誕生日

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今回、「会議」に出席するために、意を決して一時帰国をしました。日本橋で、一泊二日の会議が済んで、何時もの定宿である弟の家に泊めてもらいました。彼は、愛妻を病気で亡くしてから、3人の子を男手一つで育て上げて、再婚話を右と左に打ち払って、今は孫の面倒みながら、週数日、元の職場の学校で顧問をし、週一で、個人学校で半日、教壇に立ち、その他には、青少年の街頭補導を、東京警視庁の要請で共に行ったり、講演会の講師もしているのです。

退職後も、その様に忙しくしているのに、私の一時帰国に合わせて、予定を変更してまで世話をしてくれました。家にいる間の食事から洗濯までしてもらう、私は不肖の居候でした。半日だけ、多摩丘陵にある入浴施設に行って、一緒にお湯に浸かったのです。"われわれ世代"の入浴客で混んでいましたが、暫しの休息の時をともに過ごしました。

弟は、飲んでいる薬が理由で食べれないのですが、冷蔵庫の中には、孫と私のために「納豆」を買い置きしてくれていました。好物の納豆を自分は食べないのに、向こうにはないだろうからと、そういう風に、食べさせようとしてくれていたわけです。こちらも果物や和菓子などを買っては、感謝の気持ちを表したりしたのです。

さて、今日が彼の誕生日です。それで、こちらに戻る前日、すぐ上の兄の家に呼ばれていたので、ケーキを買い、一緒にお祝いをしたわけです。一週早い誕生祝いに「茶碗」を買いました。『もう何年も誕生祝いなんかしてないよ!』と彼から聞いたからです。結構喜んでくれました

『兄弟は苦しみを分け合うために生まれる!」と、私の愛読書にありますが、ともに元気で年を重ねて、助け合いながら生きておられるのは、感謝なことです。肺炎で、何度か死にかけた兄貴を、幼い二つ違いの弟が、助けようとしてくれた気持ちが、未だに残っているのでしょうか。帰る日の朝は、4時半に家を出たのですが、『旅行カバンは轢いて駅に行くから好いよ!』と言ったのに、駅まで車で送ってくれました。彼は、その日も仕事があって出掛ける用があったのに、嬉しいことです!

今日、メールで、誕生祝いに、周りに迷惑をかけながら、長生きし様と、メッセージを送りました。持参した「干し鮑」を、上手に調理して食べてくれるでしょうか。

(弟の家から見えるとほぼ同じ位置に見える富士山です)
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小旅行

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ベランダの寒暖計は20℃を表示して、その寒暖計の横で、朝顔が一輪、今朝も咲いています。

昨日は、ビザの関係で、3ヶ月ごとに一度、国外に出なければならなくて、台湾の金門島に行って来ました。朝6時半過ぎの公共バスに乗って最寄りの駅に行き、そこから「和谐号(中国版の新幹線)」で出掛けてきました。途中小雨だったりしましたが、濡れることはなかったのです。金門島の税関を出て、すぐに建物の前にある食堂に入って、昼食に「牛肉麺」を注文しました。店内は、大陸へ帰る団体客が多くて、できるまで20分かかるとのことで、『好いですか?』とのことで、ギリギリだったのですが、注文しました。結局、家内は半分食べて、帰りの午後1時発の船に乗船するための入国審査で、その食堂を出ざるを得ませんでした。

ちょっとせわしない「小旅行」になってしまいましたが、外国人居留者の義務を果たすことができ、同じルートで帰ることができました。もう少し余裕をと思うのですが、日帰りの強行軍としては、こんなものなのでしょうか。こちらの駅に着きましたら、パラパラと小雨が降り出していました。
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泣くんじゃない!

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子どもの頃に、父親に怒られて、家に帰れなかったり、兄や上級生に殴られて、悔しかったりした時に、よく歌った歌があります。みなさんにも、自分を励ましたり、力付ける「歌」が何かあったことでしょう。昭和6年に、作詞が西條八十、作曲が佐々木俊一、歌が小林千代子で、「涙の渡り鳥 」が発表され、瞬く間に流行ったのだそうです。

1 雨の日も風の日も 
泣いて暮らす
わたしゃ浮世の渡り鳥

泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ

泣けば翼も ままならぬ

2 あの夢もこの夢も 
みんなちりぢり
わたしゃ涙の旅の鳥

泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ

泣いて昨日が 来るじゃなし

3 懐かしい故郷(ふるさと)の 
空は遠い
わたしゃあてない旅の鳥

泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ

明日(あす)も越えましょ あの山を

これは父や母に教えられたものではなかったのです 。私の父母が、歌謡曲を歌ったのを聞いたことがありませんでした。怖い父親でしたが、父が目をつぶって歌っていたのは、私の祖父に連れられて行かれたと言っていた所で歌っていた「さんびか」でした。母も同じで「さんびか」をハミングしていたのです。ある時、『若い頃に流行っていた歌を教えて!』と、母に、ぜひとせがんで教えてもらった歌が一曲だけあり、それが、「無情の夢」でした。

でも、どこで覚えたのか、この「涙の渡り鳥」の歌の後半の部分を、『泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ、泣けばカラスがまた笑う !』と、自分で歌詞を変えて歌ったていたのです。実は、今でも、失敗して自己嫌悪に陥ったりすると、歌ってしまうことがあります。寂しいという感情を感じることが、たまーにあります。この歳になってもおセンチになることがあるのです。そうすると、この『泣くんじゃない!』という箇所が、唇から自ずから突いて出てきてしまいます。

(円山応拳の絵です)
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西にも東にも

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「健気(けなげ)」と言うことばが一番似合う、朝顔の花です。朝晩の外気温が低くなってきているのに、晩秋に咲く花に、拍手を送りたい思いがして参ります。

今回の一時帰国で、私たち夫婦に、思いを寄せて、事あるごとに心を配ってくれる友と一緒に、日本橋人形町の「世界湯」の"終い湯"に入りました。月二回の"サーヴィス・デイ"で、お一人様100円の湯でした。『背中を流しましょう!』と言う彼の行為を断わりました。何か、"親分子分"のような関係になりたくなかったからです。若い頃に、そんな上下関係に嫌気が刺したことがあったからです。

そう言えば、わたしを長く導いてくれたアメリカ人起業家が、大阪だったと思うのですが、日帰り入浴施設に、裸になって一緒に風呂に入ったことがありました。この方の育った文化では考えられない行動に、驚いたのです。彼の晩年、癌に侵される直前に、私たちの近くにありたいとの必死の努力だったのかも知れません。この方は、文化の壁を越えてくれたのです。

「江戸」を彷彿とさせる至極熱い「世界湯」のお湯に、ものの2分も入っていられませんでしたが、好い気分でした。西にも東にも、友のあることは、どんな物を持つに優って素晴らしい宝なのです。
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防人

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古代のわが国には、筑後国(現在の福岡県)、対馬(つしま)、壱岐(いき)などに、中国、当時の唐からの攻撃に備えて、国境警備のための兵士が、配備されていました。彼らを、「崎守り(さきもり)」と呼んでいました。これは律令制度のもとにあった「兵役」の一つで、農民が徴用されて、九州北部の防備のために送られたのです。

どうしてかと言いますと、663年に、朝鮮半島の「白村江の戦い」で、百済と大和朝廷の連合軍が、唐と高句麗の連合軍に敗れてから始まった国境警備でした。この軍役は、中国で行われていた「防人(さきもり)」の制度に真似たものだったのです。世界の軍隊を調べてみますと、ほとんどの兵士が、農村から求められ、戦場に送られています。どんな気持ちで、妻は夫を、子は父を、両親は子を送り出したことでしょうか。本人も、どんな思いで九州の北端に赴いたのでしょうか。

「防人歌」が、万葉集の中にあります。そこには切々たる惜別の思いを読み込んだ歌が残されています。"ウイキペディア"からの引用ですが、次の言うな歌があります。

* 国国の 防人つどひ 船乗りて 別るを見れば いともすべ無し
* (現在語訳) 全国から集まった防人が(任務のため)船に乗って別れることを見れば、なんともなす術もない。
* わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて 世に忘られず
* (現代語訳) 私の妻はとても恋しがっているようだ。飲もうとする水に影までもみえていて、決して忘れられない。
* 唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして
* (現代語訳) 唐衣にすがって泣きつく子どもたちを(防人に出るため)置いてきてしまったなあ、母もいないのに。
* 天地の いずれの神を 祈らばか うつくし母に また言問はむ
* (現在語訳) 愛おしい母と再び会って話すためには、どの天や地の神に祈ればよいのだろうか。
* ちはやぶる 神の御坂に 幣奉り 斎ふいのちは 母父がため 
* (現在語訳)荒々しい御坂の神に幣をお供えし、我が命の加護を祈願するのは母と父のためである。

まだ学校に行っていた頃、「きけわだつみのこえ」という、出陣学徒兵の遺稿集を読んだことがあります。国や、故郷や父母や弟妹、そして恋人への思いが綴られていました。当時の占領国や編集者によって、この本の内容に「改竄(かいざん/原稿と違ったものに書き改めること)」が行われたりしていたことを、後になって知ったのですが。でも、古代の「防人」と同じ様な思いが吐露(とろ)されていました。

戦になると、働き手を取られ、田畑が荒らされ、重い税を課せれた農村は、いつも悲劇の舞台でした。でも、その農村から、優秀な人材が多く出て、日本を支え、導いてきたことも事実です。これは日本ばかりではなく、世界の、どの国でも同じことでもあります。

私は、「現代の防人」と言われる自衛官のみなさんに、心から感謝しているのです。災害時の出動での貢献振りは、目を見張るものがあります。被災者をおんぶして運ぶ青年自衛官の凛々しい顔が素敵です。彼らの多くが、自分の生まれ育った国を守ろうとしているのです。高校卒業後、自衛官になろうと考えていた日も、この私にもあるのです。

(対馬だけに咲く「黄金鬼百合(おうごんおにゆり)」です)
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微風

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今朝も、ベランダで朝顔が五輪ほど咲きました。曇り空で、午前10時の室外温度は23°Cで、微風が木の枝を揺らしています。短い秋ですが、紅葉は、ここでは見られません。

好い一日をお過ごしください。
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再会

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『友と教え子あり遠方より至る!』で、先週末、熊本を訪ねました。こちらの学校で教えた方が、長崎の大学に留学し、熊本の大学の大学院で学んでいる間、この友人を、彼に紹介し、しばらくお世話してくださったのです。2ヶ月ほど前に、長崎の大学の大学院に進んで、環境保護を専攻しているそうです。

それで、五日の日曜日に、熊本の友人の所で会おうと、私が提案し、彼はバスで、4時間かけてやって来て、最寄りの駅で落ち合ったのです。久しぶりの再会でした。とても好い青年に成長されていて、日本語も上手になっていました。午前中、一緒に過ごし昼食をご馳走になり、午後も、友人の家の客間で交わりをして、『また会いましょう!』と約束して、夕方のバスで長崎に帰って行きました。

彼が帰った後、友人夫妻と「積もる話」をし、"とんかつ"を夕食にご馳走になり、『宿をキャンセルして、僕の所に泊まって!』と勧めてくれたのですが、市内の宿に車で送っていただいたのです。翌日、宿に迎えに来てくださって、去年の地震で崩れ落ちた熊本城の城壁の様子を見せていただきました。その石に、番号が朱書きされていて、気の遠くなるような作業をして、復元するのだそうです。

その後、どんどんと消えて行く市内の古書店で、残っている古書店のうちの二店の書棚を眺めて、お昼は、日航ホテルのレストランで、フランス料理をご馳走になりました。彼は、二十代に出会って、四十数年来の友人なのです。何度も何度も行き来した朋友です。彼の倶楽部のこと、他の友人たちの様子や消息など、私のことなどを話し合いながらの食事でした。

"気心が知れた仲"というのは、実に好いものです。幼馴染ではないのですが、社会的な責任を負った青年期に出会い、どれほど彼に啓発されたか知れません。互いに白髪になり、体にも不具合を覚える年齢になっても、交わす話の話題は、二十代のころと変わらないものがあるのには、不思議な思いがしてきました。

食事の後、熊本地震の震源地の「益城町(ましき)」に連れて行ってもらいました。活断層の上の被害は酷かった痕跡がうかがえました。ただ、幹線道路沿いは復興されていますが、まだまだの現状のようです。豊肥本線の鉄路も、国道も、復旧の見込みがつかないほどの被害なのだそうです。JRのローカル線の復旧には莫大な経費がかかり、その目処さえつかない現状のようです。彼の書斎の本も崩れ落ちたりだったそうです。

温泉にも連れて行ってもらいました。何度も"裸の付き合い”をして来て、阿蘇の近くの源泉の湯は、とても好かったのです。夕食は、奥様の手料理で、美味しかった!短い交わりでしたが、充実した時を持って、空港まで送ってもらい機上の人となった次第です。友も教え子も、実に好いものだと、再認識させられた素敵な旅でした。

(地震以前の熊本城です)
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朝顔

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このブログの調整中に、失われた記事がありました。ちょっと残念ですが、そんなに大切なことでもありませんから、また投稿を続けたいと思っています。

今朝のベランダの朝顔です。忠実に、私の留守中も、咲き続けていました。2週間の日本滞在でしたが、お陰様で友人たちや兄弟、子どもたち、嫁や孫にも会うことができ、市民としての義務や申請もできました。もう少し帰国の時間が欲しかったのですが、これでちょうど好いのでしょう。

中国に降り立って、昨日の午後は、27℃も気温があって、驚きでした。
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天津にて

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ここ中国での、強烈な印象の1つは、天津の外国人アパートの8階に住んでいた時のことです。天塔と呼ばれていたテレビ塔の傍の「紫金山路zijinshanlu」をしばらく歩いたところにあったアパートです。最上階の南向きのベランダから、山一つない平地がずっと彼方まで見えるのです。如何に中国大陸が広大であるか、栃木から関東平野を南に見た比ではありませんでした。

窓の外には、「暖气nuanqi」という冬場の暖房用の給温水を温める、ボイラーの煙突が見えていました。石炭を燃やしますので、冬場は真っ黒な煙が立ち上っていました。そのベランダから、朝、東から日が昇ってきて、夕方は西に落ちて行くのが眺められるのです。その夕陽が落ちて行く光景に圧倒された私は、いつも夕方になると、それを眺めていました。

「星の王子さま」ではないのですが、夕日が落ちて行く様というのは、ちょっと寂しいのですが、あんなに重そうな太陽が沈んで行くというのは、実に神秘的なのです。そして翌朝になると、決まって逆の方角から昇ってくるのです。まだ「釣瓶落とし」のように日は落ちて行きませんが、『一日ご苦労様!』と言って上げたい気分に、いつもなります。

今日は、手が空いたので、洗濯物を取り入れたのですが、ベランダには金木犀の香りが秋風に乗って漂ってきて、いよいよの秋だと思わされております。よく歌った歌に、作詞が中村雨紅、作曲が草川信の「夕焼け小焼け」があります。東京都下の八王子の恩方に生まれた中村雨紅が、遥かに故郷を思って詠んだ詩です。

1 夕焼け小焼けで日が暮れて

山のお寺の鐘が鳴る

お手手つないでみな帰ろう

烏(からす)といっしょに帰りましょう

2 子供が帰ったあとからは

円(まる)い大きなお月さま
小鳥が夢を見るころは

空にはきらきら金のー星

子どもの頃に1年間、この八王子に住んだことがありました。そこでは、夕日は山に落ちて行くのでした。ところが、大陸天津の夕日は、地平線に落ちて行きました。しかも真っ赤になってでした。それはそれは壮大
で幽玄で、何とも圧倒される光景でした。夕立の日には、空の端から端へと、雷が響き渡って、雷光も雷鳴も雷雨も半端ではありませんでした。箱庭のような自然の日本から移り住んで、驚きの連続でした。

天津も、今住む街も、家の近くにお寺はありませんが、月は時々見上げることができ、金星も輝いております。夕焼けに感動するよりは遊びに夢中で、日が落ちても遊び続け子どもの日が、懐かしく思い出されてきます。そういえば、こちらではカラスを見掛けません。ただ鳴き声の綺麗な小鳥は多 くいるのですが。