どう生きたのか、同じような絶対主義下の時代にあって、基督者として信仰を守るか、信仰を曲げるか、それを迫られたのです。国家権力を恐れて、国が国民に求めた「日本人」として生きるか、聖書に従って「クリスチャン」として「信仰」を全うするかを突き付けられた時代がありました。
そのような時代の動きを掘り返した本が、同志社大学から、昭和43年に、「戦時下抵抗の研究(みすず書房刊)」と題して刊行されています。その中には「無教会」があり、改革派、プリマス・ブレズレン、きよめ派、美濃ミッション、個人として抵抗した「森派(森勝四郎に始まる群れで後に〈耶蘇基督之新約教会》」の後継者の野中一魯男(いちろう)、寺尾喜七らがいました。
その「踏絵」を踏まずに、生きる窮屈さ、孤立化、非国民と言われ、仕事も名誉も時間も失っても、潔く信仰に生きることを選び取った一人が寺尾喜七でした。この方の選び取りや生き方に、二十一世紀に生きる私は、思いを引き付けられたままでおります。
この寺尾喜七への「尋問聴取」が残されていて、その記録を読んで驚かされているのです。寺尾が「国体」に反して、自分の信仰を貫いたのを、私は、「沈黙(遠藤周作著)」に出てくる〈キチジロー〉や、戦時下の賀川豊彦と比較してみたのです。〈井上筑後守〉や〈特高警察〉の取調べや拷問や脅しの怖さの中で震えて、踏み絵を踏んでしまうキチジローたち、そして江戸で改名させられて幕府の監視の元を生き続けたロドリゴ、彼らとは違って、転ばずに海浜の十字架で溺れて刑死していく《モキチ》たち、信仰を守り通すか、棄教しても生きて、できれば告解して悔い改めるか、彼らの心の動きを思い出しています。
大学の教職を追われた方との交わりが、かつてありました。学生のみなさんに福音を語ったと言う違法で失職してしまったのです。未公認の群れの指導者となっている、隣り街の集いに呼ばれたことがありました。失ったものは大きかったのですが、得た立場を、教会の主から頂いて喜んでいた、この方の生き方が強烈に輝いていました。
以前なら、この方は収容所行きだったのでしょうけど、職や教授の立場を奪われただけでした。また、もう40年近く前に訪ねた街に、主に従ったが故に、13年も収容所で過ごした方の導いておいでの群れを訪ねたことがありました。タクシーを二、三度乗り継いでの訪問でした。溢れる様な人の中で、証しさせていただいたのです。再び収容所送りになることを恐れずに、群れのお世話をされ続けておいででした。筋金入りの伝道者でした。
「キリストの福音」に仕える決心の強さを持たれる方が、迫害が強くなれば強くなるにつれ、主に仕える生き方に留まり続けるのを見てきました。初代教会に、ヨハネに学び従ったポリュカルポスと言う人がいました。キリストか火あぶり刑かのニ者択一を迫られて、『これまでよくしてくださったキリストを捨てることはできません!』と言って、殉教を選びとった人がいました。
恐れずに、キリストの教会に仕え続けること、例え命を奪われても、職や人権や権利を奪われても、《教会の主》に忠実であり続けたみなさんの様に、この私は、果たして生きていけるでしょうか。国は、再び絶対的国家になったり、強権行使の政府が誕生したり、世界には、世界統一政府が国々を支配し、隣国が侵略して吸収していくのでしょうか。
聖書は、終わりの日の困難さに触れています。北からの軍隊、連合軍が、エルサレムに侵攻してくること、驚くほどの力を持って世界を支配する者の台頭があること、キリストでもあるかの様な支配者が出て、世界の難問を解決していくのかも知れません。この者が世界中で崇められ、礼拝される日がくることでしょう。不法の者の出現が間も無くあるかも知れません。
『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。 (イザヤ41章13、20節)』
『恐れるな!』と、聖書は繰り返しています。王の王、主の主であるイエスさまが、天の万軍を引き連れて、この地を統治される日が定まっているのです。私も、『マラナ・タ (μαράνα θά. –Maranatha 主よ来りませ/ 1コリント16章22節)!』と言って、おいでをお待ちしていましょう。
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