正鵠を射ることばを

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 「正鵠(せいこく)を射る」と言うことばがあります。AIによりますと、「物事の核心や要点、急所を正確に捉えることを意味します。弓の的に描かれた中央の鳥(正鵠)を射外さないように、物事の最も大切な部分を的確に見抜くことを例えた表現です。 」とあります。

 有能な司会術を心得ている方は、その的確な質問を、質疑応答の流れの中で、ちょうど、弓矢が的を射る様に、相手の本心にぶっつけていくのです。話の流れを折らずに、隠れている事実を浮き上らすかの様に、相手に話させてしまうテクニックでしょうか。

 そうする時には、視聴者がいるわけです。テレビが、父の家に入ったきっかけは、兄がしていた運動部が、関東リーグで優勝をして、日本選手権を、関西リーグの優勝校と対決するという、日本選手権がテレビで中継されると言われた時でした。父は、電気店からテレビジョンを買って、わが家の中心に鎮座しました。

 ラジオにない、映像で時事や事件や流行を、聞くだけではなく、観られると言った、一大マスメディアの侵入でした。大切な家族間の語らいが、そのテレビの映像に奪われたと言ったらいいでしょうか。どなたかが、テレビに出現を、「一億白痴時代の到来」と言っていました。

 流暢に、早口に捲し立てるだけではなく、的確に、的を得て話し合う能力は、天賦のものなのでしょうか。それとも鍛錬、努力の結果なのでしょうか。高橋圭三というアナウンサーが、NHKにいました。「私の秘密」、「ジェスチャー」という、人気のテレビ番組があって、その司会をされた方でした。

 初期のアナウンサー、今ではキャスターという様ですが、ほとんどが男性でした。女性が、お飾りに様な立場から、キャスターになるのは、ずっと後になってのことでした。その女性キャスターに、国谷裕子という方がおいでで、実にsmartで、明晰で、はっきりものの言える方でした。

 1993年4月5日から、「クローズアップ現代」のレギュラーキャスターを番組開始時からされました。ところが2016年1月12日付で降板してしました。日本にいなかった私は、降板の事情は知りませんでしたが、強力な圧力がかかったと言われていました。なにか強く影響を受けた方たちからのものだったかも知れません。

 後になって、2016年5月1日に発刊された、「世界(岩波書店)」で、次の様に、国谷裕子は書いています。

『インタビューで私は多くの批判を受けてきたが、23年間、私に与えられた「クローズアップ現代」キャスターの仕事の核は、問いを出し続けることであった様に思う。それはインタビューの相手だけではなく、視聴者への問いかけであり、そして絶えず自らへの問いかけでもあった気がしてる。言葉による伝達ではなく、言葉による問いかけ。これが私にとって、キャスターは何をする仕事なのかという問いに対する答えかも知れない。』

 語ること、言葉で飯を喰ってきた我が身を考えますと、語ったことの反響が大きいことを痛感してきました。誤解されること、反発されること、感情が傷つけられることで、非難を被ってきたのです。聖書の枠を超えない話をしたつもりですが、例話の仕方の間違いなどでの誤解がありました。

 使徒ヤコブが、その書き送った書簡で、次の様に記しています。

『私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、言葉で失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。(新改訳聖書 ヤコブ3章2節)』

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 「舌は・・・不義の世界(6節)』、『舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。(8節』と言っています。

 一方では、剣の様に危うかったりします。言葉は、人を殺しも生かしもする、ものすごいEnergie  と破壊力、そして創造力、回復力を持っています。

 最も善意的で力ある言葉は、「聖書」です。主である神さまは、「ことば」と言われます。ギリシャ語で、“logos(聖書のイエスさまの時代、日常的に語られていた言語は、アラム語でした。このアラム語で「ことば」は、「メモラ」だと学んだことがあります)“ で、イエスさまの人格を表しています。

 人をい生かす「ことば」で、数限りない人を生かし、激励し、導き、用いてきたのです。家内の母は、学生の頃、神田の古本屋街を、何度も「真理」を探し歩いたそうです。終戦後、上の娘が、駅前でもらった、「約翰傳(ヨハネの福音書の文語版)」を読み始めて、「太初に道(ことば)あり道は神と偕にあり道はすなわち神なり」の「ことば」が、義母の心を、矢が的を射る様に、射たのです。

 その頃、栄養事情が悪く、肋膜炎を起こして、東京郊外の清瀬にあった「結核病院」に通っていました。病友に女子大生がいて、医師の不用意な〈ことば〉を聞いて、ショックを受けた女学生は、その晩に亡くなったそうです。権威や立場のある人の言葉の重さに、人の死期を早めるような言葉を使った、その医師を、義母は激しく責めたのだそうです。

 そんな時期に読み、出会った「神の子イエス」を表す「ことば」を知ろうと、冊子を配ったアメリカ人宣教師を訪ねたのです。問答を重ねて、ついに、「ことば」である神、十字架で、信じる者の罪を負って、身代わりに死んでくださった、イエスをキリストと信じたのです。101歳で召されるまで、信じ続けて、主の安息に入ったのです。

 また私の母は、聖書が語る「ことば」を聞いて、神さまが「父」であることを知って、父なし子の欠けを、私生児の惨めさや孤独を埋め合わせて余りある「救い」に預かりました。95歳で召されるまで、信仰を持ち続けたのです。

 人の言葉に、驚くほどの力があるなら、神さまのことばは、想像を絶する力があります。今は、世の中に驚くほどの言葉が溢れかえっています。そんな中で、命を生み出し、弱った者に、力や激励を与えることばを語り、「正鵠を射たことば」を聞きたいものです。

(ウイキペディアの「流鏑馬」、クムラン洞窟の「イザヤ書」です)

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出し渋りの秋風が涼と吹く

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 この時季の野草に、「エノコログサ」があります。バッタが好んで食べるのだソウ(草)で、あまり有名な草ではなさそうですが、漢字では「狗尾草」と書きます。草の穂が、犬の尻尾に似ているので、昔の人は、ソウ名付けたようです。

 日本語、とくに大和言葉には、「情緒」を感じさせる言葉や名称があって、それだけ聞いても、この年の異常な暑さを忘れさせてくれたのではないでしょうか。そう言った日本人の観察眼が素敵ですね。即物的で、慌てた様子もないゆとりが、昔はあったのでしょうか。

 ソウ言えば、鈴虫は、リンリンと鳴くのでしょうか、古語では「松虫草」、英語では、” bell cricket “ と言うのだそうで、英語圏でも、季節や場所に応じて粋な名付けがなされている様で、”poesy “ で、詩的で素敵な名前ではないでしょうか。

 鈴虫ですが、喉で鳴くのではなく、羽をこすり合わせる音が、鳴く音に聞こえてくるのを知らされて、驚いた子どもの頃を思い出します。

 どうも、虫や草の名には先人たちの生活のテンポには、穏やかさや余裕があったので、slow life、時間に追い迫られないで、悠々自適、悠々自得な暮らし振りが感じられて、『いいなー!」と思うのです。まさに、もうこの頃の自分の生活が、そんな感じです。

 どなたもソウなのですが、しなければならない仕事に、朝は起こされ、出掛けたり、机に向かったり、訪ねて来られる方と話したりしていたのです。在華中は、二つの街で過ごしたのですが、車を運転しませんでしたので、自転車と市バス、時々は知人の運転する車で出かけました。時間の流れが変わったのを感じたのです。

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 それに比べますと、この7年の北関東の生活は、実にslow pace になっているのです。今日は、家内の3ヶ月ごとの通院日で、電車に乗って、駅からはバスで行く予定です。図書館や市役所、買い物でのスーパーマーケット、たまにはラムレーズンを食べに行くのですが、二人で歩いていると、近所の方に、『仲がよくて!』と言われます。

 日常の義務から、医者通いに代わっていて、苦笑いをしています。この月曜日には、誘われてお絵描き会に参加しました。中学以来のことで、ワイワイガヤガヤしながら、手取り足取りで、5枚ほどのハガキに、水彩画を描いたのです。全然しなかったことをしている自分の変わりように、驚いています。

 下手な仕上がりですが、力作だとみずから思って、四人の子どもたちに出そうと宛名を書いたのですが、出し渋りの秋風が涼と吹き、やっと秋を感じられる早朝です。今日の天気予報は、最高気温が27℃だそうで、やっと一息つけそうです。行って帰ります。

( ウイキペディアの「エノコクサ」、“ いらすとや “ の「鈴虫」です)

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秋が来れば思い出す

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 家族で、海水浴に行く途中、ある公園で休んでいたことがありました。そこに歌碑があったのです。千葉県の成東町(現在は山武市成東)の城址にあった公園でした。その歌碑には、「里の秋」の歌詞が刻まれていました。作詞者は、斎藤信夫で、この成東町(現・山武市)の出身だったのです。

 この歌は、戦時下に、戦地にいるお父さんの慰労の思いを詠んだ詩でした。一億日本が、その戦争を「聖戦」と定めて、戦勝祈願をして、勝ち戦を願っていたのです。国民学校(小学校)の教員であった斉藤信夫も、そう願って、「星月夜」と言う題で、作詞したのです。一番と二番は同じで、三番と四番は次の様でした。

3 きれいなきれいな椰子の島/しっかり護って下さいと/ああ父さんのご武運を/今夜も一人で祈ります

4 大きく大きくなったなら/兵隊さんだようれしいな/ねえ母さんよ僕だって/必ずお国を護ります

 戦意高揚、戦地に赴いた兵隊さんたちの慰労の思いを込めて、戦時色の濃い歌詞だったのです。そんな一億の願いは叶わず、戦争に負けてしまったわけです。そんな戦後に、詞を書き変えて、この歌をレコーディングすると言うことになって、斎藤は「里の秋」と改題し、三番と四番に変わる歌詞を作り直す様に、レコード会社から要請されたのです。

 斎藤は、教師として、戦時下、戦勝を願い、日本精神で鼓舞したことに、教師としての戦争責任を感じて、教職を退いていたのです。それで改作した「里の秋」を、NHKから、川田雅子の歌唱で放送しました。この歌が放送されると、驚くほどに強烈な反響を呼んで、小学生ばかりではなく、敗戦に打ちひしがれていた全国民が愛唱する歌の一つとなったのです。

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1    静かな静かな 里の秋
お背戸(せど)に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人
栗の実煮てます いろりばた

2 明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ父さんの あの笑顔
栗の実食べては 思い出す

3 さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ父さんよ 御無事でと
今夜も母さんと 祈ります

 尾瀬は、夏が来るとですが、秋が来れば思い出すのは、この童謡なのです。有名な観光地ではなく、どこの村にも、どこの町にも、普通にあった日本的な佇まいを思い起こすわけです。

 戦時下に生まれたからでしょうか、予科練や海軍兵学校に憧れた、戦後の流れに反した願いを心のうちに温めた自分ですが、割烹着を着た母の、料理していた姿、掃除をしていた振る舞い、買い物籠を下げて買い出しに行っていた背中が思い出されるのです。負けて手にした平和は、何よりも大きな安心でした。

 ウクライナやパレスチナでの戦争、東アジアの不穏な動き、旧東欧諸国や中近東諸国に燻り続けるいざこざは、どうなっていくのは、不安材料は尽きません。二度とすまいと掲げた誓いも、薄ボンヤリしてしまっている日本も、そんな中で、どう対応していくのでしょうか。平和の主は、どんな思いでおいででしょうか。

(“いらすとや”の「葡萄」と「くり」です)

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ラムレーズンを食べて

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 人生には、「楽しいこと」が必要です。生きていく励みになるからです。でも、「苦しいこと」も、また付き物の様にしてあります。「苦楽同在」、裏と表の様に、楽しいことが続くと、また苦しいことがやって来て、そういった変化が、人生を深く掘り下げていくのでしょうか。

 明治期に、300年ほどの鎖国政策のもとに置かれた日本が、維新と共に、欧米諸国と立ち遅れに晒されます。欧米に追いつき、追い越すことを掲げて、殖産興業に躍起になりました。明治政府が目指した「強い日本」、それが行き過ぎたのでしょうか敗戦を喫しました。そこからの立ち直りの時期には「豊かな日本」を作ろうとしたのです。そして現首相は、その施政方針で掲げたのが、「楽しい日本」でした。

 確かに、子どもたちを、車に詰め込んで、ディズニーランドの行って過ごしたのは、実に楽しい一日でした。学業や、日常の義務から解放されて、思いっきり、amusementに彩られた夢世界で過ごせて、子どもたちばかりではなく、親の私たちも、実に手放しで楽しめました。

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 アメリカンドリームでしょうか、日常から解放されて、機械仕掛けの遊園地は、夢の国でした。朝早く家をで、終日遊んで夕暮れの家への帰り道は、疲れ果てた子どもたちが、帰りの車中では、全く違う、宿題や家事手伝いの現実に戻らなければならないのですが、最初は、あれやこれやと語り合って賑やかでしたが、やがて喜び疲れた彼らは、爆睡してしまっていました。

 楽しい社会、学校、家庭、職場、クラブ、近隣は必要です。余暇を楽しむことは、現代人には、とくに必要です。でも、人生に楽しさは錯覚で、現実は、厳しいものがあるわけで、そこを見極めないと、苦楽を上手に体験できないからです。

 日本は、飽食を経験し、美味しいものや珍しいもの、つまり楽しいことだけを追い求め当てしまったのです。「楽しい日本」だけではダメなのに、何度もその経験を積み上げていくと、本質を忘れ、失ってしまいます。

 思いもよらなかった、暗くて怖い日本が出来上がってしまったのです。もうニューを聞きたくないほどです。それに温暖化は度を越してしまい、うなされる体温の40℃が平均値になってしまいました。それでも、神さまは、こんな不敬虔な現代人に、地面が、ジューと音を立てるかの様に、雨を降らせてくださるのです。

 気付かなければならないのでしょうか。富や楽しさだけを追求した社会が、限界点に達していることをです。毎年、夏前からか追い迫られ、刺されて、こんどは刺されない様に、蚊帳の中に逃げ込んできたのですが、なんと今夏は、蚊に一度しか刺されませんでした。奇跡の如しです。また、毎年楽しませてくれた朝顔が、その蕾を開かないのです。でも、このところ六分ほど開いてくれる花になってきたのです。

 来年のことを言うと、何某かが笑うのだそうですが、来夏の暑さは、きっと今年以上になるのかなと思ってしまいます。富裕層は、夏の家と冬の家を併せ持っていて、避暑避寒を繰り返す人たちがいるのだと、聖書にも記されてあります。

 そんなことの叶わない私の猛暑の今年の慰めは、隣家からスイカが半分届いたこと、弟と姪が訪ねてくれたこと、そして子どもたちが、何やかやと気遣ってくれたこと、それに、何度かラムレーズンを食べたこと、これらがあって、乗り越えられたのかも知れません。心が豊かでなくては、生きるのを楽しめません。

(”SOZAI GOOD”の「ラムレーズンアイスです)

ねえ、全然違うでしょう!

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 昨日、午後3時過ぎに、家に近いスーパーに、買い物に出かけました。家の近くの路上で、電気工事店に前を通ると、そのご主人と行き合って、『おはようございます。』と挨拶し、当世お決まりの『ひどく暑いですね!』と言われたのです。何人も従業員がおいでで、『外での工事なんかできないですよ!』と嘆いていたのです。

 もう少し行きますと、3人ほどの小学1年生を引率した、同世代の方と行き合ったのです。軽く会釈しましたら、話しかけてこられました。『これ使わないんですか!』、と話しかけてこられたのです。すなわち、傘が、灼熱の日差しを避けられるのだそうです。そのさしておいでの傘を、サファリ帽を被った私にさし掛けて、持たせてくださったのです。『ねえ、全然違うでしょう!』と、21世紀の灼熱のアスファルトの路上での会話でした。

 確かに、一瞬、熱射が遮られたのです。どうも優れ物の様です。去年あたりから、手持ちの扇風機をかざす高校生を見かける様になりました。その頃に、次男が、来てくれた時に、その扇風機を家内に持って来てくれたのです。今夏も大助かりしています。

 先週、次男が来てくれた時には、サファリ形式の帽子を、私に持ってきてくれたのですが、その作りも、日傘同様、熱射を遮断できる素材でできていました。これを被ると、顔周りは熱射避けができそうです。どうも、傘も帽子も、同じ素材の様です。

 そんな暑さ対策の goods が出回る様になって、冷やしたU字系の首巻きや、お腹周りを冷やす充電式の手持ちの冷房機が、今季は見かけます。もう、そんな暑さ対策が必要になってきている様です。工事現場や路上での安全指導員の方には、うってつけかも知れません。

 今年の夏休みは、学校でのプールでの泳ぎはできなかった様です。『水温と気温の温度差が大きいいからなんです!』と、日傘の方が、お孫さんを見ながらが言っていました。今日は、熱射遮断のサファリ帽を被って外出することにしましょう。

(ウイキペディアのモネの「日傘の婦人」です)

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朝顔だより

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 最高気温38℃、ちょっとフラつくほどの関東平野の内陸部への熱射ですが、わが家のアサガオがヒッソリと咲いています。開き切れないでいるもどかしさを、ヒシと感じてしることでしょう。

 もう葉が黄色く枯れ始めてきて、疎な朝顔棚になってしまいました。山車会館の裏手に、毎年、このアサガオが植えられているのですが、今夏、いつ行っても咲いていません。でも、今朝は満開ではありませんが、これほどに咲いてくれて、慰められています。

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できることをする勧め

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 親の「非行対策」で、守られたかなと思い返して、亡き父と母に感謝しております。「偉くならないでいい対策」で凡々平平で過ごすことができました。今度は、「老い対策」です。自分でしないといけない様です。あるサイトを見ていたら、こんなことを言っていました。できないことはしないでいいから、できることをする勧めでした。

①歩け  車を運転しなくなりました。弟からの自転車は日本で、お世話した少年にもらった自転車は中国で盗まれてしまいました。こちらに住み始めて、ドラッグストアーで車にブッつかれて壊されてしまった自転車は廃車にしました。代車で中古の20インチ車輪の物を手に入れました。主が来られたら、駆けつけるために、買い物にも、図書館通いにも使いますが、いつもタイヤに空気を入れて、油をやって手入れをしているのです。

 それでも、自転車からも降りて、《歩け!》と言われたのです。ずいぶん歩いてきました。良いところだけではなく、悪いところにも、この足は向かいましたが、好いところにも行くことができました。そう教会です。そして友人の家です。病んだ人の病床にも行ったでしょうか。ラムレーズンを食べるためにも、最近行きました。

 どこかに入院した時に、看護師さんが、布製のmajorでふくらはぎの周囲を測ってくれました。筋肉量の測定なのでしょう。胸囲とか身長はわかるのですが、ふくらはぎ測定には驚きました。どれだけ歩いているかを知ろうとしたのでしょう。運動量の計測には、最適な部位かも知れません。

 今朝も、大通りを市役所まで歩き、そこから裏通りを歩いて、巴波川の側道に出ました。ちょっと速歩でしたので、汗をかいたほどだったのです。

 母や父の育った街も、南アメリカのアルゼンチンの外国船の入る港街も、娘のいたシンガポールも、中国のフフホトも、もちろん華南の街も、頼まれて傍聴のために裁判所まで歩いたでしょうか。それでも、もっと歩く様に勧められています。今は無理のない様に、そして閉じ籠らない様にと、歩いております。

②しゃべる  今日も、弟と姪っ子が訪ねてくれて、いっしょに昼食を摂りながら、今のこと

も最近のことも昔のことも、尽きない話題で話し合いました。話す相手がいなかったら、鏡に向かっても話せます。今では、AIと話すことも、iPadのSiriに調べたいことを告げると、答えてくれるのだと、次男がやってみせてくれたのです。人格の交流ではないのですが、これだって、会話になるのでしょう。

 年を取ると、なかなか話す機会がなくなってしまったり、億劫になって人を避けてしまって、けっきょく老いが邪魔をしたり、言い訳になったりで、だれとも話さない傾向にある様です。散歩で行き合う方に、『おはようございます!』と挨拶します。買い物に行きますと、『いらっしゃいませ!』と言われて、『こんにちは!」と挨拶を交わします。欲しい物の在処を、店員さんにお聞きします。

 人が人たるゆえんは、話せることに違いありません。カラスは、情報好感を仲間内でしていると言いますが、あれは会話ではなさそうです。

 「独り言」だっていいのだそうです。鏡の自分に向かって、激励のことばで話しかける人もいる様ですが、都合の良いことだけではなく、不快な経験だって、受け入れなければなさそうです。それができるのが、大人だからです。

 街に出ていけば、話す機会が溢れています。散歩で行き合う人でも、無言のまま通り過ぎていく方もおいでです。きっと深い思考をしていたりしてるのでしょう。もしかしたら話し合えるタイプではないと見切られているのかも知れません。

 それでも、しゃべること、話すこと、話しかけることは、閉じ籠らないことなのかも知れません。

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③笑え  指圧師のおじさんが、何とか言いながら、大笑いしているテレビを観たことがありました。それでもいいのでしょう、悲しいことばかりの世の中で、擬似で笑い飛ばせたら、スッキリしそうです。

 面白い落語を聞くのもいいのでしょう。金馬という噺家がいました。小学生の自分は、ラジオで聞いて、おかしくておかしくて大笑いをし、それを思い出してはまた笑ったのです。小学生を笑わせる噺家は本物でしょうか。上の兄の影響で、新宿の末廣亭に行く様になりました。

 「笑点」という大人気のテレビ番組がありますが、面白かったのです。でも、番組制作のために、シナリオが、制作スタッフによって作られて、出演者の一人一人のキャラクターに従って、同じ様な笑いやクスグリを入れて、番組が作られると聞いて、興醒めしてしまいました。

 話術の面白さ、クスグリなど、話の展開の工夫があって、古典とか人情物とか創作の演目があって、演者によって微妙に違って、同じ話を聞くのも、面白いのです。やはりピカイチは、六代目の三遊亭圓生だったでしょうか。関西に生まれながら、『そうでげす!』なんぞと、江戸弁で喋るのです。

 笑いですが、自分の失敗談が大いので、時々思い出しては、自分で笑ってしまい、呆れてしまうのです。

 エレミヤ書に、『おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。(31章4節)』とあります。輪の様になって踊りながら、喜び笑う時の到来を告げています。それまでも、笑うことを忘れないでい続けたいものです。

④ありがとうと言おう  生協の配達をしてくださる方が、週一でやって来られます。雨が降っても風が吹いても、玄関の呼び鈴を鳴らしてくれるのです。ドアーを開けて、『ありがとうございます。いつもご苦労様です!」』と在宅時には言います。飲み物などを用意して、それを渡しますと。『いいんですか!』と言って、その言ったありがとうに、お返しが返ってくるのです。

 スーパーの買い物をして、なるべくレジ係のいるラインに並びます。『お願いします!」と言って、打ち終わると、『ありがとうございます!」』と言うことにしています。それが短い会話につながる時もあります。人と和らぎ、関係を和ますカギのことばは、この《感謝》ではないでしょうか。

 働き始めて、給料日になると、給料袋を持って帰ると、父に、『ありがとう!』と言って、感謝をすると、苦み走った明治男の父が、実に嬉しそうな顔をして受け取ってくれました。育ててくれ、教育を受けさせてくれ、働ける様になったことへの二親への感謝でした。そうすると、夕食に、「ビール」をつけてくれました。すぐに遠慮しましたが。

 この夏、そんなことを教わりました。できないことは、もうできません。でもできることを励行するのは、大切かも知れません。今日も医者に行って、『ありがとうございます!』と、言って帰って来ました。最も言わなければならないのは、こんな愚にもつかない者を、「神の子」、「共同相続人」にしてくださった、父なる神さまへの『ありがとう!』なのだと思っています。

(“いらすとや”の「ありがとう」、「笑い」です)

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海で泳がせたかった鯛焼きが

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 『熱いだろうなあ!』と思わされた、あの鉄板の上にのせられた「たい焼き」の様に感じたのでしょうか、何日か前に、この歌が、自分の口から突いて出てしまいました。きっと熱帯のアフリカなどにも比べられないほどの暑さに閉口していたからに違いありません。

 華南の街で、スーパーマーケットに行く道を歩いていた時に、小型犬が、道の水溜まりに腹ばいになっていたのを、驚いて見たことがありました。そればかりではなく、道路脇に植えられた街路樹の陰のコンクリートの上で、裸のお腹を出して寝ているおじさんも見掛けたのです。その街は、中国一熱い街だと、地元の人が言っていました。

 その街に住み始めたばかりの頃に、大きな川の脇で、丘陵の下にあった棟割長屋は、エアコンなしの家ばかりでした。まだ十何階もある高層アパート群が建てられる前の頃でしたが、入り口の戸も窓も開けっ放しで、熱い夏を過ごしている一郭がありました。何年かして、それが街の景観を良くするためにでしょうか、みんな取り壊されてしまいました。

 替え歌にして、エアコンのある部屋で、この歌を歌っていますと、余計暑くなってしまうのです。冷え過ぎますと、古傷が痛むので、当代、「的確なエアコン設定論」の〈28℃の除湿〉、〈普通〉のエアコン設定にしていますが、朝方の散歩でさえも、帰ってくると汗が流れてくるほどなのです。

 県北に住むお兄さんが、この街に住む妹さんの家を訪ねて、今更ながら、暑さの酷さを言っておられたのだそうです。前橋や熊谷や佐野などの北関東の街も、今夏の暑い街に数え上げられているのですが、まあ閉口するほど、まだ生かされているほどの暑さなのです。昔住んでいた八王子も、ニュースで報じられる街になっていますので、兄弟たちの住む都下の街も、名こそ挙げられませんが、猛暑の街に違いありません。

 この「およげ!たいやきくん」への作詞者のやさしさの溢れる願いの様に、茨城か湘南の海に行って、泳ぎたい気持ちです。台風接近の遊泳禁止の海で、泳ぐほどのバカ者でしたが、憐れみ深い神さまは、送ってくださった波で、サーッと浜に運ばれて、命拾いをしました。海好きの私は、海の驚くほどの猛威を知っているのですから、恐怖と救いの二面を経験したので、最近はなかなか海に近づけません。

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 この街では、子どもたちが多くいた時代、我々世代のお父さん、お母さんのお話を聞くと、高速道路がなかった時代でしたので、朝早くバスで出かけて、茨城の海に出かけたのだそうです。楽しく賑やかだった思い出話をしてくれました。

 大洗の海水浴場へ行ったのでしょうか。元気で、自治会の子供会の夏の行事が、盛んに行われていた時代です。目を細めて、子どもたちのことを思い出して、語っている目が、懐かしさに溢れていました。そう言えば、わが家でも、わざわざ、北茨城の海に出かけたことがありました。海水浴場で聞いた、茨城弁が懐かしく思い出されてきます。

 イカの姿焼きやかき氷が美味しかったのですが、もうずいぶん食べていません。鯛焼きだけは、東武百貨店の支店があって、そこで売っていて、時々食べるのです。父二代目のあんこ党なのです。「およげ!たいやきくん」は、あの焼かれたたい焼きを、海で泳がせたくて作詞されたのだと言います。大海原を自由に泳いでいるご自分も重ねていたのでしょうか。

(“いらすとや”の鯛焼き、海水浴のイラストです)

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やっと秋の気配がしてきた様です

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 夜になって、わずかに窓から入ってくる空気の流れが、何日も何日も熱風を感じていたのに、この数日、涼しさを感じさせてくれる様になってきています。虫の音も聞こえ、秋が感じられるのです。

 巴波の川の流れに川底が見えていて、水草が川ではないかの様に茂ってしまっています。雨が降らないので、湧き水を集めて流れる巴波川が心配です。それでも鯉が水草の間で、ときどき水を動かす音もさせていますが、水量が足りそうにありません。

 ちょうど良いほどに雨が降り、水かさを保ってきたのには、自然界を調整している、創造者なる神さまの介入があってのことと、驚かされてきましたが、その介入に手が止んでしまったのか、大雨になったり、大風になったり、日照りも容赦なく照りつける様になってきています。

 自然界を支配されている、創造者の手が、何かこまねいている様に感じていますが、自然界を壊してきたのは、人であって、飽くことのない人の欲が、自然秩序を破壊した結果に違いありません。
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 程よく保たれてきた均衡が崩れてきたのは、人によるのを痛切に感じてなりません。人の倫理観や道徳心が低くなって、神を神として崇めない時代になっているのでしょう。人が超えてはならない様に、創造者が定められた限界点を超えてしまったからなのでしょう。

 そんなことを思っていた昨夕、強い雨音がして、けっこうの量の雨が降ってくれました。灼熱の地を冷ましてくれる様な雨で、今朝を涼しく迎えることができました。トンボも飛んで居ますし、虫の音は強さを増して、空気が、ちょっと涼しくなってきたからです。何かホッとしている私です。

(巴波川の景色です)

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この人があっての人となり

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 最近とみに、この人の世は、騒々しいではありませんか。自己主張の強さが露わになって、押しつける様な、独断的な主張で満ちています。勝手気儘に、思っていることを表現できる時代になったのですが、規制なしの主張には、制限が必要ではないでしょうか。情報過多で、非専門が専門のふりをして、野放図に言う時代だからです。洪水の中で、オンボロ舟は難舟しそうです。

 初めての職場に出入りされていた方が、自己主張を教えてくれたのです。この方は、旧M財閥の番頭さんだったそうです。大手の物産会社の商取引を、トップでなさっていた方で、父よりも一回りほど年嵩が多かったのです。その職を辞して、小さな印刷会社でお手伝いをしておいででした。仕事人間だったのでしょう、家におさまらず、老後を原稿取りなどをしていたのです。自分の勤めていた所に、その原稿を取りに来ていた方でした。

 事務局の総務に配属された自分と、直接話をしたり、一緒について歩いたりもしたのです。食事もご馳走になったことがありました。『 出世したかったら、喋るんです。なんでもいいから率先して喋ると、道が開かれていきます。出世もできるのです!』 、これが、この方の生きる哲学だったので、出会った私に伝授してくれたのです。

 出世したい願いの薄かった私には、同級生や同期就職の人たちとの競争のスタート・ラインには着きませんでした。でも、その方が教えてくださった「実践」は確かなものがありました。その方と出会った職場を辞して、教師になり、説教者になって喋り続けて生きてきたからです。

 40年近くも、喋り続けて来たのですが、出世とは程遠い所にたどり着き、もう存在も影も忘れられてしまいました。でも今日は、ご教示いただいたのとは真反対の「沈黙の哲学」という考え方、生き方を学んだのです。

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 それは、高貴な方に長年、仕えてこられた方の生き方からの学びでした。お父さん、息子さんと長く仕えてこられ、息子さんのお嬢さんが、ある日、風邪をひかれたようで幼稚園を休んで、引きこもって、読書やお絵かきをしていたそうです。

 時間を持て余しているお嬢さんに、この方は、庭に咲いている花、タンポポとスミレ、そしてネモフィラを摘んで、ティッシュペーパーに包んで、外に出られずにいるお嬢さんに、「春」を運んできて手渡されたのだそうです。『わあきれい、ありがとう!』と感謝したのです。この方は、幼いお嬢さんが安心できる存在だったのです。

 大分の時が経って、その方が退職されるために開かれた集まりに、すでに大きくなられたお嬢さんは、一通の手紙を書いて、そっと、この方に手渡されて、その退職祝い会の部屋から出ていかれたそうです。その手紙には、次の様な感謝の言葉が綴られていました。

 『長年、私たち家族を支えて来てくださったことを、決して忘れません。』、『私が外で遊べなかった日、そっと花束を手渡してくださいました。自分のために何かをしてくださる方がいると初めて、その時知りました。』、それは、この方の思いやりへの感謝でした。『あの時のお花の匂いは、今でも覚えています。あの花束が一番嬉しかったのです!』、家には、たくさん部屋はある中で、自分が戻っていられる空間が、この部屋、この方との交わりだったのだとも述懐しています。

 『Kさんのように、だったかを静かに支えられる人でありたいと思っています。目立たないで、人の前に出ず、ただそっと苦しみや不安の中にいる人を受け止められる人でありたいのです!』と、大人になって、そんなことも綴ったのです。

 この手紙に、そのご家族に仕えたKさんは、「自分の仕事が、誰かの心に残っていた、それがだけで十分すぎるほどです。』、これこそが、「沈黙の哲学」なのです。言葉で示すことでも、行動でもなく、背中で示す生き方、仕える姿勢です。

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 この取り上げた娘さん、お嬢さんは、「愛子さん」です。Kさんは、東宮御所で、長年にわたって、愛子さまの外出時の道を整えたり、雨模様の朝には傘の用意、何気ない姿勢で、愛子さんに雑務で仕えた方でした。御所の環境維持、警備補助、日常業務で、その仕事ぶりは、表に立たない、何気ない配慮に満ちた仕事ぶりだったそうです。

 愛子さんが育ったのは、理想的な環境かと思いきや、難しい環境で成長なさり、小学校でも中学校でも、同級生によるいじめや、教師陣の不理解、お母様への陰湿ないじめを、肌で感じながらも、それを超えて、立派に成長して、穏やかな人となりを持たれていて、素敵で、好感を呼ぶ人柄をお持ちなのです。日常は、日赤に就職し、公務にもあたられておいでなのには、驚かされます。人々に愛され、敬われておいでで、ここにも一人、愛子応援団がいるのです。

 愛子さまの成長の陰には、一職員に徹しておられて、心底から仕えたKさんの生き方、在り方があって、その無言の感化があって、今の愛子さんがおいでなのでしょう。愛子さんには、お会いしたことはないのですが、何か、もうひとりの孫の様に思えてなりません。

(ウイキペディアの「ネモフィラ」、「スミレ」、「たんぽぽ」です)