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2001年9月11日の午後9時50分ほどでした(東海岸時間午前8時46分、9時3分にあったテロ事件)。当時、川のほとりの一廓にあったアパートをお借りして住んでいたのです。その二階の階段の近くの部屋のテーブルの椅子に座っていた私に、『大変、テレビをつけて観て!』と、子どもから電話が入ったのです。
それで、テレビを観ますと、ニューヨークのワールド・トレイド・センターの北棟ビルから、炎と煙が立ち上っている画面が映し出されていたのです。それは衝撃的な現実の映像でした。ジェット旅客機が突っ込んでいたのです。しばらくすると南棟にも、同じように旅客機が突っ込んだのです。
まるで映画の撮影現場のセットを眺めているようだったのですが、それは現実だったのです。度肝を抜かれるとは、このことなのでしょうか、大変なことが起こってしまったのです。その日には、ワシントンのペンタゴン(国防省のビル)にも、同じように突入し、またピッツバーグの森に、もう一機が墜落したのです。
後になって、「同時多発事故」と言う、アルカイダのテロ攻撃だったことが判明し、夥しい数の死傷者が出た大惨事でした。こういったテロを、即時的に地球の反対側で、映像で見られると言うことが、自分たちの国にだって起こりうると言う思いに襲われたのです。
ナショナル・ジオグラフィックが、「アメリカを襲ったあの日の出来事」を制作し、今日、その映像を、YouTube で観たのです。22年前前の大事故の記録ですが、薄れた記憶を書き直されたようです。生存者の回顧という形の番組で、20年の歳月を経た今でも、あの時期よりも、あっと驚かされるような事件が起こりかねないのだとの思いを新たにされたのです。
80年ほど前に、真珠湾が奇襲された時も、ハワイ島のホノルル市民には、まさかの出来事だったのではないでしょうか。ハワイにいた上の息子を訪ねた時に、オアフ島のホノルルの北にあるカネオヘから、山間部を通るフリーウエーの山道を通っていましたら、息子が、『お父さん、日本軍は、この山間地から真珠湾に侵入して、爆撃してるんです!』と教えてくれました。
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中野の教会で、戦後、クリスチャンとなった淵田美津雄攻撃隊長が率いた順路、あの爆撃機で飛んだ高地を、車で走っていましたので、何か錯覚するような不思議な思いがあったのです。台湾、沖縄、鹿児島や長崎が、いえ東京や大阪でさえも、一瞬のうちにミサイルを撃ち込まれないとは限らない、今の時代です。そんな危うい時代に生きているのを再認識した次第です。
さして重要都市ではない、かつての商都のわが街ですが、ニューヨーク、いえアメリカ全土、いえ世界の貿易の繁栄のようなシンボルだったビルが、あんな形で2〜3時間の間に、粉微塵に崩壊してしまう現実は、どこにでも起こりうることなのでしょう。そんなことを思いながら、恐れずに、今に忠実に生きることを決心させられているのです。
あのような中を生き延びたみなさんのお話を聞いて、紙一重で生と死が分かれる現実に、生かされている人たちの言葉に、大混乱の中を死して任務を雄々しく全うされた方々、生きるように励まし、助けてくれた人たちへの感謝が、惨劇の中での救いなのでしょうか。
あの事件の後、家族のもとに帰りえた人、それが叶えられなかった人、重い肉体的、精神的な障碍を負われて、この20年を生きてきているみなさんのことを考えながら、生きることの、いえ生かされていることの《重さ》を、もう一たび、ひしと感じた、主の日の午後でした。
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