変化

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これまで街中を歩いたり、バスやタクシーに乗っていたりして、『こわい!』と思わせられたことが、何度もあります。一つは、携帯を右手で耳に当てて、左手で運転する運転手でした。かつて、日本でも、よく見られた風景です。二つは、むやみに追い越しをすることです。路線を守ってほしいのに、急ハンドルで路線を変更をするのです。公共バスの様な大型車が、軽自動車の様なハンドルさばきをするのですから驚いてしまいます。どうも先に立ちたいとの心理が働く様です。毎回、ヒヤッとさせられています。

三つは、車の「右折」です。どこの交差点でも、「車譲人」と路面に書かれた歩行者優先なのに、警笛を鳴らして走り抜けて行きます。四つは、電動自転車が、脇をすり抜けていくことです。エンジン音がないので、接近しているとは思っていないのに、真横を走り抜けて行くことです。日本の電動車はゆっくりですが、こちらはバイク並みに加速できるのです。五つは、電動自動車が、赤信号を無視して、直進や右折をすることです。よく交差点で、衝突しているのを見掛けます。

六つは、歩行者が信号を、まだ守らない人がいることです。最近では、道路の中央に、分離の柵が置かれる様になって、横断歩道まで歩いて渡らなければならなくなっています。その横断歩道の信号を無視している人は、交通事故の怖さがまだ分かっていないにかも知れません。

先週、知人から聞いたところによると、「道路交通法」で、罰則が厳しく、変化しているのだそうです。運転中に携帯使用は禁止されているので、違反すると高額の罰金が課される様になったそうです。<罰金>を払わなければならないので、守るようになるというのは、どこの国でも同じです。この何年か、日本では、飲酒運転と飲酒による事故死の件数が激減しているのも、高額の罰金、免許停止などの厳しい罰則のお陰です。そのことを聞いて、ちょっと安心、と言った年末です。

(写真は”百度”による、邯鄲市の交通警察官による交通安全キャンペーンです)

あるもの、ないもの

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こちらで生活をし続けていて、日本にあって、こちらにないものを数え始めてみました。そう言えば、暮れの商戦の『らっしゃい、らっしゃい!』の呼び込みの声はありません。上野・御徒町駅の改札を出たところから、店が立ち並んでいる「アメ横」は、そろそろ、その声が聞こえてきているでしょうか。こちらのスーパーに入ると、『ないだろう!』と思っている、「ジングルベル」が気ぜわしくBGMで聞こえてくるではありませんか。

先週末の朝、行きつけのスーパーに行ってきました。家内の開いている教室に、日本語を学びに来ている学生さんたちに、昼食をご馳走しようと買い出しに行ったのです。送迎バスから降りて、店に入ると、BGMが流れていました。耳をすますと、『・・・すずがなる・・・』と聞こえてくるではありませんか。日本語です!ジングルベルが日本語で鳴っていたのです。台湾系のスーパーですから、日本の店作りに真似たチェーン店の一つで、『きっと台湾の店で流している、日本製のCDを使っているのだろう!』、と想像してみました。聞こえないと思っていた、クリスマスソングが聞こえてきて、瞬間、日本かと勘違いしてしまいました。また家にいる日の朝、私たちのアパート群の正門の脇の幼稚園からも、「ドラえもん」が聞こえてきます。翻訳された歌ではなく、日本語そのものなのです。

今頃、日本では、選挙カーが、路地から路地へと、『✖️✖️でございます。国会へ送ってください。✖️✖️を男にしてください!』と、国会で<男になりたい人たち>の選挙運動の声が聞こえてきていることでしょう。この声や音は、こちらではありません。いつか聞こえてくる日が来るのでしょうか。夕方になってから聞こえて来るのは、カラオケで、振り絞って歌う善男善女の歌声です。時々、「北国の春」が、中国語バージョンで聞こえてきます。最近増えてきたのは、車のクラクションの音です。車が、あふれるほどに、日に日に増えてきているからなのです。

それで、最近の交差点は、どこも「堵车ducheヅウチョウ⇨渋滞」で大変です。駐車場所がないので、それを確保するのが、自家用車族には問題のようで、どうも頭痛がありそうです。

(写真は”百度”から街中の「菜市場」の外庭です)

遊び仲間の声

 

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子どもの頃の遊び道具の中に、飛び道具として、「紙鉄砲」がありました。実に他愛のない遊びをしたものです。口の中で、紙(新聞紙だったでしょうか。紙はまだ貴重でしたから。)を噛んで、唾液で柔らかくして丸めた物を「弾(たま)」にして、篠竹の筒の先と元に入れて、竹筒より細い棒(割り箸のような)で押して、空気を圧縮して飛ばすのです。『スポン!』といういい音がして、標的を撃つのです。押した弾は、次に飛ばす弾になるのです。

それと同じ原理で、「杉鉄砲」もありました。杉の「芽」を弾にして飛ばすのです。紙製よりも、鋭い音がして、飛んで行く速度も早かったのです。当たった痛みも強さを覚えています。春の芽吹く時だけしかできなかったのですが、夏には、同じ竹製の筒で作った「水鉄砲」もありました。大きい子から作り方を伝授され、それをまた、下の子たちに教えて行く、そう言った繰り返しがなされた、好きじだいでした。

遊び道具が市販されていないので、自家製の遊び道具を工夫して、自分たちで作り、作り方が伝承されてきたわけです。「創意工夫」とか「改良」とか言ったことが行われ、きっと「物作り」の基礎になったのだと思われます。自ら「物作り国」と呼ぶ背景には、江戸の昔からの「遊び」がある様です。

雪の便りが聞こえ、先週は、四国や島根で大雪だったようです。雪が降ると、「橇(そり)」を、兄たちが作っていました。こちらの東北地方でも、積雪があるようですから、子どもたちは外で遊んだりするのでしょうか。自分たちで橇を作ったりしてそうですが。そう言えば、雀などを捕まえる、「バッサリ」とう仕掛けも、すぐ上の兄が作っていました。ワイヤーと言う鋼線が必要でしたが。あの嬉々と遊び暮れていた遊び仲間の声が聞こえてきそうです。

(図は、”大末畳店HP”から「杉鉄砲」です)

心が痛むこと

 

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子どもの頃の遊びですが、ほとんどの時、<集団遊び>をしていたのです。就学前は、金魚の糞のように、兄たちの後を追いかけては、兄たちの邪魔をしていました。小学生の頃に過ごした街では、近所にいた、上の兄の同級生が番長で、この人の指示で、様々な遊びをしていたのです。鬼ごっこ、宝取り、隠れんぼ、馬跳び、馬乗りなどなどでした。夢中になって暗くなってまでやり続けていたのです。この番長が、後になって、私の通学で乗っていた電車の車掌をしていました。

ですから、宿題をやった記憶がありません。多分、宿題だってあったのでしょうけど、ほとんどやった記憶がないのです。やらないで学校に行って、立たされたりもしたのです。そんな遊びの他に、「チャンバラ」をしました。雑木林の中に入って木を切っては、自分好みの刀を、自分で作っていました。この「チャンバラ」の遊びには、時代的な背景がありました。当時の映画は、いわゆる「時代劇」が全盛期でした。悪人が刀を振り回すと<殺人>になり、正義の人が用いると<懲らしめ>になる、勧善懲悪の物語が流行っていたのです。切り役、斬られ役があって、みんな映画俳優気取りでした。

ところが、アメリカの社会では、刀の代わりに拳銃を使うのです。戦争が終わって、アメリカ映画が、日本で上映されるようになると、いわゆる「西部劇」が、日本で観られるようになり、とても人気がありました。アメリカ版の「時代劇/チャンバラ」でした。それで、私たちが刀を使うのとは違って、アメリカの子どもたちは、「おもちゃの拳銃」を持って遊ぶのです。アメリカは、「銃社会」だからです。

『自分と家族は自分で守る!』と言う自衛意識が強いために、子どもたちが、家の中で、簡単に本物の拳銃を手にする機会があり、それで今日日、無差別乱射のような事件が起こるのでしょう。今の子どもたちは、「戦争ごっこ」をしなくなっているようですね。一対一の喧嘩や集団での喧嘩などもしません。小競り合いや、小さな喧嘩をしていないので、いったん争いが起こると、喧嘩の力加減が分からないので、怒りの感情を制御できなくて、銃で問題解決をしてしまうのでしょうか。

最近、アメリカでの残念なニュースを、また聞きました。心が痛むのですが、日本でも「包丁」を振り回して、切りつける事件が、よく起きています。叩かれたり、切られたり、打たれたりする<痛さ>を知らないからでしょうか。心の感情の抑制が聞かない時代の只中で、如何したら好いのか考えてしまいます。

(写真は”スポーツチャンバラ公式HP”より「スポチャン」の演舞です)

やさしさ

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先日、急に気温が低下した日のことでした。第一時限目の授業が終わりましたら、一人の男子学生が、ニコニコしながら私にメモを渡して、教室から出ていきました。そのメモには、『こちらの天気は、とても寒いので、風邪をひかないでくださいね。』と書いてありました。私に手渡そうと、そっと書いた走り書きでした。

こちらの男性の<やさしさ>には驚かされます。ギターを抱えてやって来て、自分が作曲した歌を、家内に歌ってくれたことがありました。ちょうど病気して、体が弱くなっていた時でした。彼の友人の日本人に聞いて、やって来てくれたのです。こんな青年に会ったのは、私たちとしては、初めてのことでした。どんなに家内は慰められたことでしょうか。海南島の出身の方で、故郷に帰られる前に来てくれたのです。

そうですね、度々、この欄で触れていますが、公共バスに乗ると、スッと立って席を譲ってくれるのは、男性が多いのです。よく日本人の礼儀正しさが、世界中で高く評価されていて、中国のみなさんは、そうではないと言われていますが、そんなことはありません。社会習慣の違いはありますが、<心根(こころね)>は素晴らしく優しいのです。私たちだけが経験しているのではなく、総じて、人に対して優しいのです。

私たちが長く、こちらに留まっている理由の一つは、そんな点にもあるかも知れません。ときどき、季節の変化の時期に、こちらでの生活に、不慣れな外国人だと思ってでしょう、『週末には、天気が変化しますので、お体に気をつけてください。』とのメールが届きます。『あっ、覚えてくれてるんだ!』と、その度に感謝と喜びの思いが湧き上がるのです。

今学期は、授業の合間に、干しぶどうや干し芋をもらったりしています。一緒に食べたいのでしょうか。それで、ほうばって、『美味い!』と言うと、大喜びしてくれます。今までの学年にはなかったことです。年々歳々、学生気質の変わってきていますが、基本的に、中国の青年たちは、素晴らしい資質を持っているのです。彼らの知的好奇心に応えることができる機会と、責任を感じながら、今学期の授業も余すところ数週になってまいりました。師走ですから。

(写真は"百度"による海南島の「三沙」です)

黙々と

 

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「孟母三遷の教え」というのを読んだことがあります。孟子のお母さんは、よく息子を見守っていたのでしょうか。ある時、墓場の近くに住んでいた時のことです。そこで行われる葬儀を真似ては、「葬式ごっこ」ばかりしていたのです。これでは良くないと言って、引越しをします。その引越し先は、市場の近くでしたので、今度は、「商売ごっこ」ばかりして遊ぶようになったのです。『これは教育上良くない!』と判断して、今度は学校の近くに越します。そうしますと、彼は「礼儀作法」を真似し始めたので、お母さんは安心して、そこに住み続けた、と言う話です。

その孟子は、お母さんの環境選びの甲斐あって、やがて著名な思想家、教育者となっていくのです。その孟子が、「人は以(もっ)て恥ずること無かる可(べ)からず」と言いました。その意味は、『人は恥の思いを持つべきで、反省せず慢心するようなことがあってはいけない!』というものです。それは人に言えないような、過去の日陰での体験とか、恥を被った経験なのかも知れません。

私の愛読書に中に、『人は若い時に、くびきを追うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙って座っているがよい。』とあります。この「くびき(軛)」と言うのは、むかし、ヨーロッパなどの農村で見られた、「粉挽き」で石臼で粉を挽くために、二頭の牛を、ひとつの首枷につなぎ、牛追いに引かれて、共に同じ方向に歩んで石臼を回すための「首枷」のことです。もし牛たちにも抗議の機会があったら、きっと、『こんな単調で、きつい作業をさせ、しかも軛に繋ぐとは!』と言いたいことでしょう。

自分の思い通りにならず、誰かの意思によって動き回される不自由さを覚える経験は、有益なのです。青年期には、年長者、人生経験の豊富な人に従って生きていくこと、さらには重荷を負って生きることを言ってるのでしょう。そう言った環境にいたら、文句を言ったり、自説を唱えたり、自分や環境を呪ったりしないで、「黙ること」なのです。「孤独」になると、心が澄み渡って、人は多くのことを学べるのだと言うわけです。

もしかしたら、「砂を噛むような経験」かも知れません。愚直な努力でしょうか。野球小僧なら、球拾いをさせられるような時期のことです。そういう時にこそ、基礎が培われ、やがて長足の進歩と成長が見られるのです。最近の若い人は、すぐにレギュラーになりたがります。初歩コースを、『時間の無駄!意味がない!』とスキップしてしまうのです。私は、こんなことをしました。スナップの効いたシュートを打てるように、毎晩、入浴時に、風呂の中で手首を使って水をかいたのです。コーチに勧められてでした。そんな単純なことをし続けた結果、手首が強くなったのです。そんなことをある人は、『風呂の中で、ばかなことし続けて!』と、思っても不思議ではないのですが。黙々としてやった高校時代が懐かしく思い出されます。

(絵は”百度”による「山茶花」です)

ボンタンや栗や柿

 

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29号棟の4階(一階が貸店舗ですから実際は5階になります)のベランダから、バス通りを挟んだ、左向こうに、テント作りの果物屋があります。最近は、この店で旬の果物を買うことにしてしていて、週に一、二度は行ってみます。秋から最近まで、必ず買うのが「柿」です。食べても、法隆寺の鐘の声は聞こえてきませんが、この「硬柿」が、11月末になっても、歯ごたえがあって美味しいのです。今年は、本当に、満喫させてもらいました。日本円で換算すると、大きめが一個が35円ほどになるでしょうか(目方売りですが)、家内と半分づつ食べています。

今は、葡萄、みかん(何種類もあります)、柚子(長崎特産のボンタンです)、苹果(りんご)、サトウキビ、キウイ(輸入品です)、ミニトマト(こちらでは果物コーナーで売っています)、バナナ、この他に、名前の分からない物が幾つもあります。総じて、こちらの果物は、糖度があって美味しいのです。果物生産者の腕は確かです。家の周りに五軒も果物屋が出店しています。越してきた当時は、一件でしたのに、五倍の増加というのは、すごい発展状況で、みなさんが果物を好んで食べるようになっていることが分かります。

水曜日の夕方に、毎週出掛ける家があるのですが、この家でも、毎週、変わった果物を出してくれます。秋になってからは、「栗」を茹でてくれるのです。どんぐりのような小振りな物ですが、これが美味しいのです。美味しそうに食べる私を見て、毎週用意してくれます。先日、学生さんが二人、遊びに来てくれたのですが、日本人と同じ義理堅く、お土産持参での来宅でした。南の方からやって来ている方たちで、「柚子」の特産地が近くの出身だからでしょうか、どれが美味しいのかを知っていて、とびきり美味しい物を頂きました。そのお返しにカレーライスを振舞いました。

しっかり、果物も食べ、食事も感謝して頂いて、こちらの生活に、すっかり慣れていますので、ご心配なく。明日からは、もう12月になります。二人の孫娘と私の誕生月です。また歳をとるのですが、弟曰(いわ)く、『兄上、来月はいよいよ古稀ですね!』と言うところです。<人生双六(すごろく)>の上がりに近づいているのですが、結構、楽しく生きていますのでご心配なく。

(写真は“百度”による「ボンタン(柚子)」の花です)

 

願い

 

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<240万人>、この数字を聞かれて、何の人数だと思うでしょうか。『新潟県の県民人口ですか?』、はい、そうでもありますが、実は「囚人」の数なのです。アメリカ合衆国の全州(総人口3億2千万人)の刑務所に収容されている受刑者の数です。こんなにいるのですね。1972年には30万人でしたから、今では8倍になっています。ちなみに日本では、65000人(総人口1億3千万人)とのこと、減る傾向にありますが、アメリカは逆に増え続けています。

世界で最も富んでいる国で、<アメリカン・ドリーム>を叶えさせてくれる、夢に満ちている国が、こういった<犯罪>を頻発させているのです。つまり<社会病理>が巣ぐっているというわけです。理想の国を求めて、イギリスの港を出港した開拓者が、作ろうとした国とは、真反対な一面を見せてしまっていることになります。

中学の歴史で、新大陸に向けて出港した「メイフラワー号」のことを学びました。66日の船旅の後、1620年11月21日に、100人ほどの人が上陸しているのです。この最初の人たちが、その信念と理想に萌えて作り上げた国です。もちろん先住民のインディアンたちの国でしたが、現在では、多くの移民たちの国でもあります。しかし建国の父たちの夢をつないで生きている者たちの国だと言えます。

私たちの国からも、多くの人々が、太平洋を渡って行きました。後に米州に併合されるハワイばかりではなく、大陸の西海岸に農業移民をしています。以前、オレゴン州に行きました時に、太平洋の海岸線の街に、嫁いだ次女の夫(婿)の両親の別荘があり、そこに泊めて頂いたことがありました。敷地から海岸線に出ることができたのです。夏でしたが、海水は氷のように冷たく、泳ぐことなどできないほどでした。西に目を向けた遥るか彼方に日本があるわけです。きっと、移民たちは、私と同じように海岸線に立って、日本に望郷の思いを馳せたのだろうと、思ってみたりしたのです。

今、二人の外孫が、この国で成長しています。先日、永久歯に生え替わるために、乳歯を抜いたのだそうです。「ワシントン伝」なども読んでいるそうで、建国の父たちの思いも知り、アメリカ国民、世界市民となるために学んでいるのです。孫たちが学び、生活している、この国が、夢や理想を取り戻し、その使命を果たせるようにと、願っている週末であります。

(写真は”wm”による「オレゴン・コースト」です)

ことば

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私たちのまわりに、フィリピン、マレーシア、アメリカなどから来ておられる中華系の方たちがいます。何代も前に、大陸から、それらの国々に渡って行った方たちの子孫で、「華僑」とか「華人」と呼ばれるみなさんです。公用語は英語ですが、出身地の方言で話し合う家庭で、育っているのです。漢字は読んだり書いたりできないのですが、「普通話」を学んで使っておいでです。

ブラジルに、家内の兄を訪ねたことがあります。サンパウロから一時間半ほどの所にある街です。そこも日本からの移民の社会でした。兄夫妻は、ポルトガル語を話しますが、夫婦の間は日本語を使っていました。義理の甥や姪は、片言の日本語ができるだけで、ことばや文化や習慣の上では、まさにブラジル人なのです。

滞在中に、何度か<青空市場>に買い物に行く義姉について、でかけたことがありました。野菜や果物や小麦粉や米、小道具や骨董品や絵画まで、様々なものが売られていました。その広場を、日系人の老婦人が、おぼつかない足取りで歩いておいででした。義姉の知り合いでした。ご主人を亡くした後、息子たちと暮らしているのです。このおばあちゃんが、実に悲しい表情をされていました。それは苦労を重ねてこられたシワのせいではありませんでした。日本語しか話せないので、孫やひ孫との交流ができない孤独が、身体中から溢れていたのです。

悲しんでいる人たちと、これまで多く出会ってきましたが、地球の裏側で見かけた、あのおばあちゃんの悲嘆に暮れた表情は忘れることができません。やはり、人間は「ことば」を用いて生きる必要があることを思い知らされたのです。また、このおばちゃんと同世代の年寄りが十数人、サンパウロ、リベルダージの地下鉄の駅頭の植え込みのコンクリートに腰掛けていました。話すでもなく、通り過ぎる人たちの中で、日柄過ごしていました。移民のみなさんの悲哀を感じて、『人生の最後を喜んで生きて!』と、思ったりしたのでした。

(”サンパウロの写真”からサンパウロの街中の風景です)

“Thanksgiving day"

 

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私の恩師の誕生日は、”Thanksgiving day"、日本の祭日では「勤労感謝の日 」でした。1935年、ジョージア州の片田舎で、手広く経営していた<GM>の電気店主の御曹司として生まれています。私は行ったことはありませんが、家内は、子どもたちを連れて、一度お邪魔したことがあります。この恩師の弟さんと家内の下の姉が結婚していた関係で、誘われての訪問でした。

ジョージア工科大学を出て、米空軍のパイロットをしておいででした。その後、企業家として来日され、出張所の開拓と立て直しのために、東京、熊本、甲府、海老名、大阪、京都、札幌、そして京都と移り住んで、2002年の9月に、東京で66年の生涯を終えられました。澄んだ青い目で、実に穏やかな方でした。

27歳から八年間、この方の助手をしながら、企業経営の原理からノウハウ、人間との関わり方や妻の愛し方まで教えてもらいました。奥様は日本人で、二人の男のお子さんがおいででした。今、どうされておいででしょうか。初めは日本の小学校に通っていましたが、後にホームスクールで学んで、お二人とも母国の大学を卒業されています。

あの街では、この方の助手席に乗せていただき、不自由をしなかったのですが、地方都市にいましたし、子どもたちが増えてきましたので、車が必要になり、運転免許証のなかった私は、隣町の教習所に通って取ったのです。免許を取って間もなく、東京に一緒に出張したことがありました。『マサ、君が運転しろよ!』と言われて、彼は助手席に座りました。高速道路に入ってからは、彼は隣りで本を読んでいました。と言うよりは、読んだふりをしていたのです。なぜならページを繰ることがなかったのです。未熟な私の運転に耐えながら、さぞ気がかりだったのでしょう。

40年も前のことになりますが、あの八年間、荒削りで短気でオッチョコチョイの私に忍耐して接してくださり、また教えてくれた、一番長く関わってくれた恩師だと言えます。生きおいでなら、今日は、79歳の誕生日になります。亡くなられる前に、お見舞いをしたのですが、その時、あの八年間の間に、彼と私の間にあった齟齬(そご)を、彼の方から詫びられたのです。私は、『こちらの方こそ、未熟でご迷惑をかけ続けて・・・』とお返したのを、昨日の日の様に覚えています。まだ三十代と二十代で、恩師も私も若かった日の出来事をでした。

あの最初に、車に彼を乗せた日の<忍耐>と<任せ>が、彼の私との八年間、その後、仕事を受け継ぎ、恩師が召されるまでの日々の全てでした。懐かしく思い出している朝であります。

(写真は”wm”によるジョージア州花の「チェロキー・ローズ」です)