隣国の繁栄

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 ネットのニュースで、[韓国の生活水準が日本を抜く?]という主題が目に飛び込んできました。私には愛国心がないのでしょうか。隣の国・大韓民国が、日本の技術水準に追いつき、追い越していき、国をあげての企業努力の結果、豊かになるのであれば、それを喜ぶべきだと思うのです。隣国のことなど、どうでも好いのでしょうか。私は、そうではないと思うので、彼らの繁栄を喜びたいのです。

 この朝鮮半島は、長い日本支配から脱した直後に、東西に分割されてしまいます。その分裂が「朝鮮戦争(1950年から約3年間)」を勃発させるのです。この韓民族を南北に分けた戦争の悲惨さは、戦争特需の景気で、戦後の荒廃から抜け出せた私たち日本は、全く知らなかったのですし、それほどの関心も示さなかったのです。私の知人のアメリカ人の息子さんが、結婚した相手が韓国系アメリカ人の女性でした。この女性の話を聞いたことがありますが、筆舌に尽くしがたい経験をされていたのです。戦火が広がり、両親と死に別れ、孤児となった彼女は、戦場を逃げまわり、猫のような大きさになった鼠に、幼い仲間が襲われて絶命していくさまを何度も目撃するのです。命からがら逃げ果(おう)せて、アメリカの慈善団体に収容されます。その働きの中で、アメリカ人夫妻の養子になるのです。戦争のないアメリカで成長した彼女が、素晴らしい男性と出会って、結婚に導かれたわけです。

 彼女は、自分の半生を隠すことができたのですが、戦争、民族を分断する戦争が、どんなに悲惨なものであるかを訴えたかったのでしょうか。また、養子として育ててくれた養父母への感謝な思いからでしょうか、ご自分の凄絶な過去を語ったのです。実にスリリングな物語で、息を呑むようにして聞いたのを覚えています。戦争が停戦になり(現在も停戦中なのですが)、北からの脅威の中で、日本の繁栄を見聞きして、『追いつこう!』と必死に励んできたのです。日本の製品を購入し、それを解体して、真似て、さらにはより好いものを作る努力をしてきたのです。日本も、かつてそうしてきたわけです。

 1974年に、初めてソウルを訪問しました。大通りから少し路地に入ると、貧しい生活の様子が伺えました。日本には比べられない情況でした。夜は薄暗くて、街灯もほとんどありませんし、しかも戦時下の灯火管制、外出禁止令などが出されていた時期でした。バスに乗ったら、私が訪ねようとしていた会社の若い社員が、英語で話しかけてきました。その出会いに感動したのか、『ぼくにバス代を払わせてください!』と言って、払ってくれたのです。『対日感情がよくないので、気をつけなさい!』と言われての訪問でしたが、出会う人たちは誰も、とても親しく接して下さったのです。

 『日本に学べ!』と、懸命に励んだ結果、ついには、日本に追いついたのです。しかも昨今は、海外市場では、韓国製品のほうがメインになってきているので、追い越されようとしているのではないでしょうか。彼らは、国際競争に勝つほどの、優秀な製品を輸出しているからです。かつて日本製品が世界を席巻したように、今や、韓国や中国の電気製品が、主流になってきているのです。パナソニックもソニーもシャープも、力を弱めてきています。これは、順番なのかも知れませんね。

 逆境を跳ね返してきた韓民族の地力が、そうさせたのでしょう。こういった彼らの今を眺めながら、私はあの戦火を逃げまわった女性の話を、いつも想い出すのです。もう20年以上前になるでしょうか、一人の韓国人の社長と食事をしたことがあります。彼は、『いつか平壌に、自分の会社を立てる夢があり、それが胸の中から燃え出ようとしてるのを止められないほどです!』と熱く語っていました。彼は北朝鮮の出身だったのですから、親族の多くが、まだ北朝鮮で生活していたわけです。その夢を叶えられずに、先年、彼が亡くなったと聞きました。同じよううな夢を見ている人が多くおいででしょう。『きっと、その夢が叶えられる日が来る!』、それが韓民族の切なる願いなのではないでしょうか。

 竹島をめぐる領土問題がありますが、敵愾心を燃やしながら争うことよりも、互いの立場を理解し合いながら、隣国を祝福し合おうではありませんか。現・李大統領は、大阪で生まれ育った過去をお持ちなのです。それ程に、この両国も「一衣帯水」の間柄なのですから。私は日本を愛しますが、その愛国心が、隣国への敵対心を助長してしまうことを嫌うのです。だって、韓民族の血を、多くの日本人が受け継いでいますし、多くの在日の友人たちが、私にはいるのです。

(写真上は、現在の近代的なソウル、下は、朝鮮戦争の時のソウルの被災者の様子です)

平癒を願う

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 私の住んでいますアパートの大通りに面した門から外に出ますと、交差点に、「寿司」と看板を出した屋台が二台ほど出ています。このご時世に、『だいじょうぶかな?』と思っていますが、結構売れているようです。その向こうの大きな商業施設には、回転寿司店が、これまた二軒ほど出店しているのです。一軒は安いのでしょうか、とても混んでいて、日本食への人気は衰えていないように見受けられます。

 そういえば、道路際の食べ物の小さな屋台の間に、最近、「石焼き芋」が売られ始めました。ドラム缶を利用した竃から何ともいえない、芋の焼けた匂いが漂ってきて、『ああ秋になったのだ!』と感じております。そういえば、新聞紙を濡らして、それでサツマイモをしっかりとくるんで、焚き火の中に入れて、子供たちと「焼き芋」をしたことがありました。毎年、産地から手に入れたサツマイモを届けてくださる方がいるのですが、そろそろ収穫期になるでしょうから、『今年も!』と、心ひそかに期待しているところであります。

 残念なことには、焼き芋ができそうな場所も、燃やす物もありませんから、けっきょく「焼き芋」の代わりに、ふかし芋にして、今年も食べることになります。「チン(電子レンジ)」があれば、簡易焼き芋ができるのに、トースターしかない我が家では、『焼き芋は無理かな?』と諦めております。そう、ふかした芋をねって、バターを加えて食べるのも美味しいのです。やっぱり、「読書の秋」や「スポーツの秋」よりも、「食欲の秋」になってしまいそうです。

 昨日、私たちより一回り半ほど年長の方が入院されていて、お見舞いに行って来ました。頭部に腫瘍ができ、リンパにも問題があるとのことで、軍の幹部の病院のベッドに寝ておられるのを見舞いました。『◯さん、日本人の・・・』と呼びかけましたら、眼を開けて、私と家内を確認してくれました。話しを交わすことはできませんでしたが、手を握り、背中をさすりながら、一方的にお話をしました。

 この方は、私たちが帰国するたびに、軍の車を用意してくださったり、奥さまの手作りの料理で、何度も何度も招待してご馳走してくださった方です。人民解放軍の高級幹部で、軍を退いた後を、奥様と一緒に「幹休所」という、街中の喧騒を離れた閑静な高台にあるアパートで過ごしておられるのです。一ヶ月ほど前から、体調を崩されたそうで、恢復を願って、きっと再びお交わりができることを願って、病室を後にしました。

 いつでしたか、お尋ねした時に、家内が具合が悪くなった時に、アパートの医務室に連れて行って下さり、軍医の治療を頼んでくださったこともありました。優しくて、奥さまをいたわっておられる立派な元軍人です。ハワイでみられる花の鉢植え(日本と違って〈根付く〉鉢植えを気にはされない国柄ですから)を持参しました。この花が枯れる前に、退院できることを切に願う華南のたけなわの秋です。

(写真上は、中華人民共和国の「国花」の「牡丹」、下は、葛飾北斎の描いた「牡丹」です)

祝福の原点

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 日本の敗戦が危惧されてきた、1943年11月22日、アメリカのルーズベルトの提唱で、イギリスからチャーチル、中華民国から蒋介石が出席し、エジプトのカイロで会議が開かれました。いわゆる「カイロ会談」です。この会談で「カイロ宣言」がなされています。その内容は、次の通りです。

  ・ 米英中の対日戦争継続表明   
  ・ 日本国の「無条件降伏」を目指す
  ・ 日本への将来的な軍事行動を協定
  ・ 第一次世界大戦により占領した太平洋の全島奪還、及び日本が中国領土から奪った
    領土を中華民国へ
    返還(例として満州、台湾、澎湖半島)
  ・ 日本の、強欲と暴力により獲得された全領土剥奪   
  ・ 朝鮮の独立
 
 また、いよいよ終戦間近となる(ナチス・ドイツ降伏後)、1945年7月17日から8月2日、 ベルリンの郊外のポツダムで、「ポツダム会談」が開かれました。第二次世界大戦の戦後処理、日本の終戦について話し合われたのです。この会談には、アメリカからルーズベルト、イギリスからはアトリー(チャーチルの後任の首相)、ソ連からはスターリンが出席しています。会談後に「ホツダム宣言」が発表されていますが、その内容は、次の通りです。

  ・ 1937年以降のヨーロッパでのすべてのドイツが併呑した領土の返還と、
  ・ オーストリアのドイツからの分離
  ・ ドイツの民主化、非武装化、非ナチス化
  ・ 1945年2月のヤルタ会談での合意を踏まえたドイツ、オーストリアの分割統治と
  ・ ベルリン市とウイーン市の分割統治
  ・ ナチスの戦争犯罪の追及
  ・ オーデル・ナイセ線をドイツとポーランドの暫定国境とする
  ・ ドイツ本国外に居住するドイツ人の帰還
  ・ 連合国に対するドイツの戦後賠償請求額は2,000億$に上ると計算されるが、
  ・ ドイツに対しては200億$の返済を要求する
  ・ 連合国として日本に対するポツダム宣言の発表

 さらに、中国との終戦処理は、国民党蒋介石総統の日本軍に対する「以徳報怨」(いとくほうえん)、「徳を以って怨みに報いる」との考えで行われています。ちなみに、蒋介石が行った演説(抜粋)は、次の通りです。

 蒋介石総統の演説「全中国の軍官民諸君~全世界の平和を愛する諸氏!~(重慶にて。1945年8月15日)

「我々の対日抗戦は本日ここに勝利し、「正義は必ず強権に勝つ」との真理は、ついに最後の証明を得た。これはまたわが中国革命の歴史的使命が成功した証でもある。わが中国が、暗黒と絶望のさなかで、八年間奮闘してきた目標は、本日ついに実現した。(中略)
わが中国の同胞よ!「旧悪をとがめず」「隣人と共に善をなす」ことこそ、わが民族伝統の最も高貴な徳性だと、肝に銘じて欲しい。
われらは終始一貫、ただ武断好戦の日本軍閥のみを敵とし、日本の一般国民を敵とはしないと声明してきた。今日敵軍は、すでにわが同盟国の協力によって打ち倒されたので、
われらは厳密に一切の降伏条項を、責任を持って忠実に遂行させるのは当然であるが、しかし決して報復したり、殊に敵国の無辜の国民に対して、絶対に侮辱を加えてはならない。われらはただ彼らがナチス的軍閥に愚弄され、余儀なく強制されてきたことを憐れみ、彼らが犯した錯誤と罪悪から、みずから抜け出せるようにさせたいだけである。
はっきり言っておくが、もし暴行を以て敵の過去の暴行にこたえ、奴隷的侮辱をもって間違った優越感に報いるなら、恨みは更に恨みを呼び、永久に止まることなく、これは決してわが仁義の軍隊が戦った目的ではない。これこそわが軍民各自が、今日とくに留意すべき所である。(中略)
全世界の永久平和は、人類の自由・平等の民主精神と、博愛・互助の合作の基盤の上に築き上げられるものと、余は確信している。それこそ、われらは、民主と合作の大道に向って邁進し、以て全世界の永久平和を、ともに擁護してゆこうではないか。』

 終戦の年の日本各都市への空爆、広島と長崎の原爆投下を経て、1945年8月15日、「ポツダム宣言」を受諾し、日本は降服します。9月2日、日本は、アメリカ海軍の戦艦ミズーリー号の艦上で、「無条件降伏」に調印しました。もし日本が南北に分割されていたら、朝鮮半島と同じ悲劇をこうむったに違いありません。蒋介石は、これに反対したのです。また、日清戦争で巨額の賠償金を払った中国は、日中戦争での賠償金請求を放棄したのです。強い反日感情が残る民衆を、『日本人民も被害者・・・賠償金は日本国民の負担になるから!』という理由で、説得したのも蒋介石でした。 この分割がなされなかったこと、さらには、莫大な額の戦争賠償を中国が放棄したことを忘れてはなりません。

 もし莫大な補償を要求されたら、日本は経済大国には成り得なかったでしょうし、第一次大戦後のドイツが苦境に立たされ、あの「ナチス」を生んでしまった事態が、我が国にも起こり得たかも知れません。我が国が、戦争被害を与えた国々への「戦後賠償」の一環として行われてきている「ODA(Official Development Assistanceの略、 政府開発援助)」ですが、今でも続けられています。その援助の余力を培うことができたのは、中国の大きく寛容な決断の中から出てきていることにも、眼を向け直すべきです。逃げ場のない所に追い込まなかった、中国の指導者たちの配慮こそが、今日の日本の祝福の原点に違いありません。

(写真は、「カイロ会談」に出席した、左から、蒋介石、ルーズベルト、チャーチルです)」

望郷

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 山梨県の北部に、甲州街道の宿場の一つであった「韮崎」という街があります。甲州、信濃(長野県)、駿河(静岡県)をつなぐ交通の要衝の地だったのです。ここから北に向かって塩川(本谷川)の渓谷沿いを上がっていきますと、「増富」という村落があります。近年〈ラジウム温泉〉として有名になり、渓谷の奥には温泉宿が何軒かあります。そこからの林道を車で走りますと、牧丘や塩山、長野県の川上村などに抜けていくことができ、春も秋も美しい山の景色を楽しめます。

 学校を出たての時に、県職員の寮に、友人を訪ねたことがありました。まだお酒を嗜んでいた頃でしたから、いっぱい飲んでから、彼とキャッチボールをしたのです。彼が暴投をして取り損なったボールを拾うために、塀に上って、誤って落下してしまいました。したたか左肘を打ちつけてしまったのです。やはり左腕の肘を複雑骨折していました。整骨師に見てもらい、骨折部分は治ったのですが、副木を当てていた時間が長かったからでしょうか、今度は肘が曲がらなくなってしまったのです。それで、『温泉に行ったらいい!』と聞き、職場から休暇をもらって、一週間ほど、この「増富温泉」に、湯治に出かけたのです。韮崎からバスに揺られて、冨士川の支流の塩川の流れる渓谷を走りました。山は綺麗ですし、水も美味しいし、散歩をしたりの温泉三昧の日々でした。

 それまで温泉とは、若い私には縁遠い世界でしたが、これを契機に、温泉好きになって行きました。お酒も飲まなくなり、いわゆる大人の遊興を楽しむことのなかった私の唯一の息抜きは、だいぶ爺臭いのですが、温泉に入ることでした。日帰り温泉に出掛けては、一日中、ぼーっとしている時間は、回生の時だったと思います。そばを食べたり、焼いた川魚や漬物を食べて、川や山や山間から空を眺めていると、思考が新しくされるようでした。そんな時、よく思ったのは、『親爺が生きていたら、連れてきて、一緒に温泉につかれたのに・・・』と、父を懐かしむことでした。車だったら日帰りが可能ですし、このような施設は、どの山間に分け入ってもあるほどだったからです。

 そんな私を知っている兄や弟は、帰国しますと、早々に、温泉に連れていってくれるのです。去年の帰国時に、多摩川河畔に新しく作られた温泉に連れていってもらいました。ぬるめの温泉につかっていると、頭上に三日月が見えました。つい、三池炭鉱ではなかったのですが、『月が出た出た月がぁ出た・・・』と、小声で歌ってしまいました。もう仕事に追われないですみますし、急な訪問もしなくなって、時間はゆったりと流れるようになりました。そんなところに、自分を置くことができるのに、だんだんと慣れてきている自分に驚かされます。何かをしていないと落ち着かない性分でしたから、こんな自分になるのは、我ながら意外な感じがいたします。中国生活で、一つの不満を上げるなら、「温泉のない生活」でしょうか。せせらぎが聞こえ、山肌を隣に感じ、紅葉する木々の中にある、「温泉」のことです。これって、望郷の思いなのでしょうか、秋だからですね。

(写真は、本谷川(塩川の支流の1つ)の春の景色です)

良品

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 この地で増えているものが、3つあります。1つは、「自動車」です。最初に中国に来た時、北京でも上海でも広州でも、自転車のほうが多かったと思います。自動車が増えたからでしょうか、信号も多くなっています。2つは、「乳母車」です。おばあちゃんやお母さんが、子どもを乗せて、道路を行き来しているのを、よく見かけます。それとともに、「幼稚園」が、あちこちにできて、園庭から遊びに興じる園児の声が聞こえてきます。3つは、「くだもの屋」です。7年前に初めて来ました時に、スーパー以外で果物を買うことは、ほとんどありませんでした。街中にはくだもの屋さんがなかったからです。その店頭に、輸入果実が増えているのです。バナナもフィリピンからの輸入があり、ドリアンやマンゴスチンの果物の王様や女王様が並んでいるのです。

 変わったものが3つあります。1つは、「道路」です。路側帯ができ、道路の中央部に区分の柵ができているのです。2つは、「建物」です。古い建物が壊され、階数の多いアパート群に建てなおされているのです。3つは、「服装」です。子どもたちと婦人の服装が大きく変わってきています。ブランド品の子供服を着ていますし、多くの女性がスカートをはき、”anan”に掲載されているモデルようなカラフルな洋服を来て、街中を闊歩しておいでです。

 ある時、わが家に遊びに来られた先生の一人が、わが家の子どもたちの古写真を見て驚いておられました。『私の子供時代の写真は、ほんとうにダサかったのに、お子さんたちの昔の服装は、今までも通用していて、新しい感じがします!』と言っておられたのです。日本は時間をかけて変わってきたのですが、こちらでは急速な変化が見られるからなのでしょうか。スーパーには、日本式ラーメン、日本式うどん、ヤクルトが普通のケースに並べられていて、「輸入品コーナー」ではないのです。多くの商品の箱や袋には、日本語が記されているのです(先月の騒動以降は注意してみていませんが)。『美味しい◯◯』とか『たべよう』とかです。日本製品の良さが、正当に評価されているからに違いありません。日本の企業努力が、こちらのメーカーに良い影響を与えて、そのように表記されているのです。『この商品は、すばらしいんですよ!』とアピールぢようとしているのでしょうか。

 日本に対する、こういった評価は、市井のみなさんに、浸透していることになります。車にしても、トヨタ、ホンダ、三菱、スズキ、マツダなどの日系企業が製造したものが、多く走っていますし、私たちの住んでいるアパート群の駐車場には、駐車されている車の半数ほどが日系の車なのではないでしょうか。このように〈良品〉を造って、提供してきた日本の企業の誠実な影響や努力を誇りたいと思っています。その努力が、無に期することがないような、再びの友好の輪が広げられていくようにと願う、「国慶節」の休みの週の火曜の夕方であります。

(写真は、ドリアン、中国語では「榴莲liulian」と呼びます)

好いもの

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 『〈線香花火〉が好きだ!』という人が、よくおいでです。夏の夜空に打ち上げられて、景気よく炸裂する〈尺玉花火〉と比べて、まことに地味な花火です。チマチマしていますが、実に情緒があり、今、思い出すと、とても懐かしいものの一つに数え上げられ、私も好きなのです。

 江戸時代からある、三百年の伝統的な日本の花火の一つです。火薬でできている火球から、〈松葉〉の様に火花が小さく散るのです。手に静かに持って、火球から飛び散る火花を楽しみ、なるべく長く続くような祈りがこめられていたのです。父が買って来てくれた花火の中に、これがあって、遊びの最後に、これに火をつけてもらっては、消えてしまうまで、しゃがみながら見つめていたものです。

 六十年の人生を振り返ると、どうも〈線香花火〉の様に地味で、小ぶりだったのではないかと思われます。もうこれからは、大玉を打ち上げるようなこともないのでしょうけど、まあまあ満足しながら今を迎えたといえるでしょうか。大陸の上海で、花火師として活躍した小説の主人公に憧れて、〈花火師〉になろうとさえ思いながらも、それも叶えられませんでした。しかし与えられた仕事に満足して、自分なりに『やった!』と思ってきております。これは、同級生たちとの比較ではありません。若かった日に心に宿っていた〈大志〉は成就しなかったことでもありません。天職を得て、それに忠実に従って、社会的な責任を果たし、四人の子どもたちも育て上げれたこと、家内と一緒に歩んでこれたことは、ささやかながら〈成功的人生〉だったと思うのです。

 そして今、その仕上げの日々を、異国で、家内と励まし合いながら過ごしていることも、また、不思議な思いに駆られております。多くの友人たちが与えられ、生活にも慣れ、寂しい思いもしないで過ごせるのは感謝なことであります。もう、おととしになるのですが、多摩川の河川敷に設けられた席に座って、打ち上げ花火を鑑賞しました。息子が、一等席を買って招待してくれたのです。『遠くから見る花火がいい!』との長年の思いを覆させられるほど、近く、いえ頭上に花開く花火と炸裂音は豪快でした。それは素晴らしい時でした。そして幼い日の〈線香花火〉も、また好かったのです。それぞれに愛がこもっていたからでしょうか。

 浅草あたりに行けば、買えるかも知れませんね。今度帰国したら、庭先に出て、しゃがみこんで、この〈線香花火〉に興じてみたいものです。「国慶節」を迎えて、あちこちで花火があげられていました。一瞬の閃光、刹那の輝きですが、暗い夜空を明るくしてくれる風物詩は、瞬間ですが心も照らしてくれて、やはり好いものです。

終の棲家考

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 最近、『帰国しなければならなくなったら、どこに住もうか?』と考えているのです。もう数年後には、そうしなければならないかなと思っているからです。つまり、〈終の棲家(ついのすみか)〉を決めるべきかも知れません。家を持っていないというのは、自由に居住地を選択できるということになりますね。南信の飯田を行き来していて、帰りに高速道に乗らないで、一般道を走っていて気に入ったのが、「駒ヶ根」でした。南アルプスと中央アルプスに挟まれた高原地帯で、実に静かな街でした。野菜や果物が豊かに収穫されて、蕎麦がやけに旨く、空気と水が美味しい土地なのです。『でも冬場が寒そう!』と、心配して迷うくらいですから、本気ではないのかも知れません。

 岩手県に、「岩泉」という街があります。2010年に、土砂の崩落で脱線事故が起き、運行を休止していた、「JR岩泉線(盛岡と宮古経由で釜石を結ぶ山田線の茂市と岩泉を結ぶ鉄道です)」は、そのまま廃線が決まったようです。かねがね、このローカル線に乗りたいと思っていたのですが、その夢も叶わなくなってしまって、今は、回れ右してしまいました。昔、貧しかった岩手県のこのあたりは、口の悪い人に〈日本のチベット〉と言われたほど、風光明媚な所なのです。電車に代わって、バス路線があり、盛岡から行くことができますが、鉄道の楽しみがないのは残念で仕方がありません。ここも寒そうですね。

 山歩きが好きでしたが、海も好きですし、あの潮騒(しおざい)が私を呼んでいるので、海辺の町に住んでみたい気もしているのです。小田原とか、葉山とか、西伊豆とかですね。父が生まれ育った横須賀もいいなと思うのです。でも去年の東日本大震災の折の〈津波〉のことを考えますと、海辺はちょっと危険かなと思ってしまいます。富士山の火山爆発が予測されていますから、二重に危険でもあリますので、なんとなく躊躇してしまいます。原子力発電所の周辺も危険ですし、風下になる土地だって、安心できません。東京の首都圏の地震が騒がれていますから、これも敬遠したほうがいいかも知れません。今は健康ですが、病気になったら、近代医療機器の整った病院のある、大都市周辺がいいわけです。でも人も車も騒々しくて、訪ねるのはいいのですが、住むには迷ってしまいます。

 そんな風に、危険に否定的な目を向けていたら、日本では、いえこの地上では、住む街を、どこにも見つけることができないことになりますね。『いつ、空が落ちてくるか知れないので、安心して外出できません!』と、外出恐怖症になった方がいたと聞いたことがあります。『この食べ物に毒が混じっているかも知れない!』と、拒食症の人の話も聞きました。でも、星の動きに導かれて出かけた人の話もありますので、今を精一杯生きて、『動け!』という声を後ろから聞いたら、星の動きに従うことにしましょう。だって私たちは、寄留者であり、旅人であるのですから。この五尺の体を横たえ、納められる場所は、どこにでもあります。大切なのは、思い煩わないで、生きることなのでしょう。ああ何だか、ホッしました。今に感謝する・・・そうですね!でも、ハワイがいいかな。あれっ・・・・・!?

(写真上は、烏帽子岳から望む駒ヶ根市の全貌、中は、岩泉線の景色、下は、父の生まれ育った横須賀の海岸です)

国慶節

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 ここ中国では、春の到来を喜ぶ「春節」、秋の国の誕生を慶ぶ「国慶節」を祝祭の日としています。

 この国と、住んでいます街、この国の人々、この町の人々の「平安」と「繁栄」と「健康」を、今朝、在華七回目の祝祭の日を迎え、心からお祈り申し上げます。

 この国の指導者のみなさん、とくに胡錦濤主席、温家宝総理、次期の重責を担う新指導部のみなさんの「平安」と「健康」とを、心から願ってお祈り申し上げます。さらに、この国で出会った友人のみなさん、学生のみなさん、教師のみなさんの「平安」と「健康」を心から祝福いたします。

 中日の間にある齟齬が正され、千数百年の友好の歴史、ことのほか「四十年の友好の努力」が、しっかりと実るように、心から祈念いたします。

(写真は、延々と続く「万里の長城」です)

南信

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 長野県の南部を「南信」と呼ぶのですが、娘夫婦が、阿南という町と飯田に、3年ほど住んでいたことがあります。この滞在中に私たちの初孫が生まれましたので、生まれ故郷、育った街、働き子育てした街、その次に懐かしいのが、この「南信」になるかも知れません。娘婿が〈JET〉の英語教師をしていた間に、何度、ここを訪ねたことでしょうか。ことのほか、孫が生まれる前後には、相互に行来をしていましたから、そうとうの頻度数になるのではないかと思われます。

 初めて訪ねた時に、町内の温泉入浴施設に連れていってもらいました。町のはずれの渓谷にそって〈かじかの湯〉があって、何ともいえないほど、ゆっくりできたのです。空気も水も空も、何ともいえなく澄んでいて、〈リ・フレッシュ〉するとは、ああいう環境の中に、自分の心と体と現実を置くことなんだということがわかったようです。長野県は山国ですから、このような温泉施設が、あちらこちらに点在していて、両親を喜ばそうとして、娘夫妻は、そこかしこに連れて行ってくれたのです。遠山郷という村には、「かぐらの湯」があって、南アルプスから流れ下る川の縁で、せせらぎの流れを聞きながら入浴でき、帰りには、土地の名物のまんじゅう屋でたべたり、、ずいぶんと贅沢な思いをしたことがありました。私の働いていました街から、2時間足らずで行くことができた至便性と家族愛とが、休みごとに、ここに行かせてくれたのだと思います。

 ある時、木曽の「妻籠の宿」を訪ね、〈満蒙開拓〉で出掛けていった人を多く輩出したので有名な〈阿智村〉に行ったことがありました。今でこそ豊かな暮らしをすることができるようになりましたが、日本が工業化する以前のこの近辺は、山地で耕作地も少なく、日本でも有数の貧しい地域でした。それで、多くの人がブラジルやアメリカ、そして満州に、新天地を求めて出ていった地域なのです。そんな昔が嘘だったように、人々は、今、平均的で落ち着いた生活を営んで、楽しく生きておいででした。

 こちらに戻るときに乗った「蘇州号」の中で出会った方が、この飯田の出身だと言っておられました。東京で学ぶために上京し、そこで就職し、東京の近郊に住んでおいでとのことでした。『実は娘夫婦が・・・』と話をしましたら、『なんか不思議な出会いですね!』と言っておいででした。今の生活の様子を、私も話したりで、短い時間でしたが、ずいぶんと打ち解けて交わりができたのです。『これから3ヶ月、中国中を旅してきます!』と言って、大きなバッグを引いて上海で下船していかれました。退職後、奥さんの許可を得て、一人旅を繰り返しているのだと言っておられました。今頃、どの辺を旅していることでしょうか。少々、難問題が起こったさなかですが、まあ旅慣れしていますし、人当たりもいいので、無事に続けておいでだろうと思います。

 わが家には、昨年遅れに手に入れた「風呂桶」があり、「和の里の湯」と名付けているのです。時々、〈温泉の素〉を入れては、『♭いい湯だな、いい湯だな、ここは中国、和の里の湯!』と歌いながら入るのですが。明日は「中秋の名月」、風呂場の小さな窓からは名月を仰げそうにありませんが、久しぶりに湯を立ててみたいなと思っております。名月が見下ろす地球は、難問題が山積していますが、月が話せるなら、『地の上に平和、感謝や赦しがありますように!』と言わせたい、「中秋節」の前日であります。

(写真上は、南信の高山に咲く「コマクサ」、下は、http://www.astroarts.jp/photo-gallery/gallery.pl/photo/5828.htmlから「新城から見た名月(昨年)」です)

たけなわの秋

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 「鈍足」とは、足が遅いことを言います。小学校でも中学校でも、「徒競走」という種目は、大体ビリかビリから二番目といったところで、クラス対抗とか、部落対抗のリレーなどがあった時、出たかったのですが、決して選ばれたことがありませんでした。ただ一度だけ、部落対抗リレーに、就学前の選手枠で出たことがありました。上の兄二人は、いつもトップに入っていたので、『弟も速いだろう!』と選ばれたのです。山の中で崖登りは、兄たちの後をついてやったことはあったのですが、平地を走ることなどしたことがなかったのです。号砲が鳴ったら、驚いたのか反対方向に走ったのか逃げたのかだったそうで、我が部落は最下位だったそうです。こういうのを、〈期待はずれ〉というのだと思います。こういう場合、悔しくって、『来年は頑張るぞ!』となるのですが、全然、そういった気分にはなれませんでした。

 それでも足は早くなかったのですが、兄たちに似て、運動神経だけはよかったようです。いろいろなスポーツをしてきましたが、一番楽しかったのは、40代だったでしょうか、上の兄が親交していた中年のおじさんたちに誘われてやった、テニスでした。春と秋には、終日のこまないときに、八ヶ岳や山中湖に出かけて、2泊3日ほどの「合宿テニス」を、毎シーズンしていました。もちろん、普段も時々やってはいたのですが、『こんなに楽しいスポーツはない!』と、新発見をしたわけです。実に楽しかったのです。楽しそうに、意気揚々と出かけている私を見ていた子どもたちが、『テニススクールに行かせて!』という風に、真似し始めたのです。下の息子は、同年代で県の2位だか3位になったのですが、そんな所で、みんなのめり込むことなく、潮が引くように、ほかのことをし始めていったようです。

 『若い時に始めていたら!』と思うこともありましたが、意外に、難しいメンタルな要素の強いスポーツで、なかなか技術的に高級なものなのです。フランスの貴族の間でに生まれたものですから、やはり紳士的な面があって、やっていると自分も紳士になったような思いにされるスポーツでした。好きになったものですから、〈すこし上手になろう!〉と思い、テニススクールにも通いました。レッスンで無理をしたのでしょうか、右足と左足の靭帯の両方を、次々に切ってしまったことがあったほどでした。踏み出しに瞬発力が要求されるので、その時に怪我をしたのです。『誰だボールをぶつけたのは?』と思ったら、怪我だったのです。結構、痛い思いをしました。

 今でも、したい気持ちがあるのですが、体育教師をしていた弟の弁ですと、『いくつになってもやれるスポーツなんだ!』ということです。最近耳にしたのは、昭仁天皇が、まだテニスをしているのだそうです。昭和8年生まれですから、御年78になられるでしょうか。驚かされた私は、『じゃあ、まだできるんだ!』と思わされたのです。オッチョコチョイの私ですので、どう再開するかを、よく考えていかないといけないと思っております。

 下手な私の相手をしてくださった兄の友人たちの中には、すでに召されたり、体を悪くされたりしている方がおいでです。大学の運動部の選手で、日本選手権のスタメンで、球技をしていた上の兄も、今は膝に問題があったり、〈腓返し(こむらがえし、足の筋肉がつる症状)〉があったりだと聞いています。いつまでも人は若く入られないのだということを、知らされております。

 でも、〈スポーツの秋〉の到来です。いろいろとしてきた私の思いが、ムラムラと沸き上がって、運動して体を動かしたくて仕方が無いのです。そのためには、普段が大切ですね。車に乗らないで、歩くことが多くなり、一生懸命に自転車にも乗ったりしたのですが、先日、自転車がとられてしまい、もっぱら歩き専門になってきています。さて、ちょっと、師範大学の構内にあるコピー屋に行ってきます。もちろん歩きとバス、そして歩きです。たけなわの秋の午前です。ではまた。

(写真は、ブログ「オーナーの写真で綴る八ヶ岳の秋」から秋の八ヶ岳の風景です)