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私の住む街に、「ふれあいバス」があって、後期高齢者は、一日券を200円払うと乗り放題の特典がつくのです。市の北に、「星野遺跡記念館」があります。旧石器時代の「石核」を、星野村の斉藤さんが発見したのをきっかけで、東北大学の研究室の指導で、ずっと発掘などをし続けてこられ、1985年に、この記念館を自費で建てられたのです。
小学生だった私は、古代人の生き方に、強い興味を持ち始めて、町の河辺の高台に、古代遺跡があると、級友に聞いたのです。学校から帰るとすぐさま出掛けて行って、木の枝で土を掘り始めました。土器の破片や鏃(やじり)を見つけて、躍り上がる様に喜んで、それを持ち帰って、自分の宝物にして、仕舞い込んだのです。
そんなことで、この街に住み始めて間もない頃に、家内のリハビリを兼ねて外出に家内を誘って、そのバスで、この遺跡を訪ねたのです。こちらで知り合いになったお母さんと小学生のお嬢さんが、後から自動車で駆けつけてくれて、一緒に復元した住居などを見て回ったのです。カタクリの咲く季節には、この花で有名な場所が、近くにあると聞きました。
この遺跡から県道に出ると、鹿沼市に行くことができます。歴史的には経済圏としては、栃木市に入るのでしょうけど、行政的には鹿沼に編入されています。そこは、麻を植えて、麻糸を製造する生業が行われてきている400年ほどの歴史がある村だそうです。この近くには、石灰が採れて、明治以降は人力貨車で、両毛線の栃木駅に運び、そこから貨車で京浜・京葉地方に送り出されていたそうです。
家の前の大通りに、かつては「軽便鉄道」が敷かれていたそうで、人が車を押して動かす鉄路で、石灰や物資、人までもが輸送、運送されていたそうです。その痕跡は見当たりません。これは栃木市では、「鍋山人力軌道」と呼ばれ、那須や喜連川などでも路線があって、馬車よりも効率が良かったのでしょうか。
それ以前、江戸時代や鎌倉時代には、牛車や馬車が運送手段だったのでしょう。私の散歩道に、横山郷土館という店舗跡があります。慶応3年創業の「麻苧(あさお)」の商いと銀行をしていたそうで、巴波川の舟運で、麻糸を東京に卸していた商店で、その麻の産地が、街の北にある「粟野(あわの)」で、鹿沼市です。
麻の生産は、1934年には、全国で1万ヘクタールほどだったのが、「大麻取締法」が施行されたのと、化学繊維奨励で、減反になって、栽培農家は、37000人ほどだったのが、粟野では最近では27人に激減している状況なのだそうです。麻の中でも、「精麻」の生産は、鹿沼だけになっている現状です。
お米を作れないほど、土地が痩せた地が、蕎麦や麻が植えられていたそうです。わずかに残った鹿沼市粟野には、村おこしの様に、麻の生産と加工と販売を手掛けている方がおいでです。
この粟野は、栃木市の鍋山から、山間部に入った土地に位置していています。江戸期には、鹿沼よりも栃木への経路の方が近かったからでしょうか、牛や馬の背で栃木に運び、巴波川の都賀舟に載せて、渡良瀬川、利根川、江戸川で、江戸や銚子などに送り出していたのです。
この麻を、「野州大麻」と呼んで、400年ほどの歴史があって、良質の麻糸として、重用されてきたのです。銚子などの漁師が漁網として使っていたそうです。また相撲(すもう)の最高段位になると、横綱だけが締めて土俵入りができたそうで、その腰に締めたのが横綱で、この麻糸で撚(よ)られているのです。その他には、神事、仏事に用いられていたと言われています。
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その大麻の産地の鹿沼の出身に、プロボクサーのライト級のl世界チャンピオンで、俳優の「ガッツ石松」さんがおいでです。1987年に公開されたスピルバーグ監督の映画「太陽の帝国」に出演しました。その演技が認められ、アジア人では初めて、全米映画俳優協会の最優秀外国人俳優賞を受賞したのです。その受賞式の前に、受賞の感謝に、極貧地区の孤児院とかジムを訪ねてボクシングの指導をしたそうです。そして授賞式で、Broken English で Speech をしたそうです。 カタカナ書きの cunning paper を見ながらのスピーチだった様です。
「俺はとんでもなく貧乏なうまれで、本当に 彼らと全く変わらない育ちだった。ただ一つ違うのは、母が俺を信じてくれたこと。
『お前は馬鹿だし、私も貧乏でなにもしてやれない。ただ、お前を信じてやることだけはできる』
っていつも言ってくれていた。母さんはもう死んでしまったが、母親が子供を信じてくれる・・・母親でなくても誰かが信じてくれている、それだけで、子供は自分を信じて努力していけるんだ。
だから、君たちが負けそうになったら、友達や家族を思い出してほしい。そして友達や家族が負けそうに なっていたら、彼のことを信じて励ましていてほしい。
それだけで、何でも出来るようになるんだ。そういうことを彼らに伝えてあげたかった。」
このスピーチのはじめには、軽蔑の笑い声があっのですが、だんだんに感動の渦が湧き起こって、最後には、そこにいた聴取者たち全員の Standing ovation がなされたと言われています。
貧乏だったガッツ石松の生家とは違って、横山家は、一財産を築き上げた、栃木有数の商家でした。その盛ん振りの雰囲気は、広大な敷地の脇を通るたびに、感じられます。眼下の巴波川の流れに、この店の麻糸を積み込んだ都賀舟が、行き来していたのを想像するだけで、水夫(かこ)のみなさんの掛け声が聞こえてきそうです。
(ウイキペディアの「麻糸」、「太陽の帝国」です)
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