博士号を持つような先生が、顔を紅潮されて、感動したと言う話を、授業の初めにされていて、驚かされたのが、昨日のようです。琵琶湖の重度身体障碍者施設を訪ねた時に、そこに入所されていた子どもさんたちのことを、感動的に話されていたのです。まだ三十代だったでしょうか。
六十年も前にもなる、その出来事を思い出したのは、甲子園の高等学校野球選手権に出場しているの一人の選手のことを特集してとり上げていたのを知ったからです。高校野球は、プロ野球の世界で、莫大な収益を球団にもたらす「金の卵(今でもそんな風に言うのでしょうか)」たちを鵜の目、鷹の目で見つけようとする、もうビジネスライクの世界でもある様です。
そんなお金をちらかせるような話ではなく、一人の選手に注目しているのです。生まれながらに Handy gap を持った選手が、活躍していると言うことです。岐阜県からは、出場63校の中から、予選を戦い抜いて、岐阜県立岐阜商業高校が、代表校に選ばれました。その部員数は78名で、岐阜県下では名門の一校なのです。1956年以来、69年ぶりの決勝進出を目指して甲子園にやって来ていました。その中で、ライトを守る、3年生の横山温大(はると)外野手が、その人なのです。
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生まれながら、右手のhandyがあるのです。打者の打ったボールを補給する時に、慣れた手つきで、右手にはめたグラブですると、すぐにグラブを左手で抱きかかえて、同じ右手で送球する軽快な守備をします。打席に立っても、臆せずに、バットの遠心力を使って、上手に振り抜く、好打者なのです。
彼のプレーを、大会初日から見ようとしてきたのですが、準決勝の今日の西東京代表の日大第三高校との対戦でも、上手に補給して、送球し、バッターボックスでも、適時打を打っていたのを、「バーチャル高校野球」で観ました。好漢と言ったらいいでしょうか、素晴らしい表情をして、爽やかでした。美味しくも決勝進出を逸しれしましたが、悪びれずに、野球を楽しんでいる姿が素敵でした。
その20歳の時の講義で、この先生は、次にように言ったのです。『他者依存で、自分では何もすることができないし、ひと言も喋れず、体も動かせない一人の子が、お風呂に入ったり、日向で日光を身体に浴びると、喜びの表情を表すんだ。何とも言えない好い顔を見せるんだよ!』とです。
人間には、あふれるような可能性が、だれにでも、生きている限りあると言ったのです。それまで、見えなかったり、聞こえなかったり、喋れなかったり、歩けなかったりしている人を見ると、ただ可哀想だとしか考えていなかったし、足を引きずって歩いたりする人を見ると、目を逸らすか、『俺でなくてよかった!』と思うのが精一杯だった自分に、その先生の感動している言葉は、実に大きかったのです。その1年間の授業で覚えているのは、そのことだけなのですが、それを聞けてよかったと思い続けての今です。
その可能性と言うのは、『自分にもあり得たのだ!』という意味での可能性でした。Handy gap を持って母親の胎から生まれる可能性、事故や病気で身に負った可能性を含めてでした。神さまは、創造者として失敗作を作ることはありません。ただ、さまざまな理由が考えられますが、ただ今、分かるのは、そのようになることを許されるのだと言うことです。
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後になってか、ある時にか、または主にお会いした時に、理解されるに違いありません。神さまは、意地悪なお方でも、不公平なお方でもありません。イエスさまが、次のようにおっしゃいました。
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。(新改訳聖書 ヨハネ9章1~3節)』
盲目の人の盲目である理由を、弟子が、主イエスさまに問いかけたのです。「罪の結果」、「罪の因果応報」だと、弟子たちは思っていたからなのでしょうか。ところが、イエスさまは、それを否定されました。そして、「神のわざがこの人に現れるためです。」とお答えになられたのです。
この「神のわざ」に、きっと私たちは驚かされるに違いありません。ありのままの自分を受け入れられずに生きてはいけないのです。きっと、主にお会いする時に、私たちは納得するに違いありません。一切の理由が分かるのは、その時です。横山温大さんも、私も、みなさんも、自分のHandy が、理解される時がくるのに違いありません。どなたかが、障碍者ではなく、《可能性保持者》と言っていました。すごい哲学、人間学、そして人間理解です。もっとも、温大さんは、家族愛の中で育っておいでで、自分の Handy だけに思いを向けてはいないで、ありのままで自己肯定しているのでしょう。
(“いらすとや”の「甲子園」、“Christian clip arts”の「イラスト」)
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