ある日記に、次の様なことが記されてありました。
『一体、日本人は朝鮮人を人間扱いしない悪い癖がある。朝鮮人に対する理解が乏しすぎる。(中略)[関東大震災について]自分はどうしても信ずることが出来ない。東京にいる朝鮮人の大多数が、窮している日本人とその家とが焼けることを望んだとは。そんなに朝鮮人が悪い者だと思い込んだ日本人も随分根性がよくな い。よくよく呪はれた人間だ。自分は彼らの前に朝鮮人の弁護をするために行きたい気が切にする。今度の帝都の惨害の大部分を、朝鮮人の放火によると歴史に残すとは忍び難く苦しいことだ。日本人にとつても朝鮮人にとつても恐ろしすぎる。事実があるなら仕方もないが、少なくも僕の知る範囲で朝鮮人はそんな馬鹿ばかりでないことだけは明かに言ひ得る。それは時が証明するであらう。(大正12年9月19日)』
この日記を記したのは浅川巧(たくみ、1891~1931年)です。浅川は、山梨県北巨摩郡甲村五丁田(現・北杜市/高根町)に生まれ、山梨農林学校(現・山梨県立農林高校)に学び、1914年に、朝鮮総督府林業試験場に就職しています。兄の伯教とともに、朝鮮半島に伝わる陶芸である「白磁」の研究をして、蒐集した「朝鮮文化」の陶磁器や農具などによって、「朝鮮民族美術館」を設立しています。この巧もまた、日本が「日韓併合」の中で苦しむ朝鮮半島の人々のために、生涯を捧げているのです。
当時の朝鮮半島は、日本が韓国併合をおこない、植民地統治を行なっていました。日本による「同化政策」の強制が行われ、農地・山林の収奪などによって、人々は苦境に立たされていました。とくに、朝鮮の人々に対しての「蔑視(べっし)」や「差別」が公然と行われていました。そういった様子を目にした巧は、『朝鮮に住むことに気が引けて朝鮮人に済まない気がして、何度か国に帰ることを計画しました!』と、友人に宛てた手紙に書きのこしています。彼の心の中には、何も違わない朝鮮の人々を友人として、自ら「朝鮮の衣装」を身につけ、朝鮮語を学んで、上手に使う努力を重ねていくのです。朝鮮の家屋に住み、進んで朝鮮の社会に入っていきました。そのために、よく朝鮮人と間違えられたりするほどだったようです。文化的にも精神的にも民族的にも、極めて近い朝鮮半島の人々の苦しみや痛みを知ろうとしたからです。
また、当時の朝鮮半島は、乱伐などによって荒廃していました。そんな朝鮮の山の緑化を推進していくのです。そのために植林、肥料の研究、病害虫の駆除などの分野の研究や開発をしたのです。巧の最大の功績は、人工的には難しいとされていた「チョウセンゴヨウマツ」などの種子の発芽を可能にする開発だったと言われています。日本かの裏側で、そういった努力を、日本人技術者が、黙々と進めていたことも忘れてはいけないのではないでしょうか。そのためでしょうか、浅川巧の墓は、ソウル(京城)郊外の共同墓地にあります。かつて、こういった人物がいたのです。
(写真は、「ソウル・永登浦区」です)