博士号を固辞した漱石

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 昭和30年代の初めの頃でしたが、父に言われるまま、中学受験をしました。父の友人に、大正デモクラシーの時期に創立された中高一貫校がある、と勧められたからでした。まだ「末は博士か大臣か」と勉励努力の目標が掲げられていた時代だったのでしょうか、四人の息子たちの一人くらいはと、父も思ったのかも知れません。何もわからないまま受験したのです。一緒に入学した同級生が120人、くぬぎ林の中にあった、中高6年の男子だけの一貫校で学んだのです。

 高校生と一緒の運動会があって、一学期から、校庭にあった、大運動場に集められて、校歌や応援歌の練習が行われたのです。早稲田や明治などの大学の応援歌の替え歌を歌わされ、東京六大学を目指して学ぶ様に鼓舞されたのです。担任は東大出で、3年間、社会科を教えてくれました。高等部の教師は、「奥の細道」を、特講のように教えてくれ、「月日は百代の過客にして、行きこう年も・・・」と、大人になったように感じたのを覚えています。

 数学が好きだったので、東工大を目指して、土木を学びたかったのですが、教壇を降りて、生徒と同じ床の上に立って、朝礼も授業の前後の挨拶をしていた担任の影響で、教師になろうと思ったのです。バスケットボール部に入って、高校生と一緒に練習させられ、ノッポの中のチビの自分は、必死になってボールを追いかけ回していました。そこには、OBの大学生や社会人が出入りしていて、可愛いがられたり、ビンタを張られたりもありました。都内の高校で行われた試合に、ボール持ちで付いて行って、帰りには新宿で、どんぶりメシをおごってもらったりして、実に楽しかったのです。

 勉強もクラブも面白かったのです。南極探検隊の副隊長された方がOBで、講演会があって、興味津々で話を聞いたりしました。けっこうOBが社会で活躍していて、大学の教授になったり、博士がいたりで、男子の本懐は、その博士になったり、社長になったりの刺激が一杯の学校でした。

 さて一通の手紙が残されています。

「拝啓、昨20日夜10時頃、私留守宅へ(私は目下表記の処に入院中)本日午前10時頃学位を授与するから出頭しろという御通知が参ったそうであります。留守宅のものは今朝電話で主人は病気で出頭しかねる旨を御答えして置いたと申して参りました。学位授与と申すと、2、3日前の新聞で承知した通り、博士会に推薦されたに就(つい)て、右博士の称号を小生に授与になる事かと存じます。然(しか)る処、小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、是から先も矢張りただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。従って私は博士の学位を頂きたくないのであります。この際御迷惑を掛けたり御面倒を願ったりするのは不本意でありますが、右の次第故(ゆえ)学位授与の儀は御辞退致したいと思います。宜しく御取計を願います。』

 そうです、これは夏目漱石の記した一封の手紙なのです。1911年(明治44年)2月に、<博士号〉を推挙する通達を、彼は受け取るのです。生まれながらでしょうか、漱石は称号や勲章や褒章などを好みませんでした。そんな彼に、文学博士のタイトルを差し上げたいと言われた訳です。

 その前年に、漱石は胃潰瘍になってしまっていました。その時、ひどく吐血をして、命の危険を経験しています。伊豆の修善寺の旅館で、温泉療養をしていたのです。やっとの事で、病状が平泰し、秋口になって帰京していました。といっても家に戻ったのではなく、市中の病院に入院していたのです。心も体も疲れ果てて、気も滅入っていた時に、文学博士授与の通達でした。そのお役所仕事、一方的な知らせが、反骨漢の漱石は気に入りません。それで辞退したわけです。

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 潔いではないでしょうか。と言っても、文筆家としては、「吾輩は猫である」、「坊ちゃん」、「草枕」などのベストセラー作家で、名を馳せた人でしたし、松山中、熊本の五高、東京帝国大学で教鞭をとった教育者でもありました。留学経験もあります。宮仕えが不得手だったので、朝日新聞に入社してしまいます。専属作家となった漱石は、もう44歳になっていましたから、博士になっても良い頃合いだったのです。でも、それを固辞したわけです。そればかりではなく、東大の教授への就任も断っていたのです。

 そんな漱石の脳が東大の医学部の棚に残されているそうです。重さまで測られていて、1,425gだったそうですから、平均値の1300gよりもだいぶ重い人だった様です。人の価値は、脳の重さでは測られなさそうですが、名小説家の脳を残そうした意図とは、何だったのでしょうか。当時の文部省は、漱石の脳には関心はなかったのでしょうけど。

 夏目漱石の功績の中で注目したいのは、多くの小説を書いたことと関係がありますが、近代日本語を形作ったことだと言われています。シェークスピアが、イギリス国語を形作った様に言われるのと同じでしょうか。何度もブログに書くようですが、漱石の日本語は、明治の落語界の祖とも言われる三遊亭圓朝(1839年~1900年)に学んだ、寄席に出掛けては、寄席噺をよく聞いていたと言われています。

 この圓朝は、江戸末期に、江戸の湯島切通町で生まれ、5歳で高座に上がったそうで、江戸、明治の落語界で活躍されています。江戸落語を集大成したことから、〈落語界の祖〉とまで言われています。圓朝の噺に、日本語の根があると言われています。言葉に関心を向けていた漱石は、江戸っ子でしたから、その生粋の言の葉を、寄席で、圓朝に学んだことになります。

 たぶん漱石贔屓(ひいき)の自分は、そんな庶民的な、江戸気質が好きなのかも知れません。ちょっと関係がないのですが、家内の本籍は、湯島聖堂の近くの湯島切通坂町なのです。文学者のような厳つい文体ではなく、庶民の言葉で平易に徹した物書きだったから、庶民の支持を得て絶大な人気を博したのでしょう。一万円札ではなく千円札の肖像に選ばれたのも、そんなところにありそうです。大臣や博士に縁のない私たちの様な庶民でいたい、と願っていた人だったのかも知れません。

(“いらすとや”の博士、“ウイキペディア”の東京・千駄木にあった漱石の家です)

ありがとうが言われたくて

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 1964年に、東京でオリンピックが行われました。戦時中に開催予定だった日本での大会が、第二次世界大戦の勃発で中止になって以来の懸案でした。焼土の中から立ち 上がって、戦後の復興を遂げた姿を、世界に向かってアピールしようと、開催されたのです。19歳の時でした。

 それから50数年後の2020年に、再びオリンピックが開催されました。そのための”presentation”が、2013年に行われています。その折、滝川クリステルさんが、[お・も・て・な・し]を掲げて、国をあげて、海外から来られる大会の役員、選手、観客を歓待しようとしたのです。この言葉は、その年の流行語大賞に輝いたほどでした。

 サーヴィス業界で、お客様へのあり方で、「おもてなし」と言うことが、注目され始めたのは、どの様な業界だったのかと考えますと、それはホテル業界だったのではないでしょうか。私の次兄は、日本に本格的な外資系のホテルが進出した時に、鉄道業界から転出して、そこにでルームボーイから始めて、管理職になりました。

 ルームボーイは、シーツを敷き替えるベッド作り、トイレや床掃除などが主な業務なのです。ホテルマンとしての第一歩から始めたのわけです。有名はロックミュージックのグループが初来日する時期の前だったと思います。アメリカン方式のホテル業務を、アメリカ人のジェネラルマネージャーから徹底的に教え込まれたと言っていました。その頃、兄から、この「もてなし」 と言う言葉を聞いたのです。

 日本の有名な観光地に、ホテルが開業していく時期に、そのホテル運営のために、将来ホテルを背負って立つ若いホテルマンたちが、そのホテルにl研修に来たのだそうです。どの業界でも、後発の企業は、経営も運営も、モデルと目される会社に学んでいく様ですが、日本的な伝統的なホテルも、サービスを売る業界ですから、鎬(しのぎ)を削りながら、そのサーヴィスで競争していくわけです。

 すでに就職先が決まっていた時期に、卒業まで間、そのホテルで、自分はルームボーイのアルバイトをしたのです。ただシーツを取り替えるだけではなく、敷いたシーツに、10円硬貨を落として跳ね上がるほどにしなければならなかったのです。たかがシーツ敷きですが、それがサーヴィスの第一歩、基本だと教えられたわけです。

 その兄の弟だと言うことを隠して、そこで働いたのですが、けっこう高く評価され、任される業務もあって、面白そうに感じて楽しく働いたのです。中高の恩師で、一緒に史跡の 発掘調査などをさせていただき、教育実習の担当でもあった先生の紹介でしたから、それを変えることはできなかったの、ホテル偉業会には残りませんでした。

 その仕事は、第三次産業であって、農林水産業の様な自然を相手にした。第一次産業は鉱業、建設業、製造業などです。第一次産業が採取したり、生産した産品を加工・生産する第二次産業とは違って、サーヴィスを売る産業です。応対といった接客で、客相手に笑顔で丁寧、そして満足して頂くような仕事なのです。

 兄自慢になって恐縮ですが、日本のホテル業界では、一万人の顧客をフルネームで覚えていると言うことで注目され、”Mr.Shake hand“と言われて、テレビや業界誌にも紹介されていました。大仰に[お・も・て・な・し]と言うほどではなく、兄の基本は、[ほんの少しのService]なのだそうです。それが一流のServiceにつながるからです。

 最近、上手な接客をされる方は多くおいでですが、中には、素っ気ない仕草でいる方が目立たないでしょうか。面白かったのは、中国で生活していました時に、お店に入って、物色している時に、店主とか店員の方が、『你要什么?何が欲しいのか』と、だいぶう違う語調で言い、付いて回るのです。『盗ませないぞ!』と言う、接客と言うよりは、警戒心と抑止力を目に含ませて、後に付いてくるのです。

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 どうも、あちらでは『盗まれる方が悪い!』と言う考えがあるので、警戒心丸出しなので、あれは接客ではなく監視だったのです。それが普通ですから、悪気ではないのです。でも、イギリスやフランスやアメリカの「超市(chaoshiスーパーマーケット)」ができ始めてからは、『欢迎(huanyingいらっしゃいませ)!』と言う様に接客が変わっていきました。

 でも、最近の傾向は、愛想が良くない様に感じられるのですが、こちらの客の態度が悪いのかなと思ってしまうほどです。それとは反対に、幼稚園生や小学生が、横断歩道を渡り終えると、一旦立ち止まって、止まってくれた車と運転手に向かって、頭をさげて挨拶をしているのを、この街でも、よく見かけます。自転車族の私が、自転車を止めて道を、彼らに譲ると、挨拶や会釈をしてくれます。

 これは「おもてなし」ではなく、「感謝」なのでしょう。この感謝は、社会の中の「潤滑油」なのですね。人が人と関わる時に、和やかさや安堵感を与えられるのは、心と心の触れ合いであって、相手への感謝こそがいちばんの絆、関わりになるのに違いありません。

 “ hospitality ”と言ったり、”treatment”とか“reception”とかに、日本語にが訳される言葉ですが、ホスピス、ホスピタルも、やはり、「もてなし」の一環なのでしょうか。この一、二年、病院通いが多くなってきて、それなりに老齢期を迎えている自分ですが、今でも、ちっとした気遣い、言葉に、元気にされるのを実体験しているのです。もしかすると投薬された薬や医療行為よりも、効果があるのは、ちっとした眼差しや仕草や言葉なんだよな、と思ってしまうのです。

 安心して病院から家に帰って来るので、心を安んじられる存在や時こそが、究極の「おもてなし」かも知れません。受けたら、どなたかにお返ししたいと思わせられます。兄のホテルマン人生は、『ありがとう!と言われたかった!』と言っています。たったの一言の「『ありがとう!』に、驚くほどの力が込められているか知れません。

(”いらすとや” 、”イラストマン“のイラストです)

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旅をゆく

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 京の都から、毎年春になると、日光にある「権現様(ごんげんさま)」と称された徳川家康の墓所を訪ねて、幣帛(へいはく/供物)を供える旅を、公家の一行がし、東照宮に参内していました。この一行は三月末か四月一日に、京を発って、中山道から例幣使街道を経て日光に向かい、四月十五日までに日光に到着したのです。翌朝、東照宮に幣帛を納めたのです。それは江戸幕府を開いた家康の威光の凄さが、強く示された年中行事でした。幕末、明治維新まで続いたそうです。

 この使者を「例幣使」と呼び、この街道を日光に向かって歩き通したのです。雅(みやび)などとは程遠い彼らは、天皇の名代(みようだい)ということで、その横柄ぶりは際立っていたそうです。迎え入れる宿場や街道沿いの住民は、紛々やる方なく、業を煮やしたほどの嫌われ者だったのだそうです。京を出て、中山道を下り、上州倉賀野宿から日光今市宿の例幣使街道で、一行はやって来たわけです。ここ栃木も宿場町でしたが、今では、その風情は感じられません。

 この一行は、務めを終えると、京への帰りは日光街道で宇都宮に出て、そこから江戸に向かった様です。そこで数日、憂さを晴らすように遊興し、東海道を京に向けて帰っていったのです。先週末、栃木を出て、静岡に向かったのですが、今では高速道路網が張り巡らされていて、奥州街道ではなく東北自動車道、圏央道、東名高速道路を利用しての旅でした。例幣使一行が帰っていく道を、何度か横切ったのだろうと思うと、その遠さや険しさ、雨で増水して川留めで、待たされていたことなどを思い巡らすと、ちっとこの一行に同情的にもなってしまいました。

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 日本橋を出立して、 江戸から京都までは約492km、普通、歩くと2週間ほどかかったのだそうですから、駿河の掛川宿までは、四、五日掛かっていたのでしょうか。八十代の老夫婦だったら、もう、そう言った旅など、することはなかったことでしょうけど、駕籠に乗れる身分でもなさそうですし、あんなに窮屈で揺れる箱に座っていられそうにありませんが、もし歩いたら何日を要したことでしょうか。そんなことを思いながら5時間ほど、息子の運転する車に同乗していました。

 その便利さ、快適さ、道々にはサービスエリアがあって、立ち寄っては用を済ませたり、食事もできる、この時代の溢れるような行き届いた備えに感謝したのです。まだ現役の頃は、熊本や倉敷に、車で行ったことがありましたし、何時間運転しても大丈夫だったのを思い出してしまいました。息子に乗せてもらえたのは、なんと感謝なことではないでしょうか。竹筒ではなく、ペットボトルを持ち、草鞋ではなくスニーカーを履き、団子ではなくクッキーやバナナも、手元にあっての一日の旅でした

 道路脇に茶畑があって、それを眺めていましたら、♯ 清水港の名物はお茶の香りと男伊達・・・・♭ の歌の文句まで出て来てしまいました。かつては長閑(のどか)とか、悠長な旅とは言えない、けっこう厳しく辛い歩きの旅だったに違いない、弥次喜多の様な膝栗毛だったのでしょう。私たちの今回の旅は、息子に完全にお任せだったのですが、彼が子どもの頃は、私が、貰い物のだいぶくたびれた車を運転していました。途中で故障したりが多かったのですが、息子は、同じ中古でも、けっこうgrade の良い車でしたから、時代差があったわけです。

 それでも将来ある子どもたちを大切に育てたつもりでした。大事故からも大怪我からも守られ、修理しながら、取っ替え引っ替えしていたのが懐かしく思い出されます。旅の様子は、そんなでしたが、お世話になった方の遺家族との交わりは、感謝でした。激励のつもりが、逆に慰められたり、力付けられたりの訪問でした。家と教会堂の北側には、けっこう大きな農業用水池があって、地域のみなさんのもので、場所的に教会所有の池の様で、自然的に素敵な所にお住いなのです。そこに雑草が繁茂すると、彼が率先して刈っていたのだそうです。地域のみなさんにも感謝されていた主の僕だったわけです。

(ウイキペディアの「東名高速道路」、「東海道中膝栗毛」の写本です)

宿題を出し終えた様な遠州訪問記

 この週末に、7ヶ月前に、急に帰天された若き友人のご家族を、静岡県下の街に訪ねることができました。家内と私にとっては、2019年の1月の帰国以来の遠出の旅で、それを実現できたのです。上の息子が、休みを取れるというので、前の晩に、車で来てもらって、翌朝早く出かけるように計画したのです。6時半の出発予定でしたが、15分遅れ家を出ることができました。

 東北自動車道、圏央道、東名道で、途中3ヶ所の渋滞がありましたが、二度ほど休憩をし、約束の時間に、15分遅れでの到着でした。そこは、私たちの子育て中に、毎年二、三度、夏の海水浴に出かけたことがあった海辺の街の近くなのです。5時間の行程に、家内は、リクライニイグシートに横になったりしながら、帰りには運転をする息子を激励しようとしてでしょうか、賛美をしたりの車旅、訪問となりました。

 玄関前でハグで、夫人とお嬢さんと息子さん、そして、彼らのお兄さんと妹さんご夫妻が、やって来られていて、一緒に歓迎してくださったのです。ご夫人とお嬢さんで、とても美味しい歓迎のランチをご用意くださって、3時間ほどの滞在で、歓談することができました。長男夫妻は仕事でフランス滞在中でお留守でしたが、お嬢さんと下の息子さんとも、良い交わりが与えられました。

 もう三、四十年も前になるでしょうか、彼のお父上ご夫妻が、牧会されていた教会に、何度も家族で招いてくださって、二、三日滞在させていただいたことが、何度もあったのです。当時、お子さんたちは、私たちの訪問時には、彼らのベッドを、6人家族の私たちに提供してくれて、どこかにもぐりこんで休む様な、大きな犠牲を喜んで払ってくれたお子さんたちでした。

 とくに彼は、私がしていたスーパーの床掃除を、ある時期、何度も手助けしてくれたのです。電車を乗り換えて遠路を来て、夜間の作業を助けてくれました。仕事が終わると、翌朝、眠い目をして帰って行かれたのです。実に忠実で一所懸命助けてくれたナイスな青年の彼でした。

 お父上もお母さまも、家内の若い頃からの家族ぐるみの知り合いだったので、彼が赤ちゃんだった頃に、ご家族で日本宣教のために初来日の折には、アメリカ訪問中で帰国する義母は、終いっ子の彼をおんぶをして一緒に羽田にお連れしたのだそうです。お父上は、私の家族の世話を、8年ほどしてくださった宣教師さんの友人でもありました。言葉にできないほどに援助、激励、執り成しをしてくださった方でもあったのです。

 32年ほどの奉仕を一区切りして、隣国に出かけた私たちを、その滞在の13年の間、様々に支え続けて下ったのが彼と奥さまでした。帰国しますと、教会と家庭に招いてくださり、ホテルに部屋を用意してくださったりもしてくださったでしょうか。慰めと激励のひと時を、何度もご用意くださったのです。

 そんな彼との生前の出来事を、帰国以来、残されたご家族と、思い出を話したり、感謝したりしたかったのを、今回、やっと実現できた訪問でした。二年ほど前、元気だった彼が、家族全員で、栃木の我が家を訪ねてくれたことがありました。言いえない様な素敵な交わりをさせて頂いてきていたのです。彼が召された後も、家族やご兄弟で、教会の交わりを継続しておいでで、感謝したのです。近隣のみなさんへの救霊の思いもお聞きできました。私たちも大いに励まされた訪問でもあったのです。

 帰りしな、お宅の玄関に出た時、金木犀の甘い香りが漂っていました。行き帰り、10時間以上、我が家から自分の家に帰る2時間も加えると、半日以上にもわたる運転をしてくれた息子に感謝した訪問でもありました。何か残していた宿題を出し終えた様な思いがして満足な再訪だったのです。主が、支え激励している彼のご家族への感謝が、少しできたでしょうか。主が、愛するみなさんと共にいてくださる様に、切に祈る朝であります。主に感謝して。

(ウイキペディアのこのご家族の住む町の市花の「キンモクセイ」です)

あの汽車旅が思い出されて

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 「鉄道唱歌」、旅情を誘って「ピョンコ節」のメロディーで歌われた歌なのだそうです。作詞は、大和田 建樹(おおわだ たけき)がされ、この方は、詩人で、東京高等師範学校の教授、国文学者でもあり、立教女学校や青山女学院でも教えていました。あの「故郷の空」の作詞でも有名なのです。

 日本で最初の陸蒸気(おかじょうき/蒸気機関車)は、東京駅ではなく、新橋停車場始発で横浜停車場(現在の桜木町駅)まで走ったのです。明治5年(1872年)のことでした。汽笛の一声を、どんな思いで、文明開花のさなかで、東京市民は聞いたのでしょうか。

 「新橋」

汽笛一声(いっせい)新橋を

はや我汽車は離れたり

愛宕(あたご)の山に入りのこる

月を旅路の友として

 「横須賀」

汽車より逗子を眺めつつ

早(はや)横須賀に着きにけり

見よやドックに集まりし

わが軍艦の壮大(そうだい)を

 「島田」

春さく花の藤枝も 

すぎて島田の大井川 

むかしは人を肩にのせ 

わたりし話も夢のあと

 「京都」

扇おしろい京都紅 

また加茂川の鷺しらず 

みやげを提げていざ立たん 

あとに名残は残れども

 「余部(あまるべ)」

香住に名高き大乗寺

応挙の筆ぞあらはるゝ

西へ向へば余部の

大鉄橋にかゝるなり

 「今市(出雲)」

今市町をあとにして

西へ向へば杵き築町

大國主󠄁をまつりたる

出雲も大社にまふでなん

 「甲府」

今は旅てふ名のみにて

都を出でて六時間

座わりて越ゆる山と川

甲府にこそは着きにけれ

 「日野」

立川越えて多摩川や

日野に豊田や八王子

織物業で名も高く

中央線の起点なり

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 自分に関わりにある駅や路線の駅を歌ったものを取り上げてみました。「鉄道唱歌」は、東海道線から歌い始められていて、第一集から第六集まであって、399番まであるそうです。大正期までに、その歌集は、2000万部も売れたとのこと、明治や大正の時代にも、後になって「鉄ちゃん」と呼ばれる鉄道フアンがいたのでしょう。

 先週、東武日光線、伊勢崎線、JR武蔵野線、中央線を乗り継いで、出掛けてみました。実に遠出は久し振りで、沿線の風景がだいぶ変わったのを感じたのです。都心から離れた街に住んでいますと、都会の乗り換え駅の雑踏に巻き込まれる様で、もうついていけないのを感じてしまったのです。

 弟から、下の兄が弱くなった様だと聞きましたので、まず弟の家を訪ね、仕事休みだった姪の運転する車で、兄と義姉を訪ねたのです。聞いたのとは違って、兄が元気そうにしていて安心した次第です。寿司の折り詰めを、弟が買ってくれ、兄の世話を焼いている姪が、惣菜やケーキを持参してくれて、美味しいお昼を共にできて、嬉しく、楽しいひと時でした。 

 あんなに元気で、野球小僧をやっていた兄で、ずいぶん優しくしてもらったのです。聖書に、『兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。』とあって、苦楽を共にしてきた兄や弟、上の兄は元気と聞いて安心していますが、八十路をゆく四人兄弟が、こういった交わりができて、帰りに、最寄り駅までえきまで送ってもらい、また電車の一人旅をして、家に帰ったのです。

 兄弟喧嘩を激しくして、今はあの荒い遊びから解放され、労り合えるのは素敵なことだと感謝した、中秋の電車旅でありました。母に連れられて、余部鉄橋を越えて、出雲への七十有余年も前の旅は、兄弟四人の揃い踏みでした。

(シンテリの「四人兄弟」、ウイキペディアの大正期の「余部鉄橋」です)

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それでも人生にイエスと言う

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 画期的な発見だと言えそうです。先週、ノーベル生理学・医学の分野での受賞者が発表され、大阪大特任教授の坂口志文さんらの研究者グループに決まったと、ニュースが伝えていました。どんな分野での研究への表彰だったのかと言いますと、『過剰な免疫反応を抑えるブレーキ役の細胞が存在することを発見した!』と言うのです。

 人の存在、誕生自身が神秘に満ち溢れているのですが、良いものもそうでないものも、両方とも、私たちは両親から受け継いで生まれてきているわけです。父と母から、よいものと、そうでないものを受け継いで、この私があります。身体も性格も、全人的にです。父に似たもの、そして母に似たものに、これまで思い当たって苦笑することがよくありました。

 夜空を見上げては、宇宙が、どんなに神秘にあふれているかを、固唾を飲んで驚くことが多いのですが、この五臓六腑の身体、この性格、自分の神秘的な存在こそが不可思議でなりません。先日、豊漁のキラッと輝いていた秋サンマを買って、母がしていたように焼いて食べたのです。もちろん七輪の上の焼き網の乗せて、モクモクしてたのとは違ったのですが、フライパンで焼いて、懐かしくも美味しく食べたのです。

 ところが、子どもの頃に何度もやった様に、小骨を喉に引っ掛けてしまいました。ご飯を飲み込んだり、エッエッ!と、やっても取れませんでした。『まあいいか!』で忘れていましたら、よく朝には取れていたのです。人の体は、異物の侵入にさえも、それを吐き出されることを、経験的に知っていたから、喉の小骨のことを考えないで、と寝ついたわけです。そんなことも処置してくださること、これでさえも神秘なのではないでしょうか。

 いわんや細胞の中に、ガンやアレルギーなどと闘う働きをして、ガン細胞の増殖を抑制したり、駆逐してしまう細胞が、生まれながらに、人に備えられていると言うのには驚いてしまいました。

『それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。(新改訳聖書 詩篇139篇13~15節)』

 昨日、新しいiPadの購入を子どもたちが話し合ってくれて、買って送ってくれました。さっそくsetupのために次男が駆けつけてくれたのです。新製品で、新しい機能が搭載されていて、使い勝手が一段と良くなって満足なのです。大空に飛んでいる電波を、こんな小さな機械がキャッチし、この文字を打ち込んで、ブログを作成し発信したり、ノーベル賞の受賞のニュースを読んだり、見たりできる機会にも、目を見張る様な改良にも驚かされています。

 この驚くべき文明の機器が、Macによって作られているのですが、iPad以上の精密なものが、この人体、生命、臓器、人なのです。偶然の積み重ねで出来上がったとは、決して思えません。綿密に意図され、計画され、さらには愛に溢れた願いで造られた以外に、私には考えられないのです。

 人類の敵のガンが、もう制圧されるのでしょう。ガンを恐れずにいられる、そんな発見への表彰だったのです。坂口夫妻が、研究を始めたのは、『そんな細胞は存在しない!』とされた時代だったそうです。さらには、どんなに研究を重ね、続けても、うまくいかなかったのだそうです。理解されずに、むだな研究だと言われ続けても、この夫妻は諦めませんでした。まさに「朴念仁(ぼくねんじん/むくちで無愛想な人やがんこで物わかりの悪い人のこと)」になりきって、「99%の努力」を実践した結果の発見だったのです。

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 この坂口さんは「志文(しもん)」と言う名を、お父さんにつけていただいたそうで、出典は聖書なのです。また愛読書は、「夜と霧(ヴィクトール・フランクル著 みすず書房刊)」を上げておいでです。以前に読みましたが、なくしてしまいましたので、市の図書館から借り出して、また読み始めているところです。心理学者で医師の著者が、極限のアウシュビッツ収容所での体験を著された著書です。

 収容所での体験一つは、収容所から出られたら、何かを学ぼう、結婚しようという望みを持ち続けていた人たちが、極限を生き抜くことができたのです。その体験から、『それでも人生にイエスと言う!』と言うのが、フランクルのHolocaustで得た教訓だったのです。収容所から解放されると言う望みを持ち続けた人こそが、悪夢の様な時を通過させてくれたことになります。

 その言葉に励まされて、人の内に備えられたものと、心の中にある「希望」を持ち続けて、今日まで生きてこられ、「信仰」や「愛」をも持てたことも、神秘や奇跡に違いありません。フランクルの著書や体験から、生きる意味を啓発された人は多くおいでです。自分も、その一人、生きるって、行かされているのは素晴らしいことなのですね。

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兄弟っていいものです

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『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(新改訳聖書 箴言17章17節)』

 兄が二人と弟一人の四人兄弟がいて、自分は育ちました。どうも良い意味でも悪い意味でも、評判の四人だったのです。父譲りで、運動神経はまあまあだったでしょうか、自分以外の兄弟たちは丈夫で、学校では運動部に所属して活躍していた兄たちと弟でした。

 小学校の四年ごろから、健康を取り戻した自分も、遅まきながら活躍していた兄たちを真似たのでしょうか、モデルの様にしていて、その後を追いかけていました。上の兄は陸上の中距離、アメリカンフットボール、ラグビーなどをし、次兄は野球一筋、弟は小さいころから柔道をし、大学では少林寺拳法やアイスホッケーをし、登山も水泳もやり、体育教師になりました。

 自分もバスケットボールやハンドボールやテニスの運動歴がありますが、苦しい練習やシゴキで鍛えられたのと、父母の支えで健康を回復でき、兄たちに負けずにと過ごせたのには感謝がつきません。ワガママな弟、弟には目の上のタンコブの兄の自分を、我慢してくれた兄弟たちの忍耐があってここまで生きてこれました。

 みんなすばしっこくて、足が早かったのです。そうケンカも強かった様で、兄弟間でもよくやったので、近所の評判でもありましたが、長じて落ち着いたのを見た近所のみなさんは、驚いていたのだそうです。

 弟が来年には八十路に到達で、病んだり怪我の連続をこえて四人とも、父よりも20年も多く生きられています。キャッチボールをしてくれた、父の投球フォームが思い出されて参ります。あのケンカだって、人生の肥やし、鍛錬になったのでしょう、今はいたわり合っている様子に、周りで羨ましく感じているのです。そんな家にはいつも優しい母がいてくれました。

 昨日、ひさしぶりに上京したのです。東武日光線、伊勢崎線、JR武蔵野線、中央線を乗り継いででした。『次兄が弱くなっているよ!』と、先月訪ねてくれた弟に聞いていたので、体調もよかったので、弟を誘って、その兄を訪ねたわけです。野球小僧も八十路半ば、テレビにも出る様なホテルマンで、懸命に働いた兄です。どんな兄を義姉や姪家族が応援団をしている様です。
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 優しくいつも気遣ってくれ、自分に我慢してくれ、中学生の自分のズボンを、マンボスタイルに縫い直してくれた器用な兄なのです。四十代の初めに、腎臓を壊してしまったのですが、持ち前の頑張り屋でしたから生き抜いたのです。

 姪が運転の車で、途中で高級な寿司を、みんなでお昼をしようと、弟が買ってくれ、それを持参での訪問でした。歯医者通いの母の車の運転に助けで、実家に帰っていた姪もいっしょでした。オジたちの訪問を知ってか、キンピラごぼうや煮しめやケーキを用意して、迎えてくれました。

 姪たちが羨ましがる様に、今は仲の良い兄弟でいられるのも、二親あっての今なのだと感謝したひと時でした。年相応の今をさまざまに感じながら、いろいろと父や母のことなど、老いていく二親に仕えててくれた義姉への感謝など、あふれるような昔話に盛り上がったひと時でした。兄弟っていいもんだなあ、と改めて感じた兄訪問だったでしょうか。 

 「苦しみを分け合う」」、そのことのために、神さまは、兄たちや弟、妻や子や姪や甥を与えてくださったのです。もう人生のラストページ、終章にありますが、老いても明日に希望をつないで、今を感謝して過ごしたいと願わされています。ツヤツヤと輝いていた過去から、燻銀の様な今に、Stage up しているんだと思うことしきりです。

 兄の最初の職場の車で、免許証を取ろうと自動車学校に通っていた自分が、運転練習をしようと車に乗り込んで、側溝に落輪してしまったことがありました。翌日、兄がこっぴどく叱られたのです。そんな昔話までしてしまったのです。

 美味しくって楽しくって、涙が出そうな兄訪問でした。家に帰ったら夕食の用意がしてあって、楽しそうにして帰ってきた自分を迎えて、家内が様子を聞きたがっていた夕べだったのです。キンモクセイの花の香りがしてきた秋満載の栃木と東京都下でした。

(ウイキペディアのキンモクセイ、“いらすとや“のイラストです)

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お母さんの詩

 

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   母の話   河野進

母は りこうではなく 御世辞は言えず

病身ですから 化粧したり

よい着物を着て 出歩くでなく

茶がゆと いわしずしがすきで

自然の景色とこども あかず眺めて楽しんでいる

なんのめばえもない 雑草のようでした

でも どんな美しい花よりも

とげや飾りがなく したしみやすい野の花でした

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(“いらすとや”のお母さんです)

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若者考

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 この時代の青年像で、輝く男性は、アメリカのMLBで活躍している大谷翔平さん、輝く女性は、天皇のご息女の愛子さんでしょうか。お二人にはお会いしたことがありませんので、伝え聞く限り、素敵な生き方をされている様です。

 江戸時代に「行動哲学」があって、その中心にあったのが、「江戸しぐさ」だと言われました。百万都市だった江戸で、多くの市民が、互いに気づかいながら、どう生きていたのかを、そう言ったのです。ところが、「江戸しぐさ」でいう様な、「傘かしげ」が、江戸市中を路上で行き合う時に、行われたというのですが、疑問符を投げかけられていました。

 当時、傘は竹製で、武士階級や、豪商や花街の芸者などが使えるだけで、庶民が使っていたとは考えられないほどの高級品だったそうです。羽織を被ったり、蓑や頭を覆う笠を使っていたそうですから、実際にそぐわない「しぐさ」だった様です。どうも「都市伝説」の作り話らしいというのが、実際のところの様です。

 路上で行き合う時に、来る人が年寄りだったり、物を手に下げていたり、赤ちゃんをおんぶしていたら、狭い道なら、立ち止まって、『お先にどうぞ!」と、相手に道を譲るのは、誰もがしていることでした。江戸市中や江戸時代だけで行われていたのでなく、何処でも見られたのではないのは、市民の娯楽だった落語に、その噺の中に、「傘かしげ」のくだりがないのだそうです。どうも世界中でなされる相手への労りなのです。

 「傘かしげ」、たしかに絵になりますが、特筆していうことでもなさそうです。翔平さんが、相手の監督や審判に、チョコッと会釈したり、ベース上のゴミを取ったり、ヒマワリの種を、紙コップに入れて、ベンチの中で吹き出さないなどの行動が、取り上げられています。

 そればかりではなく、球場の清掃員のみなさんや、相手のチームの応援団に、分け隔てなく挨拶をしたり、感謝をしたりするのです。その振る舞いは、アメリカ社会では、ほとんどありえないことなのだそうですが、まさに、「バットかしげ」、それを励行する美談が取り上げられています。

 そのほかにも、推薦されるべき若い方は大勢おいでと思うのですが、この二人を、映像で見る限り、態度が美しいではありませんか。翔平さんは、日本男児の鑑の様に、アメリカのbaseballのフアンに、最大級の褒め言葉で称賛されているのです。「翔平しぐさ」とでも言えそうです。

 昔はやっていた歌に、♯ 愛ちゃんは太郎の嫁になる ♭ という歌詞の歌謡曲があって、愛ちゃんは大人気でしたが、令和の愛ちゃんは、日赤職員として就職され、特殊な環境の名から出られて活躍され、聞くところによると、残業もされているのだそうです。

 私の弟が日赤の業務に携わっていて、どうもお会いする機会がありそうですが、遠くから見られる距離にしかいなさそうで、✍️をもらいたいと思っても、頼めそうにありません。♫ ちっとも美人じゃないけれど ♬ と言う歌がありましたが、令和の愛ちゃんは人気者で、芯が強く人当たりが良さそうな方です。

 つまらない噂話が多い昨今、立派に、そして健気に生きておられる方は、何処にも多くおいでなのでしょう。令和の若者だって、素敵に青春や思春期をしているみなさんがおいでなのです。縄文時代だって同じだったのでしょう。

 そんなみなさんに、一言だけ申し上げたいのです。

『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(新改訳聖書 伝道者12章1節)』

 アメーバーや偶然の積み重ねでからではなく、はっきり目的や使命を持って生きていく様に祝福されて、ご自分が造られていることを知って欲しいのです。「何の喜びもない」と言われる老年期を迎えたジイジの切なる願いなのです。

(“いらすとや”のジイジのイラストです)

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