沖縄県

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 これまで戦時中の話を聞いてきた中で、一番の衝撃的なことは、沖縄戦での出来事です。一つは、本土守備のために、多くの戦闘機が、その海域で、アメリカ軍の戦艦に向かって、爆弾もろともに突撃したという、特攻隊の出来事です。

 弱冠十七歳で、突撃した少年飛行兵は、『自分が死んでも絶対に泣かぬよう。国のために死ぬのです。』と、家族への最後の手紙に記しています。父や母や兄弟姉妹を思う、あの時代の少年の一途さと気持ちが読み取れて、なんとも言うことばがありません。勇ましさへの憧れが、私の少年期にもあったのですが、残念な出来事でした。

 世田谷の朝顔教会を長く牧会した井出定治牧師の手記を読んだことがあります。特攻隊員の生き残りで、出撃の準備中に終戦を迎えています。19歳の時でした。『それまで私を支え、かつ永遠と信じていた「神国」がまさに崩れ去ると、もはやこの「国宝」を支える何物も残らなかったのです。在るものといえば、ただ軍隊という組織の中で、人間性を喪失した形骸でした。痴呆、虚脱、それが私の二十代の開幕でありました。(「泉への細きわだち」から)』と述べておいでです。戦後、イギリス人の婦人宣教師との出会いを、感慨深く記しています。

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 海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施し、海軍では2045人、陸軍では1022人の兵士が亡くなっているのです。特攻機だけではなく、「人間魚雷」での爆弾攻撃もありました。その様な時代を再び迎えたくない思いでおります。

 もう一つは、捕虜になることを恥とする思いから、集団自決をされたみなさんのことです。『アメリカ軍は捕虜は殺さないから!』と言うことを聞かなかった人たちと、聞いた人たちとの差に、私は驚かされたのです。読谷村(よみたんそん)の「ガマ(洞窟を沖縄ではこう呼んでいます)」に攻撃を避けて避難した人たちの二つの決定的な違いです。

 今は、平和が戻っていますが、民間人94000人の犠牲者を出した沖縄での戦争を思うにつけ、戦争が何をもたらすのか、国家の威信、発揚、野望などが、人の犠牲を伴なうということなのです。今まさに、ウクライナ戦争で、その亡くなられる方の数を聞きますと、震えるほどの思いになります。

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 私は、沖縄には出かけたことがありません。子どもの頃に、父が、戦時中に撮影された写真集を買ってきてくれたことがありました。見た私には強烈な衝撃ばかりでした。そのせいもあって沖縄を訪ねることをしないままでおります。県庁は那覇市にあり、県花は「デイゴ」、県木は「琉球松」、県鳥は「ノグチゲラ」、人口は147万人です。第三次産業が、80%に届こうとしている観光が主要な産業の県です。

  「試練の歴史」を乗り越えて、今の沖縄があります。この沖縄、かつての「琉球王国」は、薩摩藩が1609年に攻め入って、支配下に置いている歴史があります。豊臣秀吉は、朝鮮半島や琉球を支配下に置こうと企てますが、その間に死んでしまいます。その後、島津家久が、侵略したのです。大陸は明の時代でしたから、日明貿易での利益のための侵攻だったのです。

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 戦後、アメリカの支配が続き、日米安保条約の下で、アメリカ軍の極東戦略の重要基地が置かれ続けています。「基地問題」は、大きいのですが、基地があることでの経済効果とか、また観光収入の財源に頼る県にとっては、難しい立場を持ち続けているのです。沖縄外の私たちには、何も言えない立場に置かれているわけです。

 琉球語があり、台湾や福建省の一部の言語の「闽南语minnanyu」に似た語もあると、沖縄からの中国への留学生が話していました。沖縄で歌われた歌で有名な歌があります。

一、てぃんさぐぬ花や
爪先(ちみさち)に染(す)みてぃ
親(うや)ぬゆしぐとぅや
肝(ちむ)に染みり

<意味>
ホウセンカの花は 爪先を染める
親の教えは 心に染みる

二、天(てぃん)ぬ群(む)り星(ぶ)しや
読(ゆ)みば読まりしが
親(うや)ぬゆしぐとぅや
読みやならぬ

<意味>
天の星々は 数えれば数え切れても
親の教えは 数え切れないものだ

三、夜(ゆる)走(は)らす船(ふに)や
子ぬ方星(にぬふぁぶし) 目当(みあ)てぃ
我(わ)ん生(な)ちぇる親(うや)や
我んどぅ目当てぃ

<意味>
夜の海を往く船は 北極星が目印
私を生んだ親は 私の目印

四、宝玉(たからだま)やてぃん
磨(みが)かにば錆(さび)す
朝夕(あさゆ)肝(ちむ)磨(みが)ち
浮世(うちゆ)渡(わた)ら

<意味>
宝玉と言えど 磨かなければ錆びる
朝夕と心を磨いて 生きて行こう

五、誠(まくとぅ)する人や
後や何時(いじ)迄(まで)いん
思事(うむくとぅ)ん叶(かな)てぃ
千代(ちゆ)ぬ栄(さか)い

<意味>
正直な人は 後々いつまでも
望みは叶い 末永く栄える

六、なしば何事(なんぐとぅ)ん
なゆる事(くとぅ)やしが
なさぬ故(ゆい)からどぅ
ならぬ定み

<意味>
何事も為せば成る
為さないから 成らぬのだ

七、行(い)ち足(た)らん事(くとぅ)や
一人(ちゅい)足(た)れ足(だ)れ
互(たげぇ)に補(うじな)てぃどぅ
年や寄ゆる

<意味>
一人で出来ないことは 助け合いなさい
互いに補い合って 年を重ねていくのだ

八、あてぃん喜ぶな
失なてぃん泣くな
人のよしあしや
後ど知ゆる

<意味>
有っても喜ぶな 失っても嘆くな
それが良いか悪いかは 後になって分かることだ

九、栄(さかい)てぃゆく中に  
慎しまななゆみ
ゆかるほど稲や
あぶし枕ぃ

<意味>
栄えても 謙虚でいろ
実るほど頭を垂れる稲穂が
あぜ道を枕にするように

十、朝夕寄せ言や
他所(よそ)の上も見ちょてぃ
老いのい言葉(くとぅば)の 
余りと思(うむ)ぅな

<意味>
お年寄りの言葉にはいつでも
世間を見習い耳を傾けよ
老人の繰り言だと侮るな

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 沖縄の県庁勤務だった方が、早期退職されて、中国語の留学で、華南の町で、一緒の寮にいたことがありました。毎朝、新聞を買いに出て、学んでいた熱心な同世代の留学生でした。また、アルバイト時代に、まだ本土復帰前でしたが、その仲間に、沖縄出身者がいて、一緒に働いたことがありました。

 家内は、東京の晴海埠頭から那覇まで船に揺られて、学校の教授の引率で、沖縄を訪問したことがあるのです。食堂の手伝いをしながら、揺れに苦労しながらの旅だったそうです。卒業した先輩たちのいる離島を訪問して、交わりをもったそうです。民家に泊めていただいたのだそうですが、いつまで経っても布団が出てこなかったので、家のみなさんの様子を見にいったら、ゴザの上に横になっていたそうで、それに倣って夜を過ごした思い出があるそうです。

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 米軍の基地が多くあることが、沖縄県の大きな課題で、県の財政ににも、基地存続は欠かせないのですが、建前だけではいけないのかも知れません。一朝事ある時には、再び戦場にもなる可能性が大きく、重い課題であります。

 同じ年の生まれ、川上や藤田元治に憧れた野球小僧で、沖縄から、初めて甲子園に出場した沖縄高校のピッチャーとして、南九州代表でした。プロ野球の広島、阪神、そして再び広島で活躍した安仁屋宗八がいます。漁師のお父さんに育てられていて、同じ時代の風を感じながら生きた沖縄県人として、身近に感じる人です。

(「白旗の少女」、「ガマ」、「デイゴ」、「黒糖」、「沖縄そば」です)

雪中花のスマホ撮影を

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 上の写真は、家内の散歩コースに咲いていた「水仙」です。下のものは、華南の街の家のベランダで、いただいたものが咲いたものでした。この水仙の花は、スペインやポルトガル、そして地中海あたりが原産で、絹の道で運ばれて、中国大陸に伝えられたそうです。

 日本には、遣唐使が、それを持ち帰って、増え広がって行ったという説と、中国の川岸に咲いていた花の球根が、海に流出され、海に漂い、海流に乗って、日本の海外にやって来て、波に打ち上げられて根付き、咲き始めたとの説があります。

 何度も、上海から船で帰国したのを思い返しますと、海流に運ばれた球根が漂流して、日本の海岸部に運ばれ、そこで群生したという方が、ロマンチックでいいかも知れません。福井県の越前岬、兵庫県の洲本、淡路島などに群生ていますから、あながち想像上の渡来説だとは言えなさそうです。

 別名の「雪中花」の呼び名が、私は大好きです。

風に風に 群れとぶ鴎
波が牙むく 越前岬
ここが故郷 がんばりますと
花はりりしい 雪中花
小さな母の 面影ゆれてます

紅を紅をさすこともなく
趣味は楽しく 働くことと
母の言葉が いまでも残る
雪をかぶった 雪中花
しあわせ薄い 背中を知ってます

いつかいつか薄日がさして
波もうららな 越前岬
見ててください 出直しますと
花はけなげな 雪中花
やさしい母の 笑顔が咲いてます

 雪の深い越前の岬に咲く雪中花の写真を見たことがあります。雪を被りながらも、寒さの中に、吹く風に負けず咲く姿が飄々としていいのです。家内が入院中に、一人で住んでいた貸家の道路際に、洗濯物を持ち帰った折、ひっそりと白と黄色に咲いている花を見ることができました。その健気さに、どんなに励まされたか知れません。

 まさか、散歩中に、そんな家内がスマホをかざして、雪中花を撮れるように回復するとは思いもよりませんでした。感謝な春三月です。

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まだヨチヨチ歩きの春

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 ラジオ体操仲間の方の家の前の木に、「梅」が咲き、図書館への道の途上に、この近辺で一番早く咲くと言う、「桜」が開いています。昨日の家内の散歩での撮影です。相馬御風の作詞です。お嬢さんが生まれた大正10年の作だそうで、弘田龍太郎が作曲しています。

春よ来い 早く来い
あるきはじめた
みいちゃんが
赤い鼻緒の
じょじょはいて
おんもへ出たいと
待っている

春よ来い 早く来い
おうちの前の
桃の木の
蕾もみんな
ふくらんで
はよ咲きたいと
待っている

まだヨチヨチ歩きの「春」で、週末はまだ寒そうです。

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懐かしい思い出になる

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 『強い男にならなくっちゃ!』と、死に損ないの私は決心しました。弱虫は男の敵だと思って、けっこう我慢強く生きようとしていたのですが、すぐに風邪をひき、起き上がる力がなかったのです。咳が出て、微熱が出ると、go sign を読みとった母は、肺炎の再発をさせないために、そんな私を電車に乗せて、隣街の最良の国立病院に連れて行ってくれました。

 ただ帰りにガムやチョコレートやピーナッツのどれか一つを買ってくれると言う餌に釣られて、食いしん坊の私は、ついて行ったのです。そんな病院通いが、三年生までの間中、繰り返されていました。ところが4年になった頃から、健康を取り戻して、好きな学校に行けるようになったのです。でも落ち着いて座っていなくて、よく担任の先生に叱られたわけです。

 大正9年に、「靴が鳴る」や「雀の学校」の作詞をした清水かつらが作詞し、広田龍太郎の作曲で、「叱られて」が発表されました。物悲しい歌でしたが、有名な童謡の一つです。

叱られて
叱られて
あの子は町まで お使いに
この子は坊やを ねんねしな
夕べさみしい 村はずれ
こんときつねが なきゃせぬか

叱られて
叱られて
口には出さねど 目になみだ
二人のお里は あの山を
越えてあなたの 花のむら
ほんに花見は いつのこと

 清水かつらのお母さんは、弟を産んで、精神的な問題をきたしたと言う理由で家を出されてしまいます。そんな辛い経験をさせられたのが、かつらが4歳の時でした。9歳の頃に、父親が再婚し、その継母に育てられています。優しい女性ではなかったようです。

 これは母から聞いたことですが、私の父も、明治の終わりに、産んでくれたお母さんが、家の格に合わなかったと言う理由で、家を出されたのだそうです。間も無く祖父は結婚をします。継母は、男の子を生んで、その子が嫡出の子になり、父は庶子、家督を継ぐことのない子だったのです。妹が三人いて、『お兄さん!』と慕われますが、旧制中学生の頃に、家を出て、東京の親戚の家から、転校した中学校に通うのです。

 お弁当におかずが入っていなかったり、弟妹とは、違っていたのだそうです。そんなもがく父を、親戚が助け舟を出して受け入れてくれたのでしょうか。でも、継母の名を呼び捨てにしていた父が、『辰江さんは・・・』と言って、『あの時代、シュークリームを作ってくれたり、トンカツを揚げてくれたりで、料理の上手な人だった!』と思い出を話してくれたことがありました。父が亡くなる少し前のことでしたから、しがらみを投げ捨てて、赦していたのでしょう。

 その継母の葬儀に、なぜか父は私を連れて行ったのです。人間は、やはり偏見があったり、自分の産んだ子の方が可愛いし、先妻の子の父に対して、あったことは仕方のないことなのかも知れません。全部神が許されなくては起こらないことだとするなら、その辛い出来事に、神を認め、どんな仕打ちだって赦すことができるではないでしょうか。

 かつらは、だれに叱られているのでしょうか。実母に会えない自分の惨めさや寂しさの中で、叱られて街まで買い物に行かされたり、狐が泣く頃まで、家に帰れないようなことが、まだ小さいかつらにあったのでしょうか。継母が、そんなことまでするでしょうか。

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 その父は、私を叱って、家から2回追い出したことがあったのです。鉄道の貨物の荷揚げや荷下ろしをする引き込み線に停車してる列車の最後尾の車掌室で寝たことがあります。そんな所で寝たことのある人は、多くはないことでしょう。また、裏山の林の中で枯れ草を集めて、その中で星を見上げながら泣いて、寝た夜もあります。

 「叱られて」を口ずさみますと、そんな出来事を思い出してしまうのです。でも、この歳になると、懐かしい思い出になるのがいいですね。まあまあ長生きさせていただいて、残りを、懐かしく過去を思い出し、これからも、まだ前に拓け行く世界に向かって、楽しく感謝して生きていこうと思っております。今日から、父の誕生月、弥生三月になりました。

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如何ともし難いこと

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 最近は、手紙を書かなくなってしまっているのですが、何か足りなさを覚えます。今は、[ e-mail ]という便利な通信手段がほとんどになってしまい、電子活字では伝わらない、心情のこもった肉筆の手紙が懐かしく感じてしまいます。

 クリスチャンの政治家で、総理大臣を務められた、大平正芳首相の書かれた手紙を読む機会が最近ありました。恩師が著された本の寄贈へのお礼なのです。明治末に、香川県和田村(現在の観音寺市です)で生まれ、尋常高等小学校で教えを受けた、稲田先生から回顧の書をいただいたお礼の手紙なのです。

謹啓、時下、愈々御清健に渉らせられ、慶賀の至りに存じます。偖て、本日は、貴著『あした葉』御恵投に預り、誠に難有、厚く厚くお礼申し上げます。日頃は御無沙汰ばかりで全く汗顔の外なく存じていますのに、お忘れもなく御芳誼を頂き、感激の他ございません。ちょうど明後三十日より九日間北米中南米方面に出向きますので、機中絶好の読物を得ていささか心が躍っております。何れ読後改めて御礼申上げる所存でありますが、不取敢思わざる御芳情に接した悦びをお伝えいたします。

先は要々御礼まで。御令室様によろしく御鳳声下さいませ。     不一

四月弐八日夜
大平正芳拝
稲田伊之助先生  玉案下

 そして読後の感謝の手紙です。

前略先般御恵投頂きました『あした葉』、偶々過般外遊中五十八時間機中におりましたので、楽しく読ませて頂きました。私が驚きましたのは、稲田先生の御記憶の強さ、正確さです。私など幼少の頃の記憶が不確かであるのに比して、先生のそれの正確さには只々舌を巻く次第です。次に用語が平易、表現が簡明、これこそが正に達人だという感嘆の思いで一杯です。それよりも何よりも、先生の人間に対する思いやりや愛情の深さに痛く感銘するとともに、先生御自身の清涼な人生が崇高なものであることに羨望の思いさえ感じた次第です。本当に御恵投有難うございました。

どうかいつまでも御健勝で、われわれ後進を御指導下さいますようお祈りいたします。先は御厚礼まで。     不一

五月二十日早朝
大平正芳拝
稲田伊之助先生  玉案下

 社会的な立場を得ても、こんな思いで恩師に感謝をする大平首相の生き方、接し方に驚かされます。この方は、私の父と同じ、1910年3月に生まれておられ、明治、大正、戦時下の昭和、戦後の昭和を生きた方です。聖公会の信徒で、ご自分の信仰を言い表しておいででした。

 私も、多くの良き師に出会い、薫陶や行く道を教えていただいたのですが、恩師への感謝は、心の中では思ってはしましたが、大平首相のように言い表わすことはありませんでした。「玉案下(ぎょくあんか)」などと書いて、恩師に敬意を払いたかったなあ、と思いますが、もうすでに、恩師方は亡くなられておいでですから、如何(いかん)ともし難いことであります。

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century plantのアガベ

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 福島県郡山市の逢瀬公園・緑化センターのサボテン園で咲いた花です。「福島民報」によりますと、50〜80年に1度だけ花を咲かせる多肉植物で、「アガベ」と言うそうです。黄色い花を咲かせる「アガベ」は、米国南部や中南米の乾燥地帯に自生するリュウゼツラン科の植物です。

 100年に1度咲くという意味で「センチュリープラント」とも呼ばれるのです。このサボテン園では、3月いっぱいまで観られると言っています。

 動画のURLは https://youtu.be/bMGKUoczg5I

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なにやら厄介なもの

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 『劣等感は厄介者だ!』、長く生きてきて、多くの人と出会ってきたからなのでしょうか、または人を見る目が厳しいのか、もしかしたら意地が悪いのか、人の心の底に隠れているものに気づくのかも知れません。きっと自分が、劣等意識に苛まれているから、同じような人のことが分かるのだろうと思うのでしょう。

 『何かをやり残したい!』と言う欲求が、人にはあるのかも知れません。通学駅の下車駅名の表示板に、仲の良かった友人と一緒に、〈落書き〉をしたことがあります。隅っこに、名前の一部分ずつをアルファベットで遠慮がちに書き込んでしまったのです。今だと、「器物破損罪」になってしまうのだそうです。それを、見つけたのが、「奥の細道」を教えてくれていた、高等部の国語教師でした。『ああ言うことをしちゃあいけない。帰りに、消しておきなさい!』と、二人を教室に残して、授業の後に言ってくれたのです。

 この先生は、駅名の表示板の隅っこの小文字のアルファベットの文字を見て、誰だか分かったのには、驚きました。中1120人ほどいたでしょうか、教えておいでの高校生だって数百人はいたのに、ショウちゃんと準だと見破ったのです。それには驚きました。校名を汚していないか、自分の名を刻みたい思春期の誘惑で、それでも分からないように、小文字にアルファベットで書く心理を見抜いて、『あの中一だ!』と思いついたわけです。

 高額の参加費を出してのヨーロッパ旅行をした若者が、有名な観光地の記念的建造物に〈落書き〉をして、顰蹙(ひんしゅく)を買った事件がありました。自分の訪問や旅行の記念、さらには青春の証で、何か残したくって、名を刻んでおきたい誘惑に負けたのでしょう。

 私たちは下校時に、ついででしたが、彼らは、高い航空運賃を払って、消しに行かされ、双方、恥を被ったのです。平凡で、つまらない一生を、劣等感を持ったまま終わりたくない思いが、実はとてつもないことを起こさせてしまうのです。前にも、触れたのですが、良きにつけ悪につけ、〈世界を動かした人物〉には、そう言った、心や生き方の背景が見られます。人は、何かの劣等意識と少なからず戦って生きてるのでしょうか。

 もちろん、その〈劣等感〉をバネにして、社会貢献をした人物が大勢います。でもその反対の事例が多いのも事実です。アヒルのヒナは、自分の目に初めて入った大きな存在を、親だと思うのだそうです。実験的に、産んでくれた母鳥ではなく、母鳥でない人と出会わすと、この「人」を親だと認知するのだと、動物学者の実験で知りました。これを、「刷り替え」とか「倒錯」と、心理学者は言うそうです。

 三島由紀夫と言う小説家がいました。極めて頭脳明晰な人で、名門コースをたどって、将来を嘱望された人でした。この人の5歳の時の経験が、彼の作品の中で述懐されています。

 坂道の上の方から、汚れた手拭いで鉢巻きをし、ももひきを履き、地下足袋を履いて、肥桶を担いで降りてくる、血色も目の輝きも頬の輝きの美し若者と出会ったのです。その出会いは衝撃的で、彼は、『あの人のようになりたい!』と願うほどだったと告白しています。少なからず、多くの人が、印象の強い、映画スターや歌手や物語の主人公に「憧れ」る時期があります。

 また、男だけの学習院に学んだ三島は、クラスの演劇でクレオパトラ、「女」役を演じたりしています。さらに中等部で、落第してきた年長の同級生の「男」らしさに惹きつけられ、恋をするのです。

 鶴田浩二(予科練や学徒特攻兵に憧れていた自分だったからでしょう)、木村功(軍隊の内務班の不条理を演じていたからでしょう)、ジェームス・ディーン(母を失い父に厳しく取り扱われたギャルを演じ、反抗期のアメリカ少年を演じ、使用人から幾万長者になっていくジェットを演じたからでしょう)、思春期真っ只中で、単純に私が憧れた、スクリーンのなかの登場人物を演じた俳優たちでした。

 何か影のある感じが、良かったのでしょうか。思春期の一つの心理って、そう言った面もあるのでしょう。でも自分を発見していく上で、そんな憧れも一過的には意味があったのでしょう。俳優にも石油王にもなれませんでしたが。

 『あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。(イザヤ4817節)』

 そう言われる、神さまに導かれて、学校の教師、キリスト教会の伝道者になりました。それは、自分の願いを遥かに越えた「導き」があったからです。そして一人の妻を得て、四人の子を与えられ、家庭を持ちました。悪戯小僧で、喧嘩好きで、短気で、コソ泥だったのに。

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 『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。 (哀歌322節)』

 『イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。 (ユダ11節)』

 「憐れみ」によって、「守られ」て今があります。優等生などには遥かに及ばず、滅ぶのが当然のようで、少々異常でおかしいのですが、「虐殺者」にも、「軍国主義者」にも、「詐欺師」にも、「倒錯」にも陥らないで、ここまで生きて来れたのを思い返しています。

 それにしても、三島は、倒錯の中を生きて、最期は、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で、自衛隊の蜂起を願って、「檄(げき)」を飛ばして、日本を変えようとしたのですが、叶えられず、庁舎内で割腹自殺をして、45歳で果てたのです。私は、自分が弱いので、どんなに立派な業績や社会的な評価を受けていても、倒錯者、自殺者、偽善者、高慢な人、家族を顧みない者からの影響を受けまいとして生きてきました。

 三島は、自分の幼い日、子どもの頃を、次のように書き残しています。

 「祖母が私の病弱をいたわるために、また、私が悪いことをおぼえないようにとの顧慮から、近所の男の子と遊ぶことを禁じたので、私の遊び相手は女中や看護婦を除けば、祖母が近所の女の子のうちから私のために選んでくれた三人の女の子だけだった。」

 両親よりからも、祖母の影響が強くて、〈両親のイメージの不在〉があったようです。お父さんは、優秀な高級官吏でしたが、分裂気質が強かった人だったようです。祖母は、幼い恋人のようにしていた、幼い三島をお母さんから遠ざけ、「しじゅう閉め切った、病気と老いのむせかえる祖母の病室で」育てていたのだそうです。それで三島の作品には、母親の描写が少ないと言われています。

 何かがかけている自分に気付いたのでしょうか、男っぽい軍人スタイルに身を包んだ〈楯の会〉をつくり、若者を集め、武闘訓練を行い、body building で筋骨隆々たる体になるために、肉体改造に、反動的に励んだのでしょうか。劣等意識の裏面に、さまざまなことが見え隠れします。北の方の国の指導者は、短躯の自分を跳ね返して、大きく強く見せるためにでしょうか、筋肉を身につけた裸を見せつけ、それ以上に強い指導者である印として、軍備で隣国を侵犯しています。そんなことよりも、この人に必要なのは、脳や心を嫌えて、花を育て、小ペットを飼い、隣人などを愛する優しさを鍛えて欲しいと思っています。劣等感が、どれほどの厄介なことをしてきているか、そう思うと複雑です。

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[旅に行く] マルコの三千里

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 イタリアのジェノバから、お母さんのいる南米アルゼンチンのブエノスアイレスへと、マルコが旅をする物語、「母をたずねて三千里」を、最近読み返しました。マンガや時代劇ばかり読んでいて、幼児への絵本や物語に興味を示さなかった反動で、最近、このように絵本づいているのです。

 いわゆるお母さんの出稼ぎで、出先のブエノスアイレスからの便りが途絶えたので、心を痛めた息子のマルコが、船に乗って大西洋を渡るのです。ビン洗いの仕事で、アルゼンチン行きの船の船賃を稼ぐうちに、船員になって船に乗る機会が、マルコに与えられるのです。移民船の船員の仕事を手伝いながら、移民たちの貧しさや辛さを垣間見ます。嵐にあいながら、ブエノスアイレスに着くのです。

 親戚を頼って、その街に着くのですが、おじさんは事業に失敗し、お母さんも行方不明になってしまっていたのです。アンデス山脈の麓の村、コルドバにいるという情報を得たマルコは、パンパ平原を超えて長旅をします。さまざまな困難を通り、親切にもあうのです。そこにいた母は、マルコが訪ねた時には、またトウクマンという村に移っていたのです。世話をしてくれた少年の妹の病気の医者代のために、もらったお金を使い果たしてしまいます。けっきょく無賃乗車をして、トウクマンに着くのです。

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 マルコのお母さんは病気をしていました。でも息子に会えた喜びで、体が回復していくのです。そして、ジェノバに帰ることができます。その頃には、お父さんの事業も良くなっていて、長い旅の後に、素敵な家庭が再建されていく、そんな物語です。

 十七の時に、アルゼンチンへの移民を真剣に、私は考えていました、「日本アルゼンチン協会(亜爾然丁)」が東京にあって、資料を取り寄せて、スペイン語の学習書を買って、その準備をしたのです。ところが学校に合格してしまって、二者択一で、楽な道を選んでしまい、その夢は儚くも消えてしまいました。

 あれから何年も何年もたってから、ブエノスアイレスの教会訪問で訪ねたのです。空港に着いた時、もし十七、八の時に移民していたら、どんな生活をしていたのだろうかという、光景がパノラマのように閃いたのです。人生の岐路での選択に、主の導き、『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ3021節)』を認め得たのです。

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 移民された方の家も訪問し、ご馳走になりました。洗濯屋さんをしておいでで、沖縄からの移民のみなさんとお会いできたのです。「三線(さんしん/沖縄の三味線です)を演奏してくれました。その訪問の後、サンパウロに行き、近郊の街に住む義兄を訪ねました。大きな池のある家に住み、農業移民から、手先の器用さを利して時計修理や販売、宝石などを商いながら生活をし、子育てを終えていました。

 和歌山から母子で移民された方が、街一のレストランに招待してくれ、大ご馳走に預かりました。リンゴ栽培(ふじりんご)で成功し、手広く事業をされておいででした。移民の母子家庭の逆境を乗り越えておいででした。成功も失敗もさまざまな物語があったようです。

 マルコのような物語も、日本人版であったかも知れませんね。イタリア人の店では、ピザが売られていました。アルゼンチンも、ブラジルも、ヨーロッパ系のみなさんの移民の地でした。

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復興を祈ります

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 使徒パウロは、小アジアのピシデアのアンテオケに宣教しています。この街はトルコを横断するアナトリア高原にあるそうです。そこはローマ帝国の植民都市で、ローマに通じる「ローマ街道」の拠点でもありました。パウロはこのローマ街道の近辺に宣教を展開し、いくつもの教会を建て上げたのです。

 アンテオケは丘の上に建てられた、ロ-マ風の街であったそうです。ローマと結ぶ「ローマ街道」は、石畳の道で作られてあり、パウロの伝道一行は、福音を携えて、この道を辿ったのです。アナトリアの高原が広がり、その街があったそうです。その街で、パウロがした、とても印象的な説教があります。下記してみます。

『しかし彼らは、ペルガから進んでピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂に入って席に着いた。
律法と預言者の朗読があって後、会堂の管理者たちが、彼らのところに人をやってこう言わせた。「兄弟たち。あなたがたのうちどなたか、この人たちのために奨励のことばがあったら、どうぞお話しください。」
そこでパウロが立ち上がり、手を振りながら言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々。よく聞いてください。
この民イスラエルの神は、私たちの父祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。
そして約四十年間、荒野で彼らを耐え忍ばれました。
それからカナンの地で、七つの民を滅ぼし、その地を相続財産として分配されました。これが、約四百五十年間のことです。
その後、預言者サムエルの時代までは、さばき人たちをお遣わしになりました。
それから彼らが王をほしがったので、神はベニヤミン族の人、キスの子サウロを四十年間お与えになりました。
それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。『わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。』
神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。
この方がおいでになる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、前もって悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。
ヨハネは、その一生を終えようとするころ、こう言いました。『あなたがたは、私をだれと思うのですか。私はその方ではありません。ご覧なさい。その方は私のあとからおいでになります。私は、その方のくつのひもを解く値うちもありません。』
兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。
エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました。
そして、死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要したのです。
こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました。
しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。
イエスは幾日にもわたり、ご自分といっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに、現れました。きょう、その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています。
私たちは、神が父祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。
神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ』と書いてあるとおりです。
神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える』というように言われていました。
ですから、ほかの所でこう言っておられます。『あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。』
ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで父祖たちの仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。
しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした。
ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。
モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。
ですから、預言者に言われているような事が、あなたがたの上に起こらないように気をつけなさい。
『見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。』」(使徒13章14~41節)』

 

 

 この説教は、イスラエル民族の「救いの歴史」が紐解かれ、イエスさまの十字架の死と復活に至ることを語っています。それは、罪に苦しむ私たちが、その罪から離れて、輝いて生きていくための「罪からの解放」、「救い」の基点だからです。実に重い説教を語って、パウロは、アンテオケ在住のユダヤ人に迫ったのです。

 この説教が語られたのが、この26日に起こった、「トルコ・シリア大地震」で壊滅的な被害にあったトルコ、聖書時代の古代都市のピシデヤのアンテオケ、現在のアンタキア(写真参照)です。トルコは、イスラム教の国ですが、クリスチャンもおいでです。

 地震の被害にあわれた人たちは、数えきれないほど大勢だそうです。家族を亡くされた遺家族の上に平安を祈り、まだまだ寒い地で、復興が急がれますようにと願います。ただ主の恵みを祈ります。

(アンタキアの街、パウロの伝道旅行の街のアンテオケです)

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