紫陽花

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栃木市の市花は、「紫陽花(あじさい)」です。紫、白、ピンクなど色鮮やかな「紫陽花」が、学校や公園など市内のいたるところで見ることができます。一つ一つの小さな花が集まって、大きく鮮やかな姿をみせる紫陽花が、市民一人一人が力を合わせ、協働のまちづくりを進める本市のイメージにふさわしいとして、「市花」とされています。

(友人が撮影した「紫陽花」です)
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平和

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旧国鉄車両の制御部分の部品を取り扱う仕事を、戦後、父がしていました。また家の近くに、保線区があったり、日本通運の貨車からの荷の積み下ろしの作業場があった関係もあって、動く物、とくに電車や過密列車に、人一倍関心が、子どもの頃にありました。

東京オリンピックの開催に合わせて、その準備が東京を中心に行われていました。その一つが「東海道新幹線」だったのです。この新幹線の構想、開業準備、試運転、開業などについて、NHKの”プロジェクトX“に、DVDがあって、それを教材に、華南の大学の日本語科の授業で教えたことがありました。

この1964年10月に開業した新幹線、その構想は、敗戦の中から起死回生で、立ち上がるための国家的プロジェクトに繋がり、日本国有鉄道は、十河総裁と技師長の島秀雄の下、高速運転が可能な鉄道計画が決定します。1959年に、新丹那トンネル熱海口で起工式が行われて始まっています。
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この技術チームの中に、三木忠直がいました。かつて日本海軍の技術少佐で、終戦間際に「桜花」と言う特攻機を設計した人でした。多くの青年たちのいのちを犠牲にした、その罪責を強く感じていた三木は、戦後に生き残った元軍人として、学び実践した技術を、今度は《平和利用》に用いたいとの信念で、この新幹線に情熱を注いだのです。

三木はインタビューで、『とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんです!』と答えています。軍靴で踏みにじった中国大陸で、大学の教壇に立つ機会が与えられた私は、旧軍人の『もうこりごりだ!』との悔恨の思いが、新幹線を生んだ事実を、反日教育を受けてきた若い学生に伝えたかったのです。

この「桜花」の防弾ガラスは、父が、軍命で携わった軍需工場の責任者として掘り起こした、「石英」を原料としていました。奇しくも、三木と父とは同級の世代でした。父は、私が、中国の大学の教壇に立つことなど知ることなく召されましたが、父もまた悔恨の念を抱きながら、戦後を生きたのでしょう。

東京駅を発射する新幹線に、帝国ホテルのビュッフェがありました。そこに食材を運び込む作業をアルバイトでし、この開業後の新幹線ホームで〈逆立ち〉を最初にしたのは私でした。そんな私が、大陸の青年たちに、平和を希求する者の一人として、新幹線の由来を教えられたのは感謝なことでした。

(開業時の東海道新幹線の先頭車両、「桜花」を背後にした特攻隊員たちです)
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勿忘草

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文愛姐
おはようございます。
ここ栃木は、梅雨の真っ只中です。
昨日は降雨の天気予報でしたが、ひと時でしたが陽が出てくれました。西日本、とくに九州地方では大雨が続いているそうです。
そんな梅雨の中、今年の初めの八日間の隆子の入院生活を思い出しています。
2011年の11月に市立第二医院に入院した時も、今回の省立医院に入院した時も同じように、とくに姉妹たちが、交互に寝泊まりまでして、朝、昼、夜とお世話をしてくださったことは感謝に尽きません。
今回、小秀姐がまとめ役で、家内のお世話をしてくださったことに、感謝しております。格別な感謝を小秀姐にお伝えください。彼女は、優姐と一緒に遠路を、ここ栃木までお見舞いに来てくださり、家事を助けてくださったりでした。
お一人お一人に感謝すべきですが、今はできそうにありません。
文先生から、私たちの感謝を、改めて、愛兄姉にお伝え下さいますよう、お願いいたします。
また多くの兄弟姉妹からもお見舞金をいただき、今も倶楽部から月々の愛心を頂いていますことを、みなさんに感謝をお伝えください。
そのことで隆子も私も、どんなにみなさんに愛されているかを知って感涙しています。
その愛が、家内の厳粛な病態を変えているのだと思わされています。
もちろん上からの憐れみによりますが。過ぎました半年の家内の闘病は、危ぶまれた事態や時もありましたが、6ヶ月の余命を超えて、昨日も散歩に出て、野花を摘むほどに回復しております。とくに気持ちが落ち着いて静かにしております。家事も少しずつする様になっています。
まだ悪い病原部分が残っていますが、それと闘いつつ、今を過ごしています。
獨協医科大学病院の医療と主治医、スタッフのみなさんの懇切な治療も受けております。
ただただ感謝で、隆子も私もいっぱいです。
とくに倶楽部の責任をおとりの越夫妻、唐夫妻、陳夫妻、程夫妻に、感謝をお伝えください。
また、姉妹方お一人お一人に感謝をお伝えください。
文姐に、最高の感謝を申し上げます。
ありがとうございます。
私たちの目標は、癒えて、愛するみなさんの所に帰ることです。
ご迷惑にならないなら、そうしたい願いを持ち続けております。
私たちの思いとして、この「勿忘草」を掲げます。
感謝まで申し上げます。

準&百合

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追記
これは、家内の闘病の半年を支えてくださった1人のご婦人に、月初めに書き送った手紙です。少し書き換えてあります。大きな支えと激励をしてくださったことへの感謝の手紙です。

(これは「勿忘草(わすれなぐさ)」です)

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中国の華南の漁村を写した写真です。休みが欲しくなったら、この浜に出かけて、陽の出入りを眺めていたいと思っていました。街中にはホテルはあるのですが、海浜に泊まれる民宿があるでしょうか。漁師たちの量や養殖に勤(いそ)しむ姿も見ていたいものです。近くの内海には、養殖用の筏が多くあって、二階建ての小屋も、筏の上に作られて、生活もしている様です。そこではアワビなどの養殖が行われています。
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子どもの頃、作詞が林柳波、作曲が井上武士による日本の童謡・唱歌の「海」を、よく歌ったのです。

海は広いな 大きいな
月がのぼるし 日が沈む

海は大波 青い波
ゆれてどこまで続くやら

海にお舟を浮かばして
行ってみたいな よその国

この歌に、行ってみたいのは「よその国」の海ですが、そう言うよりは、この華南の海が、「ふるさとの海」の様に感じられ、そこに戻りたいと思っているのが不思議です。何年か前に、この写真撮影された浜辺の近くにあった、アワビの養殖場に、高速艇に乗せていただいて、見学に連れて行ってもらったことがありました。友人の養殖をしている筏でした。潮の香りがして、波に揺れる筏にのって、海の男の気分を味合いました。その時、家内も筏の上にのっていました。

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木鶏

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「木鶏(もくけい)」と言う、中国に故事があります。その解説が、“ ウイキペディア ”に次の様にあります。

「紀悄子という鶏を育てる名人が登場し、王からの下問に答える形式で最強の鶏について説明する。紀悄子に鶏を預けた王は、十日ほど経過した時点で仕上がり具合について下問する。すると紀悄子は、 『まだ空威張りして闘争心があるからいけません』 と答える。
更に十日ほど経過して再度王が下問すると 『まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます』と答える。
更に十日経過したが、 『目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません』 と答える。
さらに十日経過して王が下問すると 『もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません。まるで木鶏のように泰然自若としています。その徳の前に、かなう闘鶏はいないでしょう』 と答えた。
上記の故事で荘子は道に則した人物の隠喩(いんゆ)として木鶏を描いており、真人(道を体得した人物)は他者に惑わされること無く、鎮座しているだけで衆人の範となるとしている。」

昭和の名横綱に、「双葉山」がいました。無敵の第35代の横綱は、69連勝をして、向かうところ敵なしの勢いでした。1936年の一月場所の二日目に、横綱武蔵山から金星を勝ち取ると、1939年の一月場所の四日目まで、連勝が続いていました。ところが、五日目に、前頭四枚目の安芸乃島との対戦で黒星を喫して、七十連勝が達成できなかったのです。

その時、知人に双葉山は電報を打っています。その電文が、「ワレイマダモッケイタリエズ(我、未だ木鶏たりえず)」だったそうです。連勝できずに負けてしまって、中国の古代の故事で言われた 「木鶏」の様に、不動不敗の最強の大横綱になっていないことを告白したのでしょう。お相撲さんが、力ばかりではなく、こんなに博識であったと言うことに驚かされてしまいます。

今回、日本オリンピック委員会会長に選任された山下泰裕氏が、まだ現役選手であった若い頃に、お父さんに言われた言葉がありました。『柔道ばかりで、他のことが分からない者であってはいけない!』とです。その言葉を実践したのでしょう、母校の東海大学の教授になり、今回会長になったのです。

山下会長は、62歳で、「木鶏」となったのでしょうか。いえ謙遜な人ですから、まだ精進の道の途上にある自分を見つめていることでしょう。

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フランスのドキュメンタリー映画、「子どもが教えてくれたこと 」を観ました。2016年に、監督・脚本:アンヌ=ドフィーヌ・ジュリアンで、アンブル、カミーユ、イマド、シャルル、テゥデュアルの5人の子どもたちの出演でした。フランスでの反響が大きく、23万人に人々が感動されたのです。[映画.com ニュース]に次の様な解説があります。

『病気と闘いながらも今を懸命に生きる子どもたちを描き、フランスで23万人の動員を記録したドキュメンタリー「子どもが教えてくれたこと」が、7月14日公開する。アンヌ=ドフィーヌ・ジュリアン監督が来日し、撮影の過程や子どもたちとの交流を語った。

腎不全、動脈性肺高血圧症、神経芽腫、表皮水疱症など、それぞれが病気を抱えている5人の子どもたち。治療を続けながら、毎日を楽しく、精いっぱい生きる。子どもたちの姿を映し出す。

自分の置かれた状況を理解し、悲観しないで前向きに生きる子どもたちの言葉の一つ一つが深く、胸に響く。実子を亡くしたジュリアン監督の経験が製作のきっかけになったという。初監督作を最後まで撮りあげることができた原動力は、やはり子どもたちの存在だ。

「彼らに発言権を与えたいという思いが私の中に強くあったのです。どんな風に、彼ら一人ひとりが人生を見ているか、彼らのものの見方を彼らに話してもらいたかったのです。感動の場面の連続で、職業人としても、人間としても強い経験をし、途中で投げ出したいと思うようなことはありませんでした。映画の撮影が終わり、私たちと離れて彼らがそれまでの生活に戻ってしまうのが一番寂しくつらかったこととも言えますね」

撮影前に長い時間をかけ、医師や病気の子どもを支援する団体などをリサーチ。そこで、映画に出演する子どもたちの紹介を受けた。「告知されたばかりの子どもではなく、数年たって自分の病気を受け入れている子どもを紹介してくださいと頼みました。シャイな子もいましたが、おしゃべりな子を選びました。病気の子が普通の子どもよりしっかりしているかどうかわかりませんが、彼らは自分の状況をしっかり把握しているのです。隠し事、秘密がないからこそ、のびのびしているのかもしれません」

入院生活にカメラが潜入する。家族と医療従事者以外の大人であるクルーと、子どもたちのやり取りはスムーズにいったのだろうか。「病院に行ったのは私と撮影監督と録音技師のみの3人、少数精鋭の小さなチームです。子どもたちは好奇心いっぱいで、撮影されたいという思いが感じられました。時々、子どもたちのほうがカットをかけたり、カメラの裏に回ったり……彼らが映像機器と遊んでもらうような時間を設けて、撮影の状況に慣れてもらいました」

自身の子育て、そして今回の出会いを経て、子どもを通して学んだことは「まず、親や大人が心を開くこと」だという。「彼らは大事なことをとても自然な形で教えてくれるのです。哲学者のように考えたり、何かのコンセプトにたどり着くわけではなく、感じていることをそのまま口にしているのです。その言葉は、私自身が子ども時代に感じたことと共鳴します。未来を心配するのではなく、彼らのように今を生きればいいのではと思いました」

現在も5人の子どもの家族と交流を続けている。「日本でこの作品が公開されると報告して、ポスターの写真をメールで送りました。なかなか旅行ができない彼らの言葉が、こうやって世界中を旅すると考えるだけで、感動します」』

自分がお母さんの胎内にあった時から病気である自分を、ありのままに受け入れて、誰のせいにもしないで、生きている姿が、この5人に共通しているでしょうか。『病気でも幸せになれるんだよ!』、『この病気と言う扉を開けなければならない。でも、その死の扉よりも、もっと強いのは《愛》だ。』と、子どもたちが言っていました。親も病院のスタッフも教師も、親族家族が共に、今を肯定的に生きている様子が素晴らしかったのです。

必見に値するドキュメンタリー映画です。“ amazon ” でダウンロードして観られます。土曜日の午後、やってきた息子が、観られる様にしてくれたのです。家内は、自分の闘病と重ねて、感慨深く観ておりました。
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背中

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虐待の事件のニュースを聞かされること多い昨今、こんなお父さんの姿を見て、『ホッ!』とさせられてしまいます。傘を息子さんに傾げて、ずぶ濡れになって見守っている《背中》、この《背中》を見て、この子は育って行くのですね。15年後に、この親子の写真を見たいものです。
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仕事

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本業の他に、いろいろな仕事のアルバイトをした経験が、私にはあります。弟が見つけてきた、町工場の鶏小屋のケージを電気溶接で作る仕事を皮切りに、穴掘り、看板設置、沖仲仕、牛乳工場、個展の警備、中元歳暮の配送、ホテル、デパート、海の家、スーパーマーケット、その他、『軟派な仕事はしまい!』と決めて、けっこう楽しくさせてもらいました。学校に行くのをやめて、プロの職に就くようにと誘われたことも、何度もありましたが、みんな断りました。

中高とお世話になった教師の紹介で、ある研究所に3年勤め、その後に教師を2年し、アメリカ人起業家の助手になり、その仕事を受け継いで、61才まで働きました。父が青年期を過ごした大陸中国に行く思いを諦め切れず、家内の手をとって、東北地方の街で一年、漢語を学び、その後、華南の街の大学で、日本語教師をし、その後は、パンの製造販売と製パン機器や材料を扱う会社の顧問として、同じ街にとどまり、今日に至っています。

労働する喜びを、父に教えられたからでしょうか、何をしても、『楽しかった!』に尽きます。そう、床清掃の仕事もやりました。開店前に中堅のスーパーマーケットの床を洗浄し、ワックス仕上げをする仕事で、けっこう長くさせてもらったのです。コンビニエンスストアの床掃除もありました。お陰で、子どもたちを学校に行かせることができました。

いろいろな仕事をかじりながら、働く人を見てきました。中国にやって来て、中日での〈仕事の違い〉に気づいて、実に驚いたことがありました。車で何人か乗って来て、荷物の積み下ろしなどをしているのを見ていた時に、運転してきた人は、運転席にいるか、外にいてタバコをふかしたり、新聞を読んだりして、その作業を手伝おうとしないのです。

手伝えば、作業効率がはるかに好いし、早く作業を終えられるのに、そうしないのです。と言うには、一人一人が、独自の仕事に雇われているからです。ですから人の仕事に手を出すことは禁物なわけです。この辺のこだわりや習慣が分からなかった時は、『何てこった!』と思っていましたが、国柄の違いなのです。

《気が付いたことをする》といった習慣でしょうか、仕事の極意を学ばされた私には、納得がいかなかったわけです。気の多い私が、34年間一つの仕事に専念できたのは、感謝でした。向いていたのかどうかは分かりませんが、それを《天職》として受け止めたからでしょうか。私は満足の思いで、今もおります。

今でも、機会があるなら、何か働きたいと思っています。隣が家具屋さんですから、『猫の手が借りたくなったら、猫よりも少しマシですから声を掛けてくださいね!』と言ってあります。今の私たちの事情が分かっていて、まだ声はかからないままです。
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すいとん

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中国で長く生活をして、この数年、驚くことの一つは、高級外国車の多いことです。道路上にも、駐車場にも、ベンツ、BMW、フォルクスワーゲン、AUDI、VOLVO、LEXUSなどが溢れています。自分は、高級車志向がありませんでしたが、ベンツやLEXUSなどに乗せていただくと、乗り心地はすこぶる好いのに驚かされます。何せ、中古の乗らなくなって廃棄寸前の車ばかりに、乗ってきた身には、『こんなにも違うんだ!」と驚かされるからです。

中国のみなさんにとって、豊かになってきた証しのように、高級車を、自分の“ステータス”として、同僚や友人や親戚に誇るための道具になっているのでしょう。日本人も同じですが、見栄っ張りで、面子に拘るので、大枚叩いて、借金までして買ってしまいます。ですから、街中を走る高級外車が、なぜか肩を競い合っている様に見えるのです。

ここ北関東では、圧倒的に軽自動車が多いのです。年配者の運転が多いので、年金生活者には、若かった跳ぶ様な勢いのある時代と違って、『動けば好い!』と競わなくなって、肩を落として走っているのでしょう。

そんな中国で、最近の風刺的な流行語があります。『ベンツの後部座席で泣く方が、自転車の後部座席で笑うよりいい!』です。お嫁に行く女性の心理として、好きな人と自転車に乗せてもらって、にこやかに生活するよりも、辛く冷たい夫婦関係でも、格好の様ベンツの座席、しかも後部座席に泣きながら乗っていた方がいい、と言う、〈物質優先の価値観〉が大道を行くのだそうです。

貧乏人の冷水で、ある人は、立派な門構えの御屋敷の周りを通り過ぎると、決まって、『この家の人たち、幸せなのかしら?』と思ってしまうのだそうです。ユダヤの格言に、「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのに勝る!」とあります。

わが家は、今晩は〈すいとん〉です。家内が、退院後初めて、『わたしが作るわ!』と言っています。今朝、私が作った〈野菜スープ〉の残りがタッパーに入れて、冷蔵庫にありますので、それに小麦粉の団子を入れて味噌味でするそうです。牛の細切れも入っていますので、食後、〈憎み合わない〉ことにしましょう。とても美味しかったのです。

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『2600人以上の予約患者さんがおいでで、たいへん混雑をしていますので・・・』と、家内が通う獨協医科大学院の掲示板に、通院のたびに、メッセージが出ています。初診の方を入れたら、さらに多くの患者さんが通院されているのです。

この病院は、栃木県下だけではなく、もっと広く地域医療にあたっていて、“ドクターヘリ”が、救急患者さんの輸送に、ひっきりなしに使われるほどです。今日も町医者に行くための外出中に、“ドクヘリ”が、エンジンオンを響かせて上空を飛んでいました。

「医は仁術(じんじゅつ)」と言われて、「医は、人命を救う博愛の道である(広辞苑)」ことを意味する格言。特に江戸時代に盛んに用いられたが、その思想的基盤は平安時代まで遡ることができ、また西洋近代医学を取り入れた後も、長く日本の医療倫理の中心的標語的として用いられてきた。」と“ウイキペディア”にあります。

この「医」という漢字を、「掛け声をかけながら矢を放って、病魔と戦う様。」と、白川静師は、解字されています。入院中も、通院の今も、担当の医師は、レントゲン撮影、尿検査、血液検査の結果を見ながら、家内に聴診器を当てながら、〈矢〉の様にではなく、穏やかに言葉をかけながら、説明し、判断を告げておられます。

担当医は、「講師」の肩書で、大学でも教鞭をとっておられるのでしょう、大変に忙しそうです。このところ目立っているのは、髭剃りがされていないで、診察をしているのです。決して不精ではないのでしょうけど、私の目には、「多忙」ないし「過労」に見えるのです。

3ヶ月の病棟で、入院生活をしていた家内に、ある若い看護婦さんが、『結婚したいのですが、出会いの機会がないのです。私のために・・・』と相談と嘆願をされたのです。仕事を終えて帰宅すると、明日の担当患者さんの看護を考えて準備をしている内に、真夜中になっていて、そのままで寝て、朝を迎えることが多くあるのだそうです。

医療の使命感を持って従事しておいでのみなさんが、「過労」なのが、患者の家族の私にも分かります。厚労省の資料によりますと、担当医の残業時間は、「155時間」だそうです。患者数の増加に、専門医の数が追いつかないのでしょう。それなのに、家内の担当医は、十分な時間をとって、家内に丁寧に診察をされておいでです。

「医師の一言」の重さを知っておられるから、現代医療の従事者は、ずいぶんと優しい物言いをされておいでです。体や心が傷ついている、不安な患者への配慮なのでしょう。かくいう私も、昨日は、開業医の所に行き、血液検査と尿検査をしてきました。4週後の再診だそうです。そこも忙しそうでした。『肩でも・・・』、患者の私が、そんな思いにされているこの頃です。

(友人が撮ってアップされた写真です)
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