矢内原は辞表を提出し、教授を退職したのです。これが「矢内原事件」でした。
辞職後に著した、この書で、指導者の理想像として、この四人に共通する点を取り上げて、次のように言っています。
『而して私の尊敬する点として、この四人に共通する性格は次の四つである。
(一)真理を愛したこと。
(二)誠実であったこと。
(三)平民的であったこと。
(四)欠点ある人物であったこと。』
ご子息の矢内原伊作は、父を語っていますが、世の評価とは違って、お父さんの欠点を息子の目から述べています。父・矢内原とこの四人の人とは、近似点があったことになり、欠点だらけの私は、しれを知って、安心させられるのです。
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また、あの時代、はっきり物を言った矢内原の気骨には驚きつつ、敬意を覚えたのです。だからでしょうか、彼も悲哀を感じる人で、旧約の預言者であったエレミヤに共感したのでしょう。彼を評して「悲哀の人」と言われています。
私は、34年間奉仕させていただいた地を出て、家内と一緒に隣国に、2006年の夏に出かけました。それ以前、だいぶ伝道経験を積んだ頃、私を導いた宣教師は、同労者の集まりの中で、次のように言われたことがありました。『あなた方、mature な人は、若い人に務めを委ね、新しい地に出て行きなさい!』と挑戦されたのです。そのことばが第一に、私の思いを推したのです。
その宣教師の友人で、九州で宣教をしておられた方がいて、その働きの初期頃に、一人の女子小学で、教会学校に来ておられたそうです。その方が大学を終えて、日本語教師で隣国で、お仕事をされたのです。そこで出会ったアメリカ人の方と結婚して、アメリカにおいででした。この方が、『ぜひ、あちらの老人たちのために行ってください!』と、そこからお手紙で、出かけるつもりでいた私に促してくれたのです。
そして、隣国行きを最終決断をしたのは、聖書のみことばでした。それが冒頭に記したものです。少なくとも「平安を祈ること」ができたらいいと願ったのですが、日本語教師の機会を得て、一つの群れに籍を置き、幾つもの群れに出かけて、忙しく奉仕ができた13年間でした。このことは、自分の願いだけではなく、主に押し出されたとの確信は揺るぎません。
長い伝統のある公の集いで、日本語聖書研究会を、週一で持たせてくださったり、教会学校のキャンプを開いたりさせていただいたのは素晴らしい機会でした。日本の大学に留学された姉妹が、法学部の教師をされていて、その同僚たちと始めた集いが、発展的に拡大し、拡散していったのです。
何よりも、素晴らしかったのは、《人との出会い》があったことでしょうか。六代目の信仰者がいたり、迫害にあった両親の子だったり、食べ物がなくて林に入って根をほってかじったり虫を採って食べたりした大人、貧しい人を無料で診た慈医のお父さんの娘で老人院(laorenyuan)で過ごしている方、遠い村から出て来てレストランで働いている青年、調律師の若者などなどでした。
今、家を留守にしているのですが、届けてもらった本の中に、この矢内原の「イエス伝(岩波書店1977年刊)」があります。「マルコの福音書」から説教をした時に、参考にさせてもらった、大きな啓発を受けた一書です。学者でありながら、聖書教師で説教者だった矢内原は、内村鑑三と出会い、内村に教えられた人でした。そして、内村と共に、札幌農学校で同期生だった新渡戸稲造からの強い思想的な感化を受けています。
この矢内原は、日本のキリスト教世界で、最も傑出した一人と言えるでしょう。権威に屈せずに、自分の信念を貫いた信仰者でした。さらに「地の塩」のように生きた人でした。エレミヤのように、時の流れの中で「見張所」に立ち、社会の動きを、信仰の指導者の一人として見張りをしたのです。
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私たちの住んでいる栃木県の県都、宇都宮市は、粋な呼び名で「ジャズの街」なのだそうです。サキソフォン奏者の渡辺貞夫の出身地で、そうアピールして街興しをしているようです。
娘がジャズにアレンジした Praise and Worship の曲を、先日送信してくれました。これでコーヒーがあったら最高なのですが。それで昔よく聞き、日本人のJazz fan が大好きな曲を思い出しました。” Stardust ” で、この英語も、日本語の「星屑」も、ことばの響きが、とてもいいですね。
Stardust
And now the purple dusk of twilight time
Steals across the meadows of my heart
High up in the sky the little stars climb
Always reminding me that we’re apart
You wander down the lane and far away
Leaving me a song that will not die
Love is now the stardust of yesterday
The music of the years gone by
Sometimes I wonder why I spend
The lonely night dreaming of a song
The melody haunts my reverie
And I am once again with you
When our love was new
And each kiss an inspiration
But that was long ago
Now my consolation
Is in the stardust of a song
Beside a garden wall
When stars are bright
You are in my arms
The nightingale tells his fairy tale
of paradise where roses grew
Though I dream in vain
In my heart it will remain
My stardust melody
The memory of love’s refrain
そして今、たそがれ時の紫の夕闇が
私の心の草原を覆い尽くす
空の高みに小さな星たちが登り
いつも離れている私たちを思い出させる
あなたはあの道を行き遠く離れてしまった
私に消えることない歌を残して
恋は今、星屑は昨日のもの
過ぎ去りし年月の音楽
時々何故か過してしまうのは
あの歌を夢見る孤独な夜
そのメロディーが空想に悩ませる
あなたともう一度いること
私たちの恋が芽生えたころ
キスにはいつもときめきがあった
しかしそれは遠い昔のこと
今私を慰めるのは
あの歌の星屑の中にあること
ガーデンウォールの傍らで
星が輝くころ
あなたは私の腕の中
ナイチンゲールは
バラが花咲く楽園のおとぎ話を語る
けれど見果てぬ夢
私の心に蘇るのは
私の星屑のメロディー
沸き出でる恋の思い出
原曲は、1927年に発表されていて、Nat king Cole の持ち歌の一つでした。日本では、ザ・ピーナッツが、1961年6月4日から1972年10月1日に第1期の日本テレビの「シャボン玉ホリデー」の番組のエンディングで歌っていました。実に懐かしい曲で、青年期の素敵な思い出なのです。
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『私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。(ピレモン1:6)』
春と秋に、二泊三日ほどの schedule で、「打ち合わせ会」が開かれ、誘われて、何年も続けて参加しました。日頃、牧会に従事して忙しい身でしたが、テニスラケットとシューズを持って、八ヶ岳に、みなさんが集まったのです。テニスばかりか、温泉に入ったり、ドライブしたり、ソフトクリームを食べて、話をし、一緒に寝泊まりをしたのです。
名だたるみなさんでしたが、身に付けたタイトルや業績や誇りを、家に置いて集っておいででした。誘われて仲間入りした私が、一番年下でした。同じ主の業に仕えている人たちの親睦の交わりで、みなさんは謙遜でした。東北出身の方、お兄さんも牧師の弟さん、有名大学を中退して献身された方がおいででしたが、すでに召されておいでなのです。
心地よい疲れを覚え、励まされて、自分の任地に帰って来て、まさに英気を養われた経験は、何にも変え難いものでした。留守を守ってくれた家内がいて、その故のひと時でした。今では、ラケットもお飾りになって蔵入りしてしまいました。でも貴重な思い出は、いつまでもあり続けるのでしょう。
そんなことを考えていましたら、八ヶ岳の夜空に瞬いていた星々、星屑の光景を思い出し、星屑を拾うような思い出で、ナットキング・コールの歌声が聞こえてきたのです。
(次男が撮影した「星空」、ウイキペディアの「テニスボール」です)
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秋になると、と言っても、今年は「短い秋」だったので、秋を満喫しないままなのでしょうか。作詞がサトーハチロー、作曲が中田 喜直の「ちいさい秋みつけた」が思いに浮かんできたのです。
1)だれかさんが だれかさんが
だれかさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
めかくし鬼さん 手のなる方へ
すましたお耳に かすかにしみた
よんでる口ぶえ もず)の声
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
2)だれかさんが だれかさんが
だれかさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 見つけた
おへやは北向き くもりのガラス
うつろな目の色 とかしたミルク
わずかなすきから 秋の風
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
3)だれかさんが だれかさんが
だれかさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 見つけた
むかしの むかしの
風見の鳥の
ぼやけたとさかに
はぜの葉ひとつ
はぜの葉赤くて 入日色
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
「異端児」と言ったらいいのでしょうか、子どもの頃から、どうにも手のつけられない不良少年だったそうで、山手線内にあった留置場のほとんど全てに留置されたそうで、感化院に収容された少年期を過ごしたのが、こんなに naive な詩を作った男、サトウハチローの少年期だったのです。
もしかしたら、こんな詩心は、不良だからこそ、心の中から浮かび上がり、ほとばしり出てきたのでしょうか。繊細さや甘ったれさや厳しさ、そして豊かな感情に溢れて詩を詠んだ人でした。西条八十という作詞家に、17歳から学んで、20歳頃から詩作をし、雑誌に発表したようです。お父さんが、劇作家で俳人の佐藤紅緑でした。身持ちの悪い父親で、後に両親は離婚しています。そんな人生の悲しみを経験したハチローは、「悲しくてやりきれない」を読みました。
胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない モヤモヤを
だれかに告げようか
白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この限りない むなしさの
救いはないだろうか
深い森の みどりにだかれ
今日も風の唄に しみじみ嘆く
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このもえたぎる 苦しさは
明日も続くのか
お母さんは仙台の出身で、多感な中学時代に生き別れをしています。母親と離婚をした父親に反発して、拗ねた少年期をハチローは過ごすのです。忘れない「母の匂い」を求めたのでしょうか、それで、父親の故郷には数度でしたが、お母さんの故郷、陸奥仙台には50回も訪ねたそうです。そして生涯に3000もの母についての詩を詠んでいるのです。ハチローの「お母さんの匂い」です。
おかさんの匂いは どんな どんな匂い
朝はかまどの けむりの匂い
昼はおべんとの おかずの匂い
晩にはかすかな おふろの匂い
おかあさんの匂いは どんな どんな匂い
春はうれしい ちょうじの匂い
秋はやさしい もくせいの匂い
冬はひなたの ふとんの匂い
おかあさんの匂いは どんな どんな匂い
ひざにだかれりゃ くず湯の匂い
おはなしなされば おも湯の匂い
うたをうたえば レモンの匂い
おかあさんの匂いは どんな どんな匂い
ねえさんかいもうとに よくにた匂い
おもどに いろりに ただよう匂い
わかった わたしの おうちの匂い
私の父も、家のしきたりや格などの理由で、父を産んだ母は家を出されています。継母に育てられますが、父の多感な中学の時に家を出て、東京にあった親戚の家から旧制の中学に通ったようです。子どもの頃、時々、畳の上に横になった父が、このハチローが作詞した「めんこい仔馬」を口ずさんでいたのです。
1 ぬれた仔馬のたてがみを
なでりゃ両手に朝のつゆ
呼べば答えてめんこいぞ オーラ
かけていこうかよ 丘の道
ハイド ハイドウ 丘の道
2 わらの上から育ててよ
今じゃ毛なみも光ってる
おなかこわすな 風邪ひくな オーラ
元気に高くないてみろ
ハイド ハイドウ ないてみろ
3 西のお空は夕焼けだ
仔馬かえろう おうちには
おまえの母さん まっている オーラ
歌ってやろかよ 山の歌
ハイド ハイドウ 山の歌
4 月が出た出た まんまるだ
仔馬のおへやも明るいぞ
よい夢ごらんよ ねんねしな オーラ
あしたは朝からまたあそぼ
ハイド ハイドウ またあそぼ
この詩にも、「母さん」が出てきますから、自分が「めんこい仔馬」でもあるかのように、お母さんを慕い、思い出していたのでしょうか。母子分離が強制的なものであったことは、やはり一生に影を落としてしまうのでしょうか。母子もののドラマを観ていて、涙を流した、追憶の中の父の辛い過去を見たようでした。
『しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。(詩篇22章9〜10節)』
母親の愛や優しさを得られなかった父も、亡くなる直前に、上の兄に導かれて、ローマ人への手紙10章10節に従って、主をキリストと告白したのです。母が子を抱くように、救い主に抱かれたのであります。
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『なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。 (レビ17章11節)』
最近聞いた〈新しいことば〉に、「糖化」があります。血液の中に起こる現象のことだそうです。流しの入れ物にしまっておいた「土鍋」を出して、電気釜の代わりに使ってみたのです。昔懐かしい調理器具で、さすが伝統ある鍋で炊いたご飯は、美味しかったのです。火加減のタイミングが難しいので、これまた懐かしの「お焦げ」ができてしまいました。
室にいても 「老化(廊下)」と言うは いとおかし
このお焦げが、血液の中に起こる「糖化」に似ているのだそうです。『まずはじめに、糖化とは、食事によって摂り過ぎた余分な糖とタンパク質・脂肪が、体熱によって不正常な結びつき方(変性)をする現象のことです。体温の熱が関与することから、糖化反応は「体がこげる」反応とも言われています。糖化が起こると細胞の老化が進み、肌の衰えや体調不良、さらに様々な病気の温床になります。』
と解説されてあります(「抗糖化コラム」にありました)。これが、老化現象を早めるのであって、如何とも避け難い、今の我が身に当てはまる「老化」の現れなのです。どうも、日頃食べているお菓子や甘い物や甘い飲み物の「糖分」が、血液の中に残留して、作り出されるのだそうです。
「多い」から 一字除くと 「老い」になり
過ぎたるは及ばざるが如し、まさにその通りです。必要以上に、元気盛んな頃と同じように食べたり飲んだしてはいけないんだと、分かっていても、寂しい口と喉が、甘い物を恋しがるのです。私たちの体内に流れる血液こそ、人体の中にある《神秘》の極みなのでしょう。親族から流れ出て、毛細管一本にも行き渡り、それが心臓に戻って来て、体内を循環し、浄化してくれます。心臓の働きも驚くばかりです。
〈ミスター・タイガース〉と呼ばれた、掛布雅之は、349本の本塁打、0.292の打率、本塁打王3回、ベストナインが7回などの好選手でした。ただ15年の選手期間は、だいぶ短かったようです。膝を痛めていたりでしたが、まだできそうでした。でも、それには原因があったようで、怪我で療養中の食習慣に問題があったようです。バリバリの現役時代と同じカロリー摂取の食生活を続けたことに、選手生命を短くした原因があったと言われています。
この年齢になると、箸休めとかデザート、ちょっと甘い物をと、我が口寂しいで、摂り過ぎの傾向があるようです。また頂き物に、焼き菓子や和菓子の多いこともあり、それらは、「終末糖化産物」(AGEs)」と言うそうで、食べ過ぎは赤信号だそうです。いけないのは、〈そんな物があるからだ〉ではなく、手にし、口にする自分にあって、花林糖や贈り主にあるのではありません。
喫煙、飲酒、夜遊びは、〈華の二十五〉を境に辞めた、いえ辞められた、いえ辞めさせていただいたのです。ところが甘い物、脂身のロース・ステーキの美味しさはなかなかの天敵で、ロシアよりも怖く、ハマスよりも厄介なのです。若い日には若さがあり、老いては、老いの実りがあるのでしょう。
誘惑、これに勝たなければ、真の《漢(おとこ)》にはなれないので、もうひとガンバリしようかなの決心の快晴の今日です。人の一生には、一つ一つの場面があって、その積み重ねに、それぞれの今があるのですね。最近、老いのリスクを痛感しております。
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新宿駅東口の近くに、店の名前は忘れてしまったのですが、昔、大きな大衆食堂があって、よく入って食べたことがありました。どこの駅前も、駅周辺は区画整理されて、ああ言った店は、もう無くなってしまったのでしょうか。
あの東口と反対の西口の淀橋浄水場の方に回る地下道が、汚れていて、そんな所で寝起きをする人たちがいたのを覚えています。駅の西口のガード寄りに、「思い出横丁(今はそう呼んでいるようですが)」の一間か一間半ほどの間口の食べ物屋が、軒を連ねていて、高校のバスケット部の試合のボール持ちで応援に行った帰りに、そこで、先輩にご馳走になりました。なんだか訳ありの物だったかも知れませんが、先輩につられて食べて、美味しかったのです。
高野フルーツ店もありましたが、高級な果物が売られていて、パーラーの店もあったと思います、一、二度入ったでしょうか。食べ物の記憶しかないのは、一に食べることが関心事の中学生だったからでしょうか。
学校に通うようになって、落語の寄席の末廣亭にも出入りするようになりました。ちょっと背伸びしてみたのでしょうか、級友を連れて一、二度入ったことがありました。格好をつけてみたのですが、まだ落語の味など味わうほどではなかったのです。
札幌から上京していた同級生を、この末廣亭に誘ったことがあったのです。いいところを見せたくて、木戸を潜ったのですが、何か落ち着きませんでした。けっきょく終わりまでいて、そこを出て駅まで連れて行き、小田急線で帰っていく彼女を見送ったのです。
卒業式の時、彼女の両親に、『楽しいところに娘を連れて行ってもらったそうでありがとうございました!』と言って、お礼を言われてしまったのです。彼女は故郷に帰り、そこから二、三度手紙をもらって、行き来がなくなってしまいました。今は、素敵なおばあちゃんをしておいででしょうか。
その新宿で、駅近の喫茶店に入って、〈青っくさい談義〉を繰り返して、互いに刺激し合ったのです。いやにコーヒーが苦かったのが忘れられません。みんなどうしてるのでしょうか。あの頃、一緒に時を持ち過ごした級友たち、遊び仲間との繋がりは、そう強くなかったのですが、みなさんそうなのでしょうか。青い青春の色も、色褪せて、少々思い出が寂しい感がいたします。
でも、この年齢には年齢なりに、磨かれた真鍮の名残が残されていて、燻銀の世代になっているのでしょうか。聖書は、「夢を見る世代(使徒2章17節)」だと言っています。ふつうに、夢を見るのは、青年であると言われますが、老人こそ夢を見るのだと、聖書は言います。浮世を生き抜いてきて、来世への期待感に溢れながら、未来に向かって、夢を解き放つ世代であると言っているに違いありません。
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この13日には、木枯らし1号が観測されたとの知らせを聞きました。気象の世界が、常識にとらわれないで、ヤンチャに動く回っているように感じられています。このヤンチャの原因は、地球やそれを取り巻く宇宙全体のバランスを、人が崩してしまったからでしょうか。そんな中、木枯らし情報を得て、歌を思い出しました。
かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている
さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
しもやけおててが もうかゆい
こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる
これから本格的に北風が、日光連山あたりからピイプウ吹き始めて、木枯らしが寒さを運んでくるのでしょうか。ここから見える筑波山も、日光連山も、遠望の富士山も、そして地元の大平山も、そろそろ冬模様を見せているのでしょう。
今では、車も電車も暖房があって、快適な旅ができるのですが、かつては、凍えるようにして背をつぼめて、とぼとぼと歩いて、日光例幣使街道、日光街道、奥羽街道を、侍も商人も農民も歩いていたのでしょう。
北国の人は、歩幅が小さく、背を丸めて歩くので、同郷の人には、それが分かって、親近感が湧くのだそうです。高度成長期に、東京に出稼ぎで出て来られた東北出のみなさんは「上野駅」、山梨や南信州の方は「新宿駅」、北陸のみなさんは「米原駅」などが、ターミナル駅で、そこは、お国訛りが聞こえる〈故郷を感じるポイント〉なのでしょう。
ふるさとの訛り恋しき上野駅
上野駅よりも、新宿駅の利用の機会の多かった中部山岳の生まれの私ですが、JR新宿駅から信州方面の列車に乗ったことが何度もありました。座席に着くと、周りから、信州弁や甲州弁の訛りが聞こえてきて、車内はもう諏訪や甲府の世界を感じさせられてしまったのです。
以前、ブログにも取り上げたのですが、「春の背筋と歩幅」と言うことばを聞きました。今年は、すでに木枯らし襲来もあって、もうそろそろ「冬の・・・」に変わって、春から延ばし、この夏の暑さに縮めた背筋を、今度は寒さに縮めるのでしょうか。歩幅だって、豪雨や強雨や強風で狭くしたのですが、天気がよくなりますと、歩幅だって、浮かれた気分で広くなるのです。逆に天気が悪くなったり寒くなると、狭まるのです。
人生の王道を、背を伸ばし、歩幅もとって、闊歩したいものです。イエスさまは、未舗装、未整備の道を歩まれ、私たちの世界を歩いてくださったお方です。石ころ道や茨の道を、雨や嵐の中を歩き回られました。それは倦み疲れた私たちに会われるためでした。この私にも会ってくださり、それから、主の傍を並走して、今日に至っております。
もう少し歩んで、到達点に達したいと願っております。生まれてから、どれほどの歩数かは数え切れませんが、つまずいたり、電信柱にぶつかったり、倒れたりしましたが、起き上がって、また歩み続けて、今日まで歩んで来られました。感謝ばかりです。
( “illust image” のイラストです)
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今朝、目が覚めたとき
あなたは今日という日にわくわくしましたか?
今夜、眠るとき
あなたは今日という日にとっくりと
満足できそうですか?
今いるところが、こよなく大切だと思いますか?
すぐに「はい、もちろん」と
いえなかったあなたに
このメールを贈ります。
これを読んだら
まわりがすこし違って見えるかもしれません。
世界には63億人の人がいますが
もしそれを100人の村に縮めると
どうなるのでしょう。
100人のうち
52人が女性です
48人が男性です
30人が子どもで
70人が大人です
そのうち7人が
お年寄りです
90人が異性愛者で
10人が同性愛者です
70人が有色人種で
30人が白人です
61人がアジア人です
13人がアフリカ人
13人が南北アメリカ人
12人がヨーロッパ人
あとは南太平洋地域の人です
33人がキリスト教
19人がイスラム教
13人がヒンドゥー教
6人が仏教を信じています
5人は、木や石など、すべての自然に
霊魂があると信じています
24人は、ほかのさまざまな宗教を
信じているか
あるいはなにも信じていません
17人は中国語をしゃべり
9人は英語を
8人はヒンディー語とウルドゥー語を
6人はスペイン語を
6人はロシア語を
4人はアラビア語をしゃべります
これでようやく、村人の半分です
あと半分はベンガル語、ポルトガル語、
インドネシア語、日本語、ドイツ語、フランス語などを
しゃべります
いろいろな人がいるこの村では
あなたと違う人を理解すること
相手をあるがままに受け入れることが
とても大切です
また、こんなふうにも
考えてみてください
村に住む人びとの100人のうち
20人は栄養がじゅうぶんではなく
1人は死にそうなほどです
でも15人は太り過ぎです
すべての富のうち
6人が59%をもっていて
みんなアメリカ合衆国の人です
74人が39%を
20人が、たったの2%を分けあっています
すべてのエネルギーのうち
20人が80%を使い
80人が20%を分けあっています
75人は食べ物の蓄えがあり
雨露をしのぐところがあります
でも、あとの25人はそうではありません
17人は、きれいで安全な水を飲めません
銀行に預金があり
財布にお金があり
家のどこかに小銭が転がっている人は
いちばん豊かな8人のうちの1人です
自分の車をもっている人は
豊かな7人のうちの1人です
村人のうち
1人が大学の教育を受け
2人がコンピューターをもっています
けれど、14人は文字が読めません
もしあなたが
いやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに
信仰や信条、良心に従って
なにかをし、ものが言えるなら
そうではない48人より
恵まれています
もしもあなたが
空爆や襲撃や地雷による殺戮や
武装集団のレイプや拉致に
おびえていなければ
そうではない20人より
恵まれています
1年の間に、村では
1人が亡くなります
でも、1年に2人
赤ちゃんが生まれるので
来年、村人は
101人になります
もしもこのメールを読めたなら、
この瞬間、あなたの幸せは2倍にも3倍にもなります
なぜならあなたにはあなたのことを思って
これを送った誰かがいるだけでなく
文字も読めるからです
けれど何より
あなたは生きているからです
昔の人は言いました
巡り往くもの、
また巡り還る、と
だからあなたは、
深ぶかと歌ってください
のびやかに踊ってください
心をこめて生きてください
たとえあなたが、傷ついていても
傷ついたことなどないかのように
愛してください
まずあなたが
愛してください
あなた自身と、人が
この村に生きてある
ということを
もしもたくさんのわたしたちが
この村を愛することを知ったなら
まだ間にあいます
人びとを引き裂いている非道な力から
この村を救えます
きっと
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2001年11月に、マガジンハウス社から「もし世界が100人の村だったら」という題で、書籍が売り出され、たちまち話題の一冊になったのです。
あれから22年経った今では、世界の人口は、80億人を超し、2037年には、90億人に達するであろうと予測されています。比較値は、そう変化がないと思われますが、人口増加の速度は増していって、この本で、『まだ間に合います!』と言っていましたが、22年も経った今は、どうも間に合いそうにありません。
この記事にある、この部分はどうなっていくのでしょうか。
もしもあなたが
空爆や襲撃や地雷による殺戮や
武装集団のレイプや拉致に
おびえていなければ
そうではない20人より
恵まれています
「20人」もいたのですが、今では、どれほどに数のなっているのでしょうか。今後、どれほど増えていくのでしょうか。統計の数や問題ではなく、平和な生活が打ち破られている現状は、子を持ち、孫のいる私には悲しくて辛いものです。しかし、この現実の中に、救い主が立っておられます。義であられる神は、どのような思いでおられるのでしょうか。
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太陽から照りつける光と熱に、日陰の涼を求めて逃げ込んでいたのに、昨日は、日光浴をしたくなるほどでした。この1〜2週の違いに驚かされいます。地球にある日本列島との距離は変わらないのに、陽の射してくる角度が、被写体の地球の傾きによって違うのです。
今日は、11月15日で、立冬から1週間が過ぎたのですから、真夏は真上にあって、そのまま西の空に太陽が落ちていくのに、今日は、窓から入り込んで、この居間の中ほどまで光が入ってくるようになっています。
この違いをもたらす、地球の南北の地軸の23.4度の傾きは何なんでしょうか。どうしてこの角度なのでしょうか。驚くほどの知恵によって定められているのは、太陽と地球の距離、そして地球の回転軸の傾きも、小学生の私を驚かせたのです。創造者の手による以外考えられません。
それよりも、地球を動かしている動力エンジンはどこにあるのでしょうか。燃料なしでどうして動くのでしょうか。同じ軌道を自転しながら動いて、一年周期であることもです。太陽の光は、一億4960万キロも離れているのに、毎秒29万9792.458kmで速さで、約8秒で届くのだそうです。
人が生活するのに見合った温度で、地球に届くのは、子どもの頃から不思議中の不思議でした。夏の自動車のボンネットの鉄板を触ったら火傷をするのに、夏場は皮膚が黒くはなりますが、焼け焦げないのはどうしてだろうかともp思ったものです。
地球の重量は、6580000000000000000000トン、一方、太陽(ガスでできてるようです)は、2000000000000000000000000000000 kgです。こんな重さが何によって支えられているのでしょうか。支えがないのに、どのようにして空間に置かれているのでしょうか。この両者の関わりや、バランスは、何よっているのでしょうか。
この地球と太陽も、そして大宇宙も、だれが設計したのでしょうか、宇宙の広がりは無限大であること、これもスーパーコンピューターでも、極めることにできない謎なのではないでしょうか。この智慧を、偶然や進化で回答できるのでしょうか。
『天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(詩篇19篇1~6節)』
聖書は、「御手のわざ」だと言います。太陽は、空気のバランスを保ち、熱と光で植物を生じさせ、動物を育てています。殺菌までしてしまうのです。あんなに身を固くしていた冬の蕾は、この光が来るときに、開いてしまいます。この創造の話を聞いて納得をした日が思い出されます。
「小宇宙」と言われる人間の身体を通り上げるなら、神さまが、自分の造り主であることを認め、畏怖せざるを得ません。そんな私たちに、『愛してる(イザヤ43章3節)』と言ってくださる神さまに、ただただ感謝の溢れる今曉です。
(先日の朝焼け、次男の撮った星空です)
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