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私の住む街の表玄関は、両毛線と東武日光、宇都宮線の「栃木駅」です。ここから乗る特急は、鬼怒川線、野岩鉄道線、会津鉄道線で会津田島まで行き、そこで乗り換える便で、会津若松まで行けるのです。住み始め頃から、会津を訪ねたいと思いながら、果たせずに今に至っております。
そこには、「明君」と称えられた保科正之(ほしなまさゆき幼名は幸松です)と言う、会津藩の初代藩主がいました。徳川二代将軍の秀忠が父で、母は静、庶子とされています。その誕生は、父秀忠の側近だけが知るのみでした。三代将軍となる家光の異母弟にあたります。武家社会や大奥の習わしで、世継ぎの子を儲けるためか、大名統治の関係か、正室の他に側室が多かったので、複雑な系図が見られます。
庶子は冷遇されるのが常で、信濃国の高遠藩に預けられ、藩主・保科正光は、徳川将軍のご落胤(らくいん)を、畏れつつ育てます。そして正光の跡を継いで、1616年(寛永8年)に藩主となるのです。ついで、1636年(寛永16年)に山形藩の藩主となります。そして、1643年(寛永20年)に、会津藩主となっていきます。
正之は、その手腕で、「文治政治(武断政治は武力でしたがこれは学問や教育を重んじる政治でした)」を行いました。それで、主君が亡くなっての殉死の禁止、末期養子の禁の緩和などを行います。また徳川政治の関与し、甥にあたる徳川第四代将軍の家綱の政治を、一家臣のようにして助けていきます。
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それで玉川上水の開拓など、様々な改革を打ち出しました。政治的手腕は会津にも発揮され、産業の発展に何より力を注いでいました。また1657年(明暦3年)の「明暦の大火」では、江戸城の天守が焼失した際、江戸城の天守の再建よりも民衆の生活の安定に努め、以来江戸城の天守が再建されることはありませんでした。
会津藩には、「会津家訓十五カ条」がありました。その家訓を定めたのが、正之でした。
一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
一、武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。 上下の分、乱るべからず。
一、兄を敬い、弟を愛すべし。
一、婦人女子の言、一切聞くべからず。
一、主を重んじ、法を畏るべし。
一、家中は風義を励むべし。
一、賄を行い、媚を求むべからず。
一、面々、依怙贔屓すべからず。
一、士を選ぶに便辟便侫の者を取るべからず。
一、賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位の者あらば、これを厳格にすべし。
一、近侍の者をして、人の善悪を告げしむべからず。
一、政事は利害を以って道理を枉ぐべからず。僉議は私意を挟みて人言を拒むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。甚だ相争うと雖も我意を介すべからず。
一、法を犯す者は宥すべからず。
一、社倉は民のためにこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれを済うべし。これを他用すべからず。
一、若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、土民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表して蟄居すべし。
右十五件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
寛文八年戊申四月十一日 会津中将 家老中
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幕末にも、徳川の側に立ち、長州軍と戦った白虎隊も、この家訓を守るために、勇ましく戦っていたのは周知の事です。
会津藩は、幕末に至るまで、徳川の側について、長州の勢力との戊辰戦争の中で、飯盛山で自刃して果てはてた「白虎隊」で有名です。
同じ町に住む六歳から九歳までの藩士の子どもたちは、十人前後で集まりを作っていました。この集まりのことを会津藩では「什(じゅう)」と呼び、そのうちの年長者が「一人什長(座長)」となりました。
毎日順番に、「什」の仲間のいずれかの家に集まり、什長が次のような「お話」を一つひとつみんなに申し聞かせ、すべてのお話が終わると、昨日から今日にかけて「お話」に背いた者がいなかったかどうかの反省会を行いました。
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
会津の忠誠心は、驚くべきものがありました。新島襄の夫人であった八重は、会津の武家の娘で、手に鉄砲を持って、長州軍と戦ったほどでした。新島に、『生き方がハンサムです!』と言われた夫人でした。初代藩主と幕末の会津藩士とは、心に繋がりがありそうです。徳川初期の名三君の一人に、保科正之は、その名を挙げられています。
(会津若松の「飯盛山」、高遠城址公園です)
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