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1990年8月2日から1991年2月28日にあった、「湾岸戦争」を題材にした、アメリカ映画「TAKING CHANCE」を観ました。実は、家内の二人の甥が、志願して兵役についたのが、「湾岸戦争」でした。兵役を終えたら大学に進学をする計画でいたのです。上の子は、親元を離れて、私たちが住んでいた街の小学校に、半年ほど留学し、通学したことがありました。
この兄弟二人とも、兵役を終えて、無事に帰国することができたのですが、この映画に出てきます、チャンス・フェルプスは、「イラク自由作戦」で命を落としてしまいます。勇敢に戦い、20歳で戦場に倒れた一等兵でした。その実話の映画化でした。
そのチャンス一等兵の遺体を、家族の元に送り届ける任務を、買って出たのがを、シュトローブル中佐でした。佐官である将校が、上等兵を、親元に葬送する役割を果たすことは、極めて稀なことなのですが、あえて彼はその任務に着きます。その遺体を、ワイオミングに住む親元に送り届けるのです。
中佐は、「砂漠の嵐作戦」に従軍したのですが、その任務を終えて、戦場から本国の内務に移って、家族とに生活を楽しんでいました。そんな勤務をしていたある日、国防省が発表するイラク自由作戦の死亡者リストに、自分と出身地・コロラドが同じ兵士を探し出したのが、チャンスでした。しかし両親は離婚していて、お父さんが、ワイオミングに住んでいて、そこに届けるのです。
私が驚かされたには、祖国のために戦って戦死した兵士に対する、驚くほどの敬意を、この中佐が表していることでした。戦地から遺体収容所への移送、遺体の世話、身の丈に合った制服を縫い、それで遺体を覆う縫製士、軍の中に、そういった部署ががあって、戦死者への畏敬が溢れた任務を果たし、戦死者に心の籠もった接し方を、軍として遂行していました。
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戦争への礼賛(らいさん)でも美化でもなく、軍務で命を落とした兵士への「礼節」が、軍関係者はもとより、移送する空港の職員、同乗機の乗客らが示すのです。日本では、自国の国旗が、先の世界大戦で侵略国の象徴だったとして軽視や、嫌悪の的になっているのとは違って、遺体を納めた棺に、「星条旗」で丁重に覆い、自分たちの国のために戦って亡くなった兵士への哀悼を込めた用い方を、軍として、国として果たしていました。戦死者への重い敬意を感じたのです。
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親のいる家に向かうバンの車に、星条旗で覆われた棺を認めた、追い越して行くトラックや乗用車の運転手たちが、哀悼と敬意を込めて見守っているのも、驚きでした。私は、南方で戦死した叔父を知りません。亡骸が家族の元に返されたり、勲章が授与された話は聞いていないのです。敗戦国の戦死者は、押し並べて、そんな扱いだったのでしょう。
有名な旧陸軍の大将の甥子が、同級生にいました。お父さんも、陸大出の軍人で、中国の内地で戦死しています。敗戦の将も、その家族も、戦後は厳しい生活をしていたようです。一人の命の重さの日米の違いを感じて、ちょっと複雑な思いがしております。
決して戦死者を礼拝するのではなく、敬意や哀悼や感謝を表明しているアメリカの社会の在り方の一面に、生命重視の姿勢を覚えます。日本海軍に、有馬正文少将がいました。この方は、自ら青年兵士の先頭に立って、軍服から少将の襟章を外し、特攻機に乗って、49歳で戦死しています。『戦争は老人から死ぬべきだ!』と言っていたそうです。美談としてではなく、戦争は死を避けられない事実に、思いを新たにした春四月です。
(DVDのカバーとワイオミングの一風景です)
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