「これぞ日本人」中国人20人を救出した佐藤充さん

○中国人研修生に捧げた命「これぞ日本人」中国人20人を救出した佐藤充さん

最終更新:2011年03月21日 15時55分
 いざという時こそ、人の真価が問われる。11日に発生した東日本大地震で、自らの命を顧みることなく、中国人研修生20人を助けて、自身は津波にのみ込まれて亡くなったと見られる日本人男性が、中国など世界で広く報道され、その命を惜しむ声が今でも止まない。

 この男性と同じ国・日本に生まれたことを誇りに思う。この男性とは原発基地もある宮城県・女川の水産加工会社「佐藤水産」の佐藤充専務のこと。

 中国の各メディアによると、同社には、20人の中国人を研修生として受け入れている。地震発生時には、「津波が来る」と寄宿舎の研修生たちを高台に先に避難させて、その後はもう一度寄宿舎に戻り、家族を捜しに行ったのだという。

 だが、研修生たちが佐藤さんの姿を見たのはそれが最後だったという。佐藤さんと家族はまだ行方がわかっていない。

 「あなたのことは絶対に忘れることはない」「災害の前には、国を超えて我々は人間なのだ」「愛に国境はない」などと、報道では称賛の言葉が並んでいる。

(写真は、女川の「佐藤水産」の研修風景です)

○http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110320-00000013-rcdc-cn」
○http://htn.to/BMMfAq

志願


「あいち炭やきの会」のメンバーより、
>http://aichisumi.exblog.jp/

下記の情報が入りました。
お聞き及びかと思いますが原発事故の一側面の情報として祈りの依頼が来ておりますのでお伝え致します。
参考にして頂ければ幸いです。

皆さん、どうかお願いがあります。祈りを、皆さんの祈りを今、福島原発で命がけで 我々の国、この日本を、国民を、あなたを、あなたの家族を救う為に懸命に仕事をしている人々がいます。
どうか祈って下さい!
作業が成功するのを!
お願いします!

自衛隊特殊化学防護隊の隊員たちは志願者です。
しかも年齢は55歳から上、もう子育ても終わりに近いので思い残す事は無いと志願者となったようです。
その様な志願者が50名時事通信社の記事があります。
>http://www.jiji.com/jc/zc?k=201103/2011031600093

東電が全国の電力会社、協力企業に助けを求めました。
志願者です、決死隊として原発の内部作業をする
原発関係者のベテランを募ったのです。

中国電力の原発勤務40年というある男性が、この作業は自分達のようなベテランがやるべきだ。自分は定年まで後一年であるし、子育ても終わったとして、志願したそうです。

ご家族は静かに思いを語る自分の夫、父親 の決意に何も言えなかたそうです。
その方の娘さんは,今までと違う父のもの静かな顔を初めて見たそうです。
志願者20名。翌朝、いつも出勤する時のように、じゃあ、いってくる。と言って玄関を出てたそうです。
原発での作業中、放射線被爆があります。
国が定める限界被爆単位100ミリシーベルト。
それが250ミリシーベルトになりました。
何故なら、彼等が望んだからです。

100ミリシーベルトではすぐ時間が経ってしまい
数分では作業ができない。だから国に250に上げてくれと。
その為の被爆量は覚悟の上なのです。

そのおかげで昨日、あと一歩で臨界点と言う所で臨界が止まったのです。

もし臨界点に達していたら。
私達は今、この時を、この時間を過ごしていません。
家族と恋人と仲間、友人とこの時間が無かったかもしれないのです。
半径300キロ生物の生存率は、限りなくゼロに近かったんです。
今のこの時間は彼等のおかげなのです。
経営側幹部たちは我が身安泰の為、情報を小出しにし、遠く離れた東京から出てきませんでした。
お願いです皆さん!祈って下さい!
皆さんの祈りを!作業が成功するように!祈って下さい!皆さんの想念を送って下さい!
今日 放水作業が無事終わりました。

明日の作業も成功するように。
隊員たちが無事であるように!祈って下さい!
どうかお願いします!
そして家族、友人、仲間、一人でも多く方

人が優しくなってきている


今、次男が住んでいる渋谷・代官山の家に来ています。一昨日は、彼のガールフレンドも来て、今朝は、長男家族が家内を連れて来てくれました。長男家族は、春休みを利用して、名古屋近郊の実家を訪ねるということで、1時間あまりで出かけて行きました。彼らの留守の間、次男が母親の面倒をみるということでの来訪になったわけです。家を持たないということが、こんなに彩りと変化を生活の中にもたらしてくれることを、私と家内は楽しむことができております。日本の根幹を揺るがしかねない大試練のただ中で、さらに家族の絆が強くさせれてきているのは、我が家ばかりではないようです。

今朝は、小さなマンションの部屋の中に、8人が集ったことになります。二人の孫が、名古屋の《爺やん》に会える小旅行を楽しみにしているようでした。そういえば、次男は、『お父さん。お母さんと一緒に名古屋の義姉の実家に逃れて、そこから、お姉ちゃんのいるシンガポールに行ったらいいよ!』と、放射能汚染で外国人が東京から逃げ出しているというニュースが流れる中で、本気で勧めてくれるのですが。私も家内も、そういった敏感さを持ち合わせていないのと、慌ただしく脱東京を果たしても怪我をするのが関の山ではないでしょうか。

さらには、被災地のみなさんが、避難所で不自由な中で生活をしておられますし、救助隊は遠くに家族を置いたまま、復興の業に励んでおり、福島原発では、『我々が逃げ出してしまったら、東日本は壊滅だ!』といった思いで、危険を顧みないで事態の改善のために励んでおられるのです。家内と私だけが、まだ想定される危険であるのに、それを避けて逃避行をするわけにはいかないのです。次男の親を思う優しさには感謝でいっぱいですが。原発の炉に放水した部隊の消防隊長は、『あなた、日本の救世主になってください!』と妻に檄を飛ばされた、と記者会見で話しておられました。夫の身の安全よりも、国難回避を最優先するとは、驚くべき職務への夫婦の献身であります。

私の家族でも、友人たちとのメールの交換でも、「東北関東大震災」、「福島原子力発電所事故」が、どうしても話題の中心になっております。そんな中で、一昨日の夜半に、『俺、○○さんと結婚するからね!』と次男が意思表示をしたのです。それから母・兄、上の姉・下の姉に次々と、その旨、自分で報告していました。その彼の結婚相手が、郊外から大きな旅行用鞄に、実家のスーパーマーケットの食料品を詰めて慰問してくれたのです。以前は、そんな経験はしたことがなかったのですが、駅のホームを移動するとき、その重い鞄を持って手伝いをしてくれた若者が何人もいたのだそうです。国難の中で、『人が優しくなってきているわ!』と彼女が感想をもらしていました。

困難な事態のただ中で、日本が確実に変えられているのではないでしょうか。今朝、特に被災地で尋常では考えられないような環境変化の中で、耐えている、とくに子どもたちが笑顔を持って、輝く明日に夢をつないで生きていってほしいと思っています。
”ガンバレ日本!“

(写真は、産経ニュース・タイでの日本支援の光景です!)

益荒男(ますらお)


「愚直の努力」、しなければならないことを、手を抜くことなく、マニュアル通りに、基本に従って、繰り返していく職人気質を、そう言うのだと思います。頑固なおじさんは、見習い工の時に、手をとって教えられることなどありませんでしたから、先輩たちの仕事の仕方を盗み取ったのだそうです。そうして身につけた手法を、踏襲して堅持するのです。若い時に叩き込まれたことを、疑うことなく1つのことにこだわりながら、すべきことをして来たのです。

鍋の穴をふさぐ、「鋳掛屋」のおじさんが、子どもの頃、何ヶ月かに一度、自転車で回って来ました。『邪魔だ、あっちへ行け、小僧!』なんて言われませんでした。興味津々に覗き込んでいるわれわれに、仕事振りを見させてくれたのです。世の中で鋳掛屋の職人なんてたいしたことはないかも知れません。でも鍋が、 どこのスーパーでも売っているような時代ではなかったので、実に重宝だったに違いありません。それにしても随分と安い工賃だったのを覚えています。それでも、仕事に誇りを持って、精一杯仕事をしておられた姿は、われわれ《ハナ垂れ小僧》に、『仕事とは何か?』を教えてくれたのだと思うのです。

そう言った職人さんとか、職工さんが、製造業でも加工業でも、どこにも、どの部門にもいました。私が、学校に行っていました頃、毎年夏に、ある牛乳工場でアルバイトを2ヶ月ほどさせていただきました。製造のラインでも、出来上がった製品の牛乳ビンの入った箱を冷蔵庫に積むのでも、それを出荷するのでも、頑固なおじさんが、 どこにも必ずいたのです。『もっと工夫すれば、楽が出来るのに!』と若くて生意気なわれわれは思ったものです。ところが、決められたとおりにすることを、彼らは要求するのです。言われたことに『はい!』と従う時、彼らはニコニコと微笑んで、『うん、うん!』とうなずきながら、われわれの仕事振りを眺めていました。一日の仕事が終わると、明日の作業ために、時間をかけて準備をするのです。掃除や後片付けをするわけです。新製品を開発する研究部門が、学歴や実績のある人たちによってなされている背後で、脚光を浴びない裏方が、どうでも良いように思われる愚直な作業を続けていたのです。それがあって、社会で評価 される製品が流通して行くわけです。奄美大島から出て来たり、秋田弁をしゃべるおじさんの中に混じって、仕事をして、多くのことを学ばせてもらったのです。つまらないように見える仕事を、意味あるものとするプロ意識の中に見えたのが、この「愚直の努力」でした。若い人の『無駄だ。もっと省力化を図らね ば!』と言った考え方に、それは警鐘を鳴らしている生き方、仕事の仕方に違いないのです。

『漫才の天才!』と言われた人に、横山やすしがいました。彼が、自分と同年であったことを知った時から、彼の生き方に強い関心を向けたのです。同じ時代の流れや風の中を、生きて来た者として、とても親密感が湧いて来たからです。『ほんまに稽古嫌いだった!』と、相方の西川きよしが話しているのを聞いたことがありました。1つの演目を演じるのに、その稽古嫌いのやすしをなだめすかして、稽古に連れ出したのは、きよしでした。なんと40回も稽古をしていたそうです。アドリブだとばかり思っていたのに、アドリブを入れるためには、積まれた山のような稽古があることを知らされて、一朝一夕には名人には、なれないのだと言うことを知らされたわけです。やすしの破天荒な生き方は推薦しかねますが、自分の仕事に対して、いやいやながらでもし続けた、見えない裏の部分があったのだと言うことを知らされるわけです。

この9日あまり、国家的大危機のただ中で、東京電力の50人の作業員が命を賭して、持ち場から離れずに、大惨事から国民を守ろうと決死の作業を続けております。さらには、『仕事とは何か?』を熟知し、山のような訓練を積んだ来た消防士、警察官、自衛官も、今回の危機からの回避のために、死を恐れずに、日頃、切磋琢磨した腕と魂をもって、愚直の努力を継けておられます。職人集団の強靱な心意気に目を釘付けにさせられる私たち国民は、ただただ手を上げて、雄々しき《益荒男(丈夫)》の無事を祈るのみであります。

(写真上は、「鋳掛」の作業を終えた鍋底、下は、「自衛隊員」です)

Why I’m not fleeing Japan

イザ!ニュース

原発事故、冷静さ保って 米紙元特派員

2011/03/19 10:20更新

18日付の米紙ワシントン・ポストは、東京電力福島第1原発の事故に関して「私はなぜ日本を離れないか」と題した神奈川県鎌倉市に住む元同紙東京特派員のコラムを掲載、放射能被害を恐れる声が高まる中、冷静さを保つことの必要性を訴えた。

筆者はポール・ ブルースタイン氏で、外国人らが日本を脱出しようとする動きや、放射能被害に効果があるとされるヨウ化カリウム錠を求めて米国内の一部で騒ぎが起きている ことに触れ、「原発事故の先行きは分からないが、日本が核分裂性物質の温床のように捉えるのは、賢明でも公正でもない」と訴えた。

日本は危険だとの認識は「経済的、心理的に打撃を与える」とし、過剰反応は「被災者への心からのお見舞いの言葉を無意味にし、日本が立たされた苦境をさらに悪くする」と強調した。(共同)

Why I’m not fleeing Japan

By Paul Blustein,

Thursday, March 17, 11:28 AM

KAMAKURA, Japan

To get some perspective on the earthquake that struck the country to which I moved last year, I hiked a mile and a half Wednesday morning from our house to the Great Buddha of Kamakura, the most famous attraction of this town on the southwest outskirts of Tokyo.

Serenity washes over me every time I gaze at the 44-foot, 13th-century bronze statue. I’m not spiritual, much less a Buddhist. But I went to confirm, with my own eyes, that the Buddha looks the same as usual — that he wasn’t, say, glowing because of deadly rays emitting from the crippled nuclear plants 200 miles to the north.

Silly? Of course. Not much sillier, though, than many of the reactions I’ve seen or read about in the past couple of days: the hordes of expats shelling out thousands for flights out of the country; authorities in China, South Korea, Singapore and elsewhere screening Japanese food imports for radioactivity; folks in the States clamoring for potassium iodide pills to protect them against atomic particles wafting across the Pacific. I’ve been deluged with messages from loved ones, wondering whether we’re planning to evacuate. Yet while the concern has been touching, we’re staying put.

Particularly because we don’t live in the immediate vicinity of the nuclear plants, we’re confident that we’re as safe here as always — which is to say, extremely safe, the kind of safe that makes us comfortable sending our fourth-grader on a long train and bus commute to school, a fairly common routine here even for much younger children. Aftershocks, power outages, panic food-buying, long gasoline lines — this, too, will pass, and it’s hard to pity ourselves much given the misery that people along Japan’s northeast coast have endured since March 11.

If there is anything to worry about, it is that the perception of Japan as an unsafe country will inflict all kinds of economic and psychological damage. That would compound the tragedy it is enduring, hamper its ability to recover and elevate the challenges it faces just when it is most in need of support.

The Japanese have, for example, woken up in recent years to the need to promote their nation as a tourist destination — but how many millions will forgo visiting Kyoto’s exquisite temples for fear of radiation exposure? Japan’s premium-quality rice, fruit and other foods have begun selling well in the nouveau riche markets of Asia, offering hope that the nation’s notoriously cosseted agriculture sector might become more open and modern. Will those export markets dry up if Japanese food acquires a nuclear taint?

The number of Japanese who study and work abroad must increase so the nation can cope with globalization more effectively — but will this happen if Japanese anticipate being treated as some sort of freaky gamma-ray-emitters? As my former colleague Rob Stein reported Monday, people from areas near past nuclear accidents have been stigmatized and shunned, making them all the more prone to stress-related illness.

I admit that when news broke about the power plants I wondered whether dangerous particulates might drift to our home. But when I read past the headlines, I learned that the risks were negligible for virtually all 125 million residents of the Japanese archipelago (except, of course, the heroic plant workers).

I read, for example, that after the Chernobyl disaster, most deaths resulted from children in the surrounding area drinking milk from cows that had grazed on contaminated grass — a blunder the Japanese aren’t going to repeat. I came to realize that even a core meltdown” — something that I had always assumed spelled doom for millions — didn’t necessarily mean much adverse effects on human health, certainly not for people living distant enough for the particulates to disperse. Radiation, I learned, is a rather weak carcinogen. Even among the hibakusha, as survivors of the atomic attacks on Hiroshima and Nagasaki are known, cancer rates were not a lot higher than among the general population.

The extent of the troubles at the nuclear plants is still uncertain. But it hardly seems sensible for people like us to pack up and leave. Nor does it seem sensible or fair for people here or abroad to act as if Japan is a hotbed of fissile material. All those heartfelt expressions of sympathy for quake victims aren’t going to mean much if overreaction to the nuclear mess worsens Japan’s plight.

The mood here might not be conducive to tourism for a while. My wife, who is Japanese, has been brushing away tears night after night as she watches televised interviews of people from the stricken coastal areas. Their anguish is the proper focus of attention.

All the more imperative, then, that perspective be kept. If foreigners recoil at Japanese vacations, job postings, products or people because of irrational fears about radiation, they will deepen and prolong the trauma that nature has inflicted. In a few months, Japan should be its recognizable self, maybe even brimming with vitality stemming from a renewed sense of national purpose. The trains will once again be astonishingly punctual; the food will be delectable and plentiful. Once that happens, foreigners will hopefully recognize that Japan — with its Great Buddha and so many other wonders — remains an extraordinarily safe place.

Paul Blustein, a former Tokyo correspondent for The Post, is an author and researcher affiliated with the Brookings Institution and the Centre for International Governance Innovation.

島田洋一ブログ (Shimada Yoichi Blog)からの転載です)

我慢・子ども・威厳・春風

◯略奪起きない日本を称賛 大震災でアルゼンチン紙 【リマ共同】「なぜ日本では略奪が起きないのか」。南米アルゼンチンの有力紙ナシオン(電子版)は16日、東日本大震災の被災地で、被災者らが統制の取れた行動を取っていることを驚きを持って報じた。中南米では、昨年1月と2月に起きたカリブ海のハイチと南米チリの大地震の際、混乱した被災者らがスーパーなどから商品を略奪し、強盗被害も多発した。紙は茨城県内にいる特派員の情報として、被災者がわずかな食事の配給のために根気よく一列に並んで待っている様子を紹介。「仕方がない」と「我慢」の二つの言葉を胸に耐える日本人の強靱な精神をたたえた(excite110317)。

阪神大震災の直後、被災した子どもたちが描いた絵には荒々しいタッチで赤い色が多用されていた。真っ赤な海、火を噴く山、血を流す無数の人々、赤い天使▼ 「言葉にできない激しいショック、恐怖、不安を、赤という色や残酷な表現で吐き出そうとするのです」。色によるメンタルケアを実践する色彩心理学者、末永 蒼生さんから聞いたことがある。赤は生命を奮い立たせる色でもあるそうだ▼末永さんたちは震災後すぐから1年間、避難所や児童館を回って子どもたちと一緒 に絵を描くボランティア活動を続けた。色を使って泣いたり怒ったり、感情を発散して子どもたちは次第に癒やされていったという▼死の恐怖に襲われた子、家 族をなくした子、悲惨な光景を目の当たりにした子、避難所でおなかをすかせ寒さに震える子。今度は東日本大震災が子どもたちの心を深く傷つけ続けている▼ 被害が小さく見える子もどんな痛みを抱え込んでいるか知れない。できるならばすべての子どもたちに画材を届けたい。水も食べ物も暖房も足りないこんな時に と言われるかもしれないけれど、こんな時だからこそ心に手当てが要る▼絵を描こうよ、子どもたち。クレヨンや色鉛筆で今描きたいものを自由に、好きなだけ 描こう。そして、我慢せずに泣いてもいいんだよ(河北新報社「河北春秋」17日)。

同じ心を、昔の人は歌に詠んでいる。〈うらぶれて袖に涙のかかるとき人の心の奥ぞ知らるる〉。さして昵懇(じっこん)の間柄でもなかったあの人が、憎まれ口を叩(たた)き 合ったこの人も…◆失意と逆境のときに触れる他人の情けほど、骨身にしみてありがたいものはない。米国はもとより、中国やロシアを含む十数か国から救助隊 が来日し、東日本巨大地震の被災地で困難な救援活動に加わってくれている◆外電という形で届く“情け”もある。英紙インデペンデントは1面全面を使って 「日の丸」のイラストを掲げ、日本語で〈がんばれ、日本。がんばれ、東北〉と書いた◆デイリー・ミラー紙は宮城県南三陸町の被災地ルポを載せ、〈泣き叫ぶ 声もヒステリーも怒りもない。日本人は、黙って威厳をもち、なすべき事をしている〉と感嘆をもって伝えている◆イタリアでプレーしているサッカーの長友佑 都選手がピッチで掲げた「日の丸」には〈一人じゃない みんながいる!〉とあった…。いま、こうして書いていて、文字がにじんでくる。あの地震が起きてか らというもの、涙を燃料に毎日を生きている。そんな気がする(読売新聞「編集手帳」17日)

避難所の春風 象徴派詩人で「青い山脈」などの歌謡曲の作詞もした西条八十は関東大震災の日の夜、東京の上野の山で夜明かしをした。眼下に広がる市街は一面火の 海で、避難してきた人々も夜がふけるとともに疲労と不安、飢えで口もきかなくなった。すると近くの少年がポケットからハーモニカを出した。詩人は驚いて吹 くのを止めようとする。この悲痛な夜半にそんなことをすれば、周囲が怒り、殴られかねないと思ったからだ。だが止める間もなく、曲が奏でられた危惧は外 れた。初めは黙って化石のように聞いていた人々は曲がほがらかになると「私語(ささやき)の声が起こった。緊張が和んだように、ある者は欠伸(あくび)を し、手足を伸ばし、ある者は身体の塵(ちり)を払ったり、歩き回ったりした」。荒冬の野に吹いた春風だったと詩人は回想する11県で約41万人が避難生 活を送る東日本大震災の被災地である。きのうから冬型の気圧配置が強まり、暖房のない避難所ではつらい一夜となったに違いない。寒さに加え、水、食料、医 薬品の不足も依然解消されていない被災地は広域に及び、交通途絶が続く。自治体機能も回復せず、ボランティアもなかなか入れない。そんな避難所での被災 者同士の助け合い、いたわり合いを伝えるニュースには目頭が熱くなる。きっと上野のハーモニカ少年のように希望の春風を起こす人もいよう被災地で不足が 目立つ輸送用燃料をめぐり政府は国民に買い占めの自制を呼びかけた。遠くの土地の不用意な行動も、いてつく避難所の人々と無縁でありえないこの列島の暮ら しである。連帯の春風はそのどこからでも届けられるはずである(毎日新聞「余録」17日)