イスラエルの王であったダビデが、「・・・天を見・・・月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。」と詩を読みました。それは、天空に宝石の様に散りばめられた広大な世界を見上げて、圧倒されたからです。それにひきかえ、人の「矮小さ」に気付いていたのですが、そんな人であるのに、尊厳や価値や存在の意味をもダビデは熟知していたのでしょう。

それは人の心の中に、宇宙の様な広がりがあるからでしょうか。パスカルと言う人が次の様なことを言い残しています。

「人間はひと茎(くき)の葦(あし)にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。・・・宇宙が彼をおしつぶしても、人間はかれを殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある(〈パンセ〉から)。」

これは、とても有名な「考える葦」について語ったものです。人間には、脆弱(ぜいじゃく)性と尊厳さとの両面があると言うのです。私も、「考える人間」の一人です。折れやすいのに、ひっきりなしに様々なことを考えている自分に気付くのです。

社会的な責任から退いて、人生の晩期を生きていて、《晩節を汚さずにどう人生を終えるか》が、今の最大な関心ごとです。人生の伴侶である家内が病んで、今、その難敵と闘っているのですが、そんな彼女の傍にいて、彼女が、これまで私を支え続けてくれた様に、彼女の支えとなることだと、今年の元旦の入院以来、心に決めています。

放射線物理療法の研究に取り組み、長崎大学病院に勤務中に、長崎原爆で被爆された、永井隆の書かれた「この子を残して」を読んで、一昨日の晩、次の様に、私に言いました。『一度、長崎に行ってみたかったわ!』とです。〈過去形〉で、そう言ったのですが、私は、『病気が治ったら長崎に行けるよね!』と、〈未来形〉で返したのです。

華南の省立医院に入院して、こちらの病院に転院し、退院後の今は通院治療をしていますが、発病して半年になろうとしています。この間、ただ私の冗談に、悲しく応答したことはありましたが、一度も愚痴や不平を言わずに、過ごして来ています。人として、立派だと思います。

“ iちゃん”と言う、幼稚園の年中組に通うお嬢さんが、時々わが家に訪ねて来ます。私たちに、よくしてくださるご夫妻のお孫さんです。風邪を引いては幼稚園を休むことが多いのですが、そんなことを聞いた日の晩になると、決まって、家内は、『iちゃんの声が聞きたい!』と、お母さんに電話を入れるのです。日本や華南の街のどこに住んでいても、周りにいる人に、小さな関心を向けるのです。偉いと思うのです。

そんな彼女への〈お返しの日々〉を、「考えながら」過ごしております。私も、また《ひと茎の考える葦》なのであります。

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