元宵節

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早春の花の便りがありました。春って、木の枝にやって来るのですね。中国もアメリカも日本も、春を告げる《花盛り》の季節に、いよいよ入っていく様ですね。オレゴンでは、梅の花も咲いている様です。さしもの寒さも、花攻勢に押しやられていくのでしょう。春には、みなぎる《力》があるからですね。こちらでは桜の花(きっと伊豆で咲き始める"河津桜"の様な早咲きの花かも知れません)も桃の花も咲いたそうです。
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今日は「元宵節yuanxiaojie(日本の"小正月"です)」です。赤いランタンに灯火を灯す風俗が残っていて、今夕、「江滨路jiangbinlu」の近くに住んでいる方に招かれていますので、「漫ろ歩き(そぞろあるき)」に、家内と出掛ける予定です。
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愚直

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「偏屈」とか「愚直」と言ったことが、時代の流行や進展に逆流するように思われています。こう言った言葉は、明治や大正、さらには昭和一桁世代を匂わせる、かび臭い事だとでも思われてている様です。それで、『昔にこだわり過ぎていて、進歩のない証拠だ!』と言って、若者たちから嫌われてしまうのです。確かに、昔は、時間の動きが緩やかでした。江戸から京都に旅をしても、自動車も新幹線もなかったのですから、歩くか、裕福な人が籠や馬や舟に乗るかだったわけですから、人の動きものんびり、ゆったりとしていたことになります。

時間も人の動きも緩慢な時代でしたから、急かされることなどありせんでした。かえって観察眼は鋭かったのではないでしょうか。芭蕉が、「奥の細道」に紀行の様子を記していますが、歩行者ならではの観察眼で眺めた事ごとが、そこに記されてあります。実に緻密に景色や人心の機微を眺めて看て取っています。以前、家内と新潟の上越に行った時、佐渡に目を向けて、芭蕉の読んだ俳句、『荒海や佐渡によことう天の川』を思い出していました。そんな発想は、何処から来るのだろうかと思うこと仕切りでした。俳聖と呼ばれる人でなければ、表現し得ないに違いありません。別な意味では、時間が、のたりのたりと流れていた時代の産物なのかも知れません。

これまで、どの道の《達人》も、滅入ってしまいそうな、長い下積み時代を過ごさなければなりませんでした。仕事場の片付けだとか、明日の準備だとか、先輩たちの下仕事をしなければならない時代だったのです。その積み上げられた、無駄のような時間や作業の間に、培われた何かが、そういった達人たちの職人としての高い質を作り上げてきたのです。

私たちの住む街に、アメリカ系のスーパーマーケットがあります。そこに、「鰻の蒲焼」が売られているのです。ちょっと値段が高くて、一年に一度ほど買ってしまうのですが、日本の物と、見ためも味も遜色がないのです。串焼きではありませんが、日本風の仕込みがなされています。この「鰻職人」は、『串差し三年!』と言った時代を経て、初めて焼き職人になれるのだと言われてきました。その修行を、後輩いじめのように取る方がいますが、『たかが鰻、されど鰻!』なのです。その道その道に、練達者に至る道は遠くて、険しいわけです。

ところが、現代は、「即性栽培のモヤシ」のように、一夜漬けの漬物のように、瞬時のうちに大成してしまう人がいます。松下幸之助や本田宗一郎のように、研鑽と努力によって、町の並みの商店主から身を起こしたのとは全く違うのです。そういった彼らの「愚直な努力」、「偏屈なこだわり」を、この時代の若者は『無駄だ!』と退けてしまうのです。そして、下積みなしで、数秒の間に、一人のサラリーマンの一生涯の収入の何百倍もの資金を手に入れてしまうのです。

日本の社会を安全に支えてきたのが、『愚直の努力です!』と、畑村洋太郎さん(「失敗学」の学者です)が、以前、ラジオで言っていました。小学校や中学を出て、生涯かけて、単純な作業をし続けてきた方々の、「愚直の努力」が、事故や災害や失敗を最小限にとどめて来たのだそうです。そうして来た彼らが職場から去ってしまった後、大きな人災事故が発生している様です。多くの先人が、「忍耐」や「自制」や「待つこと」を勧めています。これらは、時代錯誤なのでしょうか。芭蕉は、旅行中に、私たちが好んで食べる「鰻重」を食べたのでしょうか。

いよいよ弥生三月になりました。身も心もウキウキする様な季節の到来です。多くの人にとって、身辺の変化の時ですね。好い導きがあります様に願っております。
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訛る

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このブログは、去年の5月1日に投稿した分です。「悠然自得」から消えてしまった分ですが、原稿が残っていますので再掲載します。どうしてかと言いますと、今回の"平昌冬季オリンピック"で《カーリング女子》で銅メダルに輝いたチームが、北海道北見市の出身で、彼女たちが、『そだねー!』と、訛(なま)っていたのがニュースになっていて、去年の投稿記事を思い出したからです。

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私の生まれ故郷には、独特な「方言」がありました。そこで、のびのびと育ったのですが、子どもたちの教育のことを考えた父が、東京に住むことを決めて、南新宿に家を買おうとしました。ところが、これから思春期を迎えて行く息子たちに、歓楽街の近くに住むのは好くないということで、三多摩地区に家を買ったのです。そこにも、「方言」がありました。神奈川県に近いからでしょうか、そこと同じような「方言」だった様です。

ここ札幌に来て、同じ病室の方や、看護士さんや療法士のみなさんの話を聞いていますと、ここにも独特にあるようです。「語尾」に特徴があるのです。『しばれる』、『おおこわ』というのは有名ですから知っていたのですが。親しい人同士だと、語尾が砕けて話しています。

『俺、自動車の運転手してるんさー。』
『(奥さんに)今日市役所に行ってくれるんかい。』
『あの店の焼き鳥がうまいんだわ。』
『あのTシャツ、あの店で売ってるんだわ。』
『先週、留萌に行ってさ。』
『今日はなまら寒いんだわ(とても寒い)。』

こんなことを聞いています。これだと、真似できそうで使ってみようかなとも思っています。北海道は、アイヌのみなさんが原住民でして、金田一京助が、このアイヌ語の研究をされたようです。道民の多くの人たちは、日本の各地からの開拓者で、それぞれの地方の言葉を持って、やって来た人たちの子孫の北海道なのです。

札幌の隣に、「東広島市」がありますから、ここは中国地方の広島からの移住者が多くて、そう命名された街なのでしょう。『先祖は、どこの出身ですか?』と、何人もの人に聞くのですが、『さあ〜』と返事が返ってきます。もちろん転勤でやって来て、住み着いた人もいますし、様々なのでしょう。このところ、北海道を舞台にした映画で、主人公が使っていた<北海道弁>を、<生(なま)>で食べ、いえ聞いている毎日であります。(2017年5月1日記)

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今住んでる中国の南方でも、「方言」や「訛り」があって、独特なのだそうです。私たちは、東北の天津で、漢語の学習をしたのですが、そこは<標準語>でした。それで引っ越して来て、その<違い>が外国人の私たちにも分かったのです。『訛りは国(出身地の事です)の手形!』と言われますが、「訛り」のない私には、ちょっと寂しいのです。響きが優しくって、『そだねー!』はいいですね。

(北見観光協会のPR画像、カーリングチームです)
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雪中花

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食卓の上で、4輪の「水仙」が咲き揃いました。牙を剥くように押し寄せる日本海の波が洗う、越前岬の雪の中に咲いている事など想像もできないのですが、同じ花が、場所を変えて、「雪中花」と呼ばれるのが不思議に思えます。球根から育てた、わが家の「水仙」は、恵まれた環境の中で咲いているのですが、花の気持ちは、どうなのでしょうか。

作詞が吉岡治、作曲が市川昭介、歌が伍代夏子の「雪中花」という歌があります。

1 風に風に 群れとぶ鴎
波が牙むく 越前岬
ここが故郷 がんばりますと
花はりりしい 雪中花
小さな母の 面影ゆれてます

2 紅を紅をさすこともなく
趣味は楽しく 働くことと
母の言葉が いまでも残る
雪をかぶった 雪中花
しあわせ薄い 背中を知ってます

3 いつかいつか薄日がさして
波もうららな 越前岬
見ててください 出直しますと
花はけなげな 雪中花
やさしい母の 笑顔が咲いてます

越前福井出身の方が、同じ事務所で働いていました。あのアメリカ人起業家と一緒に働いた同僚だったのです。芯が強く、へこたれない好い人でした。お父様と妹さんが、年に一度ほど、稲刈りを終えて、農閑期になるとおいでになっていました。その時、お米や松茸を頂いたりしたのです。海岸地帯ではなく、内陸部の出身でしたが、寡黙なギターの上手な方でした。

母も日本海沿いの出雲の出身でしたから、人としての雰囲気が、彼と似ていたでしょうか。春を待ちわびる思いは、寒ければ寒い地方ほど、期待する気持ち大きいのでしょうか。綺麗に咲いた「雪中花」を眺め、牙向く波を想像し、懐かしく人を思い出しているところです。
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食欲

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子どもの頃、私は、「無線通信士」になりたかったのです。父の机の上に、モールス信号の送信機(電鍵)があって、それで遊んでいるうちに、そんな願いを持ち始めていたのです。でも戦後、上京後の父は会社勤め、というよりは会社経営の一端を担っていました。学校を出た兄たちは、それぞれに会社員になっていました。私は、会社で働くことに魅力を感じなかったのです。

それで、「教師」になろうと願ったのです。だからといって、教員養成の教育学部に学んだわけではなったのですが。多分に問題児童だった私が、そのような願いを持つことは意外なことだったに違いありません。なぜそのような願いを持ったのかと言うと、小学校の頃の「遠足」に由来しているのです。

学校行事の「遠足」は楽しかったのです。狭い教室で学習をしなでよかったし、知らない土地に電車やバスに乗って行けるし、母は普段と違う弁当を持たせてくれてたからです。小学生の頃、「潮干狩り」に、千葉の谷津遊園に行きました。雨降りの日でした。その日の天気も覚えているのです。学校で勉強をしていた時の記憶と言うのは、ほとんど覚えてないのが悔しいのですが。

必死になって、小さな熊手で、アサリを取ったのです。家に持ち帰って、それを母が味噌汁にしてくれましたから、胃袋でも覚えていたことになります。だからと言って、いつも飢えていたのではありません。父は東京のど真ん中に、電車通勤をして、いくつかの会社にかかわっていたのです。育った町では、まだ、ケーキやソフトクリームなど売っていませんでしたが、父は、時々、買って持ち帰ってくれました。ドライアイスがあることは、冷たいソフトクリームをほおばって始めて知ることが出来たのです。美味しかった、父親と美味しさとが一緒に思い出されるのです。

さて、潮干狩りが一段落して、お弁当の時間になりました。わいわいがやがやと美味しく食べていたのです。すると、醤油と貝が焼かれているけむりと匂いが、砂浜で弁当を開いている、我々の所に漂ってきたのです。なんと、どこかに消えてしまった先生たちだけが、よしずの小屋の中で、「サザエの壺焼き」を食べてるではありませんか。『ずるい!』と思ったのです。でも、実に羨ましかったのです。

『先生っていいな!あんなに美味しいものを食べさせてもらえるんだ!』、それは、強烈な印象でした。それで、『俺も先生になるんだ!』と、本気で思ったのです。それは、嗅覚と食欲を刺激されたからでした。ところが、教員は給料が安いのを知らなかったのですね。中学校の担任が、ツルツルとテカった背広を着ていたのを覚えています。この先生が、地理や歴史などを教えてくれました。教師陣唯一の東大出でした。

とても楽しく社会科学習をさせてもらって、社会科が大好きだった私は、『社会科の教師になりたい!』と願ったのです。その願いが、何と叶ったのです。都合5年、教育畑にいることが出来ました。「食欲」に誘発された動機の不純な教師の私に、教えられた学生たちは迷惑なことだったでしょうね。
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好きなもの

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 好きな映画は「ジャイアンツ」と「柘榴坂の仇討」、好きな男優は「ジェームス・ディーン」と「緒形拳」、好きな女優は「フランソワ・アルヌール」と「栗原小巻」、好きな音楽は「ジャズ」、好きな楽器は「ハーモニカ」、好きなアナウンサーは「中西龍(りょう)」、好きな音楽家は「モーツアルト」、好きな噺家は「金原亭馬生」、好きな浪曲師は「東家浦太郎」、好きな歌は「黄昏のビギン」、好きな男性歌手は「水原弘」、好きな女性歌手は「ちあきなおみ」、好きな唱歌は「ゆうやけこやけ」、好きな漫画は「赤胴鈴之助」、好きな画家と絵家は「ミレー」の「晩鐘」、好きな野菜は「トマト」、好きな果物は「山梨shanli(中国産)」、
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好きな洋菓子は「エクレア」、好きな和菓子は「きんつば」、好きな乳製品は「チーズ」、好きな飲物は「アールグレイの紅茶」、好きな日本食は「出雲そば」、好きな西洋料理は「ラザニア」、好きな正月料理は「ごまめ」、好きな中華料理は「卤面lumian」、
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好きな調味料は「ケチャップ」、好きな味噌汁の具は「しじみ」、好きな漬物は「奈良漬」、好きなことばは『詩人たれ!』、好きな本は「ばいぶる」、好きな詩人は「山村暮鳥」、好きな小説家は「石坂洋次郎」、好きな小説は「堕落(高橋和巳)」、好きな寓話は「イソップ」、好きな政治家は「チャーチル」と「廣田弘毅」、好きな経営者は「井深大」、好きな思想家は「Gerrit Cornelis Berkouwer /ヘリット・コーネリス・ べルクーワ」、好きな学者は「矢内原忠雄」、好きな歴史人物は「高杉晋作」、好きな教師は「内山先生」、好きな時代は「鎌倉時代」、好きな文化は「オホーツク文化」、好きな国は「デンマーク」と「日本」、好きな街は「ブエノスアイレス」と「伊達(北海道)」、好きな季節は「夏」、好きな島は「ハワイ島」と「利島(伊豆諸島)」、好きな岬は「日御碕(島根)」、好きな港は「敦賀港」、好きな海浜は「霞浦(福建省)」、
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好きな湖は「クレーター・レイク(オレゴン州)」、好きな海は「オホーツク海」、好きな川は「多摩川(東京)」、好きな山は「入笠山(長野県)」、好きな高原は「安曇野」、好きな草原は「パンパ(アルゼンチン)」、好きな景観は「九寨溝(四川省)」、好きな木は「ひのき」、好きな花は「むくげ」と「ノウゼンカズラ」、好きな香りは「挽きたてのコーヒー」、好きな動物は「ビーバー」、好きな鳥は「すずめ」、好きな歴史人物は「高杉晋作」、好きな帽子は「麦わら帽子」、好きな服は「絣(かすり)の着物」、好きな履物は「下駄」、好きな乗り物は「肩車」、好きな鉄道は「飯田線(長野県〜静岡県)」、好きな駅舎は「日野駅(JR中央線)」、好きな街道は「甲州街道」、好きな観戦スポーツは「アメリカン・フットボール」、好きなスポーツは「テニス」、好きなテニス選手は「キャロライン・ウオズアニッキ」、好きな野球選手は「与那嶺要」、好きな相撲取りは「琴ヶ浜」、好きな光景は「朝焼け」、好きな時間帯は「東雲の頃」、好きな色は「緑」、好きな音は「潮騒」、そして「家内」です。

(2018年2月改定版、「凌霄花(のうぜんかずら)」です)
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セツブンソウ

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この花は、「節分草(セツブンソウ)」と言うそうです。初めて知りました。広島県北部の庄原市で咲いたとの事です。春の近い事を告げる様に咲くのだそうで、可憐な花ですね。配信してくださる「里山を歩こう」に掲載してあった花です。絶滅危惧種の一歩手前にランキングされているようです。
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悲喜交交

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2月も下旬、寒い日もありますが、「春節」を迎えたこちらは、春の佇まい(たたずまい)が感じられて参りました。今朝、球根から出た茎に、二輪の花が咲きました。「水仙」です。この花は、日本では海岸の段々になった地に咲き、越前では、「雪中花(せっちゅうか)」と呼んで親しまれています。

この「水仙」は、地中海沿岸が原産で、陸路で中国に運ばれ、黄河だか長江の河岸に咲いていたそうです。その花の球根が、海に流され、海の上を漂って、日本の海岸に漂着して、そこかしこに咲き始めた、そういった一説もある様です。真冬の雪の中から咲き出すのですが、わが家の北側のベランダの花棚に置いていたのを、昨夕家の中に入れ、食卓の上に置きましたら、そこで開いたのです。実に綺麗です。

昨日は、私たちの住む棟の入り口から入る9階までの左右に、16所帯があるのですが、どこだか分かりませんが、「葬儀」が行われていました。楽隊が賑やかに演奏し、爆竹を鳴らしていました。入り口には花輪が並べられ、しめやかに行われていました。何度目か迎えた「春節」の間に召されたのです。近所付き合いがありませんので、私たちは外出をした次第です。悲喜交交(ひきこもごも)の春です。
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生涯の光

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「三波春夫」、若い方は知らないのでしょうけど、私たちの世代では、「歌謡浪曲」という芸能界で活躍した歌手で、よくラジオでもテレビでも、この方の歌を聞くことができました。矢張り、時代物、股旅物が多かったでしょうか。とくに、ご婦人層の絶大な支持を得ていたと聞いています。1964年開催の「東京オリンピック大会」や、1970年開催の「大阪万博」でも、《テーマソング》を、この方が歌ったのです。『こんにちは、こんにちは・・・』と歌い出していました。

この方のことを、以前、聞いたのです。あんなに上手で美声の持ち主だったのに、片方の耳の聴力がなかったのです。浪曲師や歌手にとって、それは致命的な欠陥だったのですが、それを隠し通して、浪曲調の歌謡曲を歌っておられたのです。ご本人と奥様だけの秘密で、それを守り通して、歌謡の世界で、引退するまで活躍されたのです。

世の中、意外と隠れたところに、問題、障害、欠陥、不足があって、それぞれが、そう言ったものを抱えながら生きているのです。それは個人の事だけではなく、家族、学校、会社、自治体、国家にもある事なのでしょう。要は、それをバネにして、残された《好きもの》を磨き、鍛え、整えながら生きることに違いありません。

優れた政治家一家のケネディ家には、優秀な息子たちの他に、障碍を負っていた娘がいたと言われています。実業家の父親は、それを<家族の恥>として、ひたすら隠し続けたのです。大統領を出そうとする家系に、そういった障碍を持つ子を欲しなかったからです。ジョン・F・ケネディの大統領就任式で、『・・・世界の友人たちよ。アメリカが諸君のために何を為すかを問うのではなく、人類の自由のためにともに何が出来るかを問うてほしい。・・・最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達が諸君に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲し
い・・・』と言っていました。彼は、自分の妹のために、何をもとめて、して上げたのでしょうか。自分の病気も隠して生きたのですが、死後に、全てが白日の元に晒されたのです。

ところが、"ソニー"の創業者の井深大は、障碍を持った自分の娘を隠そうとしませんでいた。また見世物の様に、<広告塔>にすることもありませんでした。『多恵子は、十字架であるとともに、生涯の光です!』と言っています。経営者として、健常者だけではなく、障碍を持った方たちに雇用の機会を開き、そうの方が働くことのできる工場を建設し、そこでも操業をしていました。

"SONY"の名を刻した《カセット・テープレコーダー》を、新発売にあたって、購買予約をして買って使いました。《優れもの》でした。自分の願いや選び取りで得ることのできない事や物、決して願わないものが与えられ、備えられたら、それをありのままに受け入れて生きることに、私はしたのです。私の母が、自分が産んだ三男の私に、自慢していた一つの事がありました。体に傷がなく、脚がすらっとしてる事だったそうで、そんな事を二、三度、私に言ったことがありました。ところが自分は頭や唇や耳の格好が、子ども頃に嫌いでしたし、小刀や喧嘩で、身に多くの怪我を負ってしまいました。

もうこの年になると、どうでもいい事なのですが、子どもの頃には、誰もが自分の足りなさに悩むのでしょうか。両親、兄弟たち、家内、子どもたち、そしてこの自分も、みんな造物者からの頂きものです。すべて最善だという事で、足りなさは《謙る》ために、良きものは《感謝》するための《天賦》なのです。三波春夫は、痛み、疲れ、意気阻喪した日本人に、舞台やテレビから、しばしの娯楽を与えたのです。自分にも<痛み>があったからではないでしょうか。

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京の都

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中部山岳の「山猿(山深い渓谷の流れの畔りの鄙びた旅館の離れで生まれたのでそう言っています)」の私にとって、「京の都」は、古都と言うよりは、結婚した父と母が、最初に「所帯を持った街」という思い入れが強いのです。この街を、中学の修学旅行で初めて訪ねました。バスガイドさんの語る、柔らかな京言葉、とくに語尾の柔らかさを聞いていたら、思春期の私は、すっかり彼女の虜にされ、憧れてしまいました。

そういえば、仲の好かった友と、一緒に、新島襄が設立した「同志社大学」に入りたかったのですが、叶えられませんでした。その友とは、バスケットボールを一緒にやっていて、彼と上級生との間にトラブルがあって、彼に同情して、一緒にやめてしまいました。そんな彼が、三十代の半ばで病気で亡くなってしまったのです。

一時帰国の折に、2、3年続けて、関西空港で降りて、京の街の郊外の大原で過ごしたことがありました。「大原女(おはらめ)」が、薪を頭に載せて、売り歩く写真だか映像を見たことがあったので、どんな山里か知りたかったのかも知れません。また、<日本情緒>に浸りたくて、そこに宿を見つけたのでしょうか。その民宿の二月の露天風呂に入って、大陸の垢を落として、夜空を見上げたら、小雪が舞っていました。

そんな京都を思い出させるかの様に、そこから一人の方が訪ねて来られて、一週間ほど泊まってもらったことがありました。その次の年の秋にも、おいでになられたことがあったのです。京都人の男性の言葉も、標準語を話すのですが、語尾が独特で、好いものです。「雅(みやび)」とか上品さを感じてしまいます。また来られると言っていました。

この「京都」は、私のアメリカ人の師が、「終の住処(ついのすみか)」に選んだ街でもありました。でも病を得て、新大阪駅の近くの病院に入院され、その後、東京のホスピスに転院され、そこで召されたのです。恩師が選んだ京都は、彼なりに期することがあったあったようです。でも志半ばで、すべてを果たし得なかったに違いありません。彼の生き方とか、終わり方に、「京都」は独特なものがあったのかも知れません。師が召されて、すでに17年になります。私にも「京都」は、彼の<教え子>として期すべきことがある街なのでしょうか。
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