家内の小旅行?

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中国版の新幹線を「動車」と言い、車体の先頭に「和谐号/hexiehao」と書かれています。発着時間は正確で、日本の電車のそれに匹敵しています。少しきしみ音がするのが気にかかりますが、快適です。フランスと日本から技術を導入し、今や全土を網の目のように結びつつあります。古老に聞きますと、昔は蒸気機関車で、上海まで大変な長旅だったそうです。

最後に蒸気機関車に乗ったのは、中学生の時に、中央線の立川から五日市まで走っていた、今はなき「五日市線」だったと記憶しています。『シュッシュッ、ポッポッ!!』 と黒煙や白煙、蒸気を吐き出しながら走る姿は力強かったのです。そういえば、母が四人の子どもを連れて帰郷 した時も、蒸気機関車でした。東海道線は電化されていたと思いますが、福知山線から山陰本線は、蒸気機関車だったのではないでしょうか。

母に事情があっての母子旅行だったのです。詳しいわけは、ついぞ聞かず仕舞いでした。家内が、次女を妊娠中に、上の二人を連れて、私に内緒で小旅行をしたことがありました。実は、大人版の「家出」でした。何かで夫婦喧嘩をした後だったと思います。まだ若くて短気だった私と諍いをして、『プイ!』と出て行ってしまったのです。それが初めで最後のことでした。

母は実家に帰ったのですが、祖母に諭されて、一大決心をして父の元に帰りました。それ以来、母の家出はありませんでした。さて家内は、実家には帰らないで、小海線の「清里」に、二人の子の手を引いて、着替えなどを入れた風呂敷包みを持って、電車で出かけたのです。泊まったのが、以前、でかけたことのあった「自然の家」の付近にあった一軒の民宿でした。不審に思った民宿の夫妻は、玄関に家内たちを待たせたまま、結構長く相談をした結果、やっと泊めてくれたそうです。

よく朝、長男と長女が、お菓子の取りっこで喧嘩をしたそうです。夫婦の間が上手くないと子供も不安定になるよい例です。その鳴き声を聞きつけた夫妻が、階段を駆け上がってきたのだそうです。すわ「母子心中」かと思ってでした。事情がわかったお二人は、安心して階段の途中に座り込んだようです。

そんなこともあった43年間です。家内の友人から、『いつでも泊りに来てください!』と言われている<避難所>があるようです。でも、いまだ利用をしていないようです。『あなたはずいぶん変わったわ!』と、先日言っていました。さて異国に嫁いだ次女は、<実家!?>が中国に来てしまっているので、そんな場合は、どこに行く予定でしょうか。婿殿は、私と違って優しいから杞憂でしょうか。

(写真は、家内たちが泊まった民宿のある「清里」です)

メール

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昨日、東京に留学している学生さんからメールがありました。『東京は梅雨の季節に入って雨がずっと降っています。』と知らせてくれました。それで、「雨」の歌を思い出したのです。作詞が北原白秋、作曲が弘田龍太郎で、1918年に発表されています。

1 雨がふります 雨がふる
遊びに行きたし 傘はなし
紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 緒が切れた

2 雨がふります 雨がふる
いやでもお家で遊びましょう
千代紙折りましょう 疊みましょう

3 雨がふります 雨がふる
けんけん小雉子(こきじ)が今啼いた
小雉子も寒かろ 寂しかろ

4 雨がふります 雨がふる
お人形寢かせど まだ止まぬ
お線香花火も みな焚(た)いた

5 雨がふります 雨がふる
昼もふるふる 夜もふる
雨がふります 雨がふる

「雨あがる」という映画を観たことがあります。大雨で、川止めになった旅人たちが、河畔の安旅籠(やすはたご)で過ごす数日を描いたものです。この「川止め」は、徳川幕府が、主要な河川に首都防衛のために、橋の架設を禁止していましたから、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠まれたように、ことに大雨の川は難所でした。

連日の雨降りで、旅を続けられない逗留客の間で、諍(いさか)いが起き始めるのです。『食べ物を盗んだ!』などと罵ったり、狭い空間に閉じ込められていますから、ある人は我慢の緒が切れてしまうのです。そんな遣る瀬無い状況の打開を願って、貧乏侍が、町の剣道場に行って、「賭け試合」をするのです。果し合いに勝った侍は、酒に魚に米など食材を買って、みんなの元に戻り、『さあ、みなさん、景気直しに一杯やりましょう!』と言って、宴を設けるのです。

その晩は、飲めや歌えで盛り上がり、雨降りの憂さを晴らすのです。『実に腰の低い、いいお侍さんだ!』と感謝されます。江戸期の庶民の、なんでもない数日の描写ですが、本当に、そんなことがあったに違いないと思わされる佳作でした。こちらは雨季が終わり、本格的な夏の到来です。今日も暑い一日かな!

(写真は、相模の国、神奈川県下を流れる「相模川」です)

珈琲館

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時々見かける光景です。それも同じような光景なのです。若い男女が、喫茶店でテーブルのコーヒー・カップを前に座っている、どこの国の街でも見かける光景です。

そう言えば、最近、この街でも喫茶店が増えているのです。以前は、師範大学の正門の道路を挟んだ反対側の貸店舗にあっただけで、ほとんど見かけませんでした。その近くに住んでいましたので、たまに入って、外国人の教師仲間と話したり、誘われたりして利用していました。街中で人と会ったりする空間が少なかったので、最近は、あちこちに出店していて、とても便利に利用させてもらえるのです。日本やアメリカの大学生がノートやパソコンを開いたりして、日がな座り込んでいるのを見かけたのですが、ああ言った光景を目にすることができます。

そう、若者たちでした。彼らは、じっと見つめあったり、話し合ったりしていないのです。何をしてるのかと言うと、「手机(携帯電話のことです)」の画面を覗き込んでいるのです。あんなに話し上手の中国人ですのに、会話がないのです。いえ、ジロジロと羨ましそうに眺めているのではありません。通りすがりに目に飛び込んでくる光景なのです。とくに男性が、そうしていますし、たまに二人ともそうしています。せっかく一杯15〜20元のコーヒー代を、二人分払っても一緒にいたい好きな人なのに、『何をしてるんだ!』と言いたくなるほどです。

二人だけの世界にいるのに、別々なことをしているのが、とても気になるのです。数十年前の若者時代、駅のそばに「ルノアール」というチェーン店の喫茶店がありました。帰国時に、新宿と恵比寿で見つけましたから、どこにでも、今でもあるのですね。学校帰りに、映画を見た後とか、試験前にはノート写しとかで二人で、または7、8人で話し込んだりしていました。ケイタイのない時代ですから、目と目を合わせて、なんとか自己アピールをしなければならないわけです。懸命に薄っぺらな知識やニュースを話題に話していたのだと思います。

あれは<古き好き時代>だったのでしょうか。機械に振り回されなかったからです。今日日、ケイタイやPCが主人になってしまって、酷使されている奴隷のように感じてしまいますし、ケイタイが<恋人>になっているような雰囲気が漂っています。これって、世界中の傾向のようですね。『人生を共にしたいほど好きなら、生きている恋人を優先せよ!』 昔の若者より。

(写真は、美味しいコーヒーです)

昨日今日の中国

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住んでいるアパートは七階建てで、一番下は貸店舗か駐車や駐輪スペースになっていて、一棟40所帯ほどです。それが40棟あります。大通りに面したものは27階建てが幾棟かありますから、単純計算をして見ますと、ざっと1800所帯ほどあるのです。それほどの規模のアパートは、「⚪️園」と名前がつけれれていて、私たちの区に、何十とあるのです。今も建築中で、小学校までもが九月の開校を期して建築中です。それだけの所帯の数ですから、人口の多さも相当なものになることでしょう。

そこに二年ほど前に、中国中に展開している「ショッピングモール」ができました。金曜日と土曜日の夜は、ものすごい人の波が、このモールに押し寄せ、押し出されています。世界中の有名ブランド名の店がひしめき、レストランも半端なくあるからです。その集客力、購買力を引き込もうと、その並びに、少なくとの二つの新しい「ショッピングモール」が、建築中で、一つは、九月開業だそうだそうです。

今や一大ショッピングエリアになってきています。全中国で二番目の売り上げがあったと聞いているモールです。でも、我が家は反対側の端にありますので、騒音はそれほどではありませんが。夕方になると大変なのが、車の渋滞です。片側三車線あるのに、モールができてからは、日に日に車が増えていることと、この大通りの先に、幾つものアパートができていますので、大変な状況です。交通規制や工夫がないと、どうにもならなくなってしまうのではと、外国人ながら憂慮しています。

それに、地下鉄の第一期工事が終わると、近くを通る第二期の地下鉄工事が始まるそうですし、市政府の庁舎も移転してくるとも聞いています。一体どうなることでしょうか。計画されてから、土地の持ち主との折衝と言った厄介ごとをしないで済むので、なんでも早いのです。日本では考えられないことです。

所用を済ませて、このモールで食事をしましたら、昨日の日曜日は、欧州の自動車メーカー(日本も含めて)の販売会社が、モールの催し場と一階のスペースで、モーター展示会を行っていました。家族連れが、乗り込んだり、説明を聞いていました。さながら日本の30年前のような光景です。でも人の多さからしますと、考えられないほどの数の車が、すぐにでも路上を走り始めることでしょう。豊かになってきているのを肌で、ひしと感じている昨日今日の中国です。

(写真は、大型のショッピングモールです)

喧喧諤諤

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「長幼の序」という言葉があります。年少者は年長者に、一歩も二歩も譲ることなのでしょう。ただ一日でも日数が多い人は、それだけ経験したことも多くあると言った意味で、『<一日(いちじつ)之長>がある!』と言います。goo辞書によりますと、「《「孟子」滕文公上から》年長者と年少者との間にある秩序。子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむというあり方。」とありました。

週末の土曜日になると、小学生から大学生たちが5~6人、我が家にやって来ます。家内が日本語を教えているからです。授業の合間や終わった後に、彼らの話を聞いていて、新発見をしたのです。こういった場面は、これまでなかったからです。小学生が、大人でも大学生でも、彼らを相手に話をする時に、怖じたり遠慮したりしないで、しっかりと自己主張をしているのです。

自分が小学生の頃、大人の話し合いは、ただ聞いているだけでした。その話に口出しをすると、ジロッとみんなに睨まれて、『子どもは黙っていなさい!』と牽制されるのが落ちでした。そう言った社会でしたから、新中国の社会は、思ったことや感じたことを、率直に言い表せる社会なのだということを知って、感心させられたのです。

これは何時か読んだ本に書いてあったことですが、かつての中国でも、経験の少ない若者が、意見を言う機会があったのだそうです。位の高い人や年長者は、それを制止しないで、じっと聞いたのだそうです。建設的な意見なら、それを汲み上げて、高く評価をしたようです。若いからと言った理由だけで、無視しなかったのが、中国の社会だったのです。

92歳の方が、87歳の人に、『君、まだ若いなあ!』と言うのを聞いたことがありました。二人とも相当な年齢、同世代なのに、一歳でも二歳でも年下の人には、そう言った物言いをするのが、日本の社会の序列、人間関係なのだと再確認したわけです。

だからでしょうか、自己主張と言った点で、日本人は中国のみなさんに叶わないのではないでしょうか。人の話を聞いている間、『何を話そうか?』と、中国人は考えているように見受けられます。だから喧喧諤諤(けんけんがくがく)、あちらでもこちらでも話が交わされ、賑やかなのです。同席している私たち日本人は、聞き役に徹してしまうのです。遠慮ばかりではいけないと感じた昨日の土曜日でした。

(写真は、”ウイキメディア”の「万里の長城/発達嶺」です)

初耳

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中学校3年の国語の教科書に、「二つの悲しみ~戦争が残した出来事~」という一文が掲載されています(光村図書)。戦後、千葉市稲毛にあった「引き揚げ援護局」に勤務されていた、杉山竜丸氏が記したものです。昨年の7月に、その全文を、このブログに掲載しました。学校教育の中で、15歳になる中学生に、こう言った種類の「悲しみ」があることを伝えているのを知って、感じることが多くありました。

感じ入った私は、昨年度と今年度、二年に亘って、この文章を使って、日本語学科の学生のみなさんに作文をしてもらっているのです。息子をなくした父親の悲しみが、一つ目の悲しみです。肩を震わせて慟哭する父親の姿が印象的でした。また、食べ物が欠乏し、弱くなっていた祖父母に頼まれて、小学校3年生の少女が味わうのが、二つ目に悲しみです。メモを手に援護局にやって来ました。母親をなくした少女は、父の戦死の知らせを、この作者から聞くのです。『泣いてはいけない!』、二人の妹もいて、『しっかりしなくてはいけない!』と言われて来たのです。目に涙をいっぱいにしても、じっと我慢をして聞くのです。

戦後の日本で、こう言った経験をした人がいたことは、中国で教育を受けてきた学生にとっては初耳、新発見だったようです。「悲しみ」への共感を記していました。そういえば、私の小中高大のどのクラスには、「父なし子(ててなしご)」が何人もいました。<時代の子>なのです。彼らは、どのように戦後を生きてきたのでしょうか。お母さんが、八百屋の手伝いをしながら育てられていた「ターボー」はどうしてるのでしょうか。おじいさんとおばあさんに育てられていた「ショウチャン」、お父さんの遺品の帽子をかぶってチャンバラをしていた「ジュン」はどんな今を過ごしてるのでしょうか。

学生のみなさんは、「平和」、「和平」を希求しているのです。二度と再び、あのような「悲しみ」を味わうような時がこないように、切望しているのです。武力、軍事力を持つことによって、相手を威嚇し牽制することでしか保たれない「平和」なのでしょうか。刀をちらつかせる以外に、交渉できない外交なのでしょうか。驚くほどの科学的な思考をしている現代人もまた、愚かなのかも知れません。それでも、「地に平和を!」を願う<ハナキン>の夕べです。

(写真は、”ウイキメディア”、平和のシンボルの「ハト」です)

衣替え

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この土曜日に、『一緒に食事をしましょう!』とのお招きで、指定のレストランに公共バスに乗って行きました。バスを降りて、先に郵便ポストで手紙を投函したのです。その道のどこでだったでしょうか、上半身裸の男の人を見かけました。もうすっかり夏が到来したのだと思わされたのです。ここ華南では、時々見かける光景なので驚きませんが、みなさんの服装が小綺麗になり、色鮮やかさがましている中での裸は、ちょっとそぐわなくなってきています。私が長く過ごした日本の社会では、六月一日は、「衣替え」です。制服を着る学生や警察官のみなさんは、冬服から夏服に替える時なのです。

こちらのみなさんは、裸(最近は少なくなってきています)、Tシャツ、長袖、コートなど、実に自在に服装を選んで生きておられます。人によって気温の感じ方が違うのですし、社会制約もありませんから、自由でいいなと思います。それに引き換え、日本では、カンカンに太陽が照りつけているのに、黒の学生服を我慢してきている様子を、以前はよくみかけました。

日本で励行されている「衣替え」も、実は中国の宮廷で行なわれていた習慣を、日本の社会が受け入れて、6月1日から9月30日までが夏服、10月1日から3月31日までが冬服の着用期間になったわけです。地球温暖化、社会の多様化の中で、制服を着なければならないみなさんは、自由にはできないわけです。髪を切って、指定の制服に帽子と黒革靴、ズックの肩掛けカバンで、中学に入学しました。詰襟が、アゴにきつかったのですが、『もう子どもじゃないぜ!』と自覚が湧いてきたのを思い出します。

そう言えば、こちらの大学の先生たちの服装も自由でいいと思っています。これからはジーンズ、七分丈のズボン、ポロシャツ、Tシャツの方がいらっしゃいます。ですから私もネクタイなど締めなくなってしまいました。『来学年は、きちんとしよう!』と思っているのですが、果たしてどうでしょうか。でも空調の備わっていない教室もありますので、教室が決まってからのことになるでしょうか。冬には、厚手のコートは必需品ですし。

しかし、最近の若いみなさんの服装は、渋谷さながらで、秋葉原のファッションで身を飾っている若い女性もおいでです。女性のスカートの着用が、ずいぶん多くなっているのに気付かされております。それにひきかえ、『男性がお腹を出して歩くのだけはやめて欲しいのです!』、そう小声でお願いしておきます。そう、ご馳走になった、イタリアのローマで、日本人の板前に教わった店主の握ってくれた「江戸前ずし」は、とても美味しかったのです。

(写真は、”ウイキメディア”による「にぎり寿司」です)

20回目の家

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生まれてから今まで、住んだ住所を正確に数えて見ました。20ありました。父と一緒に5回、父から独立して今まで15回になります。それは荷造りをし、荷ほどきを繰り返した引越しの回数になるのでしょうか。生まれた家は、いつでしたか、母と兄たちと訪ねた時に、『ここであなたと徹ちゃんが生まれたの!』と、母に教えてもらって分かったのです。沢の谷間で、参拝客を止める旅館の離れで、日当たりの悪い家だったのでしょう。長く人が住まなかったので廃屋のようでした。それからだいぶ経って再訪した時には、崩れ落ちていました。

記憶が深いのは、八王子から越した街でした。そこで二十歳まで住みました。小中高大と、両親と二人の兄と弟と一緒に暮らしたのです。居室が二間と茶の間と台所の小さな家でした。そこに父が風呂場を大きく拡張していました。よく6人もで住んでいたと感心してしまうのですが、それだけ家族の距離が、物理的にも心理的にも近かったことになります。4人で喧嘩を繰り返した家ですが、それででしょうか、今も四人兄弟は人が羨むほど仲が好いのです。

所帯を持ってからでは、生まれ故郷と同じ街に引っ越して、一番下の息子が生まれてから、6人で過ごした家でしょうか。三間と台所で、道路を挟んで事務所がありました。一時期は、そこで10人で生活していたことのある家です。豊かではないのに、人の世話をやいて、同居者を迎えていたのです。近所のみなさんには、随分とゴチャゴチャと賑やかで、迷惑だったことでしょうか。子どもたちも、きっと思い出深い家ではなかったかと思います。

そういえば、長男が生まれて産院から退院してすぐの夜に、国道の工事中にガス管が破れて、消防士に『避難してください!』と言われて、着の身着のまま、長男を入れた衣装ケースを左手で抱え、家内の手を引いて逃げたこともありました。また、上の階でガス爆発の火災があって、被災したこともありました。3人の子と下の子がお腹にいた時でした。命からがら奇跡的に守られたのです。『引火しなかったことが信じられません!』と、現場検証をしていた消防士が言っていましたから。まさに、二回も火の危険の中からの<エクソダス>があったことになります。

20回目の家は、友人の同僚が、ご両親のために買われて、内装を綺麗にしてありました。でもご両親は田舎が良くて、越してこないまま空き家だったのを、お借りしたわけです。夜間の車や酔客の声がうるさいのが玉に瑕(きず)ですが、これまでのどの家よりも快適なのです。そんなこんなで感謝な日々を過ごしております。ご安心ください。

(写真は、前に住んでいた家の裏庭に咲いていた「花」です)

水無月

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「水無月」、六月の別名です。「梅雨」の時期をこう呼んだのには、訳があったのでしょうか。旧暦ですと、「五月」が梅雨の季節であったのですが、この「五月」を「皐月(さつき)」と言いました。梅雨の時期なのに、「皐月晴れ」と言ったわけです。雨の止み間の晴れのことだそうです。そう呼び始めた人は、「皮肉」で言ったのだと思ってしまったのですが、ちょっとネットの「語源由来辞典」を見ることにしましょう。

「水無月」は次のようにあります。「水の無い月と書くが、水が無いわけではない。<水無月>の<無>は、神無月の<な>と同じく<の>に当たる連体助詞<な>で<水の月>という意味である。陰暦六月は、田の水を引く月であることから、<水無月>と言われるようになった・・・」とありますが、後者の説の方が当を得てるようです。

「皐月」は次のようにあります。「<耕作>を意味する古語の<さ>から、稲作の月として<さつき>になった。<早苗>を意味する<早苗月>が約され<さつき>となった説もあるが、<早苗>の<さ>も耕作の<さ>が語源とされる。漢字<皐>には<神に捧げる稲>の意味があるため、<皐月>が当てられたと思われる。」とあります。

今日は快晴ですが、熱風ではなく、午後の帰宅したての部屋の中を通って行く風の動きは、爽やかで気持ち好いほどです。なるべくNHKのニュースを、ネットで聞くことにしてるのですが、昨日は、熱中症で救急搬送された方が大変に多く、亡くなられた方もいたと言っていました。これから梅雨、夏を迎えますが、去年の様な暴雨や異常高温にならないようにと、心から願っております。

こちらは、昨日から「児童節」、「端午節」の三連休です。朝でかけての帰りの道は、随分と混んでいました。遠出をしない家族連れの車が、町の北方にある近場の「森林公園」と「動物園」に行くのでしょうか、渋滞していました。お父さんたちは、子どもに、『どこか連れてって!』と言われて、家族サーヴィスの日になっているのでしょうか。その車の列を眺めながら、子どもたちを乗せて、あちらこちらと出かけた日々が、とても懐かしく思い出されたのです『お父さん、<イカの串焼き>買って!』と四人に言われて、『ダメ!』と言ったことが悔やまれてならないのです。もう二度とやってこない機会ですが、もし、また言われたら、財布の中を覗かずに、『いいよ、腹一杯食べな!』と言って奮発しようと思っている、「六一」の夕方です。

(写真は、”クックパッド”から、子どもたちが食べたかったのとはちょっと違う「イカの串焼き」です)

本籍地

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家内の独身時代の本籍地は、「東京都文京区湯島切通坂町」です。東京のど真ん中になります。江戸時代には、この近くに「昌平坂学問所」がありました。この学問所は、「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれ、1790年に、五代将軍・徳川綱吉の時に、徳川幕府直轄の学校として開所しています。当時の最高学府が、ここにあったわけです。明治維新以降は、東京大学、東京師範大学(現在に筑波大学)、東京女子師範大学(現在のお茶の水女子大学)に繋げられていきます。「昌平」とは、孔子の生地である「昌平郷(山東省曲阜)」にちなんで命名されているそうです。徳川幕府が、「論語」などを著した孔子に学ぼうとしていたことが分かり、日本の学問のルーツは、やはり中国にあるのです。

一方、私の本籍地は、「島根県出雲市今市町」です。日本有数の宗教色の強い街なのです。父は、母の住所を本籍地として選ぶほど、山陰の街への肝入りが深かったようです。独身時代の父は、松江や出雲で仕事をしていて、そこで母と出会ったようです。近所の若者を連れては、近所の小川に入って、「ドジョウ」を獲るのが好きだったそうです。それででしょうか、『雅、浅草へ柳川を喰いに行こうな!』と、何度も言ってくれました。しかし、それは<空手形>の約束で、果たさないまま父は天に帰って行ってしまいました。

こちらのスーパーには、ナマズやカエル、そしてドジョウが売られております。みなさんは、どう調理して食べるのでしょうか。実は日本で、上司にご馳走になって、一度だけ、<ドジョウ鍋>を食べたことがありました。骨が苦手で、美味しいと思わなかったのです。ですから、父の約束不履行に対して、責めるよりは、『かえってよかった!』と思っているほどです。

私の本籍地は、所帯を持った時に、間借りしていた家の街にしてあります。あれから何度も何度も引越しをしているので、戸籍の抄本や謄本を取り寄せるのに不便を感じながらも、そのままにしてあります。簡単に、本籍地を移せるのだそうですが。

日本から持ってきた重要書類に中に、家内と私の「戸籍抄本」があります。結婚した時に、届け出をするために取りせた二通の残りの一通です。パスポートがあれば十分なのに、なぜ持って来たのか不明なのです。それで先日、「国籍」が話題になって、こちらの方に、それを見せて上げたのです。不思議そうに、<青焼きの抄本>を眺めておいででした。当時は、ゼロックス式の普通コピーのなかった時代ですから、<青写真>なのです。

一体、故郷とはどこなのでしょうか。生まれた村でしょうか。そこは係累が誰も住んでいない村です。村の名称も変わってしまっています。それとも、小学校時代を過ごした街なのでしょうか、家のあった所には、中央道が走っています。それに父母もいなくなっています。そうか、きっと「天」に、私の故郷があるに違いありません!そこに帰って行くこと、それが私の希望なのだと思っている、異国の空の下の週末であります。

(写真は、「町名を探す会」の家内の本籍地の附近の住居表示です)