「否」と言える勇気をもって

 

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 「天晴武士(あっぱれもののふ)」という言葉が、山本周五郎の作品の中に出てきます。武士の家庭では、男子を育てることが、武家に嫁した女性の主たる務めだったのだそうです。私情の入り込む余地などのない、母性の心の動きを制した育児が、日本の封建時代の武家社会には求められていたようです。

 主君のための子、やがて主君に仕えていくわが子のために、天晴れな家臣となって生きることを願う、いわゆる滅私奉公だったのでしょう。だからでしょうか、『武士道とは死ぬことと見つけたり。』と言われた、「葉隠」が鍋島藩にあって、かつての武士の世界で、高く評価されて、近代国家になりつつある軍隊の中にも、その精神が引き継がれて行ったのでしょう。

 無敗の神国日本が、開国以来の「負け戦」を体験し、「土性骨(どしょっぽね)」を打ち砕かれて、民主的な社会が生まれた、いえ与えられたのですが、それからもう八十年になろうとしています。新渡戸稲造が著した「武士道」には、日本の精神や社会の仕組みなどにとって、この「武士道(もののふのみち)」には、大きな意味があったと記しています。

 明治維新以降、欧米に立ち遅れた日本の現状で、自分の国を、国際社会に紹介し、訴えるにあたって、この書を著したことになります。彼自身が、陸奥の盛岡藩の藩士の子として、1863年に盛岡城下で生まれています。彼の家には、父親が江戸藩邸から持ち帰った「舶来品」が多くあって、そんな中で物心がついたので、「西洋への憧れ」が強かったのだそうです。稲造は、英語も習い始めていました。

 十五歳の1877年9月に、札幌農学校に学びます。在学中に、クラークの導きで基督者となった上級生との交流の中で、彼も信仰を告白し、宣教師のハリスから洗礼をう受けます。その後、東京大学で学び、母校の札幌の農学校の助教授になります。その後、ジョンズポプキンス大学に私費留学しています。その動機が、東京大学の入学の面接試験の折に語った、『太平洋の架け橋になりたい!』だったのです。

 1900年に、病気治療中の稲造が英文で執筆した「武士道」を、アメリカで出版したのです。好評を得て独訳、仏訳とされ、ヨーロッパでは Best seller になっていきます。東洋の小国日本への関心が、欧米社会に高まるという結果を生んだのです。


 日本人の「心の拠り所」、精神の支柱、道徳的な根拠になっていたのが、この「武士道」であると言う主張が、この本でなされています。ある学者との交わりで、『(日本の学校に宗教教育のないのを知って)道徳教育はどうして施されるのですか?』と問われ、驚いた稲造が、子どもの頃のことを思い返すのです。自分の道徳教育は「武士道」だったと気付いています。

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 また、稲造の妻であった Mary が、夫との生活の折々に感じていたことなのでしょう、『日本では、なぜそういった考えをするんですか?』と何度も、その説明を求められることがあったのです。これが執筆の最も大きな動機だったようです。そのようなことが、本書の「序文」に記されてあります。

 武士が生きていくのに求められたことが、形を変えて女性にも、『芸や、もっと穏やかな人生の優雅が求められていた。』と、男らしいこととともに、女性に求められていたことにも言及しています。

 『過去の日本のサムライは、国民の花であっただけでなく、国民の根でもあった。』と言っています。『サムライ以外の民衆に道徳的標準を示し、民衆をその手本で導いた。』、『民衆に娯楽と教育の無数の通路ー芝居、寄席の小屋、講釈師の高座、浄瑠璃、小説ーは、その主な題材をサムライの物語(*義経と弁慶、曽我兄弟などです)から取っている。』、『やっとヨチヨチ歩きを始めた子どもさえ、桃太郎の鬼ヶ島征伐の冒険談を、回らぬ舌で語るように教えられた。・・・女の子でさえ、武士の武勇と徳の愛にたっぷり浸り切って・・・』、など、侍の武勇伝を好んで聞かされてたのです。

 そのような「武士道(もののふのみち)」の中に育った稲造は、キリストの福音に触れて基督者となっています。稲造によると、武士道を否定しないのですから、聖書の説く教えと近かい部分もあって、共鳴していたに違いありません。彼は、信仰的良心を持ち続けて、教育界や国際社会で活躍したのです。内村鑑三も新島襄も武士の出であり、ホーリネス運動に中田重治は足軽の子であり、孤児救済に人生を捧げた石井十次も高鍋藩の下級武士の子、救世軍の山室軍平は農民の子でした。

 武人の子も農民の子も、福音に触れて、大きく社会に貢献して生きたことになります。だれも倒(さかの)ぼるなら、「アダムの子」でありますが、キリストを信じるなら、「神の子」とされるのです。

 嫌われ差別されて蔑称で蔑まれた人々でも、博徒でも、河原乞食でも、どんな身分でも、階級でも、人種でも、福音は「同じ罪人」だと言います。ところが、罪を認め、その罪を悔いて、心の中で信じて、口でキリストを告白するなら、何と、だれもが「神の国の住人」とされるのです。驚くべきことであります。

 神に、神の語られたことばに、従って生きていくことこそが、私にとっては真に生きていく「道」であり、「従順」は義務ではなくて、心から湧き上がってきて従うことができるようにされます。無批判に、主君や指導者、暴君の言いなりに生きていくなら、大変な間違いをしてしまいます。「否(いな)」と、勇気を持って言える市民でありたいものです。

(竹久夢二の「曽我兄弟」です)

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オオコワ!

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 『そんなことしちゃあダメでしょう!』と、子どの頃に悪さをすると叱ってくれる大人が近所にいました。学校で悪戯をすると、『準、後に(廊下に、校長室に)立ってろ!』言われ、街中をフラフラして、タバコを吸っていたら、警邏してるお巡り(さん)が、『君何してるんだ、幾つだ?しっかりしなさい!』と注意されました。

 中学生の頃、『あのオオ○○のヤツ、最近、いい気になってるじゃねえか!』と、体育教官室の前を歩きながら、仲のいい級友に言っていたら、それを、どうも教官室で聞かれてしまい、授業が始まってすぐに、真っ赤な顔をしていたので、殴られると思いましたら、『準、前に出てこい!文句があるなら、バスケで対マンをしよう!』と言われたのです。中年の先生と現役の自分でしたので結果は、こちらの勝ちでした。後はサッパリでした。

 就職して、職員室でネクタイを外して、胸ポケットに入れていたら、『ヒロタくん、ネクタイをきちんと着けていなさい!』と、主事に注意されました。親父にはゲンコツ、母親にも注意されました。また、ついこの間まで、『あんな言い方したら、傷ついてしまうから、気を付けてねっ!』などと、時々娘たちに言われていました。

 もうこれ以上言いません、叱ったり、注意したり、ダメと言って、矯正してくれる人が、私にはいつでもいてくれたのです。今も、“ No と言ってくれる家内が、そばにいてくれます。それで、踏み外さずに今日まで、どうにか生きてこれたのでしょうか。

 私は、叱られたり、叩かれた時、自分が悪かったので、「苦々しい思い」を持つことなく、『当然!』だと思って、恨みを後に引いてしまうようなことはなく、まあサッパリとしておれました。だから少年院にも刑務所にも収容所にも行かずに、巴波の流れのほとりに住んで、今の時を生きていられて、『幸せだなあ!』の今朝なのです。もし軌道修正や方向転換できなくて、突っ走って軌道を外れて自滅する機関車になってしまったていたら、『オオコワ!』です。黙認のYes man ばかりでなかったのは幸いでした。

("イラストAC"のバスケットボール選手です)

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今も歌っている

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 ホイットマンに、「おれにはアメリカの歌が聴こえる(“I Hear America Singing”)」と言う詩があります。

 

おれにはアメリカの歌声が聴こえる、いろいろな賛歌がおれには聴こえる、

機械工たちの歌、誰もが自分の歌を快活で力強く響けとばかり歌っている、

大工は大工の歌を歌う、板や梁の長さを測りながら、石工は石工の歌を歌う、

仕事へ向かうまえも仕事を終わらせたあとも、

船頭は自分の歌を歌い、甲板員は蒸気船の甲板で歌う、

靴屋はベンチに座りながら歌い、帽子屋は立ったまま歌う、木こりの歌、農夫の歌、朝仕事に向かうときも、

昼休みにも、夕暮れにも、母親の、仕事をする若妻の、

針仕事や洗濯をする少女の心地よい歌、誰もが自分だけの歌を歌っている、

昼は昼の歌を歌う―――夜は屈強で気のいい若者たちが大声で、美しい歌を力強く歌う。(飯野友幸訳)

 

“I Hear America Singing”

I hear America singing, the varied carols I hear,

Those of mechanics, each one singing his as it should be blithe and strong,

The carpenter singing his as he measures his plank or beam,

The mason singing his as he makes ready for work, or leaves off work,

The boatman singing what belongs to him in his boat, the deck-hand singing on the steamboat deck,

The shoemaker singing as he sits on his bench, the hatter singing as he stands,

The wood-cutter’s song, the ploughboy’s on his way in the morning, or at noon intermission or at sundown,

The delicious singing of the mother, or of the young wife at work, or of the girl sewing or washing,

Each singing what belongs to him or her and to none else,

The day what belongs to the day — at night the party of young fellows, robust, friendly,

Singing with open mouths their strong melodious songs. 

 

 内村鑑三に、「桶職」の作品があります。

我は唯(ただ)桶を作る事を知る、
其他(そのほか)の事を知らない、
政治を知らない宗教を知らない、
唯善き桶を作る事を知る。

我は我(わが)桶を売らんとて外に行かない、
人は我桶を買わんとて我許(もと)に来る、
我は人の我に就いて知らんことを求めない
我は唯家にありて強き善き桶を作る。

月は満ちて又欠ける、
歳は去りて又来たる、

世は変り行くも我は変らない、
我は家に在りて善き桶を作る。

我は政治の故を以て人と争はない、
我宗教を人に強ひんと為ない、
我は唯善き桶を作りて、
独り立(たち)て甚だ安泰(やすらか)である。

 役人や官吏や学者や軍人ではなく、内村は、一人の市井の人、職人を取り上げています。まるで日本人を代表するような、日蓮や、上杉鷹山や、二宮尊徳や、藤江藤樹ではなく、内村は、無名の、どこにでもいる「桶職人」を取り上げて歌いました。

 ワシントンや、リンカーンや、ジェファーソンではない、実業現場の人たちを、ホイットマンも取り上げています。どの村にも、どの街角にもいる人です。立派な法律の草案を書き上げてもいないし、文明の利器も発明もしていないし、奴隷解放もしていないのですが、目立たなく自分たちの社会を、支えてきた人たちを注目しているのす。

 その「甲板員が歌っていた歌」って、どんな歌だったのでしょうか、興味が尽きません。船に乗って、モールス信号を打つ通信員になりたかった私は、その単純な動機は、父の机の上に置かれてあった打信機を遊び道具として、いつまでも遊んでいたからです。けっきょくは甲板員にも通信員にもなりませんでしたが、救い主イエスさまを、ほめたたえ、感謝の歌を、七十七になる私は、今も歌っています。

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じっと見ておられる神

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 今朝読んだ聖書に次のようなことが記されてありました。

 『あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。不幸な人は、あなたに身をゆだねます。あなたはみなしごを助ける方でした。悪者と、よこしまな者の腕を折り、その悪を捜し求めて一つも残らぬようにしてください。主は世々限りなく王である。国々は、主の地から滅びうせた。主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて、みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。地から生まれた人間がもはや、脅かすことができないように。(詩篇101418節)』

 『見ておられました。』、しかも、『じっと』この地上に起こることの全てを、「見ている方かいる」と言うのです。見ておられる方は、万物を造られ、それを統治し、やがて審判をなさる神、十字架に死んで蘇り、父の神の右に座されるキリスト・イエスさま、「助け主」と呼ばれる聖霊、この「三で一つの神」のなさることなのです。

 ウクライナやロシアに起こっていること、新疆ウイグルに起こっていること、朝鮮半島に起こってること、新宿の夜の街に起こっていることも、あらゆる国の路頭で起こってる不義と不正と罪悪を、神は、一点たりとも見逃さずに、しっかりと見ておいでなのです。

 『神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。(詩篇828節)』

 私たちには、わからないことは、「神の《裁き》の時」です。悪者の横暴のために、残虐が繰り広げられ、あの悪が沸点に達しているのに、神は、まだ立ち上がられないのです。それは、人の判断する時ではなく、「神の時」があるからなのです。

 『神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。 (使徒1730節)』

 神さまには、「悔い改める」人が残されているのを知っておいでです。ですから、うっかり見過ごすなどと言うことはなく、ちょうど的確な時をご存じなのです。私たちは、焦ったりしますし、時期尚早だったりもしますが。そのようなことは、神さまにはないのです。

 『私は、日の下に一つの悪があるのを見た。それは権力者の犯す過失のようなものである。 (伝道者10章5節)』

ここで言ってるのは、その時代に建てられた、傲慢にもその座を占めた指導者や権力者が、犯してきた罪、犯している罪が、見られている、知られていると言うのです。その罪の悪が満ちていく様子を、見逃すことなく、じっと見ておられる神がおいでだと言うのす。

 私は、最近替え歌を歌っているのです。

ぶんぶんぶん はちがとぶ
おいけのまわりに
のばらが さいたよ
ぶんぶんぶん はちがとぶ

 このハチを[虫]に替え、小池を[モスクワ]とか[クレムリン]とか[天安門]とか[赤い貴族屋敷]とか[ピョンヤン]などに替え、のばらが咲いたよを[神の時が来たよ]に替えて歌っています。吸蜜や受粉だけが、虫の役割ではなさそうです。でも、神さまはいつ、何をなさるのでしょうか。

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やっぱり秋はいいな

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 真っ青の秋の空を見上げながら、大平山の山歩きをしました。ある時、『イノシシが出ます!』と言われてから、ザックの中に〈鉈(なた)〉を入れて歩いていているのです。出会ったら、対決しようと思っていますが、きっと逃げるのかも知れません。でも「猪突猛進(ちょとつもうしん)」で逃げきれないのでしょう。昔の人は、「イノシシ鍋」にして食べたのだそうです。

 まあ出会わないように願っているのです。十人ぐらいのみなさんと行き合ったでしょうか。同世代の男性に、走って上がっていきながら、『こんちわ!』と挨拶されました。こちらは、はあはあしながら登山用杖をついているのに、『すごいなあ!』と思いながら背中を眺めていました。

 雨降りの量が多かったのか、道の法面(のりめん)から、土が流れ落ちた跡が、何箇所も見られました。降りて来て、カインズのコーヒーコーナーで飲んだ《100円コーヒー》が、実に美味しかったのです。紙コップでなければ、もっと美味しかったかも知れません。

 両毛線の踏切を渡ると、一面に広がる田圃の稲刈りの様子を眺めたり、刈り跡の田の土を眺めながら、昔は、釜で刈り取りをしていたのに、今は、どこでも中型の刈り取り機でしています。蘖(ひこばえ)が見える、借り株の田もありました。

 この散歩コースが、一番、距離が長いのです。やはり、たけなわの秋を感じての散歩、『秋はいいな!』で、柿の実も真っ赤に熟し、銀杏もくるみも落ちて、もう秋もたけなわで、夕食にいただいた〈キノコご飯〉が美味しかったのです。ギンナンも入っていました。

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キラキラとして

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 わたしは、いわゆる「鉄ちゃん(鉄道趣味人の愛称で30ほどのグループ分けがあるそうですね!)」ではありませんが、だれもが、知らない街を訪ねたいと言う思いに駆られることがしばしばあるのです。車を運転してではなく、鉄路の上を走る電車や、峠道を越えて行くバスなど、できれば馬車や牛車に乗って、ぶらりと出歩きたい願いがあります。どうも放浪癖や逃亡癖があるのかも知れません。

 香港の九龍駅から北京までの列車に乗ったことありました。 国情が変わってしまい、今は昔と言ったところです。2006年の8月の終わりのことでした。ブラジルやイギリスやアメリカからの若者たちに混じって、天津で中国語を学ぶためにでした。車窓から見えたのは、ずっとコウリャン畑だったように感じたのです(夜半は寝ていましたが)。その広大さは、アメリカ合衆国のワシントン州からモンタナ州を訪ねた時と同じような感覚でした。

 いつかは、アメリカ大陸を東西に走る大陸横断列車に乗ってと思っていましたが、家内の二人の姉が帰天しおり、南東部の街を訪ねる機会がなくなってしまいましたので、さらに難しそうですね。” Pacific Rail way “ でロッキー山脈を越えたら、どんな気分になるか、想像を逞しくしていた時もありました。

 父の家の近くに、駅や踏切や貨物の受けおろしの引っ込み線があり、また、国鉄職員住宅、それに、一番楽しかったのは「保線区」があったことでした。主に夜間、列車運行のない時間帯に、鉄路の保守点検や修理、レールや枕木やバラスト(レールに台座の枕木と枕木の間に置かれた小石のことです)の交換などの仕事をしていた、縁の下の力持ち、影武者のような役割を果たす支所があったことでしょうか。

 その作業場には、キチンと整頓して置かれていた道具や工具や部品やカンテラなどがあって、それを触らせてくれたのです。駅でも保線区でも、当時は灯りには、カーバイトから出るガスを燃やしていたので、その残りカスをもらって、小川に入れると、モクモクと白い煙を出して、魚が浮いてしまうので、それを使って魚取りもしました。あの油っ臭い匂い、カーバイトの匂い、鉄の感触が、男の子の冒険心をくすぐってくれたのでしょう。

 乗ったり、見たり、撮ったり、集めたりするようなmania にはなりませんでしたが、陰で、列車の運行を支えている部門を知ったのは、何かすごい宝物体験のような気持ちにされています。仲のよかった、一緒に立たされ坊主になったのですが、立ったまま家に帰ってしまい、呼びに行ったことがあるM君は、国鉄職員のお父さんの転勤で、どこかに転校してしまったままでいます。きっと、「蛙(かわず)の子は蛙」で、国鉄職員をして、ひ孫の産まれるのを待っているかも知れません。

 栃木県下に、「真岡鐵道(もおか)」があるのです。JR水戸線の下館駅と茂木(もてぎ)駅間を繋ぐ鉄道です。下館駅からは、関東鉄道常総線でJR常磐線の取手駅まで行くことができます。「乗り鉄」ではありませんが、いつか栃木駅から両毛線で小山駅に行き、そこから水戸線に乗り換えて下館駅で降りて、真岡鐵道で茂木駅まで行って、帰りは、真岡駅まで戻って、そこからバスで宇都宮線の石橋駅に出て、そこから小山、栃木と帰って来る計画があります。来春、桜の季節が、沿線は綺麗なのだそうです。

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 そう言えば、駅員用に「diagramダイヤグラム」があって、複雑な線を読んで、駅と駅の間の運行が決められていたのです。それも見せていただいたことがありました。交通公社発刊の「時刻表」よりも100倍も面白くて、見入っていたこともあります。西武線の駅に停まってる電車の開閉スイッチに触れて、開閉器を動かしたら、ドアーが開いて、閉まったのです。『シマッタ!』と、驚き戸惑ったのですが遅かったのです。知らん顔をして済ませて、怒られませんでした。中学生の時だったのです。

 男っぽく動く機関車は、昔も今も、子どもの憧れの的なのでしょう。下今市の機関区から出た機関車に引かれる展望車に乗っている子どもたちの目が、保線区の工具や備品を眺めていたわたしと同じようにキラキラ輝いていました。

(「デゴイチD51」の機関車、「中央線のダイアグラム」です)

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移住願望かドリアン願望か

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 今、「移住」を考えている最中です。こう考えることが、これまでしばしばありました。きっと逃亡癖や漂泊癖があるのかも知れません。どこへかと言いますと、ハワイでもモンタナでもハイデルベルクでもなく、「シンガポール」なのです。なぜだか分かりますか。美味しい小龍包があるからでも、実演麺作りの蘭州拉麺があるからでも、何百種と言う花の咲く蘭園があるからでも、波風を頬に感じながら食べる美味な伊勢海老があるからでもないのです。

 長女が10年も仕事で住んでいたシンガポールに、何度も呼ばれて訪ねたことがありました。仕事と任地を離れさせてくれたのです。わたしたちは、学期終了後の夏季休暇や正月休暇に、中国の華南の街から飛行機に乗って、意気揚々としてチャンギ空港に降り立つと、同じ中華文化圏であるのですが、明るさと清々しさ、そして自由を感じて、その違いに驚かされた訪問だったのです。

 もうバスに乗って、市内を動く回ることができるようになるほどでした。習い覚えた中国語が通じるのも、便利でした。お隣のジョホウルバール(マレーシア)に連れて行ってもらって、滞在期間の延長までしていた時もありました。赤道直下の街なのに、とても気に入っていたのですが、それが、移住の動機ではないのです。

 この街に、〈いないもの〉があるからなのです。〈いない〉のは「蚊」です。〈ある〉のは「蚊」を発生させない国の厳しい「蚊対策」なのです。10月に入って、気温が下がってきたので、テント式の蚊帳を畳んで仕舞ったら、先日、2日連続で隠れていた残留兵の「蚊」に刺され、ある晩は5箇所も刺されてしまいました。

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 刺すのはメスの蚊で、刺されるのはオスの人間なのだそうです。この蚊は、1ヶ月も長生きするものがあるようです。それで、10時近くになっていましたが、押入れから出してきて、簡易蚊帳(中華製なのです!)を開いて、セットしてしまったのです。ホット安心して横になったら、その「移住」を考えてしまったわけです。それには、シンガポールが一番最適だと、秋深くなってきた今頃に考え付いたわけです。

 寒さも暑さも、問題なく生活できるのですが、この「蚊」は、まさに天敵なのです。玄関に、買った蚊退治の新製品をかけてあってもだめ、蚊取り線香を焚いてもだめなのです。厚生労働省に、「蚊対策庁」を設けて、撲滅対策を国を挙げて講じて欲しいと思い続けているところです。

 国から、いえ納めた税金から戻ってくる10万円とか5万円の援助よりも、蚊撲滅対策を優先して欲しいのです。今度、ここから選出された国会議員に会いましたら、提言したいと思っているところなのでもあります。

 そのシンガポールでは、果物の王様の「ドリアン」が、隣のタイから輸入されて、「榴莲liulian市場」で安く売られていて、美味しくて、たくさんで、わたしを惹きけてやまなかったのです。もしかすると、蚊から逃れるためではなく、美味しくドリアンを思いっきり食べたくなったからかも知れません。ここには、果物の女王様もあるのです。
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夜汽車の向こうに

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 季節が秋だからでしょうか、夜汽車、しかも蒸気機関車の汽笛の音に、極め付けの郷愁を覚えてしまうのです。父が国鉄車輌のブレーキの部品を戦後になって作る会社にいたからか、鉄路の近くに住んだことがあるからか、国鉄勤務の級友のお父さんが勤めていたからか、近所で一緒に遊んでくれた兄の同級生が、中央線の車掌をしていたからでしょうか、この幾つもの「からか」は、よその世界の出来事ではなかったのです。

 都下の町の駅から新宿に出て、東京駅から、急行の「出雲(いずも)」に、母に連れられ、兄たちと弟とで乗ったのは、小学校に入って間もない頃でした。まだ福知山線や山陰線は電化してなかったので、蒸気機関車が牽引していた時代でしょう。その硬い座席で、その汽笛を聞いた記憶があるのかも知れません。

 先日、通院の診察が終わってから、車で送ってくれた息子に、日光の宿泊施設の「オリーブの里」に連れて行ってもらったのです。途中、東武線の踏切の遮断機が降りて、待っていましたら、蒸気機関車が汽笛を鳴らしてやって来たのです。あんな目前を走る汽車は久し振りでした。やはり、あの音も煙も蒸気も懐かしく、昭和ノスタルジーの世界を蘇らせてくれるのです。

 真岡鐵道も同じような “ SL蒸気機関車を週末に走らせ、観光の目玉にしているそうです。今の子どもたちの父親の世代には、そんな復古調のブームはなかったのですが、平成が終わり令和の世になったら、『昭和が輝いていた!』と懐かしく感じられ、脚光を浴びています。いえ、観光の仕掛けで、このなんとも言えないような閉塞社会を打ち破りたい、そんな思惑があって、どこもかしこも「懐かしさ」が叫ばれています。

 最近、YouTube で、「前面展望」と言う映像がアップされていて、わたらせ渓谷鉄道、東武鬼怒川線、JR只見線、野岩鉄道、会津鉄道、岡山から出雲を走る特急などが放映されています。模擬乗車ができて、振動さえも伝わってくるようですが、あたりを見回すことができませんし、途中下車も叶いませんから、架空空間にいるようで、やはり物足りません。

 旅に誘う秋の風が、頬を撫ぜて吹き過ぎていきます。晩秋を迎え、雪がチラつき、氷が張り、寒風が吹いてくる季節に、向かって季節は動きつつあります。楽しく意味のある交わりがあった若い日を思い出してしまいました。お兄さんのように慕って、彼の回りに、少壮の有志たちが、いろいろな背景の二十人近く集められて、語り合った日がありました。その「兄貴」が、八十数年の馳せ場を走り抜けて、帰天されたと、一緒の時を過ごした主の器から、昨晩いただいたお電話でお聞きしました。

 同世代、わたしたちよりも若いみなさんも、主からの召命に従って生き抜いた生涯を終えられ、そろそろ安息の中に帰られておられる知らせが届いています。そうですね、走馬灯にように、一コマ一コマのスライド映像のように、懐かしい場面が、まぶたの裏に映し出されてくるのです。あの兄貴の《はにかんだ笑顔》が浮かんでまいります。いっしょにオレゴンに教会視察に同行したことも、テニスの手合わせもしたりした方でした。

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アサギマダラの旅を羨む

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(桐生市梅田町四丁目に住む水野雅雄さん13日午前撮影)

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 今夏、去年の花の種が落ちた土を、再利用していましたら、時季が遅くなってでしたが、朝顔が芽を出してきたのです。ずいぶんたくさん、今季も咲いてくれました。綺麗に咲き始めた頃に、急に花の棚が明るくなったので、葉を見ると虫食いの跡が見えたのです。花を、まだ咲かせたいわたしは、肥え太った3センチほどのさなぎが2匹もいました、それを取って、眼下のツツジの生垣に落としてしまったのです。

 蝶々がたびたび飛来していましたから、それが、朝顔の葉の裏に産み落としたのが、成虫になっていたのでしょう。先週末、お隣の群馬県の桐生市で、南に帰って行くアサギマダラが、フジバカマの花で吸蜜をしている写真が撮られて、ニュースサイトに載っていたのです。

 蝶の種類はちがうのでしょうけど、花を取るか蝶を取るか、悩むところでしたが、蝶の蛹には他所に行ってもらいましたので、十月中旬まで、朝顔の花が咲き続けました。思い出すのは、華南の街のベランダでは、新年が明けても、朝顔が咲き続けていましたから、さすがの亜熱帯気候地だったわけです。

 昨日の news site で、桐生タイムスの記事に、アサギマダラが飛来してきて、南に飛んでいくための栄養補給でしょうか、吸蜜している写真がありました。どんな花からかと言いますと、「フジバカマ」なのです。散歩道で見かける野草です。自然界のサイクルと言うのでしょうか、南に飛び帰るためのアサギマダラへの創造のタイミングの良さに、造物主の知恵や恩寵が感じられて、神さまをほめたててしまいました。

 鶴がヒマラヤの高嶺を越えて行く姿を、映像で見たことがありますが、鶴の個体とアサギマダラの個体の違いを考えてみますと、アサギマダラが香港で見つかったと言うニュースを聞いて、どこに、それだけの距離を飛翔できるエネルギー、蝶力が蓄えられているのか、驚かされます。体重が軽いので、風に身を任せて飛ぶことができますが、逆風だってありそうですが、季節に応じて、向きを変える風を見つけ、それに身を預ける本性にも、さらなる驚きを覚えてしまいます。

 被造物の内側に、自分の創造主を認めるものが、溢れるほどにあるのに、どうして人は、神に離反して、認められずにいるのでしょうか。木を切り刻んだ物、土や金属をこねた物、月や星や太陽を、人は拝むのを、「的外れ」と言うそうです。そう勘違いをしているのです。それこそが、「罪」だと、聖書は言っております。わが家の一坪半ほどのベランダで、命を輝かしている花や葉や種が、この自分の目を慰め、心を感動で溢れさせてくれるのは、造物主の恩寵なのです。

 桐生タイムズに、次のような記事がありました。

 『桐生市梅田町四丁目に住む水野雅雄さんは13日午前、自宅の庭に咲くフジバカマで蜜を吸うアサギマダラを見つけ、写真に収めた。アサギマダラはその名の通り「浅葱(あさぎ)色」の羽根をもつタテハチョウの仲間。旅するチョウとしても知られており、毎年春から初夏にかけ、南西諸島から海を渡って九州、さらに本州へと北上。群馬や長野、福島といった内陸の高地で繁殖し、秋になると九州、沖縄方面にまで旅をする。2000キロ近い長旅をする個体もいるという。桐生・みどり地域でも毎年、フジバカマやアザミなどに立ち寄る姿が目撃されている。「1時間ほど、花の周囲を飛んでいました」と水野さん。一休みして英気を養うと、風をつかんで南に旅立った。』

 アサギマダラとは違った使命を持って生きているわたしは、アルゼンチンやブラジルまで飛んで行ったことがあります。成田からトロント、サンパウロ、を経由して、ブエノスアイレスに運ばれたのです。それは大掛かりなガソリンエンジンで飛ぶ飛行機に乗ってでした。風に吹き飛びそうなアサギマダラが、あのような生を謳歌している姿を見て、神のいますことを、改めて感じて、神さまに感謝しているところです。

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