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日本新聞協会が募集した「新聞配達に関するエッセーコンテスト」で、先頃〈審査員特別賞〉を受賞した、廣瀬絢菜(あやな/長崎海星高2年)さんの記事が掲載されていました。
『私には亡くなった祖母との思い出がたくさんある。その中でも、新聞配達の思い出が一番印象に残っている。
私の祖母は昔から新聞配達をしていて、近所の人達からも慕われていて、多くの人は私の祖母が新聞配達をしていることを知っていた。大みそかの夜は、配達する新聞の量が多くなるので、毎年私たち家族も手伝っていた。私は小さかったので母と祖母と一緒にいて、兄たちと二組に分かれて配っていた。多くの人は寝ていたが、祖母と話をするために起きて待っている人もいた。しかし、祖母が体調を崩して配達を他の人に代わってもらうことがあった。その翌日、たくさんの人が祖母のことを心配して家を訪ねてきた。
そのとき、母が私に「たくさんの人が困っているときに助けるから、みんなからも優しくしてもらえるんだよ」と言った。そのときに、私は優しくて、みんなから頼られ親しまれている祖母のようになりたいと思った。』
こんな《新聞おばあちゃん》を持つ孫は、「仕事」とか「労働」と言うものの意味をしっかり学んでいることでしょう。1965年に、作詞が八反ふじを、作曲が島津伸男で、山田太郎が歌った「新聞少年」がありました。
僕のアダナを 知ってるかい
朝刊太郎と 云うんだぜ
新聞くばって もう三月
雨や嵐にゃ 慣れたけど
やっぱり夜明けは 眠たいなア
今朝も出がけに 母さんが
苦労をかけると 泣いたっけ
病気でやつれた 横顔を
思い出すたび この胸に
小ちゃな闘志を 燃やすんだ
たとえ父さん いなくても
ひがみはしないさ 負けないさ
新聞配達 つらいけど
きっといつかは この腕で
つかんでみせるよ でかい夢
小学生の私を職場に連れて行ってくれた父がいて、そこで《仕事》をしていて、自分たち家族を養っていてくれていることを知ることができたのは、よかったと思い出します。自分が仕事を得て、一社会人として生き始めた時には、その出来事は、意味のあるものでした。
中学生だった息子たちが配達できなくて、新聞の朝刊を、しばらく配っていた時期が、私にもあります。5階建ての集合住宅の階段の上り下りは、まだ若かったのですが、けっこうキツかったのを思い出します。学習塾に行きたくて、新聞を配達をしたのですが、県立高校や大学受験名門の私立高校には行かないで、友人が受け入れてくれると言って、ハワイの学校に行った長男でした。次男も、新聞少年を経験し、それぞれよい経験になっています。
娘たちもスーパーマーケットの会計の仕事を、夏季や冬季の休みにしていました。新しい店ができると、開店セールに動員されて、店長に重用されていたのです。労働の対価としてのお金が、どんなに尊いかが学べるのは、実に有益に違いありません。
私の愛読書に、『また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。 』とあります。《勤勉》であることは、働く者の心を満足させてくれるのです。新聞配達をした朝には、清新な空気がありました。《落ち着いた生活》ができることは、一つに生活の美点でしょうか。
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