アンテナを張って見守れ

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 私たちには、「表現の自由」、「言論の自由」、「知る権利」、「信教の自由」などが、憲法で保証されていますが、その自由が、悪用されて、ある時は、人を惑わし、恐怖させる犯罪が起こり得ます。

 『すべて人は、意見及び表明の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。(世界人権宣言 19条)』

 『1. 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。2.検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。(日本国憲法21条)』

 「自由」の履き違い、勝手な解釈、自己都合による解釈、言い逃れのため、偽情報の流布などが、多くみられます。信教の自由という名で、強引な伝道をし、人を恐れさせ、入信を強要し、信仰のためと言って、あくどい迫りをし、〈何でもありき〉になって、大きな社会問題になっています。様々な名目での献金の強要、信じられないほど高額な宗教用具を、人の弱みに漬け込んだ販売、集会への強制参加、そんな大きな社会問題を生んでいます。そればかりではなく、「脅し」もあります。人の恐怖心を煽ることによって、社会不安を増幅させているのです。

 例えば、「キリストの再臨」についてですが、預言者の様に、その日を特定しています。何を言うのも自由ですが、聞く人によっては、大きな精神的な問題をきたしてしまうのです。いくつかの例取上げてみましょう。

 [エホバの証人のラッセル]

 ラッセルは 1.地獄はない 2.永遠の刑罰はない 3.イエスは神ではないという説を立てました。1870年初め、彼が19歳のころ、ピッツバーグ市で聖書研究会を発足させ、1881年にそれを「シオンのものみの塔冊子協会」と名づけ、エホバの証人の土台を作りました。ラッセルは、キリスト教の教理の多くを否定するとともに、いくつかの予言をしました。1914年にハルマゲドンの戦争(世界最終の戦争)が始まり、1915年までに世界は終わると予言しました。詳細には、その終わりの時までに十四万四千人の「エホバの証人」が集められ、この世の政府や一般のキリスト教会は減ぼされ、「エホバの証人」が世界を統一するという予言です。彼は64歳で心臓発作を起こし死亡しました。予言は当たりませんでした。

 [セブンスデーアドベンチィスト]

 終末の年代予言には考えるべき点が幾つかあります。一つには、少なからぬ人々が不安にかられたり、熱狂的になってしまったりすることです。1975年の時にも、学校や職場を退職して伝道に打ち込む信者もいたとのことですが、ウィリアム・ミラー牧師(元バプテスト派)が特定した主の日の様子に関しては、以下のように記録されています。

 「ミラーはキリストの再臨を1843年3月21日―1844年3月21日の間と特定し、再臨待望集会は100以上の場所で開かれ、熱狂的な雰囲気であった。運動は拡大の一途を辿り、一時参加者の数は6万人に達したと言われている。また一方でその特定は多くの人々を恐怖におとしいれ、財産を売るものもでてきた。・・・ある者は仕事を放棄し、屋根や山の上に登って天を仰いだ。しかし、その日も何の変化もなく、彼らの失望は非常に大きかった。・・・世間的現実に引き戻そうとする強制から精神不安定となり、精神障害者施設に収容された患者は、ボストン近郊だけでも170人以上もいたと報告されている」(ウィキペディア「セブンズデー・アドベンチスト教会」より)

 『では、ものみの塔の初代会長、C・T・ラッセルが予言した1914年には何が起きたのでしょうか。歴史に詳しい方ならピンとくるかもしれませんが、この年には第一次世界大戦が起こりました。これを見て、本当に予言通りだと思われた方々もいたようです。しかし、信徒たちが天に上げられる(携挙)ということは起こりませんでしたので、1843年のミラー牧師の時と同様に、失望した信者たちは組織から離れていきました。

 とはいえ、全員が去ったわけではありません。残った人々の中で、2代目の会長となったJ・F・ラザフォードが組織を再建していきました。彼は、「1914年以来、キリストが天での統治を開始し『終わりの日』が始まった」というように予言を再解釈し、基本的には現代に至るまでこの解釈を採っているようです。』

 [ハロルド・キャンピング/ロイター] 

 米国でラジオ放送局を運営するキリスト教徒の男性が、2011年5月21日を「最後の審判の日」と予言し、話題となっている。予言では21日に地震が発生し、信仰心の厚い人は天国に召されるが、そうでない人は取り残され、数カ月にわたって続く世界の破滅に巻き込まれるという。

 予言をしたのは「ファミリー・ステーション」のハロルド・キャンピング(89)。同氏は1994年にイエス・キリストの再臨を予言したことがあるが、今回の予言について、「いかなる疑いの影もなく成就する」と自信をのぞかせた。

 ファミリー・ステーションは全米に66局を配し、提携先を通じ30カ国語以上で世界各地に向け放送を行っている。

 キャンピング氏の支持者は、全米約2200カ所に最後の審判の日について屋外広告を掲示したほか、数十人が各地で予言を広めている。

 土木技師でもあるキャンピングは、聖書の解釈やノアの大洪水などの古代の歴史を基に予言を行っている。21日はカリフォルニア州北部アラメダで妻と一緒に様子を見守る予定とし、「おそらくテレビかラジオなどのそばにいるだろう。(最後の審判の日に)世界の裏側で何が起きているのか興味がある」と述べた。

 キリスト教には世界の終わりにキリストが再臨し、人間は審判を受けるとの考えがあるが、世界の終末の日を特定する予言は異端で、多数派とは一線を画している。

  [新宿シャローム教会の富田慎悟]

 『(中略)つまり、この2014年と2015年は聖書の歴史において非常に重要な「時」となります。天文学的な驚くべき確率で全ての事がこの時に一致して起こるのです。多くの人々が、終末の「時」に関して言うと、「危険だ。おかしい。異端だ。」と警戒し、教会はその事を語るのを恐れます。なぜなら今まで、様々な偽りの指導者によって「この日が再臨の時だ」という惑わしが多く蔓延したからです。

 また教会だけでは無く、一般においてもノストラダムの予言や2000年問題、2012年のマヤ予言などが話題となり、実際にその時になっても「何も起こらなかったじゃないか。」と人々の心を終末に対して鈍らせて来ました。

 しかし、今までの予言と言われるものは、全て何の聖書的根拠も無いものです。しかし、この2014~2015年は、御言葉の預言と、聖書のカレンダーに基づく「時」です。創世記を読むと太陽と月が創られた目的が「しるしのため、季節のため、日のため、年のため」と記されていて、その第一の目的は「しるしのため」です。

 さらにヨエル書2章、使徒の働き2章には「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」と記されています。月食は月が血のように赤くなり、日食は太陽が暗くなます。明らかな天のしるしです。

 しかし、その前に!幼子から老人に至るまで、今までの歴史の中で最も激しい聖霊の注ぎがもたらされ、「主の名を呼ぶ者はみな救われる。」のです。これから非常に短期間の間に、人知を遥かに超えた勢いで、爆発的な魂の大収穫が全世界でなされ、そして主イエスが花嫁を迎えに来られます。

 私はこの事を思います。「終末の事を知っている。」のが花嫁ではなく、絶えず聖霊に満たされ、御言葉に従って忠実に歩み、聖さを喜びとし、日々祈り、主イエスとの親密さの中を生きる者。そして、麗しさと同時に手には主の剣を握り、勇敢に主の戦いを闘い抜き、主にある愛とあわれみを身に帯びて魂の大収穫をしていく。それがキリストの花嫁としての歩みです。

 ダビデの幕屋はその「麗しい愛と戦い、種蒔きと収穫」の両方を同時に成し遂げる為の重要な拠点であり、現在日本中、世界中で急速な勢いで絶え間ない祈りと礼拝を捧げる祈りの家、ダビデの幕屋が回復しているのは明確な終わりの時代の「しるし」と言えます。

 私達は、驚くべき時代、大いなる時に生かされています。今は、目を覚まし祈り、主に従い、主との時間を人生の第一優先とし、花婿なる主イエスと強く愛で結びついて生きなければいけない時です。これから始まろうとしている偉大な主の計画に胸を高鳴らせ。キリストの花嫁よ。目を覚ませ!』

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 何を言うのも、権利として保障されていますが、言った人は、平然と口を拭うのですが、聞く人は、惑わされ怯え続けるのです。だから、言ったことを聞き分けることが必要です。聖書を読みますと、「キリストの再臨の日」、「空中携挙の日」、「世の終わり」、「最後の審判」は述べられてあります。でも、これらのことは《隠されている》のです。でも無理にその戸をこじ開けて、決定的な、断定的なことを言う人を警戒すべきです。

 何も起こらないと、計算を間違えたとか、その他の理由をつけて言い逃れをし、訂正をし、それを繰り返すのが常套手段です。テサロニケの教会の中にも、その様な問題があり、パウロが警告しています。

 『霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。(2テサロニケ22節)』

 日常の生活を乱し、すべき義務を果たさなくなったりして混乱が、この教会にあった様です。聖書を読んで、真理を蓄えているなら、おかしな言動を見破ることができるのです。《聞くべき情報》と〈耳や眼を塞ぐ情報〉があります。アンテナを張って、『アッ、これは怪しい、おかしい!』と見破るのです。

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[人]新渡戸稲造と李登輝

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 《39歳の時》に、主イエスさまの教会を牧する責任を負って、4人の子に養育を、家内と二人でしていたでしょうか。〈不惑〉の年齢になる前年でしたが、その責任の重さを感じながら、精一杯励んでいたのです。

 新渡戸稲造が同じ《39歳の時》に、台湾総督府の民生長官だった後藤新平の招聘を受けて、台湾に渡って、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長の重責を負っています。アメリカにいた時の要請でしたが、後藤の招きに、新渡戸は病弱でしたが、即座に応えたのです。赴任早々から、台湾全島を歩いて、この島で、何を植えて育てるべきか、農業の道を探します。それで思いついたのが、「サトウキビ」の栽培の近代化で、精糖業の整備だったのです。

 清朝時代から、台湾では精糖業が行われていたのですが、それを改善し、産業として確立するための術を模索していくのです。それで、パリで行われた万国博に出席した帰りに、ジャワ島に立ち寄って、そこで行われている精糖業の全てを視察します。そして、「糖業改良意見書」を後藤長官に提出するのです。

 その意見書を見て、後藤は新渡戸を糖業局長にします。京都大学に招かれて、植民政策の講座を担当するまで、3年間、その職に心血を注いで、台湾糖業の近代化の基礎づくりに腕を振るうのです。

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 この新渡戸稲造に、心服した人物がいました。台湾の第三代の総督に就任していく、李登輝です。台北高等学校を終えて、尊敬する新渡戸が、かつて教授職にあった、京都大学農学部に入学して、新渡戸が専攻し、講義した「農業経済学」を学んでいます。李登輝、19歳でした。〈22歳まで日本人〉であったと、この人は言っています。時代の子でしょうか、日本で教育を受け、アメリカに留学し、1961年に、クリスチャンとなり、その後、政治の道に進んでいきます。

 台湾で12年間、難しい時代の台湾の総統の責務を果たして、2020年に、97歳で帰天しています。その李登輝が、最も強く影響を受けたのが、農業経済学の教師であり、クリスチャンであった新渡戸稲造だったわけです。

 台湾には、上の兄と一緒に、台北から高雄まで、2週間ほど、教会巡りをしました。お招きくださった教会で、説教をさせていただきました。その代わり、説教後のおもてなしで、5kgも体重増になってしまったのです。確りした信仰を持たれる政治指導者の国は、落ち着いていて、豊かでした。新渡戸や、嘉義農林学校で野球部を指導した近藤兵太郎、台南に農業用水にダムを建設した八田與一など、台湾の農業や学校スポーツに寄与した人物が、何人もいます。

 その日本人への評価の高い国で、新渡戸やその他のみなさんのおかげでしょうか、歓迎され、熱く迎えてくださり、奉仕をさせていただいたのです。今、日台の関係が保たれていくように願うのです。大陸の華南の街にいた時に、ビサの関係で、3か月ごとに、厦門(アモイ)から金門島まで通いました。街の雰囲気が、大陸の街とはガラッと変わっているのに驚かされました。

 華南の街のある会社で、聖書研究会をしていた時、通訳をして下さった姉妹が、今は、台北に戻られておいでです。台湾に、主の祝福を心から祈っています。

(さとうきび畑、台湾のフリー・イラストです)

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[街]ブエノスアイレス

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 初めての南米、アルゼンチンの「ブエノスアイレス(Buenos Aires)」の飛行場に降り立った時に、『40年前に、もしこの街に出かけて来て生活をしていたら、どんな生活をしていただろうか?』との思いでいっぱいにされたことがありました。初めての訪問で、珍しさで興味いっぱいなことは、常にあるのですが、このブエノスアイレスの街への訪問は違っていたのです。

 それは初めての訪問地なのに、《懐かしい感情》があったのです。十七の私は、気が多かったのか、放浪癖の思いがあったのか、南半球の街に行ってみたい思いが、強烈にあったのです。南十字星の神秘的な輝きを見上げてみたかったり、ヨーロッパ人が入植して造った国の街に行ってみたかったのです。

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 イタリヤやスペインからの移民が、大西洋を航海して着いたのが、「ボカ(Barrio la Boca)」という港町でした。移民した人たちは、故郷の国を感じたくなると、この港にやって来て、来た方に、いつまでも目を向けていたそうです。帰る術のない人たちが、船が着岸した箇所で、故郷を偲んだわけです。その一廓に、カミニート(Caminito小道の意)があって、そこで音楽が奏でられ、踊りがなされて、アルゼンチンタンゴが誕生したと聞きました。

 ちょうど横浜や神戸や函館のような港町なのでしょうか。曽祖父以来、海と関わって来た父の出だからでしょうか、海への郷愁が、私の内にはあるのかも知れません。潮騒が、無性に聴きたくなって、車を飛ばして海に出かけたことが、若い日にあったりでした。岸に打ち寄せる波が、砂浜で砕け散る潮の音が、子守唄のようだったのでしょう。

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 官能的な響きの中には、故郷回帰の思いが駆り立てられたに違いありません。でも、街中のレストランに入ると、ウエイターの接客術が実に素晴らしかったのです。誇りを持った professional な意識で仕事をされるみなさんを見て、テーブルに運ばれて来た料理が、さらに美味しかったのです。

 首都の、街を出ると延々たる〈パンパ〉と呼ばれる大草原が広がっていたのです。その写真を見てから、その地の上に立ってみたかったのです。さらにその草原を越えて、アンデス山脈の麓にあるメンドウサという街があって、それも気になっていたのです。メンドウサには行けなかったのですが、自分が生まれた故郷が、葡萄の産地で、葡萄酒の産地でしたから、そこに似た街にも行ってみたかったのでしょう。

 街の道を行く男性たちは、しっかりと背広を着ておいででした。しかし、経済的に難しい状況下で、着ていたのは着古した物だったのです。それでも背筋をピーンと伸ばして、彼らは紳士でした。

 アルゼンチンの人たちは、日本のことを知っていて、『狭い日本に、アルゼンチン人が住み、広大なアルゼンチンに日本人が交代して住んだらいいのではないか!』と言うほどでした。日本人の移民に歴史もあり、移民初期のみなさんは、その白人優先社会で、なかなか苦労をされたそうで、クリーニングや花屋をされながら生計を立てて、移民二世を育てられたのです。

(ブエノスアイレスのカミニート、初夏の街中に咲く「ジャカランダ」の花です)

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都江堰と信玄堤

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 中国に初めて行ったのが、四川省の省都の「成都」でした。東京の工業系の大学に留学されて、卒業後、大手の企業に就職された方が、友人の教会においででした。その方のご両親が、成都の近郊においでで、お会いするために、家内と一緒に出かけたのです。私たちの訪問に合わせて、この方が休暇をとられて帰省され、成都の大きな旅館で、食事に招かれて、ご両親とお交わりをしたのです。

 その時、パンダ(熊猫Xiongmao)の繁殖研究基地が、郊外の山岳地にあって、旅行業者の方に案内してもらいました。そこには檻が幾つもあり、日本人が里親になっていて、日本名の名札が下がっていて、驚きました。『生まればかりのパンダを抱いてみませんか!』と言われて、防疫のレインコートのようなものを着せられて、抱いたのです。

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 そこに行く途中に、岷江(みんこうminjiang)と言う街を訪ねました。そこには、四川盆地を流れる大河があって、「都江堰とこうえんDūjiāngyàn)」にも案内してくださったのです.ここは、洪水が多かったのを、治水のため、農業用に水を得るための灌漑用の「堰」を作ってありました。

 紀元前3世紀頃に、蜀の国の郡守であった李冰という人が、15年ほどの難工事の末に、完成させています。

 『都江堰水利施設は上流からの順で魚嘴”(分水堰堤)飛砂堰”(洪水調節及び砂礫排出水路)宝瓶口”(離堆取水口)の三大部 分から構成される.都江堰の魚嘴分水堰堤を指す.上流から流れてきた岷江の本流は,魚嘴分水堤により長江に流れ 込む外江と成都平原を潤す内江に分流される.分水堤は地形を巧みに利用して水量を調節するだけではなく,土砂をなるべく内江 に流れ込ませないような働きもある.いったん内江に入って余った水が再度岷江に排出されるよう,なお更に曲がりこむ水流を利用 し,内江に洪水の原因となる砂礫が滞積しないように飛砂堰が設計されている.“魚嘴及び飛砂堰の機能により,岷江の水は 増水期には 4 割,渇水期には 6 割が安定して成都平野の灌漑水路に給水されるようになっている.都江堰着工後,冬の渇水期に修 ,お 2000 2000k m 2 . 近年には貯 し,現 7000k m 2 とな って (雷 林記)』

 実に見事な堰です。この街に入った時に、この李冰の大きな像があって、その功績を讃えていました。吊り橋のような架橋を渡って、その「角嘴」を見て、あんなに小さな部分が、激流を収めることに驚かされたのです。

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 この建設事業を、文献で知った、戦国時代に甲州を収め、天下取りを目指していた武田信玄が、暴れ川の御勅使川(みだいがわ)が、釜無川と合流する地点に、「堤」を建設しています。難儀していた甲府盆地の釜無川沿岸の農民のために、大工事を遂げていたのです。昔の治世者は、民百姓のために知力も人力も財力も、そして心も注いで、治めているのです。今でも、甲府盆地のみなさんは、「信玄さん」と呼んでいます。

 あれから数年して、私たちは、四川省の成都ではなく、天津に導かれたのです。そして一年後には、華南の街に参りました。その街の大学で、成都出身の学生が、授業中に、私がハーモニカを吹いて、日本の歌を紹介したのを、大変気に入って、『ハーモニカを教えてください!』と言われて、授業の後に、キャンパスの隅で、一緒に吹いたのです。

 その彼が熊本大学をでて、長崎大学の大学院を修了して今は、大手の日本企業に勤めておいでです。クリスチャンになられて、教会生活もしておいでなのです。不思議な主の導きがあっての今の栃木なのです。

(成都の雨の日の街並み、都江堰、信玄堤です)

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疎開やパンのことなど

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 2019年の秋に、19号台風の襲来で、住んでいた家が床上浸水にあってしまいました。その家の管理をされていたご方の友人の教会が、宇都宮市の隣町にあって、そこに急遽連絡をとってくださって、3週間ほど、〈令和の疎開〉をさせていただいたのです。

 疎開と言うのは、戦時下に、空襲を避けるために、学齢期の児童を田舎に移動させた、〈学童疎開〉がありました。主に首都圏の東京から、近県の栃木、群馬、山梨、長野に、お寺などに集団疎開がありました。第一陣は、19448月に、板橋区の学童が、群馬県に疎開しています。その他には、親戚や知人を頼ってなされた〈縁故疎開〉があったようです。親元を離れた集団生活の話を、何人かの方から聞いたことがありました。

 避難でしょうか、疎開でしょうか、そこは、教会の二階のゲストルームでした。教会のみなさんが、秋の果物やお米などを差し入れしてくださって、実に親切で快適な時を過ごさせていただいたのです。避難生活というよりは、なにかホテル住まいをしたようでした。あのご好意が忘れられません。

 その近くに、御料牧場があるのだと、最近聞ききました。天皇ご一家が、ひさしぶりに、そこを訪ねられたそうです。美味しい野菜や果物や卵や肉が収穫されるのでしょう。

 そう言えば、お隣の国でも、中央の党の幹部のためには、特別栽培や飼育の農園や牧場があって、何千人もの人によって従事されていて、幹部の家族を養っていると聞きました。地方の省や市や村も、同じなのでしょう。ですから党員になる人が多いかと言うと、誰でもがなれるのではなく、推薦されるのだそうです。知人には、それに見向きもしないかたが多くいました。

 美味しい物や安全な物を食べても、病む人は病んでしまいますし、健康な人は健康なのです。一度くらいは、そんな食材ののった食卓についてみたいものです。舌が肥えていない自分には、その違いが分かりそうもありませんが。

 

 『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言171節)』

 いつ失脚するか分からないような社会で、地位を追われるかも知れないと、オドオドして美味しいものを食べるよりは、平和な内にオジヤやスイトンを食べていた方が、きっと幸せに違いありません。

 お殿様が美味しかった庶民の味、〈目黒の秋刀魚〉ではありませんが、長く過ごした華南の街から遠く離れた海浜の村で食べた、中華鍋で焼いた薄皮の麺に野菜や肉片の入った伝統食が美味しかったのです。日本円で30円くらいの村人の名物でした。あれを、父や母に食べさせたいと思ったものです。元気だったら満面笑みをたたえながら喜んでくれたことでしょう。

 母は、子どもの頃に、オジヤを散々食べたそうで、唯一嫌いな食事だったのを思い出します。もう一度母のかた焼きそば、父の約束不履行の駒形のドジョウ鍋を食べてみたい、春の今日この頃です。

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鬱金桜

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 南北に長い私たちの国で、その季節の動きを知らせてくれる楽しい兆は、「桜前線」ではないでしょうか。染井吉野の桜が、江戸の染井村からから全国に広がり、淡い花びら、散りゆく様子に魅せられて、津々浦々に植えられて、日本のどこででも観られます。日本人の大好きな桜に花です。

 この桜は、まもなく津軽海峡を越えそうです。松前あたりが一番早く咲き始めるのでしょうか。きっと五稜郭も、伊達市も札幌も、そして旭川、網走、稚内、北海道全域に咲き広がるのでしょう。南から一日一日と、前線が北上していく知らせが、自転車の運転速度よりも、わずかに遅く行くのでしょう。

 札幌の整形外科医院で手術後のリハビリ中に、札幌の中島公園で咲き始めたとのニュースを聞きました。病院の近くにも、桜の木があって、そこに花がつき始めていたのです。

 この桜ですが、何と八百種もあるのだそうです。それだけ、日本人は、桜の花に魅入られてしまっているのでしょうか。春の到来を感じさせられるからなのでしょうか.一般的に淡色で、パッと咲いて、パッと散っていく潔さを好むからなのかも知れません。

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 最近気になるのが、「鬱金桜(うこんざくら)」です。ソメイヨシノが咲き終わってから咲き始めるのだそうで、江戸以前から、旧荒川(今の隅田川を荒川と呼んでいたそうです)の堤に植えられていた桜で、「淡黄緑色(黄色や黄緑や緑色)」の花を咲かせ、「荒川の五色桜」と呼ばれたようです。〈枝変わり〉と言う成長点での突然変異によって生まれたのだそうです。

 私の生まれ故郷に咲くのが有名なのだそうで、そんなことは知りませんでした。そこには家もなく、知人もいませんので、訪ねることはありませんが、今頃咲くのでしょう。東京の谷中あたり、隅田川沿いの言問(こととい)あたりが名所なのだと言われています。行ってみたいな!

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尊大な羞恥心など

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 茨木のり子に、「汲むーY.Yにー」と言う詩があります。

大人になるというのは
すれっからしになるということだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女の人と会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました私はどきんとし
そして深く悟りました大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子どもの悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じぐらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです

 この詩は、少女の頃に、憧れの女優の山本安英を訪ねた時の経験から、茨木のり子が詠んだ詩なのです。何も分からないのに生意気で、背伸びをしていた自分に、山本安英が、『人を人とも思わなくなったとき堕落が始まるのね。』と語ってくれたようです。

 茨木のり子は、1926年生まれで、山本安英は、1902年の生まれで、24歳ほどの歳の差、親子の世代の違いがありました。山本安英が新築地劇団の団員だった頃でしょうか、訪ねた茨木のり子は、反抗したのではなく、『たかをくくるな、なめてかかるな、ということを教えてくださった気がします。』と後年、思い返して、茨木のり子は感謝を込めて振り返って詩作しています。

 叱ったり、諭したり、教えてくれる人を持つことは、有益なのです。そう語られたことを、しっかり受け止めたのです。自分の実態、事実を教えてくれる助言者がいて、茨木のり子は、自分の未熟さや幼稚さを知らされたわけです。

 若い日に恥をかくべきです。それ無しに成功してしまうと、大恥をかくことになるのです。秘められたり、感謝されてしまうと、人は尊大になったらおしまいです。「山月記(中島敦作)」に、次のようにあります。

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  秀才の李徴が平凡な役人の仕事に満足できず、詩で名声を得ようとしますが挫折し復職します。その時にはすでに友人が出世しており、李徴は〈臆病な自尊心〉と〈尊大な羞恥心〉のために人付き合いが出来なくなってしまい、絶望し、発狂してしまうのです。その苦しみや羞恥心のあまり、虎になってしまうのです。李徴は昔の友人と森の中で再会し、自分の運命を語ります。いたたまれなかったのでしょう二声三声ほえて、藪の中に走り込んで、二度と自分を現さなかったのです。

 この話は、中国の「人虎伝」が元になっていますが、自尊心は、どうにかして砕かれるべき必要がありそうです。夜遅くに訪ねて来ては、真夜中になって帰って行かれるご婦人がいました。家内は一日中、人を訪ねたり、教会の用をしたり、4人の子育てをしていました。訪ねてくる人は、独身で、ほぼ同年齢でした。ある時、宣教師夫妻が訪ねて来た交わりの中で、私が、皮肉を言ったのだそうです。

 日本語をよく理解できない宣教師さんが、『準、皮肉はいけない!』と言って叱ってくれたのです。〈事実〉を語るのはいいのですが、〈皮肉〉はダメだとの教訓でした。それ以降、私は注意して皮肉を語らなくなったのです。恥じて学んだからです。あの無意識の皮肉を聞き分けた、宣教師さんに驚くと共に、感謝したのです。人は恥じて、多くを学ぶのでしょうか。

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どう生きる

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 『自分の思い通りに生きたかどうかが大事。』、ある人が、ご自分の人生を、こう言って生き、立派な業績を残され、賞賛を受けられたのですが、病に倒れて亡くなりました。

 ところが聖書は、次のように記しています。

 『まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。(アモス54節)』

 『そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。 そのとき、イザヤに次のような主のことばがあった。 「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。 わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。(イザヤ3816節)』

 病気になったユダ王国のヒデキヤ王に、預言者のイザヤは、「病は治らずに、死ぬ!」と、主からのことば告げました。病気になった時に、ヒデキヤは自分の生涯を振り返って、大声で泣いて訴えたのです。時は、アッシリアの猛攻を受けて、国家的な困難な状況下にありました。憐れみ深い神さまは、彼の生涯に「十五年」を加えられたのです。それでも、彼は最終的には死んでしまいます。
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 人は、願わない「死」を避けることができないのです。みんな、『あのことも、このこともしたかった!』と思いながら志半ばで、その時を迎えねばなりません。彼の死を知らされた人は、『もっと生きて、もっと素敵な働きをして欲しかった!』と、その死を惜しむのですが、人の願いの届かないところに、人の一生があるのでしょうか。

 どうも人は、〈思い通り〉に生きて、〈何をしたか〉によって測られるのでしょうか。業績主義のこの社会の中では、そうに違いありません。『あのダムは、お父さんが作ったんだよ!』も、『このスリッパはお父さんが作ったの!』とは、双方の子どもにとっては、自慢のお父さんの仕事によるので同じです。ところが履き古して一年でダメになるものと、半世紀以上も貯水と発電の働きをするものでは、貢献度が違うわけです。でも一事に全情熱をかけているなら、同じなのです。

 思い通りに生きた人が、翻って自分の来し方を振り返ってみるなら、果たして、思い通りであったかは確かではなさそうです。でも悔いのない一生を生きるとするなら、例えば、正しい動機で生きた一生は、素晴らしいに違いありません。パウロが、『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。(1コリント10章31節)』と、コリントの教会の信仰者たちに勧めたことばは、万金に値します。

 人が、自らを創造した神のいますことを認め、神の栄光のために生きるなら、それに優った一生は他にありません。そのような人に、『よくやった。良い忠実なしもべだ。』と、主人(神)に言われるなら、それこそが、最善な私たちの生き方に違いありません。そう、神さまの評価を得られる一生を生きたいものです。

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[街]駒ヶ根

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 次女の主人が、JETの英語教師として、長野県の南信の高等学校に勤めていたことがあります。このJETプログラムには、「外国語指導助手(ALTAssistant Language Teacher)」、「国際交流員(CIR)」、「スポーツ国際交流員(SEA)」の3つの職種があり、地域の外国語教育の普及と、国際化の推進で、それに励んで3年ほど、励んでいたでしょうか。

 阿南町、飯田市などの高校に勤務する彼らを訪ねるために、よく通過したのが、「駒ヶ根市」でした。彼らの最初の子は、飯田市立病院で生まれているのです。そんなわけで、車で中央自動車道を使って、時には伊北インターチェンジで下りて、国道153号線で、阿南町や飯田市に出掛けました。

 そこは南アルプスの西側の山岳部の間にある地で、りんご園やブドウ園や梨園などでの果物栽培が盛んなのです。かつては米作や蚕が行われていたのですが、転作でしょうか。主力は果物のようです。日本の農村は、かつては、どこも貧しかったようです。戦前、満州開拓の呼び声で、貧しい農家の方々が、それに応答したのです。とくに下條村の農民の多くが、そのために海を渡離、戦争末期、から戦後にかけては、大変な困難を経験したのです。

 高速道の伊北ICで下りて、県道19号線を走ると、箕輪や伊那に続いて、駒ヶ根市があるのです。その街に車でさしかかった時、突然、この街を、「終の住処(ついのすみか)」にしたいとの思いがやってきたのです。不思議な想いで、自分自身が驚いてしまいました。

 射していた陽の光、流れていた風、山肌の色、畑や田んぼの土の匂い、今までにかいだことも、感じたことものないものを、強烈に感じたからでした。それまで、そんな印象を受け取ったことがありませんでしたので、五感で感じるものだけではなく、深い心で中で、何かを感じたという経験だったのです。

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 今は、そんなに強い思いは無くなったのですが、実は、どこでも住み始めると、その地への愛着でしょうか、原風景への回帰なのでしょうか。または愛惜でしょうか、すぐに住んでみたくなるのは、何か麻疹のような、初恋の回想のようなものに似ているのかも知れません。

 ここは、木曽山脈と伊那山地との間の伊那谷の中央に位置し、諏訪湖から流れてくる天竜川の河岸段丘に位置しています。スズランが市花で、赤松が市木で、32万の人口を要す街です。この地域で、注目されているのが、「ソースカツ丼」なのです。カツライスの具の千切りキャベツを、丼の米飯の上にのせ、そこに揚げたトンカツを乗せ、特製の薄口ソースをかけるのです。煮たカツ丼しか食べたことのない私を驚かせました。市内には、三十数店舗の「ソースカツ丼店」があるのです。

 県北地域とも、南信の飯田、県南の諏訪地方とも違った趣の街です。なんか落ち着いて、老後を過ごせる感じがして、終の住処のと思い立ったのですが、私たちを導かれる神さまは、栃木に導かれたのです。空気も水も食べ物も、そして隣人たちも素敵な人が多いのです。もしもう一度越すことが許されるなら、駒ヶ根がいいなの、2023年のたけなわの春です。

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