『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。 (箴言22章6節)』
二十三歳の旧日本軍の青年将校が、奇跡的な復興を遂げた戦後の二十九年を、フィリピンの地で、戦争が終結しているのに、軍令に忠実に従って、軍務を続行したのです。この事実に、29才だった私は、それを聞いて、大変に驚いてしまったのです。
その将校が、小野田寛郎(ひろお)氏でした。その「諜報活動の任務」を遂行するということは、その遵守義務のある部下が守り抜かなければならなかったことだったのです。フィリピン警察に拘束されたのですが、投降しませんでした。しかし、上官の命令解除があれば任務を終えると言ったのです。その命令こそ、軍人にとっては絶対だったからです。
存命だった上官の谷口氏(元陸軍少佐)は、フィリピンに行き、直接、小野田氏に接見し、彼の上官として、任務から解く旨、小野田氏に告げると、それを承知して、フィリピン軍の司令官に投降して、彼の長い軍務を終えたのです。
考えさせられのは、軍の上官の命令で、二十二歳で、陸軍中野学校二俣分校を終えて、少尉に任官した青年が、フィリピンに派兵され、そこで軍命を守り通したことなのです。職業軍人にとっての軍、上官の命令は、〈絶対〉だったと言うことでしょうか。軍隊の学校での短期の養成で、一人の青年の思いと時間を、これほどに拘束し、軍命を遵守させ、それに小野田氏は従ったわけです。
一体、どんな教育が、その学校でなされていたのでしょうか。私の恩師の一人が、掛川駅から旧国鉄の浜名湖線の浜松の北の街で、宣教活動をしていました。その街の人たちは、駅を降りて、学校に歩いていく青年たちを怪しむことはなかったそうです。まさか遊撃戦(ゲリラ戦と言われます)の諜報や謀略などをする特殊な教育機関だとは思いもよりませんでした。社会人として、しっかり生きてきて、優秀な若者が選りすぐられていた学校だったそうです。
私の最初の職場に、この学校を卒業生された方がいました。戦時中の経験を買われて、調査部門の責任を負っておられました。眼光の鋭い方で、お酒を飲むと、グッと暗くなっておいでだったのが印象的だったのです。この方から、学校でのこと、戦時中のことなどを聞くことはありませんでしたが、投降時の小野田氏を撮った映像や写真と、雰囲気がとても似ておられたのです。
「教育」の力、影響力の大きさというものは、善悪や義不義や価値不価値を超えて、青年の心を縛ってしまうものなのでしょうか。古代のスパルタでなされた教育は、特別な教育だったのだそうです。生まれるとすぐに、健康に育つかどうかが点検され、軍人の適正が見分けられたそうです。不適正な子は穴や谷に投げ入れられ、そのまま放置されたのです。合格すると、7歳で軍務に服し、理不尽なことが行われ、それに耐えることが学ばされ、上下関係の厳しさを叩き込まれたようです。
人間としての尊厳など、ほとんど尊ばれなかった社会で、国に忠誠を果たす義務を負わされたのです。でも、そんな人間観によって、成り立ったこの国は、名だけを残して、歴史から消えて滅んでしまいました。国家に有用な人材を養成するのが目的でなされたからだったのです。
小野田氏が訓練を受けた、この陸軍中野学校二俣分校では、語学、武術、細菌学、薬物学、法医学、実習謀略、防諜、ゲリラ戦術、破壊戦術などが教えられていたそうです。そう言った特殊な軍人教育が、人の一生を、固定させ、選択肢のない生き方に連れていったとすれば、それは怖いことではないでしょうか。自由意志や選択の自由を奪って、命令が人の一生を縛ったとするならば大きな問題です。しかし教育の効果という面で、これを思いますと、旧軍の教育が、どれほど徹底していたかに驚いてしまうのです。
「軍人勅諭(1882年、明治15年1月4日、明治天皇の御名で発した本分)」がありました。天皇の統率する軍隊(軍人)に、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五項目を求めたものです。その後、「生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けず」という項目で有名な、「戦陣訓(1941年、昭和16年発令)」がありました。陸軍大臣東条英機が全陸軍に発した戦場での心得です。これも軍人の小野田を縛っていたものの一つです。
戦前、日本人は、『命を惜しむな!』と教えられ、死を恐れないで生きたのです。そんな時代を生き、ジャングルで任務を全うしようと生きた小野田氏は、次の様に言っています。『戦後、日本人は、何かを「命がけ」でやることを否定してしまった。 覚悟しないで生きられる時代は、いい時代である。だが、死を意識しないことで、日本人は「生きる」ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。』
人生の大切な時期を、30年に及ぶジャングルで、3人の部下と共に、軍命を全うして過ごしたのですが、帰還後、さまざまなことがあって、小野田氏は、お兄さんのいるブラジルに行かれ、牧場経営に当たっておられました。そこから日本に帰国され、2014年に、波乱に満ちた91年の生涯を終えて亡くなられています。この小野田氏の死去に際して、ニューヨークタイムズは、『戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した。』と述べています。
この方の生涯を思う時、一時期に、しかも短期でなされた「教育」の力の感化力の強さです。特定の思想教育が、よい分野で結果を残すのは素晴らしいことですが、例えば〈独裁者〉を生み出し、人権を踏み躙るようになるなら、大変な結果をもたらします。人命軽視を生み出すからです。ある指導者が、『4億の国民のうち、1億人の犠牲があっても、3億人が残るから、いいじゃあないか!』と言ったのですが、そう言った指導者を作った社会、その失敗の反省に立たない後継者の暗躍は、やがて国を滅ぼします。
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『父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。 (エペソ6章4節)』
素晴らしい教育者がいて、教育法があります。でも、「主の教育と訓戒」によって育てられた子たちは、強固な国家を建て上げていくことができるのです。リンカーンは、信仰者の義母サラによって、10歳から育てられ、聖書を教えられる養母と共に子ども時代を過ごしたそうです。喜びやさしいい女性でした。そこには、リンカーンを立派な人に育て上げた、素晴らしい家庭教育があったのです。
もう一言、小野田氏が六歳の頃、級友に短刀で切り付けられます。その仕返しに友人の短刀を取って仕返しをし、傷付けてしまった時、お母さんは、『腹を切って死ね!』と言ったそうです。軍国の母だったのでしょうか、自分の母親やリンカーンの養母を思うと、小野田氏には、そんな幼い日に、そのように迫ったお母さんとの間に、そんな出来事があったのを知って、複雑な思いがしてしまったのです。
(「若葉」、「戦陣訓」の一節、リンカーンの育った家です)
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