第2期目

 

 

これは、先月9月25日に掲載したアサガオです。本年第1期目の花に代わって、第2期目の秋蒔きの種が芽を出しました。次男夫婦が来てくれた時に、アサガオの種を持参してくれたものを蒔いたのです。すくすくと、二代目が育っています。咲きましたら、またアップしたいと思っています。

昔から「兄貴」と慕っていてくれる友人が、検査入院をした後、面会謝絶の状態にあると、夫人が知らせてきました。お嬢様もアトピー症で大変な状態にある様です。娘婿も、娘が1週間の出張で、術後を一人で家で過ごしています。次兄は、術後の検査で順調とのこと。みなさんの回復を願った朝でした。

今日は日曜日、好い祝日であります様に願っております。

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クコ

 

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これは、「枸杞子(クコ)」の「花」、「果実」、「乾燥した実」の写真です。わが家の乾物ケースの中には、常時、この乾燥した「枸杞子の実」があり、スープを作る時に、家内は、これを入れています。中国の家庭の常備の乾燥滋養食材です。こちらの多くの方は、水筒持参で通勤、通学しますから、その水筒の沸かしたお湯の中に、薬草などの体によい乾燥した実や葉を入れます。この「枸杞子の実」も、よく使っているのを見掛けます。

こんなに綺麗な花を咲かすことを、[HP/里山を歩こう]が知らせてくれました。広島県の呉市安浦町の山に咲いているそうです。秋の花には、紫や黄色の花が多いのでしょうか。今頃の里山をハイキングで歩いたら、気持ちが好さそうですね。高尾山から相模湖に抜けるコースは、何度歩いたことでしょうか。 しばらく、この街の森林公園や、そこからのハイキングコースを歩いていませんから、秋晴れの日に、「おにぎり」をザックに入れて歩いて見たいものです。その折、「枸杞子の実」入りの水筒を持参しましょうか。

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けじめ

 

 

日本文化の特徴的な一つは、上と下、右と左、内と外、公と私とを、はっきりと分けることにあるのでしょう。背広にネクタイを着て職場に出て行った主人は、帰宅後、Tシャツにバミューダショーツや甚平に着替えたり、また外で履いた靴を脱いで、裸足で家の中を歩くと言った様な変化を厭わないのです。今は、「公」の自分ではなく、「私」の自分だという主張をしたいのです。

こちらの学校で教え始めた時、学生が、教室に入ってくる時、『おはようございます!』、帰っていく時、『さようなら!』と言わないことが気になったのです。「礼」の国で、その「礼」を身につけていた私は、戸惑ったのです。それで、日本文化と日本語を教える身として、私は、こちらから、挨拶の言葉で学生を教室に迎え、そして送ったのです。どの学年の学生も、最初は戸惑っていましたが、やがて、それが習慣化していったのです。

この日本人の感じ方というのは、《けじめ》の有無なのでしょうか。どうも私たちは、《けじめ》無しには、事を始めたり、終わったりできない文化や習慣の人間の様です。この《けじめ》は、動詞になって、「けじめをつける」という使い方をするわけです。

長年勤め続けた会社を辞める時に、その内外で関わりを持った方たちに、「挨拶回り」をして、会社勤めの、「けじめをつける」わけです。そうしないと、退職後の生活が始まらないと感じるからなのです。若い世代の人たちは、《けじめ》をつけられないで、いつの間にか消えて、去って行ってしまう傾向が強いのです。これって、後腐れがなくて、ドライでいいのでしょうか。

でも私たちの世代は、何か中途半端で終わってしまう<もどかしさ>を感じてしまうのです。最近有名な女優さんが亡くなられました。私たちの世代の方で、ご病気が分かってから、ほぼ10年の間、《けじめ》をつける、周到に「終活」をされていた様です。でも、“フワッ”と消えていくのもいいかなって、最近、私は思うのです。

どうしてかと言うと、《けじめ》をつけることに縛られてしまって、もっと大切なことをし忘れる事だってあるからです。遺品を調べていて、夫の秘密が暴露されて、その慌てぶりを天国で、”ワッハッハッハ“と笑ってしまうのもいいかなと思うのです。

書庫に残された本のページの間に一万円札や100ドル札を見つける喜びを、妻や子に与えるのも、いいかも知れませんね。借金はないし、あるとしたら約束不履行が、この私にはあるかも知れません。幼い男の子が、『カレーをご馳走するね!』と、私が言った言葉を覚えていていました。ところが私は忘れていたのです。それで上海に、お父さんが転勤する前に、わが家に食べに来たことがありました。あの子は、まさに「けじめの子」でした。

昔、『どっか連れてって上げるね!』と家内に約束したことがあった様ですが、まだ果たしていないかも知れません。《けじめ》のためではなく、「約束」だけは果たしておきたいものだと思う、秋色の濃くなりつつある今日この頃です。子どもたちとも約束したことがあったでしょうか。

(懐かしい秋の味覚の一つ「アケビ」です)

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開聞岳

 

 

18才の夏休みに、友人が小倉と鹿児島にいて、彼らを訪ねて九州旅行をしました。宮崎、長崎、熊本、大分の各県に行きましたから、ほぼ九州全域を旅したことになります。學生の貧乏強行旅行でした。移動は電車とバスと船でした。実は、自動車の運転免許を取るために、父からまとまったお金をもらっていたのを、無斷で、この旅行に流用してしまったのです。ちょっと後ろめたい気持ちがあったのですが、おかげさまで、日本と歴史の探訪の旅ができたのです。

この写真は、鹿児島の薩摩半島の南端にある「開聞岳(かいもんだけ)」で、近くに長崎鼻という岬があって、実に美しい所でした。海の近くのキャンプ場の堀立小屋に泊まったのです。この開聞岳は、知覧や鹿屋(かのや)にあった特攻基地から、飛び立った特攻機が、沖縄に向かう折に、まず進路目標とされた山だったそうです。遠くからこの山を眺めつつ、この上空を飛んで、故国を後にした後、沖縄の上空で、多くの青年たちが散ったわけです。

 

 

それは私が生まれた頃の出来事でした。二十代の青年たちが、この作戦に命を捧げてから、ほぼ20年ほど経った時の旅行でした。平和な時代に育って、死など思うこともなかった私が、ただ『美しい山だ!』と思いながら、この開聞岳を眺めたわけです。二度と帰ることができず、死に逝ったみなさんと同世代でした。ただ、その折、「知覧」には行けませんでした。訪問を避けたのかも知れません。

今、半世紀前の旅行を思い返して、戦後の平和と、自由と、豊かさの中で育った自分たちと、そう言ったものを私たちが享受するために、多くの青年たちの命や青春や理想が、犠牲にされたわけです。ある人たちは、『無駄な死だった!』と言ったのですが、ギリギリで特攻を避けて生き残った元特攻隊員が、『われわれの仲間の死は、決して無駄な死ではなかった。少なくとも平和の時代をもたらすための礎だったのです!』とおっしゃった手記を読んだことがあります。

この「平和」と「自由」と「繁栄」への貴い代償があって、私たちは、戦後を生きてこれたわけです。様々なことがあった「昭和」が終わり、間も無く「平成」も終わろうとしています。できれば、もう一度、開聞岳を訪ねてみたいと思っています。その時には、特攻基地のあった「知覧」を訪ねてみたいと願っています。下の息子が、以前、「知覧茶」をくれたことがありました。掛川茶や森茶などと同じく、美味しいお茶でした。やっぱり平和って有難いですね。

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おにぎり

 

 

今朝のベランダの寒暖計は、6時半の時点で19℃、小雨の朝です。ここの秋は短いのですが、今年は少し長くなりそうな感じがしています。気温の日較差が大きくて、日中薄着で出かけて、夜分に帰ると、風邪を引きそうに、薄着を悔やむほどです。もう台風の襲来はないのでしょうか。今年は、祖国日本と、今住む街に、台風が来るか逸れるかで、台風情報に関心を向けて続けていました。終息したのでしょうか。

さて、今朝、起き抜けに食べたくなったのが、「おにぎり」でした。「塩むすび」がいいなと思っていたら、私の故郷では、「地菜(じな)」と呼んでいた漬物で、信州では「高菜」と言いますが、その高菜で包んだ「おむすび」を思い出したのです。私の育った町では、「おにぎり」、他の地では「おむすび」と言いますが、ここ中国では「饭团fantuan」と言っています。

その高菜のおにぎりは、「めはり寿司(目張り寿司)はおにぎりを高菜の浅漬けで包んだ熊野(和歌山・三重)地方・吉野(奈良)地方に伝わる食べ物。紀州・新宮町(現・新宮市)出身の文豪佐藤春夫をして、「故郷のうまいものは、1にめはり、2にさんま」と言わしめたこの地方を代表する郷土料理の一つだ。」と説明があります。

母が作ってくれたのは、梅干しやおかかや明太子を入れた「おにぎり」で、時々海苔で包んでくれたのです。出雲の出身でしたから、独特な呼び方があったのでしょうか。中に入れる具も独特なものがあったのでしょう。父と生活している間に、<関東風>に変えられ、「雑煮」も煮物も、関東風でした。いやー、ちょっとお腹を壊してしまって、「おかゆ」を食べていたので、ちょっと硬めでふっくらした「おにぎり」が食べたくなった様です。

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若き盛りの美

 

 

この写真は、広島県庄原市・国営備北丘陵公園で、[HP/里山を歩こう]が、小学生の総合学習(自然観察教室でしょうか)の講師で出かけられ、そこで撮影されたものを、配信してくださったのです。今では、挙式の前に、花嫁を、プロのカメラマンがいない様に見受けられるので、友人たちによって、撮影がなされているのでしょうか。庄原市での慣例なのでしょうか。花婿の姿が、ここには写り込んでいませんが、花嫁だけなのでしょうか。

この私たちの住む街でも、結婚式が挙げられる前に、省内や市内の名所旧跡を、プロの写真家、着付け係、案内人が、二人を車で移動しながら撮影し、ものすごく豪華な写真集を作るのです。芸能人の写真集の様な私家版です。それが結婚式の一部なのでしょうか。そう言った流行りなのでしょうか。どなたも、それをするのです。写真集をいただいたことがありませんから、親族やご本人たちの記念なのでしょう。

これを「前撮り」という様です。花嫁にとっては人生の《若き日の盛り》のもっとも綺麗な時の記念となるのでしょうね。水を差す様ですが、あんなに綺麗だったのに、歳をとると、美貌が外面ではなく、内面に移って行くのでしょうか。跳ねる様に美しかったオードリーヌ・ヘップバーンの晩年の写真を見た時に、その落差の大きさに驚いたことがありました。彼女は、そんな美貌の衰えた自分を恥じることなく、晩年を生きた女性で、素晴らしいなと思ったのです。やっぱり、女性の美しさとは、内面なのでしょうか。

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銀漢

 

 

漢詩といえば、李白と杜甫と白楽天です。この二人に匹敵する詩人は、宋代の詩人の「蘇軾(SuShiそしょく)」でしょうか。国語で学んだ漢詩には、次の有名な二首があります。

「春夜」

春宵一刻値千金  春宵 一刻 値千金
花有淸香月有陰  花に淸香有り月に陰有り
歌管樓臺聲細細  歌管 樓臺 聲細細
鞦韆院落夜沈沈  鞦韆 院落 夜沈沈

春の宵は一刻が千金に価するほどすばらしい
花は芳しく香り月の光がさやかだ
先ほどまでの歌舞管弦もいまはひっそりと静まり
中庭ではブランコがゆったりと揺れ、夜が更け渉って行く

「中秋月」

暮雲収盡溢清寒   暮雲(ぼうん)収まり尽きて清寒(せいかん)溢る
                                   銀漢無聲轉玉盤   銀漢 声無く  玉盤を転ず
                                                                             此生此夜不長好   此の生 此の夜 長(とこしなへ)に好(よ)からず
                             明月明年何處看   明月 明年 何れ(いずれ)の処にか看(み)ん

日暮に雲は消え去り爽やかな涼気が溢れている
                                                                               音も無く流れる銀河(天の川)に宝石で作られた皿のような明月が現れた
                          これほどに素晴らしい人生、素晴らしい夜だが、決してそれは永遠に続くことはない
来年はこの月を、果たして何処で眺めていることだろう。

 

 

その言葉の無駄のない漢詩に、中学生の私は圧倒されました。多く表現したい気持ちが、言葉として溢れてくるのでしょうけど、それを削ぎ落として、詩を詠む気持ちが、何となく分かったからなのでしょうか。

一人の友人が、わが家を訪ねてくれた時に、一冊の小説を持参してくれたのです。先年亡くなった葉室麟の「銀漢の賦」でした。この小説に中に、この蘇軾の「中秋月」が引用されていたのです。上級武士、下級武士、農民の子の三人の身分を超えた友情が、大人になっても変わらない様子が描かれていて、秀作でした。

きっと、日本情緒に浸りたい頃だろうと、友人が考えてくれたのでしょう。それで、題名の「銀漢」がよく分かりませんで、ネットで検索すると、「銀河」のことだと分かったのです。秋になって、小高い山からなら、この銀河が見えそうな季節になってきました。何十年の前に、内モンゴルにいた時、夜空は満天の星が輝き煌(きら)めいていました。あの壮大な光景は、また見上げて見たいなと、そう思う華南の街の夕べです。

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決断

 

 

これまで、いろんなことのために、「決断」をしてきました。それらは、進学、就職、結婚、転職、退職、海外渡航などです。まさに人生の節目での大切な決断でした。振り返って想いますに、それらの決断は、自分の意思だけではなく、何か人生全体に働き掛けている大きな力や意思の介入によった様に思えるのです。ですから、それらの決断は、的確で正しかったと思えます。

でも、ずいぶん短い人生だと思えてなりません。力のあふれていた時期に子育てをし、与えられた仕事や事務や責任を果たせたのです。現役から退いて、悠々自適な時を過ごしながら、瞬きの間の出来事で、その都度出会った人々や機会や場面が、思いの内に蘇ってきます。二度と帰ってこない日々が、いや〜懐かしいものです。

中学の一級上に、若山牧水の孫がいました。話をしたことがありませんでしたが、国語を教えてくれた教師が、彼の担任で、よく牧水の短歌を紹介してくれました。その一つが、

白鳥は哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ

です。この短歌は覚えていて、空で誦むことができるのです。もう一つは、

白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり

ですが、これは、中学生には好ましくない教材で、清んだ日本酒の旨さを教えたのですから、この教師は、生臭坊主だったのです(本当に、隣町の住職でした)。驚くのが、この短歌は、牧水二十四歳の時のものです。人生の晩期、六十か七十でもあるかの様な、そんな年齢で詠んだと思われてしまいますが。そんなに若い頃から、酒の旨さに心を酔わせて、短歌を詠んだのですから、驚かされます。

牧水は、四十二歳で没しています。心を酔わすことができても、身体は受け付けなかったことになります。この牧水は、漂泊の歌人で、景色や人を求めて旅をしたのでしょうけど、その土地その土地の銘酒を認めての旅だった可能性は大きそうです。この私は、この短歌を詠んだ牧水の年齢のもう一年上の<二十五歳>で酒をやめることができました。自分の意思だけではなく、人生にに働きかける大いなる力に助けられてだった様に思えてなりません。

あの年齢から、ほぼ五十年が経ちます。ちょっと単純計算をしてみましょう。一年が、365日で、毎日ビールを二本ずつ飲んだとしますと、<36500瓶>になります。現在、ビール一瓶の値段を<300円>とすると、《21900000円》になります。いやー、この《2000万円》の数字には驚かされてしまいます。『塵も、いえビールも飲まれれば山となる!』、と言ったところです。

最近、酒害で苦しむ人が、地球上に、数億人もいらっしゃると聞きました。そんな中で、酔わなくても、心が痺れなくても、自分が生きて来れたことは、ただ感謝に尽きません。あの《二十五の決断》は、確かに正解だったのです。酔って中野坂上駅や阿佐ヶ谷駅や高尾駅のプラットホームや、あの中洲の街、柳ヶ瀬の街をフラフラしていた日々も、しっかり覚えています。

(青空を漂う「白鳥」です)

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快復

 

 

これは、今年最大の台風24号の「台風の目」を撮影したものです。この台風に次いで、25号も襲来したのですが、重大な被害がなかったのは、幸いでした。これで収束するのでしょうか。熊本の本渡という島にいた時に、台風に見舞われ、泊まった宿屋の窓ガラスが壊れ、襖を背にして、台風の過ぎ行くのを待ったことがありました。本渡の案内所で、一番宿泊料金の安い宿屋を探したのですが、安さが、危険を体験させたのでしょうか。あんな怖い目にあったのは、初めてでした。

やはり、祖国の様子が大いに気になります。このままで終わって欲しいものです。ここ大陸の華南の空は、真っ青になってきました。日中は暑くとも、秋を楽しめそうです。山に出掛けてみたい気持ちがしてまいりました。兄と娘婿が手術を終えたばかりです。また結婚したてで、長男が生まれる頃に、大変お世話になった恩人が、今、病に伏しているとの知らせもあります。快復を心から願う十月の華南です。

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魚市場変遷史

 

 

江戸初期、徳川家康の要請で、多くの業者が、江戸の街に招かれて開業しています。それで「越前屋」とか「越後屋」とか「備前屋」などの屋号ができた様です。とくに江戸の食生活のためには、新鮮な魚、魚介類が求められ、日本橋界隈(かいわい)に「魚河岸」ができます。その当時の様子を、「HP日本橋の歴史」が、次の様に記されています。

『「魚河岸」は日本橋と江戸橋の間、日本橋川の北岸に沿って、本船町から本小田原町一帯(現在の日本橋本町1丁目、日本橋室町1丁目)にあった魚市場。17世紀の初めに開設され、1935年に築地市場への移転が完了するまで300年以上にわたって、江戸と東京の人びとの食生活を支えつづけた。

市場への集荷は江戸の近海をはじめ、房州・上総・下総(千葉県)、相州(神奈川県)、遠州・豆州(静岡県)などの海の魚や淡水の魚が集められ、江戸の住人-武士と町人たちの腹中におさまった。

最初に魚市場を開いたのは、江戸幕府を開いた徳川家康に従って大坂から江戸に移住した森孫右衛門一族とその配下の漁民たちだった。彼らは幕府や大名に鯛※などの御用魚を優先的に納めるかわりに、残余の魚介類の市中商いの許可を得たと言われている。

17世紀前期の魚河岸の様子は『江戸図屏風』に、19世紀前半の様子は江戸の地誌『江戸名所図会』に描かれている。朝夕、大量かつさまざまな魚介が荷揚され、店頭に並び、威勢良く取引された。『江戸名所図会』に見えられる魚を陳列している戸板状の台は「板舟」と言い、多くは有力商人が所有していた。「板舟」は一枚ごとに販売権が付帯しており、これを一枚から数枚借りて商いをする小規模商人も多かった。この板舟ははじめ河岸地の露天に設けられたが、市場の発展に従って河岸通りに魚を貯蔵する納屋が建つと、その納屋庇下を使用するようになり、さらに本船町から本小田原町までの店前街路を占用した。』

 

 

この魚河岸が、関東大震災で焼けてしまって、「築地」に移されて、今月、80年余り賑わった築地から、「豊洲」に移転したわけです。日本的な「競り(せり)」、「仲卸(なかおろし)」などの流通組織をそのまま引き継ぐのでしょうか。大きなスーパーマーケットは、市場を通さないで、漁協などから直接買い付けていますが、全部それでは賄えないので、どうしても「市場」は必要なのでしょう。

蔬菜や果物を商う「神田市場」や「多摩青果」などの市場(”やっちゃ場“って言ってました)で、学生の頃に、アルバイトをしたことがありました。競りの掛け声が、景気良くて、気風(きっぷ)の良さが売りものでした。ああ言った世界も、だんだん近代化して行くのでしょうか。一度築地の場外の食堂に行ってみたかったのですが、叶いませんでした。ちょっと残念な移転劇でした。

(江戸時代の魚河岸と、豊洲移転の様子<産経新聞撮影>の様子です)

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