ボールを置く

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「筆を折る」とは、小説家が創作活動、文筆活動をやめてしまうことを言うのだそうです。そうしますと、野球の投手は、「ボールを置く」と言い、野手は「バットを置く」と言ったら好いのでしょうか。ニューヨークヤンキースの主将で、名内野手、名打者のジータが、今シーズンでバットを置きました。40才ででした。野球の選手生命と言うのは、短いのだと言うことを、また知らされた次第です。これから、折り返して、同じ程の歳月を、新しい分野で、彼は生きて行くことになります。

それは、研究者や経営者でしたら、基礎的な活動から、本格的な活動に入って行く年齢でしょうか。サラリーマンでしたら、定年まで、もう20年ほどあり、取締役にでもなれば、さらに、もう10年は働けるわけです。柔道で活躍した山下選手は、お父さんに、『柔道だけしか出来ない様な人であってはいけない!』と言われて、競技を続けていたそうです。

巨人軍の投手であった桑田真澄は、ボールを置いたあと、早稲田大学の大学院に入学して、新たに研究者の道に進み、修士号を得ています。その研究分野は、長くし続けて来た野球の「コーチ論」で、修士論文を書いたと聞いています。こう言うのを「一念発起」と言うのでしょうか。レストランのオーナーや、スポーツ店経営の道もあったかも知れませんが、彼の選び取りは、実に素晴らしいと思っています。

私の好きなアメリカ大リーグのヤンキースの投手で、ジータのチームメイト、名クローザーであった、マリアノ・リベラも、昨年で,ボールを置いています。パナマの漁師の息子で、高校卒業後は,鰯漁をしてお父さんを助けていたのですが,ヤンキースにスカウトされて、大リーガーとなった人でした。彼と懇意な方から話を聞いたことがあります。実に好人物だと言っていました。今は、どうされてるのでしょうか、慈善活動などをしていると言われていますが。

『第二の人生を、どう生きるか?』、有名無名を問わず、誰もが、そう問われているのでしょう。私の今も、最後の総仕上げをしているのだと思っています。自分のためだけではなく、誰かのためにも生きて来たと納得できる、そんな締めっくくりをしたいだけです。そんなことを思っている十月の半ばであります。いったい、私の折る物、置く物は、何なのでしょうか?

(”WM”による、ヤンキーススタジアムでの最後の投球後、マウンドの土を記念に手に取るリベラです)

人道的見地

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「一視同仁」と言う言葉があるそうです。中国語の「四字熟語」で、「すべての人を分け隔てなく慈しむこと」と言う意味です。これは、人種差別や蔑視に対して、反対の立場を取る考え方を言っています。小学校で、日本の歴史を学んだ時、村の掟を破ったり、重い年貢に耐えきれずに,村から出て行くことを、「逃散(ちょうさん)」と言うと教わりました。「人別帳(にんべつちょう)」に名がないので、「無宿」になり、「無宿人」と言われていたのです。

私たちが子供の頃を過ごした街にも、「部落」と呼ばれていた地域がありました。朝鮮半島からやって来た人たちが住んでいた地域や、戸籍法で特別な記入をされた人たち(今ではされていません)の住む地域でしょうか、そう呼んでいたようです。特別な差別用語で、みなさんを呼んだりもしたのです。その地域の人も、そうでない地域の人も、何一つ変わらないのに、そう言った区別を、私たちの社会ではして来た歴史があります。

職業にしても、多くの人がしたがらない仕事に従事して、家族を養って来ていました。かつての日本は、閉鎖的で、柔軟性のない差別社会でもあったのです。目を世界に向けますと、一つの民族が、そう言った差別や偏見のもとに、長く置かれて来た例があります。今では、奇跡的に国家として、2000年の空白の期間をへて、再建されています。そうです、「イスラル」です。

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彼らは、「ユダヤ人」と言われて、民族の離散の歴史の中を、主にヨーロッパの社会で生きて来ていました。その苦難の歴史の中で、最も困難な時代は、ドイツでナチスが支配権を握った後でした。彼らの「ユダヤ人撲滅運動」で、600万人と言われる人が死んで行きました。そんな中で、リトアニアに逃れた彼らが、人道的な立場で、日本を通過するビサを発行した、杉原千畝領事代理によって、日本にやって来ることのできた人たちが多くいたのです。

これらの人たちは、ウラジオストック(ロシアの極東部に位置)から船で、福井県の敦賀に上陸しました。着の身着のままの彼らを、銭湯を開放して入浴させたり、リンゴを配ったり食料などの援助をしたりして、敦賀市民が助けたのだそうです。その時の彼らの思いの中にあったのが、「一視同仁 」でした。彼らは、神戸や横浜の港から、オーストラリアやアメリカに渡って行ったのです。<日独伊>の三国同盟があったにも関わらず、人道上の見地から、そうしたのです。起死回生、日本人って素晴らしい面も、持ち合わせているのですね。そのビサで生き延びた人の子孫は、25万人にもなると言われています。

(写真は、”WM”による、現在の敦賀港、杉原の発行した「査証」です)

味覚の秋

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めっきり秋めいて参りました。ここは農村地帯ではありませんので、黄金色(こがねいろ)にゆれる稲穂を見ることはできません。郊外に出れば水田もあるのですが、出かけることがありませんので、想像するばかりです。でも、あちこちにある果物屋さんの店頭には、栗、梨、柿、葡萄、棗(なつめ)が、所狭しと並べられて、秋の到来を告げています。先日も、この省の葡萄産地に出かけた、若い友人夫妻が、息子が来ていると言うことで、大振りのカゴいっぱいの葡萄を届けてくれました。

日本の葡萄の生産地として有名な地、「果物王国」で生まれた私にとって、故郷を感じさせてくれる果物の一つで、たわわに実った葡萄の房が、秋の陽を受けている、ふるさとの様子を思い出させられました。こちらの果物は、日本同様に、いえ、それ以上に美味しいのです 。頂いた葡萄の房も、粒がふぞろいですが、甘さはとびっきりです。あまり人の✌️を加えて、剪定していないところが、こちらのよさでしょうか。

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この方が、柚子(youzi,日本では文旦と呼ぶのでしょうか)もくださったのです。省南の農村が産地で、何時でしたか、そちらに出かけた時に、バスの沿線の路肩に、山のように積んで売っていたのを眺めたことがあります。これも美味しいのです。隣に住んでいたら、届けて食べさせて上げたいほどです。ただ気持ちだけ、受け取ってください。

そうしましたら、一昨日、我が家の下の階の小学一年生が、玄関の戸を叩きました。『これ・・・』と言って、袋に入った小ぶりの栗を持って来てくれたのです。日本では見かけない、ドングリのような栗です。田舎があって、そこから届けられた物を、お裾分けしてくれたのでしょう。さっそく、包丁で栗に切れ目を入れて茹でました。この季節になると、時々いただくのですが、これが美味しいのです。小粒なので、皮をむくのが、ちょっと面倒なのですが、ホッコリして、秋を感じさせてくれる味なのです。

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「味覚の秋」、舌やお腹で,味わえる秋が最高の季節でしょうか。あ、もう一つ頂いていました、「梨」です。フランス梨のような形状で、皮は青いのですが、味は抜群に甘いのです。日本には、こんなに甘い梨はなかったと思います。訪問の息子には忙しすぎて、ゆっくり家にいてもらえなかったので、味を楽しむことがなかったようです。

ちょっと羨ましがらせてしまったようですね。こちらに、お出でになられたら、ご馳走いたしましょう。朝晩はともかく、今日の最高気温は、32度もありました。

(写真は、”百度”から、中国の葡萄と柚子と栗です)

10月10日

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「統計」、goo辞書によりますと、「[名](スル)集団の個々の構成要素の分布を調べ、その集団の属性を数量的に把握すること。また、その結果を数値や図表で表現したもの。「―をとる」「―を出す」「就業人口を―する」。」とあります。

今日、10月10日は、50年前に「東京オリンピック」の開会式が、首都東京に、新装なった「国立競技場」で行われた日です。その開会式を、テレビで観ていました。真っ赤なブレザーを着た日本選手団が、秋空に映えていたのを思い出します。私と同世代の聖火の最終ランナー坂井さんが、聖火台に点火した時、真っ白な鳩が放たれて、紺碧の秋空に舞い上がって行きました。さらに五機のジェット機が、五輪の五色の輪を空中に描いたのには、実に驚かされてしまったのです。

悲惨な戦争が終わって19年、焦土から立ち上がった日本が、起死回生の復興を遂げたことを、全世界に向けて、発信した一大出来事でした。それは、絶望し、落胆し、うなだれた日本人の頭(こうべ)を上げさせてくれた、スポーツの祭典でした。『世界のみなさん、日本は平和な国に蘇えりました。!』との挨拶を、世界に向けて語ったかのようでした。

その年、東海道新幹線が、東京と大阪を4時間(今では2時間25分)で結んで開業しました。戦闘機を作って来た頭脳と技術が、陸上の基幹交通として平和利用された証であったのです。19の春を生きていた私にも、『夢を捨ててはいけない。明日に向かって駆け出せ!』と語りかけてくれたのを覚えています。その秋、東京駅の新幹線の食堂車に、食材を積み込むアルバイトをしていました。空いている時間に、新幹線のプラットホームで、逆立ちをしたり、地上転回をして遊んだりしていました。

あの10月10日が、開会式に決定されたのは、統計上、この日が晴れである確率が高かったからでした。科学的な根拠に基づいて決定されていたのです。今日の東京の空は、どうでしょうか。台風19号が、沖縄に接近しているようですが。被害の少ないことを願いながら、東京に思いを向けている<ハナキン(華の金曜日)>の午後であります。

(”jijicom”による、聖火走者・坂井義則さんです)

春秋

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「春秋に富む」と言う言葉があります。「史記(齊悼惠王世家)」の「皇帝春秋富」からの出典です。「春秋」とは<年>のことで、<年齢>の意味でも用いられています。ですから、その意味は、『これから先、残されている年数が多い!』ということになります。

将来のある若者に、『あなたは春秋に富んでいますね!』と言うのです。これは私にも、青年期に当てはまった言葉ですが、それは瞬きの間のように過ぎて行きました。こちらでよく聞く言葉に、「時間過了很快」があります。『時の経つのは大変早いものです!』と言う意味です。中国に参りましてからの年月の動きもそう言うのですが、人生そのものを、そう言って悔やむのが人の常でしょうか。

これも、よく聞いた言葉で、「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず。」があります。『学ぶべき時に学んでおかないといけない。時間を浪費してはいけない!』との教訓なのでしょうか。学びを怠った者には、<後の祭り(時期を逃がして甲斐のないこと)>になってしまいます。

また、「春秋高し」と言う言葉もあります。『高齢である!』という意味になります。まさに私は、今や、「秋高し」です。ところが、一昨日のニュースに、今年のノーベル物理学賞を、赤崎勇氏が受賞することになったとありました。赤崎氏は85歳、私が、その年齢になるには、小学校入学から大学卒業までの年数以上の年月が残されていることになります。その挑戦は、『もう一度、初めめから勉強をやりなおしなさい!』でした。

この赤崎氏について、こんな逸話を同級生が語っているそうです。戦争中の軍需工場での勤労動員の折、クラス全員が教官に殴られることになったのだそうです。その時、『級長の私一人を殴ってください!』と、赤崎少年が前に進み出たことを覚えてるそうです。十代の中ほどで、そんな素晴らしい心を持った少年だったことに、感動させられます。その後、どんな風に生きて来たかは、推して知るべしですね。

このノーベル賞受賞に、心から、『おめでとうございます!』と申し上げます。

(”jijicom”による、赤崎勇氏です)

アモイ

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今週、七年ぶりに、厦门(Xiamen、アモイ)に参りました。私たちを訪ねてくれた長男を伴って<動車Dongche、中国版の新幹線>に乗って,夕方、着いたのです。駅頭に、車で迎えて頂き、北駅から40分ほど、よく整備された道路を走って、街の中心にお連れ頂いたのです。厦门大学の海寄りの道路に来た時、その場所が記憶にありました。初めて来た時に、海浜に高架の道路が建設されたばかりで、そこを車で通ったことがあったからです。

当時、高速道路も動車もありませんでした。長距離バスに乗っての小旅行だったのです。厦门巿内も、高層建築はわずかでしたし、古い街並みを見ることができたのです。でも今週見た市内には、バス専用の市内を運行するバス専用(BRT)の道路ができ、高いビルが立ち並んで、その変容ぶりはきわだっていました。 とくに国慶節の休み中でしたから、多くの観光客が、街歩きをしているのを、見かけたのです。

『どこかの街並みに似てる!』と思ったのですが、シンガポールの中華街周辺の町並みに似ているのです。行ったことがありませんが、写真でみたスペインやイタリア風の建て方なのでしょうか。何度かシンガポールに行きました時に、娘が住んでいましたので、早朝、よく散歩をしましたからよく見知っていたわけです。街作りのモデルになるのは当然なわけで、このシンガポールの人口の78%が中華系の人たちだからです。

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アモイの街の中は、とても綺麗で、静かなのです。開放政策が行われた時に選ばれた街の一つが、この街だからでしょうか、今も、市民の平均収入は、国内でも非常に高い、豊かな街だそうです。もう少し時間があったら、好かったのですが、時間の都合で一泊しかできませんでした。一緒の息子に、もう少し多くのところを見せたかったのですが、次回に譲ることにした次第です。

彼は初めての中国でしたが、二つの街で出会ったみなさんとの交わりを通してでしょうか、すっかり中国と中国のみなさんに好感を持ったようです。『今度は、ご家族でおいでください!』と言われていました。ぎこちない中国語を使っていましたが、通じたのか通じなかったのか、それを喜ばれてもいたようです。昨日は、昼食と夕食をご馳走になって大喜びでした。『これは、朝五時に漁れた自然のエビです。養殖ではありません!』と言われて、頬張ったエビの美味しさに感動していたほどです。

今朝、友人が、六時前に迎えに来てくださって、空港までお連れいただき、北京経由で、成田まで帰って行きました。ちょっとせわしなかったのですが、好い旅行だったことでしょう。空港のケンタッキーで、家内が払おうとした隙に、払って頂いた「ラテ・コーヒー」が、ことのほか美味しかった早朝でした。

(”百度”から、厦門大学、BRTの駅です)

粧いの秋

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「笑う」、「滴(したた)る」、「粧(よそお)う」、「睡(ねむ)る」と言う四つの動詞があります。明の時代の楊愼撰は、「画品」と言う作品の中で、『山は春には笑い、夏には滴り、秋には粧い、冬には睡る。』と、記しました。自然界の一年の移り変わりを、こう言ったことばで表現する、<感性>に驚かされしまいます。

[畫品]
郭煕四時山、
春山淡冶而如笑、
夏山蒼翠而如滴、
秋山明浄而如粧、
冬山惨淡而如睡。

こう言った世界が目の前に広がっているとするなら、山が新芽を吹いて、まさに笑う様に見え、山が雨を頂いて青々と滴る様に見え、紅や黄に変色した山が着飾る様に見え、やがて眠る様に山が休息しているのが感じられるのです。その様に感じられる国があるなら、それは私たちの祖国だと思うのです。

秋十月、「粧いの秋」の到来です。定山渓も、渡良瀬も、日光も、箱根も、白樺湖も、蒜山も、四万十の源流も、阿蘇も、紅葉で着飾ろうとしているのでしょうか。私の生まれた中部山岳の山村も、秋の山は見事でした。猿や鹿や熊が出没した、幼い頃の故郷のことをよく覚えています。アケビや山の梨や柿や栗の実を採って食べたのです。小川では、ヤマメの魚影を見たり、捕まえようとして逃げてしまったり、そんなこともありました。

日本列島は「山紫水明」、「四季鮮明」な自然の中にあり、日本人もまた、「感性豊富」な民なのではないでしょうか。我が家のベランダ、から、ビルの向こうに、そう高くない山が見えます。でも目の前には見えません。先週土曜日に、森林公園からもう少し奥まで山歩きをしてみたのです。木々の間を歩いたのではなく、舗装道路をずっと歩いたのですが、華南の夏の名残のする山路は、まだ夏山の様に見えました。

五日市の駅から山に分け入って、一人で山歩きをした中二の頃から、御前山、瑞牆山、茅ヶ岳、入笠山など、低い山歩きをして来ましたが、どの山も、個性的で刺激的でした。決して登山愛好家などではない私ですが、山に登ろうとし、山を愛する人たちの心は、よく分かります。みなさん、笑っている山のように笑いたいのでしょう。滴る様な湿潤さに身をおいてみたいのでしょう。粧っている様に、心を粧いたいのでしょう。そして、眠っている山を、起こさない様に静かに登ったり下りたいのでしょう。

昔の人は、自然と一つになって、和して生きていたと言うことでしょうか。自然への感謝が、心に溢れていました。それを現代人は、残念なことに、忘れてしまったのではないでしょうか。

(”山の写真集”による「茅ヶ岳(山頂が三角形)です)

 

ふと思うこともある

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今では、大きなショッピングセンターが近くに出店したおかげで、四路線に増えた学校経由の公共バスのどれかに乗って、週二日、出勤しています。この街で、二校目の学校で教え始めて、七年になります。この間の<学生気質>の変化は、何度かこの欄で触れてきましたが、教師たちにも、同じ様な変化が見られるのです。この一年ほどの変化でしょうか、自家用車で通勤される教師が増えているのです。

学校には北門、東門、西門にバス停があり、東と西の門の近くには、バスターミナルがあるのです。それだけ利用客が多いと言うことになります。その門から校内に入って、教室まで歩くのですが、多くの木や花が植えられあり、飛んでくる鳥たちが、さえずりで歓迎してくれるのです。以前は自転車置き場が、幾つもあったのですが、今では駐輪している自転車や電動自転車は、とても減ってしまいました。

そのかわり、校内の沿道には、所狭しと自家用車が駐車されているのです。かつては見られなかった光景です。教師の待遇が良くなったからでしょうか、利便性からでしょうか、それとも自家用車の所有が、一つの職業的誇りの表れになっているのでしょうか、その変化は歴然としています。

退職後、私の弟は、週に三日ほど、若い教師の相談相手や、彼も卒業生ですから同窓会の事務やクラブ指導の仕事をし続けているのです。そんな弟が、雨の日以外、自転車通勤をしている様です。健康管理のためでしょうか、多摩川を越えて、さっそうと出掛けているのです。

日本でも景気が良くなってきて、誰もが車を持つ様になってきた時期を迎えていました。そんな中で、地方都市におりましたし、仕事の範囲が広くなり、家族も増えて行きましたので、この私も<自家用車族>になったのです。兄から中古の車をもらったり、何台もの車を乗りつぶしてきました。ある時は、二台も車を所有していた時期がありました。ところが今は、車なしの生活をしているのですが、さすが、雨や嵐の日には、『車があったらなあ!』と思ってしまいます。しかし、こちらでは、運転をする自信がありません。

そんなこんなで、徒歩とバス、時にはタクシーの生活をしております。でも慣れたのでしょうか、ふだんは、なんでもありません。先日は、ジャガーという車をはじめて、こちらで見かけました。まさしく庶民の私には、<高嶺の花>、驚いてしまいました。いえ、欲しいわけではありません。もう恰好や見栄は、どうでも好くなりましたから。

(写真は、”WM”による、秋の風景です)

羽田飛行場

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東京オリンピックが開催されたのが、1964年(昭和39年)の10月でした。19才の青年期の真っただ中に、私もおりました。その年に、藤間哲朗の作詞、佐伯としをの作曲で、新川二郎が歌ったのが、「東京の灯よいつまでも」だったのです。

1 雨の外苑 夜霧の日比谷
今もこの目に やさしく浮かぶ
君はどうして いるだろか
ああ 東京の灯(ひ)よ いつまでも

2 すぐに忘れる 昨日(きのう)もあろう
あすを夢みる 昨日もあろう
若い心の アルバムに
ああ 東京の灯よ いつまでも

3 花の唇 涙の笑顔
淡い別れに ことさら泣けた
いとし羽田の あのロビー
ああ 東京の灯よ いつまでも

まだ学生で、外苑や日比谷を、女友だちを連れて歩くような社会人ではなかったのですが、淡い火影の揺れる東京の浪漫を感じさせられて、よく歌を覚えています。とくに、「いとし羽田のあのロビー」と言う、鼻音で歌う箇所が印象深いのです。まだ成田空港ができていませんでしたので、この羽田飛行場が、外国への行き帰りや訪日外国人の日本で唯一の玄関口でした。

この歌が流行ってから、十年以上も経ってからのことでした。一緒に働いていたアメリカ人の企業家の家族を、この羽田まで車で見送ったことがあったのです。車を駐車場に停めて、そのロービーで、休暇で帰国する彼らを見送りました。そこは東京なのですが、そこはかとなく外国を感じさせられる所だったのが印象的だったのです。人も物も匂いも、そこは欧米色で満ちていました。

今のような海外旅行が盛んになる前でしたから、日本人の旅行者は少なく、あの狭いロビーでも十分だったのでしょう。多くの外国人が行き来していた、そのロビーで、この歌のフレーズを思い出したわけです。見送りでも、しばしの<別れ>でしたので、留守の間の責任の重さを、ズシリと感じて家に一人で帰って行ったのです。日本に戻って来られる時も、この羽田に、彼らを出迎えたのですが、その時のことはよく覚えていません。何年も何年も経って、羽田が何度か改装されて、今のような大きく立派になってしまったのには、昔を知っている私は驚かされております。なぜか、あのロービーの人、物、匂いは記憶に鮮明なのです。

(”WM”による、当時の羽田飛行場の「国際線ターミナル」です)

賢さ

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地球は、大雑把にできているのではありません。人間が生息するために、信じられないほど綿密な構想や計画がなされているのです。地表に生活する人間のための<空気の濃度>は、奇跡的なものです。極点はともかく、通常の生活のための<気温>は、衣服で調整できる範囲に調整されています。雨の降る量も、適量です。燃料も、固形燃料から液体燃料、そして核燃料と、地表から掘り出せるところに埋蔵されてあります。驚くほどに按配されているのです。

そこにあるのは途方もない「知恵」です。造山活動や造陸活動がなされた時、無作為に作り上げられてはいないからです。メガコンピューター以上の計算や設計図があって作られているのです。「偶然 」などと言ったら、地球からごうごうの非難が上がることでしょう。当然の様に、毎日、いえ毎秒吸っている「空気」について、ちょっと調べてみました。その成分は、窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素、ネオン、ヘリウム、メタン、他、です。その濃度も配合も、人間の体が必要としたものになっていて、100年以上吸い続けても無害です。賢く配合されているわけです。

こう言った地球環境に、適合した生物が生成され、生命を持ち始め、個体が出来て、愛したり赦したりできる人間に進化したのでしょうか。私の小さな脳みそでは、そんなことは考えられないのです。この「賢さ」は何なのでしょうか。私は、海が好きなのです。山の中で生まれたので、海への憧れが大きいのだと思っています。人生の一番好い時期(現在も最良と思っていますが、一般的に言って)を、四方を山で囲まれた地で生活した反動かも知れません。また父の家系の<海好きのDNA>を引き継いでいるのかも知れません。

上海の码头(波止場)から、黄蒲江、東シナ海、玄界灘、瀬戸内海を渡って大阪港への船旅をする時、14410トンの「蘇州号」に乗るのですが、岸壁では 、『うわー、大きい!』と思うのです。ところが大海に出ると、木片の様な船、それに命を任し切っている、<人間の小ささ>を感じるのが好きなのです。海の掟に従って、船長が繰る船が、自然の摂理と争わないで、波濤を越えて、前に進んでいる姿が好きなのです。

そうすると、この地球が、宇宙と言う大海原を航行する<船>の様に思えてくるのです。マストもエンジンもスクリュウも操舵桿もないのに、毎日毎日、自転しながら、一年をかけて空中を回っている、<不安定さ>が好きなのです。海に海水が満ちています。太陽に照りつけられると気化してしまいます。ほどほどの量です。それが真水となって雨を降らせ、その水を飲んで、人は生きているのです。その水が大地に注がれて、人の食物を育てるのです。種は、どこから来たのでしょうか。それを受け止めて育む土の成分と滋養分は、どこから来るのでしょうか。

やはり、この地球は、<賢く>機能しているのです。今、その地球が、悲鳴を上げています。壊れ始めているのです。手を打ったり、対策を講じたり、いえ、反省しないと、終いには爆発してしまうのではないかと心配でなりません。

(写真は、”WM”による、月から見た「地球」です)