散歩道で見た工事の様子が

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 ここ栃木市に、住み始めた2019年の秋に、東日本を襲った19号台風で、市内に豪雨が降り、巴波川と長野川が氾濫して、激震災害をもたらせたのです。お借りして住んでいた家が、床上浸水に見舞われてしまいました。

 いつもは、一階の奥の部屋を寝室にしていたのですが、天気予報を聞いて、危険を感じた私たちは、二階にその晩は休んだのです。朝起きまして一階に降りますと、一階部分は、床上に水が溜まっていて、スリッパが浮かんでいたのです。その午前中は、床上の水の掻き出しをし、玄関前のコンクリートの三和土(たたき)には、土砂が堆積していて、それをスコップで掻き出しで、過ごしたのです。

 まだ子育て中に頃のことでした。住んでいたアパートの3階の一室が、ガス爆発を起こしたのです。階下の私たちの住んでいた部分の玄関鉄扉が開いてしまい、ベランダ側の窓ガラスが、爆風で割れ落ちました。私は、ステテコ姿で、駆け上がって、モクモクと新建材を燃やす煙で、中が見えない玄関から、消火器を吹き付けましたが、役立たずでした。やがて火の手が上がり、中から、住んでいたご婦人の呻めく声が聞こえたのです。

 消防に連絡があって、だいぶ経ってから消防車と、後から駆けつけた地元の消防団が消化活動を開始しました。四番目の子が家内のお腹の中にて、3人の子とを車に乗せて、近くにあった、私たちの教会堂に避難させたのです。同じアパートに住む妊娠していたご婦人も、お連れしたでしょうか。その間、消化の放水で、わが家も水浸しになってしまいました。

 火の中、水を通って、無事に守られたのです。後で、消防署員と警察の現場検証に立ち会いましたが、『階上の家の漏れたガスに、お宅に引火しなかったのが不思議です。あり得ません!』と言っておられました。家内は、早朝にガスの匂いを感じたのでしょうか、窓際に寝ていた3人の子の布団を引っ張って、部屋の奥に移動させていたのです。ガラスの破片から、子どもたちが守られましたが、私だけは、頭に30箇所くらいにガラスの破片が刺さっていたのです。騒ぎの中、全く感じなかったのです。午後になって、事故が落ち着いた後、近くの整形外科に行き、診てもらい、抜き取ってもらいました。

 これまで散歩に数度、火災と洪水の被害を受けて、避け得なかったのを感じているのですが、こちらに住んで、散歩する機会が増えて、ほぼ、東西南北に散歩コースを持っているのですが、北コースは、わが家の脇を流れる巴波川の土手道なのです。その川の脇の沿道で、昨年来、二箇所で土木工事が行われています。何をやっているのかが、少し経って、工事をされている方にお聞きして分かったのです。

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 その工事名は、地下に「捷水路(しょうすいろ)」を造るもので、正式には、「巴波川激震災害対策特別緊急事業」と言います。巴波川の洪水を防ぐために、川の流れの水の「逃げ道」を、地下に造る工事なのです。初めは護岸工事をしてるのだろうと思っていましたが、結構大規模の工事になっていたのを機に、担当者にお聞きしたのです。地下10mに、直径5.5mのトンネルの水路を敷設しようとしるのです、とのことでした。

 日本の掘削機械(shield machine/シールドマシン)は、世界に誇るものがあって、あの青函トンネルの工事に活躍した、掘削機器には、驚かされましたが、さらに新技術が開発され、あの当時よりもさらに躍進して、新鋭の掘削機が導入されているわけです。30年の年月をかけて堀り貫いた「青の洞門」は、曹洞宗の僧、禅海の「高さ2丈、径3丈、長さ308歩」を手堀りであったことを思うと、この長足の進歩には、驚かされます。

 土木の道に進みたかった子どもの頃の自分は、その夢は敗れて、違った道を歩んでしまったのですが、今だに、土木工事の現場付近を見ますと、あの頃の願いが思い出されてなりません。二十一世紀の機械モグラ、「シールドマシン」を駆使して、2.4kmの地下水路の2027年の竣工を、この眼で見ることができるでしょうか。

(ウイキペディアの「地下水路の図面」、「シールドマシン」です) 

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添加物のこわさを知って

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 在華13年の間、街中のレストランに、友人や、教会の愛兄姉に、よく招待されました。どこの店も同じで、どの料理も同じ味でした。私は、安くて美味しい、塩味の麺で海鮮の牡蠣、海老、それに豚肉、多種の野菜で塩味の「鹵麺(卤面)ルーミエン」が大好物だったのです。同僚の日本語教師で、しかも同窓の日本語教師が教えてくれた、日本の湯麺(タンメン)に似た中華麺なのです。

 お宅に招かれると、どこも同じで一家のご主人が、台所に立って、鍋ふりをされるのです。何種類もの料理を作っては、食卓に並べてくれるのです。中華料理店と同じ味は、やはり調味料でした。でもその食卓には、交わりの手を延べた愛情が溢れているので、おいしさは違っていたでしょうか。

 街中にある師範学校の旧キャンパスの近くの店が、一番美味しかったのですが、店主が変わってから、ちょっと味が変わってしまいました。最初は2元の値段でした。でも瞬く間に、倍倍倍になってしまいました。でも、思い返すと、あの味も、化学調味料がベースにあったようです。それで、「うまさ」と「危うさ」を知らされたのかもしれません。

 あちらでは、「味精」という名の調味料で、どこの食品売り場でも山高く大袋で売っていました。中国の食堂は、どこも調理場が奥まっていて客が見ることができない構造なのですです。コックさんは、大きなオタマに、大きな丼に入れた化学調味料を付けて、鍋に具材を入れて調理していたようです。

 どれも、同じ化学調味料の味なのです。素材の味は、わずかに、目を楽しませますが、みんな化学調味料のグルタミン酸ナトリュウムの味でした。

 化学調味料が、父の家で食卓に登ってから、小さな瓶に入った調味料が、ほぼ主役になっていました。小皿に醤油差しから醤油を注いぐと、すぐに調味料を振り出して加えるのです。味のないものや、味がきついものも、この調味料は、どんなも料理も「うまい」に変える魔術がかかったように、「うまい」のです。舌の唾液腺が刺激されて、魔術にかけられたように、うまくなってしまうのです。「うまさ」と「こわさ」は、同系列上にありそうです。

 結婚してからのわが家には、この化学調味料はありませんでした。味噌味、醤油味、砂糖、醤油のほかには、わが家の台所にはありませんでした。ところが、味醂、味付酢、チキンパウダー、コンソメなどが出始めてきたのです。栃木に住み始めまあいたら、この街のソースとかがあって、やはりグルタミン酸ナトリュウムの調味料を使って、うまみ成分の添加物で、美味しいのです。

 旨(うま)み、日持ち(➡︎腐敗防止)、増量などをもたらすのが、この添加物なのです。自然素材ではなく、化学の分野で、その飽くことのない研究成果で、作り出されて、化学物質なのです(グルタミン酸ナトリュウム=C₅H₈NO₄Na化学式)。

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 添加物を作り出し、営業で売り、会社に大きく貢献したお父さんが、子どもに、『食べちゃダメ!』と言ったら【ミートボール】は、子どもたちの支持を得て大人気で、「うまい」のです。よその子どもには、食べるように奨励しながら、生産に携わった科学者で営業マンは、自分の子どもと大多数の子どもたちとの間に、はっきりした線を引いのです。その欺瞞、自己矛盾に耐えられなくなって、会社を辞めてしまいます。

 良心が傷んだのでしょう。それで、今度は、添加物の抱えている問題点を指摘して、全国を巡回して真実の啓発運動をする人になったのです。餃子作りも職人も豆腐屋さんも、自分の作った物は食べませんし、家族にも食べさせないのです。添加物を警戒してです。そう子どもを育てた親たちの良心は、どうなっているのでしょうか。「本物志向」、この時代の生き方、食べ方ではないでしょうか。食品の魔術にかけられた現代人は、危なさそうです。「試験管」にた端を発する食品に注意、注意です。

↪︎阿部司著「食品の裏側」東洋経済新聞社刊

(よく食べた「鹵麺(卤面ルーミエン)、ある物資の「化学式図」です)

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水無月に咲く花々が

 

 

 六月になりました。この月の別名は、「水無月(みなづき)で、その由来については、いろいろな説があります。水無月の「無」は「ない」だけではなく、助詞の「の」なのだそうです。そうしますと、「水の月」となります。まさに天から降る梅雨の雨の月なのです。

 米作りに励んできた私たちの国では、この梅雨の雨によってお米が育っていき、その秋には収穫されるお米が、武士の給金の石高だったのです。今、米の高騰が大きな話題になっています。わが家は、「四つ葉生協」という協同組合の会員を紹介されて、こちらに住み始めてすぐに、会員になりました。

 極力、農薬を使わないで米作りをする農家が生産する米が、毎週届けられるパンフレットに掲載されていて、そのお米を炊いて、食べ続けてきています。ところがこのところ、米の項目が欠品なのです。何種類かあって選べたのですが、もうなくなってしまいました。米騒動の煽りによるのです。

 江戸時代以降の米の流通の複雑さ、今だに受け継がれていて、どうも米価格の高騰の原因のようです。インフレーション(Iinflation)が起きて、何もかも価格上昇で、何か便乗のように感じてなりません。こうやって不景気になっていくことが、歴史の中に見られましたが、今や、そに不景気の現れなのでしょうか。

『ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。(新改訳聖書 黙示録18章23節)』

 魔術のように、物の値段を高くしていく商人たちの暗躍なのでしょうか。欺きや偽善や悪徳というのは、終末の世の特徴だと、聖書は言います。言い知れない不安や恐怖が、人の心を襲うのでしょう。万軍の主、栄光の王は、この時代を生きる私たちに、「恐るな」と仰っておいでです。花は美しく咲いて、物価高騰の世を慰めています。

(家内への近所の友人のプレゼントの花束、サボテンの花、母の日に弟に頂いた胡蝶蘭、娘が家内に誕生日に届けてくれた胡蝶蘭、弟の家に咲くハイビスカス〈2017年8月に家内が弟に贈った物がベランダで咲き続けているそうです〉です)

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会津人たちの足跡の中に

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 本州の最果て、青森県の下北半島に、明治になって誕生した藩があったのをご存知でしょうか。わずかな年月の間に、存在しただけでした。幕末に、徳川方に従い通した、徳川御三家に次ぐ藩であり、幕末には「朝敵」となった会津藩が、戊辰戦争に敗れ廃藩とされ、転封の地に割り当てられたのが斗南(となみ)でした。その地に誕生したのが「斗南藩」でした。

 薩長土(薩摩と長州と土佐)の同盟軍、新政府軍が、鳥羽伏見の戦いで勝利し、東征をして行きます。越後国の長岡藩を下し、さらに会津の地に進軍して行きます。有名な白虎隊の壮絶な戦いと、少年たちは自刃して果てていく戦いの果てに、会津藩は敗北するのです。新政府軍に刃を向けたことで、下北の地に移って行きました。

 その斗南に、立藩、家名再興が許され、松平容大が藩主となります。主君への恩義を忘れない、会津の幕末に際しての処し方に、武士の志を感じてなりません。敗者でありながらも、明治の新しい時代を生きていかれた会津の人々の生き方に、日本の良さを感じてなりません。それをきっと、「会津魂」と言うのでしうか。

 極北の地に、鍬を持って移住して行った生き様に、落ちゆく武人の生き方を、身も心も震えるような感じがしてなりません。会津からは、明治の世に、日本の近代化のために寄与した人材があったことは、素晴らしいことなのです。私が学んだ明治学院の総理を務めた井深梶之助、同志社を起こした新島襄に嫁した山本八重、明治の元勲・大山巌に嫁した山川捨松、ソニーを起こした井深大などの人を存知上げています。

 明治の世に、なかなか受け入れらええなかった会津でしたが、政治の指導者にはならなくとも、キリストの福音に触れて、生きていった会津人にあった、主の祝福を見て、社会に大きく貢献されたことに、感謝を覚えます。

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 第一次大戦後に、日本の捕虜になったドイツ人(オーストリアやハンガリーの兵士もいました)の将兵を収容した、収容所がありました。坂東市(現在の徳島県鳴門市です)にあった「板東捕虜収容所」だったのです。ただ捕虜を、捕虜として取り扱ったのではなく、人として寛大に、友好的に接した、その収容所の所長が、松江豊寿大佐で、この人は会津人だったのです。

 日本軍の捕虜への取り扱いでは、異例の収容所でありました。捕虜たちが兵士以前に民間人であった折の専門職の職人たちの活動がありました。印刷所が設けられ、週刊新聞が刊行され、鍛冶屋、床屋、靴屋、仕立屋、肉屋、パン屋などがあったのです。それを許し、励ました、松江所長の寛大さに驚かされます。

 世界に類を見ない、捕虜収容所の運営に当たった、松江大佐の意気に、感動を覚えたのです。ドイツ軍が降伏して、第一次世界大戦が終結したことで、この収容所が閉鎖され、捕虜の帰還が許されるのです。そのためにイベントが開かれ、ベートーベンの「第九」が演奏されることになるのです。この演奏会には、多くの板東の街の住民が集まったのです。大拍手の内に演奏会は終了します。

 こんな民主的な収容所に収容された捕虜たちは、異国での捕虜生活でしたが、実に素敵な3年ほどの時期を送ったことになります。今では、収容所にあった地は、「ドイツ村公園」とされ、2018年には、「100周年記念コンサート」が催され、「第九」が演奏されたのです。「バルトの楽園」という題で、映画化もされています。

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 松江豊寿は、退役後に、若松市(現在の会津若松市です)の市長として、1922年から1925年の間、第九代市長にもなっておられます。悪評の多かった日本の旧軍人の中では、注目に値する一人でした。

 (ウイキペディアによる弊社の見取り図、移築された捕虜収容所の兵舎、会津若松市の市花の「タチアオイ」です)

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